「ユニトピア100号」によせて

坂野一生

 今手元に資料がないため定かでない記憶に頼るならば、『ユニとぴあ』創刊号は1988年の末か1989年の初めに発行されたのだと思う(その後深川氏のご指摘により、1989年5月と判明)。ただ「創刊号」というのは実は正確ではない。現在のB5サイズの『ユニとぴあ』の前に、3号ほどで休刊となった初代の『ユニとぴあ』があったことを覚えている人もいることだろう。これは北本一郎氏の編集によるものであるが、現『ユニとぴあ』と比較して、そのエネルギーに驚かされる。ありあまるエネルギーと広がる興味を制御しかねて休刊になってしまったのではないかとさえ思われるのだが、その遺志(?)を受け継ぎたいと思って現『ユニとぴあ』を発行したのが「はじめの一歩」で、3号続くかどうかという話もあった。初代の編集長は塩山清隆氏である。その頃実際の編集作業は「ひとやすみ」こと筆者が行っていたのだが、塩山氏は味のある巻頭言でその存在の大きさを示していた。

 現在の洗練された編集に比べ、復刊当時の『ユニとぴあ』は単なる記事の寄せ集めの感があったが、その中で永井史男氏による連載「同時代史としてのユニセフクラブ」だけは異彩をはなっていた。また復刊号で講演録を載せたルベン=アビト氏は、波瀾の数年間を経て現在は奇しくも京都に居を定め、龍谷大学で教鞭をとっておられる。意外なのは、「ふろむ・ざ・ぷれす」のコーナーが中断はあったものの現在までずっと続いていることだ。それから文字通りの自画自賛だが、個人的には表紙の「Uniとぴあ」ロゴも気に入っている。

 編集者冥利につきるのは、まず誰よりも先に原稿に目を通すことができるということである。『ユニとぴあ』では基本的には集めた原稿を自動的に掲載するので、原稿の取捨選択や編集・校正といった作業はあまりないが、それでも限られた誌面をどう飾っていくかという創造的な作業の楽しみは味わえるだろう。そのようにしてワクワクしながら読んだ原稿の一つが三輪敦子氏の「ブライトン記」であった。

 誌面の雰囲気は編集者に影響されるという好例を示したのは別府正一郎氏である。斬新な表紙や型にとらわれない文字など、この時代の『ユニとぴあ』は楽しい。編集役を離れてからも、「開発の政治経済学〜その理論的展望」を連載したりと、本誌に対する貢献は大きい。ちなみにこの連載は番外編が傑作だと筆者は信じている。また、『ユニとぴあ』誌面だけでなくユニセフクラブ全体にとっても別府氏の影響は大きかった。

 1993年以後の『ユニとぴあ』については、筆者が日本を離れていることもあって、もっぱら読むだけで(たまに拙稿「かんぼじあ通信」を載せていただいてきたが)編集や発送の作業に参加できず、その雰囲気を伝えることはできないのだが、誌面を見る限りではユニセフクラブの中でワークショップという活動形態が非常に盛んなのが興味深い。また、個人的には少し前の片田朝日氏の投稿に感銘を受けた。

 現在筆者はカンボジアに暮らしており、京都に行く機会はほとんどないのだが、『ユニとぴあ』と通じて伝わってくる3号ボックスの様子は実は以前とあまり変わっていないように感じられる。混沌とした3号ボックスは人間や社会の様々な問題が抱えているややこしさを象徴するかのようであり、整然とそれらを語ることに対して本能的に一種のはにかみを覚える傾向のあるかつてのユニセフクラブのメンバー達が作り出した空間なのかもしれない。朝ボックスの扉をあけると渡辺浩平氏がよく寝ていたのを思い出す。その渡辺氏も今やユニセフクラブにとっては黎明期の大先輩になっているが、それにも関わらず『ユニとぴあ』に時折投稿しているのには頭が下がる。

 復刊以来10年が過ぎ、ユニセフクラブを担うメンバーもほとんど復刊当時とは入れ替わってしまったが、『ユニとぴあ』を介して新旧メンバーのつながりが深まることを期待している。メーリングリストによるリアルタイムの情報交流とはまた違った形での意見交換ができるのではないかと思う。復刊に際して「3号続けば」と言っていたのが10年も続いたということ自体が、本誌の必要性を証明していると言ってよいだろう。惰性に陥ることのない新鮮な『ユニとぴあ』がこれからも毎月届くのを楽しみにしたい。


 さて、ここからは余談であるが、現在筆者はカンボジアの法制度整備に関わっている。民法と民事訴訟法の起草がプロジェクトな主な内容で、期間はこれから3年間、筆者はとりあえずその最初の2年間を調整役として過ごす予定である。今まで関わってきた農村での地域発展活動とは性格をまったく異にするものであるが、人々の権利や利益を法律がどこまで保護できるのかを考えながら、それに沿って起草作業を進めていけるのが面白い(実際の起草は法律の専門家がやるのだが)。そこで今一番問題となっているのが言葉で、これはおそらく明治期に日本が経験した困難に若干似ているかもしれない。法律的な概念を性格に表すクメール語がない場合、内戦以前のカンボジアでは仏教用語であるパーリ語を借用してきた。実際、日常用語の中にもインド系言語であるパーリ語からの借用語は多く(タイ語も同様)、法律の中でそれを使うことには合理性がある。

 日本は明治期に漢字を用いてたくさんの新しい言葉を生み出したという。その苦労は想像できないが、表意文字である漢字を用いることによって造語ではあっても意味が理解しやすいという利点があったように思う。

 ところが、クメール(カンボジア)語でパーリ語の借用語を用いる場合にはそれがあてはまらない。経典を深く学んだ仏教者ならともかく、パーリ語起源の言葉やその組み合わせによる造語はパッと見ただけでは意味が分からないことも多いのである。ここでジレンマに陥る。例えば法律の話で「占有」という概念があるが、これを平易なクメール語にすると「持っていること」になる。確かにその通りなのだが、占有という法律概念を表すためにはその意味するところが広すぎる。かといってパーリ語からの借用語で以前のカンボジア民法にあった言葉を使うならば今度は意味が分からなくなってしまう。つまり、平易さと正確さが両立しないケースが存在するのである。もう一つ例を挙げると商事仲裁などの「仲裁」もクメール語では「レフェリーによる紛争解決」となる。プロレスじゃあるまいし。

 大阪弁の「しんどい」を標準語に訳しきれないというような翻訳の問題ならば、近い意味で妥協したり、文化の違いとあきらめることもできようが、法律となるとそうはいかない。

 この問題について筆者は未だ明確な解決策を見出していない。是非アドバイスを。

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