2001.9 例会

『子どもとフェミニズム』

第2回 子育てと虐待 ―“愛”と権力の乱用について―


◎ 日 時/9月30日 (日) 午後1時30分〜5時
◎ 会 場/ドーンセンター 4階中会議室
◎ 参加費/会員500円、非会員700円
毎日のように「子どもの虐待に関するニュースが流れています。 ただこういったセンセーショナルに報じられる悲惨なケースばかりではなく、「愛」と「しつけ」 の名を借りた「親の権力の乱用・子どもの人権の侵害」は、いつでもどこでもふつうの「家庭」で起 こっていることではないでしょうか。前回、エクパット・ジャパンの坪井眞規子さんに、いわゆる 「性的虐待」と「商業的性的搾取」についてお話しをしていただきましたが、今回は「子育て」の現場において 起こる問題について、当事者である子どもの立場から、親の立場から、そして相談を受ける側の 立場からのお話を聞いて、「子育てと虐待」の本質について参加者みんなで考えたいと思います。
◎ 話題提供 (この後は参加者によるフリートーク)
◆「相談」のケースワークから〜親のケアの問題と課題〜
女性ライフサイクル研究所……津村薫さん
◆連鎖の構図(当事者からのお話し)  
◇虐待の連鎖―子どもの視点から―
◇“しつけ”でもなく、“虐待”でもなく、
〜 では、あれは何だったのか、これは何なのか〜

9月例会報告
(報告:松本澄子)

〇参加者/9名(会員:5名)

新シリーズ『子どもとフェミニズム』の第二回目は、「子どもの虐待」という問題を、それは「子育て」の現場において起こる(主に親の)「愛」や「しつけ」の名を借りた「(主に)親の"権力"の乱用」「子どもの人権の侵害」である、という視点に立って考え、「子どもの側から」「親の側から」の検証をできるだけ経験的・実証的に試みようとした。 まず、女性ライフサイクル研究所の津村薫さんにお願いして、「相談」の現場におられる立場からの検証をお話しいただいた。次に「子どもの側から」のお話しとして、過去に虐待を受けた経験をもつ当事者(女性)の方から「虐待の連鎖−子どもの視点から−」という題目でお話をしていただく事になっていたが、当日になっての急な事情によりご参加いただけない結果となった。「虐待の連鎖」というテーマから察せられる通り、親からの「虐待の連鎖」について「子どもの立場」からのお話しをしていただけることにもなっていた。最後に、「親の立場から」ということで、「子どもを"虐待"する」という経験をもつ当事者からのお話しがあった。その後参加者みんなで二人のお話を聞いての感想や質問、また自分の問題との関係において日ごろ感じたり考えたりしていることなどを語り合った。  

◆ 〜「相談」のケースワークから〜親のケアの問題と課題〜

‥…………女性ライフサイクル研究所 津村薫さん

 まず「いまどき」のお母さん像とは? ということで、母子密着の環境の中で母親たちはみんな傷ついている。津村さんは、10年間「子育て講座」や虐待等の予防・啓発のため各地へ講演や研修に行かれているそうだが、そこでよく出る質問は「どうしたら子どもが切れないようにできるか」、それには「お母さんが切れない事です」と答えるという。しかし母親にとっては切れることだらけ。「虐待」する母親を責めてもだめ。そのストレスがまた子どもに向かうだけだ。

また「虐待」を生む社会的背景として、今ほど母親が一人で子育てを抱えている時代はない。しかし相変わらず世の中は海より深い「母の愛」を求める。また母親自身がそうできない自分、あるべき「母親像」でない自分に罪悪感を持つ。そして傷つく。「私なんて"虐待"の一歩手前よ―」と笑って言えるのは、実は自分は(ひどい暴力やタバコの火を押し付けるような)「虐待」なんてしてないと思っているからで、気に障る「体罰」という表現は使わない。

「子どもを可愛く思えない母親」はごく一般的。自分に似ていても似ていなくても、どちらにしろ「要求」となったり「否定」や「規制」となり得る。それは子どもへのプレッシャーとなる。これも「虐待」といえる。「虐待」は「ことば」や身体的な暴力だけではなく、権力の誤用・乱用と考えるから。だから「ふつうの家庭」にも起こりうる。

「体罰」には3つのパターンがある。一つは、教育的見地も方針も何もなくとにかく腹が立ったらすぐ手が出るタイプ。暴力が日常化する危険性。一つは、暴力はいけないとわかっていてもつい手をあげてしまい、後で後悔し「二度と叩かない」と誓うのにまた叩いてしまうタイプで、非常に罪悪感が強いが抜けられない。もう一つは、しつけとして体罰は必要とし教育として肯定しているタイプ。怖いのは最後のケース。

人の意見にも子どもの声にも耳を貸さない。早期教育も母親の罪悪感に巧妙に訴えて、結局子どもにしわ寄せが行く。これも虐待の一種だ。子どものために、と言いながらホンネのところで自分の夢を子どもに負わせていないか。「一人っ子」に対するプレッシャー・罪悪感も問題。子どもへの影響(一人っ子へのマイナスイメージ)も問題。「子どもを産むこと」に関してはどんな場合でも何か言われる。きょうだい関係の問題もある。こうして考えるとどこにでもありふれた家庭で起こり得る問題といえる。

虐待を受けた人の問題。それでも「親」を愛さなければならないというプレッシャー、でも愛せない罪悪感。子どもが産めないケース。産んだ場合も、「私は虐待しない」という強い意志ゆえのプレッシャー、でも言うことを聞かない目の前の子ども。「人によって傷つけられたものは、人によってしか回復しない」(ハーマン)。そのサポートがとても大切。

親のケアについて〜その課題と問題。防止法では、親のケアをする機関はない。児童相談所は子どもだけで手いっぱい。それも不十分なところ多い。親と子を一緒にはケアできないし、ただ分離しただけでも期間を置いただけでもだめ。親のサポートのための独立した機関が絶対必要。虐待された者がまた虐待する親になるケースは3割に過ぎない。虐待の連鎖を絶つためには、自分が受けた痛みややりきれなかった感情を表現して受け止めてもらい、自分の代できちんと整理して、その痛みを子どもに手渡さないということが大事。そのためのサポートも。

◆ 連鎖の構図(当事者から)・・・・今回は省略します。

<感想にかえて>
今回、テーマがわかりにくかったのか、とっつきにくかったのか、また新聞に載らなかったこともあってか、参加者がたいへん少なかった。35人定員の会場には何ともさみしい状態で、せっかくお願いして来ていただき、準備をしてお話しいただいた津村さんには申し訳なく、いい内容のお話しをもっと多くの方に聞いてもらいたかったとたいへん残念に思う。例会の企画段階、準備段階での話し込みの不足や、担当者の負担の問題、広報のあり方等について改めて考えさせられることになった。

今回のテーマは、運営会で話し合った上で、「シリーズの2回目は『子どもの虐待』で行こう」ということで決まったのだったが、主たる担当者である松本が、その具体的な内容もお話しをお願いする方もすべて決めたり交渉したりしなければならない状況下で、なかなか思うようにことが進まなかった。

ひとまず「性的虐待」はおいといて、主に家庭の中で起こる「虐待」を考える時、どうしてもニュースやワイド−ショーでセンセーショナルに取り上げられる悲惨な「子どもの虐待」の例が思い浮かぶ。ちょうど例会企画について考えていたこの時期、尼崎で起こった事件が連日のように報道されていた。「子どもの虐待」に関する本もいくつか読んでみて、このような悲惨な事が繰り返されないために、「被虐待児」を救うという意味でのシステム的な問題はもはや明らかだった。

「児童虐待防止法」が規定するのは「防止」しようとする(当事者以外の)「おとな」の側のシステムのことばかりで、実際に「虐待」を受けている子どもの側に立って今一番何が必要なのかが書かれていない。だから結果的に「防止できにくい」し、最悪「死に至らしめて」しまう。しかし、これらの問題についてやるのはここの例会企画ではないはずだ。

「子どもの虐待」をフェミニズムの視点で、そして当事者性をもって考えようとするなら、「虐待」を受けている、あるいは受けた経験をもつサバイバーの女性としての問題。そして「虐待」をする側の「母親」としての女性の問題。そこのところの問題を検証し、何とかしなければ、本当の意味での「防止」はできないんではないか。もちろん「男性サバイバー」もいるし(これはDVとは違って「被虐待子ども・サバイバー」は男女関係ない。つまり被支配者はやはり「女・子ども」ということか)、「虐待する父親または男」の問題はたいへん大きいが、ここはやはり「女性」にこだわりたいと思った。

父親・夫・男の「虐待」(暴力)は、妻・女と子ども・男女に向かい、母親・女の「虐待」は子ども・男女に向かう。これが支配−被支配の関係でなくて何であろうか。また、このような夫婦や親子のような親密な関係においては「与える側」にとっては「愛」や「しつけ」の変化形でもあり、その境目はたいへん微妙でもある。しかし「受ける側」にとっては何であれ「暴力」であり「人権侵害」であり「傷」であるのだ。「境目」も「微妙」もない。強か弱か、忘れるか覚えてるか、残るか残らないか(PTSDとしても)、許すか許さないかしかないのだ。

では、フェミニズムは、何ができるのだろう。