越南珍道中2

岸田研作


 目を覚ますと、柔らかな朝日が窓から射し込み、もうバイクの行き交う音がする。6時くらいだろうか?まだ弟の目覚ましはなっていない。しかし時間を確かめびっくりする。何とすでに8時前。えー、今日のツアーは8時半出発なのに!セットし忘れたのだろうか?とにかく弟の目覚ましのスイッチは入っていなかった。少し焦るがツアー出発の集合場所のシン・カフェは宿から歩いて3分なので、昨日子供らから避難した喫茶店で朝飯を食っていくことにする。まだ30分あるし大丈夫だろう。二人ともサンドイッチを頼み、待っている間店の前の道を行き交う人々を眺めている。しかし8時15分を過ぎてもオレンジ・ジュースしか出てこない。店内は空席も多く、込んでいる状態ではない。僕らは少しいらいらしながら厨房の方を凝視する。するとウエイトレスの女の子がにっこり微笑んで「Wait a minuit!」と言った。にっこり微笑まれると喉まで出かかった文句も出るタイミングを失い、僕たちは再び往来を眺めながら待つことになった。しかし20分をまわってもやはりサンドイッチは出てこない。店は空いているし、店員も全然忙しそうではない。おい、おい、どうなってんねん。自分たちで作った方が絶対早いやんけ!僕たちはさすがに気が気ではなくなり、連続して催促する。そして8時25分になろうかという頃になってやっとサンドイッチが出てきた。もうじっくり味わっている暇は無い。サンドイッチを折り畳んで口に詰め込むと僕らは店を飛び出した。

 シン・カフェの前にはすでに大きな観光バスが泊まっていた。ヴェトナムでは観光産業はまだまだ発達していないが、シン・カフェなどいくつかの旅行会社主催の格安のミニ・ツアーがある。1日まわって僕らは一人4ドルだった。大型バスは外国人客でいっぱいだ。日本人もいるが、圧倒的多数は欧米人だ。バスが出発するとヴェトナム人の小柄な男性が、マイクでガイドを始めた。これまで会ったヴェトナム人の中で最も饒舌な人だった。しかしその英語はほとんど聞き取れない。なまりがかなりきついと思う。最初、僕は自分たちのまわりに座っているネイティブの英語圏の人たちもガイドさんの言うことが聞き取れていなかったのではないかと思ったぐらいだ。なぜならガイドさんが饒舌でサービス精神が旺盛な割にはみんなの反応がいまひとつ鈍かったからだ。しかし後に分かったことだが、やはりネイティブの人はみんな聞き取れていたようで、聞き取れなかったのは僕らの英語力の問題が大きかったようだ。みんなの反応が鈍かったのは単にガイドさんの駄洒落がつまらなかったからだろう。というのも僕等が聞き取れただけでも、彼は自己紹介で、「I am Ton ,skeleton.」ニコニコ、などとやっていたからだ。

 今日のツアーは、まず今世紀始めに出来た新興宗教でヴェトナム近代史でも大きな役割を果たしたカオダイ教の礼拝を見学する。その後、解放軍がホーチミン市を包囲した時、解放軍の作戦本部となったクチを見学する予定だ。郊外との境はかなりはっきりしていていくらかもいかない中にあたりは広々とした水田が広がる風景になる。二毛作が当たり前なため、まだ青々とした水田の隣に刈り入れ間近の黄金色の稲穂が揺れる。その間にはヴェトナムの農村をイメージしたとき必ず僕等の脳裏に現れる水牛や天秤棒を担いだ農民の姿が見える。道はどこまでも続く一本道。隣に座る弟は、この旅行に来る前に参加したサイクリング部の合宿の疲れも溜まっていたのだろう、昨日あれだけ寝たはずなのにまた寝ている。僕ものんびりした田舎の風景を眺めながらうつらうつらする。

 11時過ぎにカオダイ教の本山があるタイ・ニンに着いた。道は舗装されておらず、緑豊かな田舎だ。この地域の住民のほとんどがこの宗教を信じているそうだ。バスはカオ・ダイの総本山の隣に停まった。12時の礼拝まで僕等はまわりをぶらついたり、寺院の中を見学する。寺院をぐるりと一回りしていると12、3才の女の子が英語で話しかけてきた。脇にジュースの缶が入った入れ物を抱えている。「Where are you from?」、「What,s your name?」等々。さらに自己紹介などもしてきた。そして僕等が一緒に写真を撮らしてくれないかと頼むと快くオッケーしてくれた。撮り終わると予想通りジュースを勧められた。お礼の気持ちで一本買うことにするが、何と2万ドン。かなり高いが(普通なら3千ドン)、写真を撮らしてもらったし昨日のアイス屋よりはマシだと思い、買うことにした。しかし驚かされたのは、僕等が財布を開いたとたん、それまでのあどけない少女の顔は一変し、隙のない小商人の顔になったことだ。財布の中を凝視し、その眼は絶対財布を閉じさせないぞという決意に燃えている。彼女は僕等がジュースを買った後もかなりしつこくつきまとってきた。そして僕等にガムを売りつけようとして、僕等が買わないと言うと、泣き真似をしたり昨日のアイス屋のようにお金を受け取っていないのにガムを僕等の荷物の上に載せて立ち去ろうとさえした。もちろん僕等はガムを地に置いて立ち去ったが、彼女はみやぶられたかとばかりに少しくやしそうににやりと笑った。

カオダイは仏教、儒教、道教、そしてキリスト教を合わせた新興宗教でそれなりの歴史があるが、どうもその寺院の装飾は僕等の感性に合わない。カラフルでいかにもペンキ塗りたてといった感じで、柱に巻き付く龍も遊園地の置物を取ってきたみたいだ。これも美意識の違いなのだろうか?恐らく彼らが日本の寺などを見たら、何と殺風景で物足りないと思うだろう。本尊の位置には大きな作り物の眼球が置かれており、カオダイはそれを神として拝む。かなり大きな寺院をゆっくりまわると礼拝の時間になった。寺院は吹き抜けになっているが二階ぐらいの高さにテラスが壁に沿って巡らされており、僕等観光客はそこに登って昼の礼拝を見物する。チャルメラそっくりの音を出す楽器が演奏されると、ゆったりとした信仰の着物を着た信者達が男女分かれて、寺院に入場してきた。女性は白い装束、男性は白い装束の者の他に、偉い人だろうか、赤や水色、黄色のをまとっている人もいる。全員入場すると、信者達は床にあぐらを組んで座り、礼拝が始まった。音楽や鐘の音とともに目の前で合わされた手を上下に上げ下ろしし、お辞儀をしたりする。カオダイに特に興味を感じた訳ではないが、ここタイニンでは民衆の生活に根ざした信仰なんだなという印象を持った。僕等日本人は、宗教というとすぐ怪しいとか危ないとか思いがちだが、このように生活の中に空気のように自然ととけ込んだ信仰は同じ宗教でもオウムなどとは違うと思う。

 寺院を出てしばらく揺られた後、バスは道ばたの食堂に停まった。今日は全然自分の足を使わず全くお客様だ。一昨日、昨日といろいろ神経を使うことがあったので良い休息日である。食堂では春巻きを食べることにする。春巻きが英語でspring rollだということを初めて知った。出てきた春巻きは量がかなり多く、食べるのに一苦労した。ところがお金を支払う段になって請求される額がメニューにある額より多い。文句を言うと、Bigだからだ、と言う。僕やまわりの観光客はメニューにも載っていない「Big」を勝手に出され、料金を請求されることになった。別にそれほどぼったくられた訳ではないが、腹が立つとともにかなりあきれる。

 それからまたバスに揺られて僕等はどこまでも続く田舎道を運ばれた。特に面白い風景が続くわけでもないが、こんなにぼんやりする時間をもてたのは久しぶりだ。日本では電車に乗るときはいつも日経新聞か論文を読んでいる。クチについた時すでに4時頃になっていた。まず僕等は戦争の記録ビデオを見せられ、それからクチのトンネルを見学した。ガイドさんは饒舌で、自慢そうにベトコンの手作りの罠を解説する。アメリカ軍が当時のハイテクを駆使して物量作戦で戦ったのに対し、ベトコンはまさしく生活の知恵を結集して戦っていたことがよく分かる。落とし穴ひとつにしても、身近な材料でほーっと感心させられるような工夫がある。いたそう〜。

 ところでこの旅行で不思議に思ったことがいくつかあるが、そのひとつにヴェトナムで反米、反仏感情が全然感じなかったことが挙げられる。アメリカもフランスもヴェトナムに対してはかなりえげつないことをして、いまだに謝罪していない。しかし少なくとも庶民レベルでは、アメリカ人もフランス人も唯の金持ちの旅行客といった感じで、商売上の打算があるにしろみんなにこにこして寄っていく。今も僕の目も前でガイドさんはさもうれしそうにベトコンが掘った地下トンネル基地の解説をし、欧米人(アメリカ人もフランス人もいるだろう。ヴェトナムの外国人旅行者にはフランス人が多いようである)はみんな興味深そうに写真を撮ったり、穴に入ったりして随分楽しんでいるように見える。その様子は、昨日「戦争証跡博物館」を訪ね、あるいはホーチミン市内で多数の地雷で足を失った人々を見ただけに非常に奇異な感じがする。

当時の大きさが保たれたベトコンの地下トンネルの入り口はとても狭い。アメリカ人が入れないようにとのことだが、確かにアメリカ人の男は誰も入れない。腰までは入れても肩が入らないのだ。僕の弟はさすがに小柄なので手品のように穴に消えると、とりまく人の間から感心の声がもれた。

4日目(3月17日)

 これまで旅行記を読んでくださった方の中には、僕等のこの旅行が心温まる人との出会いとはいっさい無縁のいささか寂しいものだと感じた人もいるかもしれない。これまでのところ僕たちがヴェトナムで会った人々は、そのたくましさに学ぶところは多いものの、油断がならず、ほとんど親しみを感じれなかった。もちろん単なる旅行者が、自分に都合の良い好意を願うことはいささか望みが過ぎるかもしれない。しかし外国を旅行して、その国の人々に何の親しみも感じれないとしたら何と物足りないことだろう。しかし旅を始めて4日目にして、僕たちはこの旅行の「質」を大転換する貴重な2つの出会いを経験することになる。残念ながらそれはヴェトナム人との出会いではなかったが、その2つの出会いが、それ以降のヴェトナムの人々との素敵な出会いの大きなきっかけとなったことは疑いようもない事実である。

今日は、午後2時の飛行機で中部のフエに行く予定である。フエは、古都で日本でいう京都といった感じの町らしい。僕等はホーチミンの喧噪や人々に嫌気がさし、早くフエに行きたくてしかたがなかった。ベトナムを帝国主義から開放した偉大な指導者であるホーチミンは、清貧で農民の格好をしたおだやかな人物であったらしいが、この街はそのイメージとはあまりにもかけ離れすぎている。ホーチミンの住人よ、ホーチミンが草場の影で泣いてるぞ!

 チェック・アウトを済ませると、午前中は「歴史博物館」に出かける。やはり中国文化の影響の強さを感じさせられる。それと少々意外だが、昔は中部のチャンパ王国などではヒンズー文化も栄えていたらしい。ヴェトナムが様々な文化の影響を受けていたことがよく分かるが、いまひとつヴェトナム独自の文化がどういうものか分からなかった。仏像や石器、ミイラ、ディオラマなど部屋ごとに実に様々なものが並べられているが、一番僕が興味を誘われたのは二つの壺だった。ひとつは日本の弥生式土器に似ていて、もう一つはギリシアの赤絵のような装飾がしてあるがずっと技術は稚拙だ。両者とも芸術的にすばらしい物ではなく、ヴェトナム独自の文化を伝える物でもない。それ故、一見特に興味を誘われる要素は見あたらないように思われる。問題は両者が作られた年代だ。前者は10世紀頃のもので、後者は13世紀頃のものだという。現代では、情報革命のおかげもあり、新しい技術革新があると瞬く間に全世界に伝播する。それに比べて昔は文明の進歩のスピードには千年以上の差があったようだ。

 ところで実は博物館では観客が何人か集まると水上人形劇も見れたらしいが、僕等はそれに気づかなかった。

 道ばたの店で昼食を済ませると、僕等はタクシーで空港に向かった。大分時間に余裕があったので、僕等はロビーでテレビを見たり、日記を書いて時間を過ごした。14時発の飛行機は、予定が30分遅れて飛び立った。予想通りプロペラ機で、ナウシカのガンシップみたいにバリバリ音をたてながら雲の間を飛んだ。残念ながら下界はあまりよく見えなかったが、とにかく無事着いてくれることだけを祈った。

 空港からフエ市街まで空港バスが出ていた。僕等は欧米人の観光客の一団と乗り合わせた。僕等は一昨日にクチ、タイニンに行ったシン・カフェ・ツアーのバスの時と同様特に彼らに対して意識することはなかった。しかしバスが走り始めてしばらくすると、僕の隣に座っていた初老の小柄で陽気なおばさんが中国語で僕に話しかけてきた。僕は学部生時代4年間も第二外国語として中国語を勉強してきたが、それも実は4年間かかってやっと中国語の単位がそろったという方が正しかったので、英語で自分はほとんど中国語がしゃべれないと言った。それ以降、おばさんは英語で話しかけてくれた。実は彼女はフランス人で、ヴェトナム語も少し出来るという!最初に中国語で話しかけてきたのは、僕等を中国人と思ったかららしい。彼女と交わした会話は、ヴェトナムのどこに行ったことがあるとか、日本食は好きですか?といった風な旅行者どうしが交わす会話としては、極めてありきたりでたわいない内容であった。しかし、久しく金銭の損得勘定に無縁で騙されることに気を使わないでよい会話をしていなかった僕にとっては、おばさんとしゃべった時間はとてもありがたかった。

 僕等は今日泊まる宿をまだ決めていなかった。バスの車掌さん(?)がしきりに20ドルくらいの宿を勧めてきたが、僕等はもっと安い宿に泊まりたかった。すると何とさっきのおばさんが自分たちが泊まる宿に泊まらないかと誘ってくれた。しかもツインで6ドルだという!ラッキー!僕等は、おばさんの好意に感謝感激雨霰だった。別におばさんの家に泊めてもらうわけでもないが、どれほどささいでも人の好意がとてもうれしかったのだ。この出会いで僕等は何か少し救われたような気がした。

宿に着いてチェック・インを済ませ明日の寺院巡りのミニ・ツアーの予約を済ませると、もう日も大分傾きかけていた。しかし僕等は宿にいても退屈なので近所をぶらぶらすることにした。フエの街もホーチミン同様バイクがうるさく行き交っているが、道は狭く、交通量もさすがにやや少ない。道路を渡るのに苦労することもほとんどない。僕等は、近くにあるはずの市場を見物することにした。ところが宿から100メートルも歩かない交差点で二人組の日本人旅行者に出会った。二人ともよく日焼けした男の子で、年は僕より少し若いだろう。彼らはナップ・ザックひとつの軽装で、僕等にフエからラオス行きのバスが出ているらしいが、それにはどうしたら乗れるか知らないか?、と聞いてきた。僕等はもちろん知らない。彼らはそれらしいバスを見つけたが、本当にそれがラオス行きかどうか分からず、ヴェトナム人に英語で聞いても無視されると言う。そして次に僕等にバスの行き先を尋ねるヴェトナム語を知らないか、と尋ねてきた。僕等はもちろんその問いにも答えてあげることができなかったが、とりあえず「地球」を鞄から取り出し、後ろの方にある日本語の注釈付きの簡単なヴェトナム語会話の項を見せてあげた。すると彼らは大喜びしてそれを手に取り、こんな便利な物があるのかとしきりに感心した。日本人旅行者ならほとんど誰でも持っているはずの「地球」にこんなに感心するとは、僕等はかなり意外に思った。そこでそれについて尋ねると、驚くなかれ、彼らはバンコク(タイ)、カンボジアを経由してここヴェトナムにやってきて、さらにこれからラオスに向かおうとするのにガイド・ブックとして「地球」くらいの厚さの「メコンデルタ」と書いた本一冊しか持っていないのだ!僕等はびっくり仰天した。何と無謀な!彼らに言わせると重いからだと言うが、僕等なんか「地球」だけでは不十分だと思い「個人旅行」まで持っているのに。しかし本当にこの二人組の日本人にびっくり仰天させられたのは、その後の彼らの行動だった。彼らは「地球」のヴェトナム語会話が大変気に入り、これをしきりにコピーしたがったが、日本ではあるまいし都合良くコンビニなども無い。仕方なく彼らは僕の弟からボールペンを借りて、それを自分たちのガイドブックの余白にうつしだした。僕は彼らの無謀さと積極さに感心しながらも、6声もあるヴェトナム語はかなり発音が難しいと思うよと忠告した。中国語の経験から、単なるローマ字読みでは決して通じないことは明らかだ。ヴェトナム出発の一週間前、僕もヴェトナム語を少しは話せたらと思って藤田に相談したが、その発音の難解さに全くあきらめてしまった。ガイド・ブックに旅行だけなら英語だけで十分と書いてあったこともヴェトナム語修得の試みを行わなかった原因だ。

 そうして僕等が交差点に立ち止まっていると、いつの間にか例のごとくシクロ乗りが3台ほども寄って来て、乗らないかと、勧誘しだした。僕と弟はそれをうるさがったが、何とその二人組の日本人は全く乗る気もないのにシクロのおじさん相手に今書き写したばかりのヴェトナム語の会話練習を始めたのだ!「Bao nhieu?(いくらですか?)」、「Xin loi(すみません)」など簡単な単語から始め、自分たちが来た市場の位置を尋ねたりする。そして発音が通じなかったり分からないと、「地球」をうつしたガイド・ブックを見せ、発音を尋ねては復唱する。すると案外に通じるのだ。彼らは野性的な集中力でどんどん学習を進めていった。僕は自分がこれまで全くヴェトナム語を話すことを全く試みなかったことを恥ずかしく思ったが、同時に、否むしろ、そんな感情よりもずっと大きいとてつもなく爽快な衝撃に脳天を打たれた。そしてそれは体中を駆けめぐって気分を高揚させた。こんな爽快な衝撃に打たれたことは久しくなかった。その衝撃は何に由来するものだろう?一つは、明らかに彼らが思わぬ困難に出くわした時に見せた強靱な生命力である。僕と弟はヴェトナムで予想される困難を事前にガイド・ブックなどで調べ、それらを恐る恐る極力回避しようと努めた。ところが、彼らは多少無謀ではあるが、思わぬ困難に出くわしても背を向けることなく立ち向かい、しかも僕等には全く思いもよらない大胆な方法でそれを乗り越えようとしているのだ! しかし彼らのもたらした爽快感は、単にその行動の大胆さと機知にのみ由来するものではない。今から思えば、もしろそれは、例え彼らの行動が多少あつかましく、極めて実用的な要請からのものであったとしても、ヴェトナム人と何とかコミュニケーションをとってやろうという意気込みの強さとその実践を体現していたこと由来していたからだと思う。しかも彼らの会話練習からは、単なる利用主義ではない何か温かいものさえ感じた。それに対して、僕等は正直なところほとんどのヴェトナム人に対して疑心暗鬼に陥り、必要最低限のコミュニケーションしか望まず、しかも英語しか使わなかったのだ。さらに僕を喜ばせたのはシクロのおじさんであった。彼らの中には、こいつらとつき合ってても乗らないな、と見限りをつけて去ってしまう人もいた。しかし残った人たちは戸惑いの表情を浮かべながらも興味深げにいつまでも奇妙なヴェトナム語学習につきあっていた。その様子を見て僕は初めてヴェトナム人に親しみを感じた。そしてそのことがまたとてもうれしかった。彼らのタイム・コストが低いせいもあるが、寛容と言おうか、大らかだと思った。もし僕が日本で何か物でも売っていて、変な外国人が全く僕の商品を買う気もないのに日本語会話の練習台に使おうとしたら、随分腹を立てるだろう。

 この「事件」に刺激され、この後僕等もつたないながらも、ホテルでの用事意外できるだけヴェトナム語を使おうとするようになった。それにしてもこの夕方の思わぬ出会いで受けた爽快な衝撃はその奇妙な二人組と分かれてもなかなか衰えず、僕を興奮させたり、幸せな気持ちにしながらかなり持続した。手帳に書き殴ったその日の日記の文字がその時の僕の気持ちをよく表している。

 

 

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