『女性学年報』第25号内容紹介 (本体価格 1900円)

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年報25号の表紙写真

目次

<巻頭論文> <特集:役割としての「女」「男」―演じる・ずらす・抜け出す―> <小特集:性暴力に立ち向かうために> <活動報告>

日本語要約

◆女ふたりという関係―『子供の時間』にみる「ロマンティックでasexualな関係性」試論・・・染谷泰代

 本稿では、20世紀アメリカの劇作家リリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間』(1934年初演)に描かれる女性同士の関係を考察する。まず、メアリーという少女はなぜ主人公カレンとマーサが「不自然な関係である」という嘘をつき、周囲の人間はなぜその嘘を信じたのかを論じる。また、マーサのカレンに対する告白は、マーサのどのような感情的表白(性愛的感情なのか否か)ととらえることができるのかを検討する。次に、レズビアン・スタディーズで発展した現代の「ボストンの結婚」(Rothblum他)の概念と、asexuality論一般についてそれぞれの意義と課題を述べたい。とくに、「アセクシュアル」という用語は現状では複数の異なる意味合いで用いられているが、本稿では性的関係のないカップルの関係性と、性的欲求・性的願望の(少)ない個人という二点に着目する。さらに、変容しえたふたりの女の関係−親密で「アセクシュアル」な関係−が示唆する、レズビアニズムの可能性を探りたいと思う。


◆「顔」という牢獄―ゴシック小説としての篠田節子『美神解体』・・・千葉麗

 本稿は、美容整形の問題を扱った篠田節子の『美神解体』(1994年)の意義を、従来よりはるかに手軽な、「プチ整形」と呼ばれる医療技術が普及した現在の時点から振り返るものである。『美神解体』は、ヒロイン、麗子が平田という男に出会って恋に落ちるものの、実は、彼は血の通わない人形しか愛せない異常者であり、彼の隠れ家で初めてそのことに気づいた麗子が死闘の末、逃亡するという物語である。冒頭から整形手術による美貌で登場する麗子と、その人工美に惹かれていく平田の心理面を読み解くことで、『美神解体』というゴシック世界の具現するものが、きわめて同時代的な「美の神話」の影響力であることを考察している。造られた女性美への幻想に麗子と平田の異なるジェンダーがいかに囚われているのかを追い、また結末部分が読者に強いるためらいに注目することで、「産めない性」であることへのコンプレックスにもはや全人格を支配された平田の救いがたさを探っている。


◆再考 李香蘭の植民地的ステレオタイプ ―魅惑の他者と日本人観客・・・吉岡愛子

 日中戦争期に山口淑子は、満州映画協会から「中国系満州人」女優李香蘭としてデビューした。偽の中国人女優李香蘭はエキゾチックな魅力と美しさで日本人観客を魅了し、たちまち日本映画界のスーパースターとなった。この論考は、戦中期の日本で社会現象となった李香蘭のスターダムについて分析する。初期の主要作品、東宝の大陸三部作『白蘭の歌』(1939年)、『支那の夜』『熱砂の誓い』(1940年)と松竹製作の『蘇州の夜』(1941年)を中心に、エキゾチックな他者として人気を集めた李香蘭のスターアイデンティティを論じ、映画テクスト、観客の受容、歴史的コンテクストを通してオリエンタリズムの枠を超えた李香蘭の他者表象の言説の可能性を探求する。ホミ・バーバの「植民地的ステレオタイプと両価性」のポストコロニアル理論の概念とフェミニスト映画理論を援用し、民族、ジェンダー、階級の交錯地点に現われる李香蘭の他者としての植民地的女性像が生み出す複雑なスターイメージを読み解く。さらにこれらの分析をもとに、当時の日本社会や観客個人がスターに投影した欲望やファンタジー、またその裏側にある社会のイデオロギー的抑圧や抵抗を明らかにすることがこの論考の目的である。


◆宮部みゆきとRPG―「役割」から「関係」へ・・・八木千恵子

 宮部みゆきの作品は、「弱者」の生に焦点を当て精緻に描き出しており、一見、性差や性別役割に対する異議申し立てを前面に押し出してはいないように見える。しかし、その作品からは、「女性」という弱者をその「弱者」「犠牲者」という「役割」から解放しようとするさまざまな試みが読み取れる。とりわけ宮部の作品に特徴的であるのは、RPG(ロールプレイングゲーム)というテレビゲームの一形態の示す「役割」の恣意性を明らかに念頭におきつつ、「女であること」や「家族であること」という強要される「役割」演技が、一個の人間に対してふるう暴力性を告発してやまないことである。
 「犠牲者」「被害者」という「役割」はミステリに不可欠であり、それは女性に割り振られることが多く、現実の事件においてもおそらくそれは変わらない。その「女=犠牲者」という図式を打ち砕く試みとしての『クロスファイア』があり、さらに、『理由』では「家族」の名の下に個人の位置や役割を規定することが互いの関係を空疎でかつ暴力的なものにしているさまが描かれ、そして『R.P.G.』において、性差や血縁があらかじめ決定する「役割」に疑義を呈し、傷ついた者、弱者の救済としての選び取られる「関係」に希望を見出すことができるであろう。


◆『天使な小生意気』〜ある少年漫画における「ジェンダー」表現の解体〜・・・鳴原あきら

 少年サンデーに連載され、足かけ四年をかけて2003年に完結した西森博之『天使な小生意気』は、天使恵(あまつかめぐみ)というカリスマ的ヒロインを擁する、優れた友情漫画である。
 小学生の頃、偶然出会った魔物に「男の中の男になりたい」と願った少年恵は、その正反対の呪いをかけられて「女の中の女」にされてしまう。それから数年、高校生になった恵は、女としての生活に慣れつつも、男に戻りたいと常に希望し、己の「男らしさ」を追求している。しかし、恵の親友である美木(みき)や、高校で新しくできた男の友人達は、恵は女のままでいて欲しいと思う。最終的に、恵の呪いはとけるのだが……。
 少年漫画において、「男らしさとは何か」というテーマは珍しいものではない。しかしこの物語を貫く背骨が、恵と美木という二人の、女同士の絆であるということは見逃せない。また、恵というヒロインは魅力的な存在でありながら、非常に人工的な装置でもあり、それによってこの作品は、実に巧みにジェンダー表現の解体を行っている。この作品を読みなおすことで、現実の肉体とも性指向とも別次元にある「男らしさ」「女らしさ」について、読者が再度考え直すきっかけになることを願う。


◆「女の子らしさ」と「かわいい」の逸脱―「ゴシック・ロリィタ」におけるジェンダー・・・水野麗

 「ゴシック・ロリィタ」の服を身にまとう少女たちがとる行動のひとつに、「王子」と「ロリィタ」がある。少女であるにも関わらず「王子」である人々と、同じく少女であるにも関わらずより少女的な服を着る「ロリィタ」。彼女たちは「女らしさ」をどう捉えているのか、インタヴューを行った。
「王子」をする女性は、「女らしく」なくても負の評価が下されないやり方、つまり「かっこよさ」や「中性的な魅力」という価値を追求している。彼女たちは「女」であることを否定せずに、一般的な「女らしさ」とは異なるスタイルを持つ。「ロリィタ」は、少女趣味的な装いをしているが、しかし周囲から要求される「女の子らしさ」に従順ではない。「ロリィタ」の少女たちがこだわる「かわいい」と、大人社会が期待し命令する「女の子らしさ」とは別物である。
 「王子」は「女の子らしさ」の競争を降りて別の価値のレースを走っているのであり、「ロリィタ」は「かわいらしさ」の価値の捉えかたそのものを変更している。「女」であるという前提はそのままに、性にまつわる「らしさ」、ジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化を行っているのだ。


◆現代フェミニズムスにおける「性の政治」再考―「女性による性的快楽の追求」への多様なまなざし・・・荒木菜穂

 近年わが国における女性の性のあり方は大きく変化し、自らの性的快楽を肯定・追及する女性が一定程度存在するようになった。しかしその一方では、女性の望まない妊娠や性感染症が拡大し、また日々多くの女性が性的暴力の被害を受けている現実がある。女性の性の解放を女性による主体的な性的快楽の獲得と言い換えるならば、このような現実は、男女間に依然として存在する「対等とは言えない関係」を示しているということができよう。
 1960年代以降発展してきたラディカル・フェミニズムの思想、運動は、男女の不平等な性関係の背後にある「私的領域における性別による非対称な権力関係の構造」を明らかにした。ラディカル・フェミニズムから向けられる女性による性的快楽の追求へのまなざしには、それを女性の解放と見なすもの、と、逆にさらなる抑圧につながると見なすもの、という大きく分けて二つのものがある。本稿では、女性の性的快楽の追求にたいするフェミニズムの相反する主張を日本とアメリカについて整理し、それをもとに現代日本における女性の性的快楽をめぐる試みの中にある、フェミニズム的戦略としての多様な可能性を示していきたい。


◆高校生と共有できる「性暴力」の定義を求めて・・・杉村直美

 筆者は、高校に勤務する養護教諭である。本稿は筆者が出会ってきた「性暴力」の被害・加害・目撃生徒の言動から得た知見を理論化するとともに、「性暴力」を定義づけるのが目的である。
 本稿では、「性暴力」を「性の自己決定権の侵害」と定義した。そこへの道程として、まず「性暴力」という言葉の使用状況を概観する。次に、フェミニズムの運動から誕生した「性暴力」ということばの背景をたどり、「運動用語」としての「性暴力」の有効性とその問題点を「性=人格論」との関係から明示する。また、従来の「性暴力」概念は、大きく「直接的な性への侵害行為」と「性に基づく強制力の行使」に分類できるが、これらが示すものの差異と問題点を明らかにする。最後に「性暴力」「売春」「性の自己決定」の関係を筆者の経験をからめて論じる。「性暴力」と売春はともにスティグマの対象となるという点で不即不離の関係にあり、このスティグマの払拭のためには「望まない性行為への拒否権」の獲得と同時に「能動的な性行為への権利」の確立が必要であると考えているからである。これらの権利に不可欠な要素として「性の自己決定」を論じる。