ユニトピア100号制作記

深川博志

 長いあいだ抱えていた宿題を、ようやく提出した気分です。ユニトピア100号(1999年4月号)を皆さんのもとにお届けできました。

 この企画が始まったのはそもそも、1998年7月17日の例会で、安藤 (敬称略。以下同)が(例会で話し合っているのを無視して)次のユニトピアは何号になるのかを調べていたところ、もうすぐ100号を迎えることに気付いたことがきっかけだった。彼が例会に興味はないのに出席して いたのは、ともかくもその場に居合わせること――参加ではなくプレゼンス存在それ自体――の重要性と必 要性を認識していたからだろう。その場に居合わせた福田 が特別号を出そうと提案し、原案をメーリングリストに投稿 した。以下に再録する。ことほどさように、ふとした思いつきを後先考えずにそのまま口に出すのは、本人の精神衛生と団体の活力の維持のためには必要である――後始末をしてくれる人がいる限り and/or 自ら後始末をする覚悟がある限り。

・基本的に2本だて。一つは南北問題に関する記事(2年前の新歓増刊号のような内容)。もう一つはユニセフクラブについての記事。これまでの歩み、これからへの提言など。

・対象は普段ユニトピアを読んでくれている人と同様。あまり内輪向けに偏り過ぎないように。無理かな。要検討。
・できたら、これ1冊を読めばユニセフクラブの過去と現在と未来が分かるようなものがいい。(無茶無茶)

 後半部については、今のところこんなことを考えています。

・古本市・NFなどの行事に関するエッセイ。
・卒業生からのメッセージ・提案、おすすめの本など
・「同時代史としてのユニセフクラブ」を意地でも現在までつなげる
・OB/OGの連絡先リスト
・深川くんの「ユニセフクラブに入って1年半」(ちなみに彼は1年前「アノミーに入って半年」という厳しい批判文をアノミストに載せて話題になった)
・「ふたりごと」スペシャル(やめてくれという悲鳴多数)

これに対し、永井 が以下の提案 をする。

 現役の皆さんがユニセフクラブの来し方行く末を知るもっとも手っ取り早い方法は、「ユニトピア」の総目次を作成し、内容を分類してそれぞれの分野について担当者を決めて、「アジア経済」同様、誰かがレビューと紹介を行うというものでしょう。これはかなり大変な作業ですが、以前からぼくが主張している、ユニセフクラブの「情報バンク化」の手始めの作業としては、打ってつけのように思います。単に「100号」を出すというお祭り気分的な観点ではなく、こうした長期的・戦略的観点から「100号」を位置づけられてはいかがでしょうか?

 基本的にはこの2つの提案をもとに、公式/非公式の話し合いを経て、エッセイと研究発表レビューの二本立てという方向にまとまった。編集の実務は福田と深川 が担うこととなった。

 しかし、エッセイの書き手がなかなか見つからなかったり、11月祭のどたばたの中で執筆依頼が遅れたりして、当初の熱気は冷めた。本号掲載記事のうち「巻頭言」と田岡 ・角田 執筆分を除くものは、翌1999年4月までに出揃ったが、発行はされず、1999年4月号は欠番となる。

 そして、2000年11月。司法試験の口頭試問を直後に控えていた田岡がボックスでボーっと休んでいたところを、深川が捕まえる。「永井さんの原稿を世に出さないのはもったいないし、第一、申し訳ない」という深川の言葉に田岡が同意する。さらに田岡は、ユニトピアの主な記事の紹介を書こうと提案する。結局、彼の試験後にその紹介記事を加えて発行することとした。

 さらにそこに、「アイデアはいくらでも湧いて出てくるけど、実行力が伴わない」(本人談)角田がやってくる。ボックスノート の迷言集をつくろうとか(読むだけで1週間はかかるだろう、10分毎に抱腹絶倒するのは間違いないから)、OB・OGインタビューをやろうとか(多忙な方々とはお会いするだけでも日程調整が大変だろう、そしてかくしてずるずると発行が延びるうちにやる気が失せるのはここまでの経過から明らかだ)、実現可能性を全く考えない発言が相次ぐ。むろん、実現可能性を無視したブレーンストーミング風おしゃべりは久しぶりだったので、私も調子に乗って煽り立てていたことは付記しておこう。

 彼女は、実行力に劣るというより、発想力が豊かなのだろう。事実、その後1週間もしないうちに、比較的実行可能なアイデアだった「新歓パンフレット・レビュー」を独力で終えている。研究発表などで多忙な時期だったにもかかわらず。

 司法試験に合格した田岡は、ユニセフクラブの歩みやユニトピア主要記事紹介を執筆、さらにレイアウトの調整など全体の編集を行い、2000年11月祭(Unicafe XIV, Unisalon)での賛同金集めや、印刷・製本の手配といった、発行に必要なあらゆる事務を行う。単なる雑用係だと馬鹿にしてはいけない。こうした事務を一手に引き受ける人がいて初めて、豊かな発想は形となる(逆に、こうした人がいない限り、すべては尻切れトンボに終わる)。試験勉強のため十分には発揮できないでいたエネルギーを燃焼し尽くすかの勢いだった。

 制作過程を記すつもりが、私の偏狭な人物評になってしまいましたが、最後に再びここに名を挙げた人びとの功績を記します。

 福田さん、あなたが言い出さなければそもそも特別号はありえませんでした。

 永井さん、貴重な提案をしていただき、また執筆の労をとっていただき、本当にありがとうございます(この一行だけは本気です)。

 田岡さん、あなたがいなければ特別号は歴史の闇に捨てられるはずでした。

最後に深川博志、気まぐれ仕事人間はいい加減卒業しなさい。

 

【脚注】

1 安藤雅樹。1998年当時、京都大学法学部3回生、ユニトピア編集長。現在、法学部5回生。

2 福田健治。1998年当時、京都大学法学部4回生。現在、メコン・ウォッチ職員。

3 1998年9月2日付の福田の投稿: [unicef 580] Unitopia 100th Commemorative Number
実際には、田岡が1998年8月3日付のメーリングリストへの投稿 [unicef 552] Re: unitopia で、「来年の100号発行に向けてユニトピア100号記念プロジェクトが進行しているという噂もあります。来年のことを言えば鬼が笑うといいますが・・・。OB/OGの方も協力していただけるとありがたいです。」と記したのが、100号計画がMLに登場した最初である。

4 永井史男。大阪市立大学法学部助教授。本号でも「京大ユニセフクラブ研究発表レビュー:回顧と展望(1)」を執筆。

5 1998年9月26日付の永井の投稿: [unicef 623] Re: Unitopia 100th Commemorative Number

6 深川博志。1998年当時、京都大学医学部2回生、ユニセフクラブ事務担当・会計担当。現在、医学部4回生。

7 田岡直博。1998年当時、京都大学法学部3回生。現在、法学部5回生。

8 角田望。1998年当時、京大農学部1回生。1999年京大ユニセフクラブ代表。現在、農学部3回生。

9 3号boxの連絡帳兼自由帳。現在No.92。お絵描き帳になったり、愚痴の落書き帳になったりすることもある。ユニトピアンズの精神的安定には欠かせない。

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