閉会礼拝感想 活水大学シニア 吉村亜紀子

 夏期ゼミ最後の夜にスタンツがあった。その中で「今年の夏期ゼミでは、同性愛者のことを笑いにできない」というような発言があった。それは、堀江さんがいるから笑いにできないと言うことではなく、堀江さんの話を聞いた自分としては、同性愛者のことを笑いにできないということを言いたかった発言だった。だけどうまく伝えられず、堀江さんは「心にナイフが突き刺さった」と言った。(堀江さんは後で、まず相手に何を言いたかったのかを確かめれば良かったと言っていました。)その出来事を体験した時、二人の意志疎通の問題だけじゃないなと思った。少しずれるかもしれないけど、誠実に相手に答えていこうとしても傷つけてしまうことがありうるということ、深く考えようとしても無意識に相手を傷つかせる発言・行動をすることがありうることを感じた。

 また、スタンツの中で(分団の中でも)同性愛・異性愛という「枠」に何も触れようとしなかった私は何なんだろう、堀江さんがカミングアウトしたことに対して正面から答えようとしたのか? という問いもあった。スタンツを通してそのようなことを考え、閉会礼拝で堀江さんが語ってくれたことに対して、自分たちがどう思い、どうしていこうとしているのかを伝えようということになった。数人がそれぞれの思いを話し、その後2ー3人でどう思っていたかを話し合うという形を取った。

 その中で堀江さんが、こういう話の時いつもマイノリティー対マジョリティーになってしまうと話した。それは、上からではなく同じところで話していきたいのに、マイノリティー側がマジョリティー側にそれはおかしいとか、違っていると強い立場から言ってしまうことがあるので嫌だということだった。(多分)それを聞いて、堀江さんに返していく中でも、また壁を作ってしまったんだなと思った。今の自分でも、どうすれば共に考えていける閉会礼拝を作れたのかわからない。そういう自分が情けなくなる。でも、と同時に自分はそういう存在なんだとも思う。それもマイノリティー対マジョリティーと言う構造の中で捉えてしまっていることなのだが、私が想像力をたくさん使って、相手の気持ちに近づこうとして、相手のことを大切にしようと思って、お互いの関係をよくしようと思って何か(例えば閉会礼拝)しても、相手のことを捉え違いしていたり、わかっているつもりでもわかっていなかったり、鈍かったりしてしまう立場にいるんだと思う。だけど、そのことを指摘されたとき、自分はなんて駄目なんだ、なんて悪いんだと思うだけに留まっていたくない。指摘されたことを受けとめて 、何がいけなかったかをじっくり考えるのは必要だし、大切だと思う。だけどそこらがもっと大切だと思う。もう駄目だと思って関わらないようにするか、駄目だけど、だけど関わっていこうとするか。いたらない自分はわかっている、でもこんな私でもやっていきたい、壁を壊していきたいって堀江さんに出会ってそう思った。

 堀江さんのありのままの私を受け入れてくれる豊かさ、共に性のことを考え、性に縛り付けられている枠を壊して楽になろうよ、という姿勢に触れて、私はそう思うようになった。 私にとっての閉会礼拝はそういものだった。

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