例会前企画(全二回) 「派閥対立から見た自民党史」      文責:Y.I

0.はじめに

どういうわけか例会前企画をやることになった。そこで最近はあまりユニセフに関係ない企画もあったりするように思われたので、思い切って自分の趣味に走ってみた。何人が耳を傾けてくれんだろう?それはともかく、時間がなかったので草稿をそのままペーストしてレジュメを作った。読みにくい。でもこれ以上わかりやすさを追及してもやたら枚数が増える。なので、その辺りお許しを…というわけで最後まで行けるかわからないけど、まぁ何とか聞いてやってください。

1.派閥史(1)―自民党の派閥の成立;自民党結党前の旧政党(*1)や吉田・反吉田抗争(*2)を背景にした漠然とした集団から、「領袖」を中心に政策・政治姿勢を同じくする者らがかなり明確にわかれた、いわゆる「派閥」の成立まで。(*3) 

1・吉田茂・・・戦後最初の選挙で、鳩山一郎率いる日本自由党が第一党となり鳩山が首班指名を受けることが確実になった。ところが、この直後、鳩山は戦前の右翼的言動を理由にGHQにより公職追放の指定を受けてしまう。(*4)そこで鳩山はGHQとのパイプの強い吉田に日本自由党を委ねた。当初、吉田は政党人となることに躊躇し、淡白に引き受けたが、長期にわたり首相を務めるうちに自らの戦後ビジョンの実現を欲し、鳩山の追放解除後も自由党党首の座に固執した。そして、吉田の政策がアメリカ一辺倒的な面もあったことも相俟って、鳩山を中心に反吉田運動が巻き起こり、自由党内の反吉田勢力と改進党によって日本民主党が成立する。こうした中で吉田内閣の政権運営は困難を極め、やがて吉田はジャーナリスト出身の緒方竹虎(*5)に自由党を委ね一線を退くこととなった。自由党党首となった緒方は社会党の左右合同が達成される中、保守安定政権の必要性を考え、民主党側の強いアプローチもあって自由・民主の保守合同に踏み切る。(1955年)こうして自由民主党が成立した。この中で吉田自身は自民党に入党しなかったが、自らの引き立てた官僚(*6)を中心とした吉田派は自民党内で大きな存在でありつづけ、発言力を維持した。

2・鳩山一郎・・・1954年鳩山は、社会党と共に吉田内閣を倒し、選挙管理内閣という名目で民主・社会両党の支持を受け念願の内閣総理大臣に就任する。さらに鳩山は、緒方と共に保守合同を成し遂げ、自民党総裁につき初代鳩山、二代緒方ということで保守安定政権の初代の総理大臣となる。大衆政治家鳩山の首相就任に対し、国民は好意的に受け止めたが、鳩山自身の求心力で政権を獲得したと言うよりは反吉田・反官僚政治家連合の盟主的存在としてトップに立ったため、その政治力は決して大きくなかった。特に財界からは軽視され、また脳溢血の後遺症が残っていたこともあって、その実行力を危ぶまれた。そして、そもそも鳩山内閣が選管内閣として成立した経緯から早期の退陣を期待されることとなる。こうした逆境の中で吉田の失敗を見てきた鳩山は長期政権を断念したが、自身のスタンスであるアメリカ一辺倒修正の実現だけにはこだわった。こうした流れで企図されたのが憲法改正であり、日ソ復交である。このうち前者は参議院選で自民党が2/3に達さなかったことで断念することになったが(向こう3年間は議席を増やすチャンスを失ったことになるが鳩山はそんなに長く政権を維持できると考えていなかった)、後者の日ソ交渉は強引に推し進めた。この中でアメリカを重視する吉田派は強く反対したが(*7)、河野一郎や岸信介ら豪腕の主流派幹部によって日ソ復交は実現することとなり、鳩山はこれを花道に引退した。

3・岸信介・・・岸自身は戦前の商工官僚でありA級戦犯の容疑者にもなった。ただ、岸は財界との深い人脈を通じて抜群の資金力を有し、さらに三木武吉・河野ら党主流派と近かったことで、旧民主党系中心に勢力をもっていた。そして1956年、2代総裁を約束された緒方が急死したことで後継総裁選びがにわかに問題となる中、早くから自民党の総裁候補とあがることになる。特に岸は鳩山と吉田の抗争の中にあって「両岸」と揶揄されるような中立の立場を保ったことで幅広い支持を受けることができた面もあった。

4・石井光次郎・・・このように岸が後継候補となる中で対抗馬として存在したのが、旧自由党系の支持を受けていた緒方の跡を継いだ石井であった。しかし、旧自由党系中、吉田派のうち佐藤栄作の一派が実兄岸支持に回ったこと、根っからの党人である大野伴睦は有利に立ち回るため態度をはっきりさせなかったことで、岸に対抗するには力不足であった。

5・石橋湛山・・・おのれの信念から反吉田連合を成功させながら、その実力を恐れられ河野ら主流派から冷遇されていたのが石橋であった。しかし石橋自身は強固な派閥を持たず総裁候補という下馬評があっても、およそ有力に戦えるとは思われず、自身も候補となるとは考えなかった。ところが鳩山派を河野が引き継ぐことが明白になると、鳩山派中反河野のグループが河野から離れ石橋の擁立を模索し始めたことで、石橋も十分な地盤を得、総裁選の候補者として名乗りをあげることとなった。

6・第二代自民党総裁をめぐる選挙・・・このようにして鳩山後の自民党総裁を巡り、岸・石井・石橋の3人が戦うこととなった。この中で自由党・改進党の2大政党、吉田・鳩山抗争を経て成立した自民党の各派閥は、相互の思惑から合従連衡を繰り返し、また派閥不明確者・二股者はその去就を明らかにすることが求められた。そして選挙戦は鳩山時代の主流派の支持を得た岸が優勢のうちに進めたが、吉田派中池田隼人の一派の支持を得た石井、さらに三木松村派(*8)・大野派の支持を加えた石橋らも粘り、状況は混沌とした。こうした中総裁選が行われたため第一回選挙では誰も過半数には届かなかった。(*9)そして石橋の側近で石橋派の参謀を勤めていた石田博英の策略によって石橋・石井の二・三位連合の密約が結ばれ、岸は総裁選に敗北、石橋が第二代総裁に就任することとなった。(一回目の選挙で過半数となる者がいなければ決選投票をするという決まりだった。そこで3位になった者が2位に投票するという密約を結び、岸の当選を阻んだ。)

7・派閥の成立・・・総裁選以前から旧政党を背景にした派閥は存在していたが、この選挙の中で派閥の分裂・弱小派閥の淘汰が起こり、現在にも通じる派閥が成立するに至った。具体的には吉田派は佐藤派・池田派に分裂、他方、北村・芦田・大麻など小派閥は河野派・岸派へと吸収され、三木派・松村派は事実上同一派閥となった。また明確な派閥でなかった石橋湛山のグループも旧鳩山派の者も加え、石橋派となった。

*1 背景にあるのは自由党―改進党の二党、および自由党―日本民主党の二党。詳しくは添付資料参照。
*2 後述する吉田と鳩山の闘争。気に入った官僚を抜擢する吉田のワンマンとそれへ反発する党人派連合の闘争の面も。
*3 戦前の政党に派閥がなかったわけではない。筆者の不勉強から戦前の派閥の求心力の程度はよくわからない。ただ戦後に限ってみれば、明確に「派閥」の形をなしてきたのがこの頃。
*4 実質のところ鳩山はGHQに受けがよくなかったのが原因らしい。たしかに鳩山は滝川事件時の文相であり弱みがなかったわけではないが、翼賛選挙にあたり非推薦候補として戦った彼を反動的とするのは言いがかり。誰がGHQに鳩山の悪口を吹き込んだかは不明。
*5 戦前の朝日新聞主筆で大物記者。政府や軍の穏健派と親交があり、中野正剛の死をきっかけに政界入り。小磯内閣に入閣し和平工作を行う。戦後は非官僚という点で党人と、知識人ということで吉田ら官僚出身者とも良好な関係にあり、吉田後の自由党を引き継ぎ、保守合同を成功させた。第二代自民党総裁は確実視され、将来を嘱望されたが急死した。
*6 佐藤栄作や池田勇人など。後に「保守本流」と呼ばれる人たち。ちなみにこの頃、田中角栄は佐藤の側近として頭角をあらわしつつあった。
*7 佐藤ら吉田派は日ソ復興に反対する勢力を結集して、岸ら執行部に揺さぶりをかけた。しかし脱党も辞さずと先鋭化していく佐藤らに多くの議員はついていけず、執行部はそれを見越して強引に交渉妥結へ動いた。
*8 この三木は前述の三木武吉とは別人。武吉のほうは寝業師的な党人政治家で戦後はキングメーカーでもあったが、第二回総裁選を前に死去。岸支持者だった彼の死は岸優位に選挙戦に影を落とした。一方、ここの三木は三木武夫。常に少数派閥にあったが、その少数派閥を雲散霧消させないだけの求心力を持っていた。松村は戦前からのベテラン政治家。戦後は振るわず第二回総裁選で三木派と行動をともにしたのをきっかけに松村派は三木派に合流。

2.派閥史(2)―田中角栄の時代へ;草創期が終わり淘汰されていく派閥。その中で派閥均衡人事や強大な資金力を背景に主導権を握りつづける派閥が成立する。

1・弱小派閥の淘汰・・・石橋、岸内閣を経てめぼしい派閥がそろってきたが、なお派閥の淘汰は続くことになった。十分な資金源もなく、石橋の首相擁立という目的を失い内部の対立が目立ち始めた石橋派、そして旧自由党系中、池田勇人が主導権を握る中、重要ポストを得られなくなっていった石井派などは早くに派閥の体をなさなくなっていった。

2・河野一郎・・・主要派閥の成立で、旧政党や吉田・鳩山の対立といったものが解消されていくなかで、官僚派vs党人派(政党政治家の集まり)という構図ができあがってきた。この中で党人派の重要人物であったのが河野である。河野は二代総裁を巡っては岸擁立の中心をつとめ岸に近い関係にあったが、やがて岸が彼と政策面・政治姿勢などの点で共通点の多い実弟佐藤を引き立てていく中で、岸・河野は疎遠になっていった。そして河野は同じ党人派で石橋内閣以来冷や飯食いとなっていた大野(*10)と結び、岸と対立することになった。河野は岸が安保で困窮を極めると他の党人派と共に岸退陣のレールを引き、党人出身派と同盟して大野(のち石井)を総裁に推そうとした。これに対し官僚派は池田を候補にし、2代目総裁選以来の激戦が予想された。しかし、大野の参謀で党人派の内部に最も通じていた川島正二郎(*11)が池田方に寝返ったことで池田が圧勝した。この後、池田が政権安定のため河野派・三木派ら党人派への融和を図ったことで、河野は再び態勢を立て直していった。そして岸派の後を継いだ福田が政策上の理由から池田に反旗を翻したことで、再び党内は混沌としてきた。このような中、池田首相がガンで入院、引退。池田後の総裁を巡り、佐藤・河野が争うことになった。しかし、河野はこの最後のチャンスに挑むのを目前にして急逝した。田中角栄の奔走により病床の池田が佐藤を後継に指名した直後のことであった。

3・佐藤栄作・・・河野の死でほとんど抵抗を受けることなく政権を握ったのが佐藤である。池田と並び吉田派の直系であり、岸の実弟でもある佐藤は官僚派の代表的人物であった。しかし、岸の失敗、池田時代の混乱を経験してきた佐藤は長期政権のための安定政権を志向した。数回の内閣改造を経て、各派閥の構成人数に応じた大臣ポストを割り振る派閥均衡人事を完成。また時間をかけて沖縄返還を成功させ、2度のニクソンショックに対しても落ち着いた対応を見せ「待ちの政治家」として難題を処理していった。(*12)しかし、約8年と言う戦後最長政権を築いた佐藤であったが、後継首班については自派の後継で、党人である田中角栄ではなく、官僚出身の福田を考えていた。このため佐藤・田中の悲劇が起こることになった。

4・田中角栄・・・佐藤は、岸系で官僚出身の福田を自ら後継に指名することで佐藤派・福田派を合同しようとしたのか、単に田中が信用できなかっただけなのか、それは明確にはわからない。しかし佐藤は田中を首相にする気はなかったようである。田中は政治家になると早くから佐藤の将来を買って佐藤の側近をつとめた。特にその役割は根回しや資金収集・資金配りといった「汚い仕事」が中心だったようである。しかし田中はこうしたなかで着実な人脈を築き、官僚出身者、党人政治家を問わず幅広い支持者を作っていた。こうした中で佐藤の福田指名が行われたのである。田中は佐藤の裏切りに対応し、佐藤派内に田中派を成立させた。そして自ら総裁選に立候補し福田を破って総裁に就任する。この際、佐藤派中ほとんどが田中派となった。田中は佐藤の派閥均衡人事を継承する一方、自らの豊富な資金を効果的に使う「金権政治」で権力を強化した。そして、田中は佐藤と違い、国民から高い支持を受けたが、一方で自らの強みであった金権政治により失脚を余儀なくされることとった。そして2年で政権を失う。ただし、金権政治のシステムは存続し田中は引き続き、強い政治力を維持することになった。

5・三角大福・・・三角大福とは三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫のことで、70年代の日本の政界で権力争いを繰り広げた4人のことである。田中以外で最も有力であったのが福田であり、最弱であったのが三木であった。しかしこの中で最初に首相になったのは三木であった。田中が国民の人気者から一転して犯罪者となると自民党への世論の風当たりも強くなった。こうした中清新なイメージの政治家が求められ、従来党人政治家として傍流にありながら、政治家としてのキャリアの長い三木に白羽の矢が立った。三木が首相になると、田中は個人的に親しかった大平と手を組み、三木内閣に揺さぶりをかけた。これに対し少数の三木派は十分な調整能力を持たず、また福田派・中曽根派が三木と距離を置きつつ接したことで、三木派はやがて孤立していくことになる。そして田中逮捕を三木が認めたことで党内に「三木おろし」が本格化すると、三木後を狙う福田は大平と手を組み、遂に三木は退陣に追い込まれることとなった。

6・福田赳夫・・・三木の後を受けたのがかつて田中に敗れた福田であった。福田は反田中の立場から田中の盟友である大平よりも、三木に心情的に近いものがあったが、弱小派閥による政権運営の混乱や福田への相談の欠如から、三木おろしへ協力した。そして政権授受に際しては大平と事実上「2年後に大平に譲る」ということを意味する密約が結ばれた。福田は純粋な官僚人であり優れた政策立案能力を有したが、他方政治家に求められる政争能力・権力欲に欠けていた。福田内閣は三木おろしの悪印象から低調な支持率から始まったが、その高い能力に裏づけられた確実な政治で、オイルショックや日本赤軍テロに対応していき、国民の支持率も上昇していった。こうした中、福田は政権担当に自信を持ち、引き続きの政権担当を目指したが、このことは福田内閣2年間を愚直に支えてきた大平と、大平の盟友で福田の天敵である田中の反発を買い、結局、初めの密約どおり2年で福田内閣は終わることとなった。この意味で福田はPoliticianがStatesmanを圧倒する金権政治の悪癖そしてその権化である田中の犠牲者と言える。

7・大平正芳・・・福田を退け、田中の強いバックアップを得て政権を握ったのが大平であった。大平自身は大蔵省出身の官僚で、莫大な財政赤字の解決を志向するなどStatesmanとしての才能を有していたが、一方で党内運営などの点では田中派との協調のもと行われることとなった。しかし大平自身は志半ばにして急死し、総裁は同じ派の鈴木善幸に引き継がれた。田中は自身の失脚以降、自ら表で政治をリードすることはできなくなったが、このように大平・鈴木という宏池会(*13)を通して国の政治に影響を及ぼしつづけた。そして、党内においては国政に煩わされることなく、竹下登をはじめ田中派の若手メンバー(*14)が着々と力をつけ、自民党の要職を抑えつづけることとなった。

*9 とはいえ岸が限りなく過半数に近かった。
*10 大野は石橋内閣成立の功労者でありながら、石橋政権では岸ら反主流派との調整の中、ほとんど重要ポストを得られなかった。
*11 川島は大野に辞退させ石井を党人派の統一候補にするなど活発に動いていたが、岸との近さもあって将来を見越して寝返った。
*12 夏に米中復交とドルの金兌換停止という二つのニクソンショックのあった1971年の年末、『ウォールストリートジャーナル』紙は「アメリカの外交の乱暴な急転換に対して、日本が"もっとも文明国らしい態度で"対応した」と日本外交を評した。(後述『戦後日本の宰相たち』より高坂正堯著「佐藤栄作」)
*13 池田派のこと。もちろん池田後、大平派、鈴木派と変わるわけだが。

3.派閥史(3)―55年体制の崩壊;自民党成立後30年近くを経て"一人の領袖とそれを取り巻く派閥メンバー"という構図は"派閥の存続が第一義的になり、領袖も政策より党内政治の能力で決まっていく"という構図に。そうした中で政争は理念なきものへと変化していく。

1・竹下登・・・自らの復権を夢見る田中角栄が病に倒れる中、世代交代を訴えてクーデターを起こし田中派を継承したのが竹下登である。田中派と宏池会との好関係は大平の死後薄れてしまったが、田中派自体強大で竹下が派閥を握った時点でも最有力派閥であった。宮沢喜一、安部晋太郎(*15)ら有力者がいる中で、中曽根康弘(*16)が自身の理想とする"大統領的首相"とは最もかけ離れた竹下を後継に指名したのも党内安定のために最大派閥に後継者を求めたからだとされている。このような竹下は自ら理想の政治を語るには力不足だが、調整能力に長けていることを自任し、佐藤時代の長期安定政権を志向した。確かに竹下は貿易摩擦など難題を抱える日米交渉を予想を裏切る卒のなさで取り組み、同じく困難とされてきた消費税を中心とした税制改革も果たした。しかし、調整能力高い=あらゆるものに気配りをするゆえに、いずれの問題においても国民の理解は得られず固定した支持者を得られなかった。そして消費税導入で支持率が10%をきる中で、リクルート汚職が発覚、前代未聞の4.4%という支持率を記録することとなった。こうして彼の考えとは裏腹に調整型政治、保守政治の完成者というべき竹下はわずか1年半足らずで総辞職に追い込まれた。

2・経世会・・・このように竹下は表舞台から去ることとなったが竹下、そして竹下派=経世会が自民党の主導権を握りつづけた。角福戦争(数回にわたる田中と福田の確執)の終結後、自民党内では非主流派は残ったが反主流派はなくなり、この結果主流派でありつづけた田中・竹下派に攻撃を仕掛ける派閥が存在しなかったためである。竹下は次の後継総裁につき自分に近かった安部を考えていたが、安部はリクルート疑獄の渦中にあり、かつ病気で入院したこともあって、安部が復帰できるまでの中継ぎ総裁が必要になった。こうして選ばれたのが宇野宗佑である。宇野は中曽根派の有力者であったが宇野固有の政治基盤はなく、竹下から見れば自分に楯突く可能性も力もないうってつけの人物だった。しかし、この選択が竹下派の自民党支配に大きな翳を落とすことになる。リクルート汚職で逆風とされた参院選の直前、宇野の女性スキャンダルが暴露され、参院選では大敗。自民党成立以来初めて過半数を握れない事態を招来し、宇野はこの責任を取って早々の退陣を余儀なくされた。こうして党内支配は万全だったはずの経世会は、国民・国政に対し失策を重ねた結果、その支配が揺らぐことになったのである。

3・海部俊樹・・・リクルート事件の余波が続き、安部・宮沢・渡辺美智雄(*17)ら派閥領袖が表に出られない中、宇野の後継を巡り自民党は混乱することになった。まず有力候補と考えられたのは三木派の後継である河本敏夫(*18)であったが、自身の経営する三光汽船を破産させた河本にはその意思は全くなかった。そこで浮上してきたのが同じ河本派の海部俊樹であった。海部は若さ・清潔なイメージ・弁論能力に加え、竹下と親しく当選回数も多いことで、河本派に加えて竹下派・中曽根派の支持を受けることになった。これに対し、宮沢派は旧田中派のうち竹下に従わなかった二階堂派の林義郎を、安部派は自派の石原慎太郎を支持し7年ぶりの総裁選が行われることになった。これら海部の対抗馬はいずれも勝利を狙っての出馬ではなかったが、宮沢が反竹下である二階堂と共闘するなど宏池会・田中派の協力関係から宮沢派対竹下派というように構図の流動化が明らかになることになった。

4・湾岸戦争など・・・こうした構図・対立の流動化を加速させることになったのが湾岸戦争、そしてその後の政治改革構想であった。海部の下で政治の主導権を握った竹下派の小沢一郎は野党第1党の社会党を重視する従来の方針を改め、政策的に歩み寄る余地のある民社党・公明党を重視し、これに基づき政治改革関連法案の党議決定を行った。これに対し宮沢派の加藤紘一らYKK(*19)をはじめ、党内の多数は路線の急変に不安を感じ、小沢路線に反対ないし消極的な姿勢をとった。このため小沢の政治改革関連法案は廃案に追い込まれることになった。そしてこれを受けた海部は解散により乗り切ろうとしたが、竹下派が解散に反発し(*20)、その結果海部は次期総裁選への不出馬を表明し海部内閣時代は終わった。

5・宮沢喜一・・・海部後について最有力であったのは海部のもと辣腕を振るった小沢だったが、健康上の理由でこれを辞退したため、宮沢・渡辺・三塚博(安部の病死後、派を継承)の三人が総裁を目指すことになった。そしてこのことは総裁選の行方は竹下派の動向に委ねられることになったことも意味した。(*21)このうち竹下派の政策面や小沢との親密さを考えれば竹下派は渡辺を支持するはずであったが、最終的には宮沢が選ばれることになった。(この経緯は後述北岡もわからないとする。しかし竹下・宮沢・安部というかつてのホープのうち最後に残ったのが宮沢であること、自民党の不人気が続いていた一方で宮沢が国政上の実績のある政治家と考えられていたこと、そもそも小沢=竹下派とはいえない点も少なくないことは無関係ではなかろう。)こうして選ばれた宮沢であったが、その政権運営は決して簡単なものではなかった。政権成立後僅か3ヶ月で共和汚職問題による宮沢派事務総長の逮捕、佐川急便事件とスキャンダルが続き宮沢政権は墜落寸前に追い込まれた。そこで宮沢は竹下派の金丸信を副総裁に起用し党の要職を全面的に竹下派に委ね党の安定を図った。

6・竹下派の分裂・・・佐川急便事件は一過性のスキャンダルでは終わらず一大疑獄事件となることになった。竹下派会長の金丸の汚職発覚にまで発展し、金丸は失脚、竹下派の小沢会長代行はこの責任をとって辞任した。こうした中、竹下派内では小沢の独断専行的やり方に批判する勢力が勢いづき、金丸後の竹下派会長を巡り、小沢・反小沢が対立することになった。反小沢は小渕恵三元官房長官を推し、これに対し小沢側は羽田孜蔵相を推して対抗したが、経世会総会で小渕が会長に決定。小沢側は羽田・小沢グループとして独立することになった。そもそも派閥は数が多いことにメリットがあり、少々の譲歩をしても団結するのがその特性であり、それは最大派閥であればなおのことであったが、海部時代に表面化しつつあった野党との関係・政治改革への考えなど種々の考え方の差異が、竹下派そして自民党に修復不能な亀裂を生じさせていたのであった。そしてこのことが55年体制を崩壊へと導いていくことになる。

7・細川護煕・・・竹下派が分裂すると宮沢は内閣を改造し、事実上反小沢ラインが主導権を握ることになった。このような状況の中、国会の懸案であった政治改革法案は否決、野党はこれにいっせいに反発した。そして1993年6月17日野党は内閣不信任案を提出、羽田・小沢グループがこれに同調し不信任案は可決し、衆議院は解散・総選挙となった。羽田・小沢グループは新生党を結成、さらに前年成立した細川護煕率いる日本新党に呼応して武村正義らが脱党、新党さきがけをつくった。選挙後自民党は選挙前と比較して現状維持に成功したが、これら新党の分、過半数にはるかに及ばず38年間の自民党単独政権時代は幕を閉じた。そして清新なイメージと知事時代の実績を持ち、政治改革の旗手と見られた細川がリーダーとなって社会党・新生党・日本新党・公明党・民社党・社会民主連合・新党さきがけによる連立政権が成立した。

*14 年齢が若いというより当選回数の問題だが。
*15 岸の娘婿。福田派を継いで派の領袖に。
*16 鈴木の後、首相に。総裁選において鈴木が無風当選すると目される中、中川一郎の立候補表明により事態は急変した。そして、これを受け鈴木が引退を表明したことで、総裁選は激戦となったが、中川の急死(自殺?)もあって、田中派・鈴木派の支持を取り付けた中曽根が総理となった。この辺の経緯は戸川猪佐武『小説永田町の争闘』(1984、角川文庫)が面白そう。(学問的かは別にして...)
*17 中曽根派を受けて派の領袖に。
*18 三木派を継いで派の領袖に。三木と同様クリーンなイメージが持たれていた。
*19 ご存知YKK。Yは中曽根派の山崎拓。Kは安部派の小泉純一郎。
*20 海部が解散を企図したのは、国民の前で"政治改革"を訴え、党内の反対派を抑えるとともに海部政権の補強を狙ったもの。しかし、肝心の竹下派は小沢の意見でまとまっていなかった、むしろ反対意見も小さくなかったため竹下派は海部に反発した。
*21 つまり最大派閥竹下派が候補を出していないし、誰も推薦していないので、三者のうち竹下派の支持を取りつけた者が勝つということ。

4.派閥史(4)―現代へ(おまけ);反小沢vs小沢の構図...そして現在、新たな枠組みへの再編中か!?=政策なき政争から政策論争への変化?

1・連立政権の末路・・・ご承知のとおり反自民連立政権時代は続かなかった。自民党を下野に追い込んで政治改革を行うまではまとまりを見せた連立政権だったが、政策面を中心に新生党・公明党のグループ(*22)とさきがけ・社会党のグループが対立することになった。そして細川の相談相手は知事時代から交流のあった武村から歯切れのいい政策論を展開する小沢へと移っていき、小沢・反小沢の対立が激化した。こうした中、細川は自身への佐川急便疑惑追及に突如嫌気が差し、政権を放棄。新生党の羽田が次期首班候補になった。これを機に小沢は社会党・さきがけの分裂を狙い、統一会派「改新」(連立政権中、社会・さきがけ以外からなる。後、新進党に)を結成した。しかし社会党・さきがけの小沢への反発は抜き差しならないところにきており、小沢の期待した両党の分裂も起こらず、社会党・さきがけは連立政権からの離脱を表明。羽田政権はわずか数ヶ月で崩壊した。

2・反小沢政権・・・こうして社会・さきがけ両党が反小沢から連立政権から離脱したことは、同じく反小沢でまとまっている自民党と連立を組むのに大きな要因になったといえる。一度下野の憂き目を見た自民党は一歩譲歩をして社会党党首である村山富市を首班に推し、自社さ連立政権を樹立することで再び政権の座に復帰した。(このため、河野洋平自民党総裁は唯一の首相未経験総裁となった。)

3・社・さのその後・・・しかし、自民党との連携と言うのは社会党・新党さきがけ内部に大きな軋轢を生じさせた。まず社会党では首班政党に相応しく党の方針を大転換したことは国民の理解を受けられず、冷戦終結後の長期の凋落傾向に拍車をかけた。そして、党内では連立政権時代小沢に近かった山花貞夫や久保亘らが離党を考え始め(実際には阪神大震災により頓挫するが、後の新民主党への大量の参加者を生むことに)、左派が党の方針転換に反感を抱くのと相俟って党内の亀裂は深まった。また新党さきがけでも、かつて自民党から飛び出したことと、自民と連立することの整合性、そして代表の武村自身の指導力への疑義から菅直人や鳩山由紀夫らが発言力を増していった。こうした中、自民・新進の2大政党の間での第三極を指向して社民(1996年改名)・さきがけ両党の首脳の間で合同しての新党が議論された。しかし、社民党内の左派が強く反発し失敗に終わった。そして、この動きとは別に菅・鳩山らは個人参加の新党結成を模索、さきがけ・社民の離党者を中心とした新党が結成された。(民主党の結党)この後、両党は相次いで連立を離脱。自社さ政権は崩壊した。一方、新進党のほうでも考えの違う複数の政党の寄り合い所帯であったことからすぐに行き詰まりを見せ、さらに政権を失ったことで小沢の求心力が急激に低下する中、分裂を繰り返していき、民主党が野党第一党となる。

4・民主党・・・新進党の分裂はやがて小沢を中心にした党・公明党・それ以外に収斂した。巨大野党新進党の消滅で自民に対抗するための野党の結集が叫ばれる中、"それ以外"は統一会派"民友連"を組織した。一方、民主党も野党第一党とはいえ伸び悩む中、両勢力の合流が考えられ、1998年新しい民主党が誕生した。新民主党の結党は旧総評系・旧同盟系と分裂していた労働組合の政治活動が再結集するきっかけとなった。しかし新党の主導権を握れなかったことで不満をもった鳩山邦夫が早くから離脱するなど不安定なスタートでもあった。

5・野中広務・・・野党時代、自民党議員を勇気づけ、さらに新進党からの議員の一本釣り、反小沢政権樹立という一連の自民党復帰プログラムを支えたのが、小渕派の野中広務であった。さらに野中は社会党が連立を離れ自社さの枠組みが崩れると、犬猿の中であったはず(野中は小渕の参謀的存在を勤めていたのであり当然のことながら小沢とは最も相容れない関係にあった)の小沢を説得し自自公連立の枠組みを新たに築いて自民党の与党を守った。この後、小沢自身は小渕・橋本派との政策の齟齬から再び自民党と袂を分かつことになるが、小沢の求心力の更なる低下と与党のうまみを忘れられないことがあいまって小沢の自由党は分裂、一部が保守党となって政権にとどまった。また野中は加藤の乱収拾でも辣腕をふるい、当選回数は多くないものの、高い政治能力により党内きっての実力者となっていった。

6・小泉純一郎・・・かつての小沢新党は分裂を繰り返し、もはや政界変動の軸となることはなくなった。現在問題となっているのは、自民党内における構造改革への志向度合い(現総裁派vs抵抗勢力!?)・安全保障へのスタンス(旧来の外交的枠組みの維持vs中曽根や石原、小泉の「普通の国」vsその他リベラル系)など様々であるが、少なくとも現在の状況は与野党ともに党内に対立を抱え、ねじれ現象も起きており極めて不安定なものと思われる。どの問題が主要因として今後政界が変動するかはわからないが、現在のねじれ現象がどのように解消されていくのか、興味は尽きない。(なお小泉当選の権力関係についてはまだ評価しにくいと思われたので割愛した。)

*22 新生党幹事長の小沢一郎と公明党書記長の市川雄一の名前から「一・一ライン」

5.おわりに(無責任な一言…)

今回の発表ではいくつか飛ばしてしまったところも少なくありません。(中曽根康弘の総裁選など)これらの時代が非常に混沌としていてわかりにくい、大きな流れとは離れている、また、まだ"歴史"になっておらず正確な史料も少ないなどの理由もありますが、最大の原因は私の勉強不足です。すんません。
また、派閥史Cについては、新党の消長など複雑で事実誤認もあるかもしれません。また記述についても政治学者でもない私の私的な意見であるところもありますので、その点斟酌して読んでください。

6.参考文献など(全編通じて)

派閥史1・2・3 北岡伸一『自民党』(1995、読売新聞社)
┗自民党研究の基本書的存在。巻末の資料が使える。
渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』(2001、中公文庫)
┗戦後の総理大臣を政治学者が一人一人解説。上書は竹下登までだが、新書版ではその後の総理大臣も補足。
派閥史1 『佐藤栄作日記』『石橋湛山日記』『岸信介回顧録』ほか
┗やはり資料としての信頼性を考えれば"日記"。ゼミ発表で使用したものの一部。
派閥史4 東京大学法学部蒲島研究室HP内「新党全記録」
http://politics.j.u-tokyo.ac.jp/lab/edu/seminar/study/1st-semi/mokuji.htm
┗さすが東大…あの混乱期の事件の前後関係を調べるのに使った。ただ社会党など"新党"以外の説明は当然ない。
渡邉 健のホームページ内「日本政治の世界」(の内の「主要政党概要要覧」)
http://www.geocities.com/~watanabe_ken/jpn-index.html
┗すべての時代を満遍なく、とはいかないが、"主要政党"の概略、年表はつかえる。
ほかに… 戸川猪佐武『小説吉田学校(全8巻)』(1980〜、角川文庫)
┗昔、映画化されたことがあるらしい。"大宰相"という名前で漫画化もされている。(さいとうたかを?)政治記者の作者によるもの。"小説"とあるが資料で裏づけを取れる点も多いので通史的に読めば、かなり流れがわかろう。ただ、作者の死で中曽根政権あたりでおわり。

資料―対立軸の変遷

多数派(主に主流派)

反主流派

その他

吉田

佐藤・池田

反吉田

鳩山・石橋・三木武吉・三木武夫・河野・大野

中立

緒方

石橋・石井

池田・大野・三木武夫

河野(三木武吉)

鳩山・吉田

官僚派

佐藤・池田

党人派

河野・大野・石井

 
田中

二階堂進

佐藤・福田

岸・保利茂

 
田中・大平

竹下・宮沢

福田

安部

三木

河本

中曽根

田中・鈴木

竹下・宮沢

福田・河本

安部・中曽根

 
竹下

小沢・小渕

田中

二階堂進

 
小渕

橋本・自民他派閥

小沢

羽田

 
細川連立

新生党・社会党・日本新党・新党さきがけ・民社党・公明党・社民連

自民

 

 

 
細川・小沢・市川

改新(新進党)

武村・村山

さきがけ・社会党 自民

自民