京大ユニセフクラブ2001年度新歓学習会
 「自由としての開発〜アマルティア・センの世界」

目次
0・学習会の目的
1・開発とは?
2・センの生い立ち
3・既存の経済学
4・ロールズ『正義論』による「政治哲学の復権」
5・潜在能力アプローチ
6・『自由としての開発』へ
7・終わりにかえて
8・学習会の評価
担当 黒田 敏史 (経済学部3回生)

0・学習会の目的
今年の新歓企画として用意したのは、毎度おなじみのアマルティア・センの経済学です。今回はセンの業績を一通り紹介すると共に、彼の業績の相対的な地位を明らかにすることを目的としました。なので、以前の学習会で潜在能力アプローチについて何となくわかったという人にも楽しめるように配慮しました。今回はセンの業績との比較の対象として、(古典的な)ミクロ経済学、マクロ経済学、ロールズ正義論を取り上げました。この原稿は学習会のレジュメに僕が口頭で行った解説、および補足を追加したものです。

1・開発とは?
「開発とは、人々が享受しうる様々の本質的自由を増大させるプロセスであると見ることができる。・・・人間の自由に焦点を当てる開発論は、開発を国民総生産の成長、個人所得の上昇、工業化、技術進歩、社会的近代化などと同一視する狭い見方とは対照をなす。」

 「開発」について論じるためには「開発」という言葉の意味を定義しておくことが必要です。この定義をきっちりしておかないと「開発のためには個人の自由は多少犠牲にされてもしかたがない」とか、「開発が必ずしも人の幸せに結びつくとは限らない」とか考えている人との議論ができなくなります。

2・センの生い立ち
1933年11月3日、インド・ベンガル州に大学教師(化学担当)の子として生まれる。幼少期に彼を経済学へと導いた2つの事件、1943年の死者300万人とも言われるベンガル大飢饉、ヒンズー教とイスラム教の宗教対立から悲惨な死を遂げたカデール・ミアという男の死を目の当たりにする。当初物理学と経済学のどちらを学か迷うが、経済学を選択。カルカッタ大学経済学部卒業後、ケンブリッジ大学へ留学し、Ph.Dを取得。ケンブリッジ、デリー、LSE、オックスフォード、ハーバードの各大学教授を歴任。1998年に飢饉防止、社会的選択論などの発展への高い功績を認められ、ノーベル経済学賞を受賞。現在ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮長。「温かい心と、冷静な頭脳」* を兼ね備えた経済学者=倫理学者として活躍中。

 センの「アマルティア」には「不滅・不朽なるもの」と言う意味があるそうです。ちなみに、この名付け親はインドの国民的詩人として名高いラビンドラナート・タゴールだったりします。センの母方の祖父とタゴールが友達だったそうで。また、センはタゴールがシャンティニケタンに作った寄宿学校で教育を受けていました。
 余談ですが、センのノーベル経済学賞受賞が公表されてから数週間の間にカルカッタの産院で誕生した数百人の男児がアマルティアと命名されたそうです。わかるなぁ、その気持ち。

3・既存の経済学
・ミクロ経済学(効用ベースに基づいたアプローチ)−J・ベンサム、J・S・ミル
人間の幸福、快楽、欲望の充足などを判断基準とする−人間の多様性の無視 *2、合理的な愚か者 *3、一般不可能性定理 *4、パレート派リベラルの不可能性 *5

 この議論は「社会選択の理論」と呼ばれるかなり技術的な議論を前提としているので、内容をばっさりと省略しました。早い話が「好きな方を選ぶ過程を繰り返すだけでは集合的な意志決定はできないよ。」ということです。みんなが全く同じ価値判断をするのならば物事を決めるのは簡単ですが、それぞれ多様な価値観を持つことが認められている社会においては、集合的な意志決定は極めて難しい物となります。結局、センはある人がもっとも欲することがその人にとってもっとも望ましいことであり、その人はそれを選択する、というミクロ経済学の議論の前提に疑問を投げかけ、単純な選好の集計からでは集合的な意志決定をするのは難しい、ということを明らかにしたのでした。ちなみに、人が2人で選択肢が3つのという最小サイズの社会において、社会的な選好順序を決定するメカニズムには6^36通りあり、だいたい1.0326x10^27個になります。単純多数決はその内のたった1つにすぎません。

・マクロ経済学(GNP主導型アプローチ)−J・M・ケインズ
「富が我々の求める善ではないことは明らかであろう。富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存在するものでしかない」(アリストテレス「ニコマコス倫理学」)
財と人間の関係(権原)の無視−『貧困と飢饉』:食料総供給量の減少がなくても飢饉は発生するし、総供給量が減少しても飢饉の防止は可能。 *6

 マクロ経済学は財の集合的な量についての考察をするものであり、「一人あたりの支出が増えれば人の暮らしは改善されているはず」と言う前提に基づいています。しかし、財の集合的な量を見るだけではそれが皆にうまく行き渡っているか、必要のないことにお金を使わずにすんでいるか、などに気を配ることができません。
また、良く誤解されていることですが、「世の中には食べ物が無くて死んでゆく人がたくさんいるのに、日本人はたくさん食べ物を残して捨てている。これはけしからん。」とか、「牛肉を食べずにそれを飼育するのに必要な穀物を食べれば2倍の人間を養うことができる。」とかは、「飢えている人が食べ物を手に入れる権原(権利)を持っているか?」と言う問題を無視しています。食べ物を買うお金を持っていない、食べ物を分けてくれる人がいない、などの理由によって食べ物を手に入れる権限を持たない人は、たとえ私が食べる量を減らしたとしても飢え死にします。

4・ロールズ『正義論』 *7による「政治哲学の復権」
「人々は、合理的な人間であれば、誰もが望むであろうと推定される<善いもの>(社会的基本財)を平等に持つ十分に適切な制度的保証を要求できる」−社会的基本財の平等
ふたたび、「財は人のなす事の手段であって、目的ではない」事に着目。しかし、人間の「自由」に着目した点を評価。

 ロールズは「無知のベール」と呼ばれる「自分がどのような立場に生まれるかわからない状態」で社会のルールを決めたら、こういうルールが選択されますよ、と言う方法で議論を展開しました。しかしその後経済学者たちは、ロールズの議論は人間が最悪の状態ばかりを気にする、と仮定されていることを批判し、袋だたきにしました。
ロールズの理論の提唱する極端な再分配は、その後ドウォーキンによって社会的な保険契約としてよりその説得力を強めてゆきました。つまり、人生には不確実性が付き物だから、みんな保険として再分配契約を結んでいる、と言う理論です。ここで保険の対象となるのは事故や災害のみならず、頭のよさ、身体的能力、親の所得などなど、人間の生活に影響を与えうるすべてが入ります。しかし、保険にはモラルハザード(努力しないでも良いなら人間は努力しなくなる)が付き物であるという点で問題が残ります。
最近の議論では、ジョン・ローマーが、その人が生まれた環境から期待される努力水準に応じた生活水準を得られるようにすべきだと論じました。つまり、努力は人間が自発的に発揮できる部分と、環境によって規定される部分があるから、努力の自発的に発揮した部分を基準にして再分配を行えということです。黒人に対するアファーマティブ・アクションなどがそれに当たります。しかし、自発的な努力と偶然を区別することが困難である(そもそもできないかもしれない)ところに問題が残ります。センはこれらの議論の展開に対し、「個人が責任を担うために自由が必要なのだ」と主張しています。

5・『潜在能力』アプローチ
『潜在能力(capability)』とは、人々が、その置かれている社会的状況下において、財を用いて、実現可能な「なすこと・あること(to do or to be)」
潜在能力=実現可能な「機能」の集合(財→特性→利用関数→機能)
財:人々に善をなす様々な特性をもつが、財を用いて実現可能な事は人によって異なる。パンは人に栄養を与える(食べる)、社会的な会合を行う(パーティーを開く)、宗教的な儀式を行う(洗礼を行う)、など特性を持つが、消化能力の低い者はより多くの食料を必要とする(人間の多様性)。また、自転車を所有することと、それを用いて乗り回すことは全く異なる。「表現の自由」という基本的権利を持っていたとしても、伝達手段(言語、電話、手紙などのコミュニケーションの道具)が無ければ表現はできない。
社会的状況:文化が違えばパーティーを催すのに必要な財は変わってくる。それに、友人が遠くに住んでおり、満足な交通手段がないときははなかなか開くことが出来ない。
なぜ達成された機能ではなく潜在能力か?−「それしか行うことができなくて行われたこと」と「様々な選択肢のうちから選ばれて行われたこと」の違いを見る必要がある。「ハンガーストライキをしている人」と「食べるものが手に入らなくて飢えている人」は全く違う。

 センの理論の中核を構成するのがこの「潜在能力アプローチ」です。先にも述べたように、「個人が責任ある生を送るために自由が必要なのだ」という議論は、社会が個人に対して担う責任の有無が、個人の責任のみによって判定することができるのか、という点に対する疑問を発しています。自由が存在するか否かが個人の責任を問うこと以前に問題にされるべきである、という議論は、アプリオリに人間の自発性を仮定するのでもなく、ただ社会によって規定される因果律に縛られた存在としての人間を仮定するのでもない中庸の議論です。私たち人間は自由意志を持っているのか、持っていないのかという哲学的議論には十分な関心がありますが、ひとまずそれを棚上げし、仮に自由意志があったとしたら、それを発揮することができるような状態を整備することに力を注ぐべきである、という態度につながると私は考えます。

6・『自由としての開発』へ
「潜在能力」は人間の「なし得ること、であること」に直接着目したアプローチ。「なし得ること、であること」は、人間の自由とも言い換えることが出来る。つまり、潜在能力を拡大してゆくことは、人間の自由を増大させること。
「自由」の持つ二つの側面
本質的価値:人間の追求する価値は、様々な不自由からの解放
手段的価値:人間の自由の増大は、他の人間の自由を増大させる
そしてこれらは、社会的な関与によって実現されるもの、『社会的コミットメントとしての個人の自由』なのである。

*飢饉はなぜ起こるか?
*カデール・ミアはなぜ死の危険を買ってでも危険な地域へ仕事を探しに行かねばならなかったのか?
*ガンジーのハンガーストライキは、なぜあれほど多くの人々の心を打ち、暴動を止めることが出来たのか?

 「社会的コミットメントとしての自由」という概念は、私の自由というものが他者からの支持によって構成されており、逆に私は他者の自由を構成する要素であると考える概念です。そして、他者に責任を問う前に、他者が責任を担うことができるよう行動する、という立場につながると考えます。また、自由であることそのものが価値を持つというセンの独特の立場も注目に価します。
 「エンデのパラドクス」と呼ばれる「選択肢が多すぎると人は選択することができない」という議論を利用して、自由の本質的価値に疑問を投げかける場合がありますが、僕はこの考え方には懐疑的です。なぜなら、何の手がかりも無しにただ多くの選択肢を提示された状態が「自由が多い状態」であるとはとうてい思えないからです。個人にとって自由がある場合というのは、その選択に付随する結果をある程度予見することが可能であり、それに対し責任を負うことを覚悟した上で選択ができる場合、であると考えるからです。

7・終わりにに代えて
「経済学者がやり遂げようと努めている複雑な分析は単なる頭の体操ではない。それは人間改良の道具である。われわれを取りまく悲惨と汚濁、数百万のヨーロッパ人の家庭において消えなんとする希望の光、一部裕福家族の有害な贅沢、多数の貧困家族を蔽う恐るべき不安。これらのものは無視するにはあまりにも明白な害悪である。われわれの学問が求める知識によって、これらの害悪を制御することは可能である。暗黒から光明を!」
(Pigou,A,C.,1952,Economics of welfare. Fourth ed.)

8・学習会の評価
 学習会の当日は雨が降っていたこともあり(と信じたい)、少ない人数しか参加してもらえずにとても残念でした。また、内容が経済学の知識を持っていない人にとってはやや難しかったようです。また、規範的な議論と記述的な議論の区別を明確にできなかったため、やや混乱させてしまったかもしれません。
 参加者の反応はまあまあ良かったのではないでしょうか。しかし、結局このときの新歓学習会に来てくれた人で、今でも継続的にユニセフクラブに来てくれているのは大庭君だけですねぇ。やっぱり面白くなかったんでしょうか。どうですか、大庭君?


*1 ケインズ・ピグーらの師アルフレッド・マーシャルの残した言葉、「経済学者に必要なのは、冷静な頭脳と、暖かい心だ。」より。彼は経済学を学ぼうとする学生たちに、「まずイースト・エンド(ロンドンの貧民街)に行って来い」と言った。

*2 一般的な厚生経済学のテキストにおいては、人は皆同じ形状の効用関数を持つと定義されているが、これは、個人間比較可能性に対する疑問、分配的正義への考慮からなされる仮定であるが、あまりに現実と乖離しているのではないだろうか。

*3 "Rational Fools" A.K.Sen, 1977より。経済学の想定する人間は常に自分の効用を最大化するような合理的な選択を行うと仮定されているが、この個人は選択、選考、利害、厚生などと言った概念を区別しない。

*4 アローは民主的な決定において必要とされる条件4つを満たす、集合的な効用関数を定義することが一般には不可能であることを証明した。多くの場合、作られた社会的厚生関数は、ある個人の選考順序をそのまま反映したもの(つまり独裁制)となってしまう。

*5 「うつぶせに寝るか、仰向けに寝るか」などと言った選択肢は個人が自由に決めて善い事であろうが、自分で自由に決定することができる選択肢のペアを持つ個人は社会に一人しかいない、と言う衝撃的な結果を証明したパラドックス。ていうか、すべての人がすべての人の動作一つ一つに選好順序を持っていて、それをもとにそれぞれの行動を決めようとするようなうっとおしい社会は病理的なものになっても仕方がないと思う。

*6 インドでは1947年の独立以降大規模な不作が起こっているにもかかわらず一度たりとして飢饉が発生していないことと、中国では1958-61年の間に行われた「大躍進」政策の失敗によってもたらされた飢饉によって、3千万人が死亡していることも考えよ。

*7 1970年頃に書かれた『正義論』においてロールズは、「人々は皆平等な基本的権利を実現する制度を要求することができる」とする第一原理と、「社会の中でもっとも不遇な人の改善になる限りに置いて不平等が認められる」とする第二原理からなる正義の理論を提唱した。明確な不平等(黒人・白人差別)などの存在する国ならではの著作である。

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