夏期ゼミ 朝拝のまとめ    鳥取大学YMCA 市原 創

 8月16日「こわすDay」の朝拝では、賛美歌とお馴染みの踊りの後に私(市原)がテーマについて個人的に考えていることを述べてみました。朝眠いところを起こされて、狭いところで踊らされ、疲れたところで拙いぼそぼそとしたしゃべりを延々聞かされたみなさんはたまったもんじゃ無かったと思います。その話の内容はだいたい以下のようなものでした。多少異なるところはご容赦ください。

 私はテーマ中のキーワード「壊す関係」を聞いたとき、「壊される関係」という言葉のほうがよりしっくりくるなぁと思いました。人はすぐに自分の中で相手を一つの側面「枠」だけで規定してしまう。「枠」を「立場」という言葉にいい直すと、例えば日本人と外国人であったり、男性と女性という立場の違いは事実存在しているし、その存在を知ること自体はとても大事なことだと思います。しかし、実際の出会いでは、頭にある立場や枠というものは裏切られることが多い。「壊される」というのは、自分が相手にはめた枠を裏切られる瞬間だと思っています。

 私にもいくつかのそういう「壊される」出会いがありました。それは自分とは立場の異なる人たち、特に社会という大きな枠から除外された、少数者とされてきた人たちとの出会いでした。私はその出会いから、社会の中で枠を作りながら楽に生きている自分に気づかされ、鎧を作って取り繕わなくともそのままで十分であるということを、彼らから教えられたように思います。もちろん壊されたその日から生れ変わるわけではなく、結局また枠を作り続け、何度も壊されることが繰り返されるにすぎないのですが。そういう意味で、枠はなくなるものではないのだと思います。枠を作っていきながらもそれは絶対ではなく、常に壊されるものであるということを自覚する。他者に壊され、また自分で作り直す。そういうものではないでしょうか。

 そのような出会いの中で何度も自分を作り直す中で、本当の自分、はだかの自分を少しづつ取り戻していけるのではないかと思っています。「本当の自分とは?」と一人で考えてみるのも大事だけど、結局他者との関係の中にしかその答えはないのだと思うのです。

 聖書の中での、イエスと周りの人々との関係も、壊し、壊されるような、リアルタイムに変化する関係です。また、それは聖書を読む私達との関係でもあると思います。聖書を読むことも、人間関係も、常に出会い続け、壊され続けながら、自分を見付けていく作業なのだと思います。

 17日、「つくるDay」の朝拝では、聖書の中のマルタとマリアの話の箇所(確かルカ10章38〜42だった思うのですが…)を、現代風?にアレンジした簡単なスタンツを行いました。内容は次のようなもの。〜まる子とまり子姉妹のところに、弟が終電に乗り損ねて帰れなくなった上司家助(いえすけ)を連れてくる。まる子は家助をもてなそうとせわしく働くが、まり子は働かずに家助の話をきいている。そこへまる子が腹を立てて、家助に直訴するが、むしろ家助はまる子のほうをなだめるのだった。〜以上のような劇の後、白神さんが、小さなことや既成概念にとらわれることなく素直に自分のやりたいことを実行できるようになりたい、という話(ちょっと違うかも知れませんが、正確に覚えていません。すみません!)、そして清水さんが夏期ゼミに参加した感想を話して、賛美歌の後に朝拝を終えました。詳しい内容は記録が無いのと、記憶が無いのとではっきりしませんが、従来の型にはまることなくみんなで自由に創ることができて、とても楽しい朝拝だったと思います。

文責 市原

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