例会後企画報告「環境問題をめぐり想定される世代間・南北間の対立」

担当:今泉 宣親

1.目的

当初は、石油がなくなったら、どのような問題が起こるか、というものを想定していたのですが、あまりに漠然に過ぎたので、この問題について話し合っていただくことにしました。(これでも漠然としているところはありますが)

2.資料

http://www.yomiuri.co.jp/osaka/monosiri/ms0219.htmから「未来世代への責任」

http://www.chunichi.co.jp/news2/chu/shasetu/9711/971130sh.htmから

「豊かさの後退覚悟を」(中日新聞社説19971130日)を引用(後ろに添付)

3.問題の概略

環境問題に対する世代間倫理の差………わたしたちは生きている間に顕在化せず、身に降りかかってこない問題に対し、積極的に解決しようとしない傾向があります。一昨年行われた地球温暖化防止京都会議においても、実際に決まった目標は求められている数値を、はるかに下回るものでした。しかし、このことは我々の世代が多数決の名の下に、後の世代に対し、つけを回しているに過ぎません。現実に影響を受けるであろう未来世代は、我々にものを言うことはできません。その点で弱者です。しかし、強い意志を持てず「自分の死んだ後のことなど、どうでも良いじゃないか」という考えに対し、はたしてどうのように説得していきますか?

資源をめぐり顕在するであろう南北対立………昨今、環境の許容量、採掘可能量の両面から化石燃料使用には限界があることがわかってきました。また、化石燃料に関わらず開発に際しては多額の資金を書けなければ、環境に配慮することはできません。しかしながら「豊か」になることを求めて、貧しいながらも開発を進めようとする途上国は資源の限界や、環境に配慮する余裕があまりありません。「先進国が今までやってきたことじゃないか」と主張する途上国に対し、わたしたちは、どの様に説得していけばいいのでしょうか?

4.議論の展開

人数がたくさんいたので5つの班にわけました。そのためそれぞれの内容ははっきりわからないので、最後に各班の代表に述べていただいたまとめに意見について概略そのままを載せさせていただきます。

A班の場合…(世代間倫理の差について)大衆レベルから、環境問題を後回ししていくような傾向に反対し、環境問題から草の根レベルから着実に解決していかねばならない。そのためには知的エリートが町内会のような地域コミュニティを組織し、身近なところから(いずれは選挙等を通じ上のほうまで)働きかけていけばよい。

B班の場合…(資源をめぐり顕在するであろう南北対立について)現在は先進国が現在の生活の維持を望み、限られた資源を確保するために途上国の発展を望んでいない。しかし、その考えはあまりに傲慢であり、豊かさを決定する権利は途上国自身にある。これまで途上国は先進国に搾取されてきたことを考えると、先進国は、途上国が環境に配慮した開発を進めていくのに援助をしていくことが必要である。

C班の場合…(資源をめぐり顕在するであろう南北対立について)途上国には、はたして先進国とおなじような発展が必要なのだろうか?しかし、発展途上国側で先進国と同じような発展を望むのは当然であり、それを止めるのは傲慢である。

D班の場合…(資源をめぐり顕在するであろう南北対立について)世界は大国の原理で動いており、経済格差を縮めるのは困難。途上国は先進国とは違う独自の豊かさを求めるべきである。もし途上国がそのような発展を遂げたとしたら途上国側は先進国に非物質的な豊かさを求めるように主張するであろうが、おそらく様々なものでがんじがらめになった先進国には、それはできぬであろう。

E班の場合…(世代間倫理の差について)我々の世代が意識を改革していくには当然草の根レベルから行われていくのが最も合理的である。市民が環境への配慮に価値を見出すようなれば、当然企業は環境に配慮した品を開発、製造することを経済的と認めるようになるであろう。

5.感想

反省…話が大きすぎたからか、結論を出せばあまりに当たり前な内容、また逆に結論を出すのは極めて困難という二つの傾向が出てしまいました。そういうわけで議論は活発に行われたものの思わぬ意見と言うのを引き出すことができず残念です。以後、もっと的を絞っていいネタを選びたいと思います。またレジュメが人数分ございませんで、すみませんでした。

意見…(世代間倫理の差についての)議論を聞いていて、特に目立ったのは草の根レベル、市民から、と言うことでした。つまり、地道な努力を行うことで未来世代への負荷を減らすことができる、という考えです。が、そんな中感じたのははたしてこれで間に合うのだろうか、ということでした。確かに上からの改革と言うのは、末端まで浸透しない可能性も高いし、そもそも政府等は、今の状態から積極的に行動するとは思いにくいです。しかし、市民レベルから行われることははっきりした数値を出しにくく、現在置かれた位置を知るのは難しいことではないでしょうか。その点でいささか危惧を禁じえません。(だからってそれ以上のことは言えないのですが...)また、経済において緊縮だけでは財政が好転しないように、政府に働きかける際に、決して規制を増やすことではなく、それを解決する科学への投資も今以上に増やしていくようにすべきではないでしょうか。

 

6.配布した資料

@環境問題に対する世代間倫理の差

「未来世代への責任」

   「環境倫理」という言葉を目にするようになった。少し易しく言ってみるなら地球規模の環境問題を解決するための「新しい規範」だ。温暖化やオゾン層の破壊、野生生物種の滅亡−−。人類の破壊力は、もはや個人の心がけやモラルでは制御できない。そこで「人類がこれ以上のことをしてはならない」基準やルールを定めよう、というのが環境倫理だ。地球レベルの破局を回避するため生まれた思想と言える。

<沈没寸前の船>

              ひとつ、ジョークを紹介しよう。舞台は船の上

「船長、船が沈みそうです! 積み荷を60%は捨てなきゃなりません」

「そうか。じゃあ、5%捨てよう。今はそこまでしかできない」

   作者の加藤尚武・京都大教授によると、昨年、地球温暖化防止京都会議でまとまった結論は、このやりとりそのものだ。60%は温暖化ガス二酸化炭素(CO2)の大気中濃度を現状レベルで安定化させるのに必要な削減数値。5%は、会議で決まった削減目標だ。

   環境倫理の基本原則は「現在世代は未来世代の生存可能性に責任がある」。ここから「未来世代の生存に必要不可欠な条件は必ず残す」という要請が生まれる。京都会議はこの責任を放棄したことになる。温暖化を止めないのは、未来世代を危険にさらしているに等しい。

「現在世代が集まって『どこかから借金をしてぜいたくしよう』『未来世代から借りよう』という話になった。未来世代は反対することができない。それを、『オレたちは多数決で決めたんだ、何が悪いんだよ』と言っているようなもの」(加藤教授)

   多数決は一種のルールだが、それで十分なのか。環境倫理は問いかける。「ルールを決めたルールは正しいのか」

<脱心がけ主義=

   環境問題を解決しよう、あるいはそのための基準を作ろうとするなら、どんな場合にも先に挙げた基本原則を守ろうというのが環境倫理だ。「基準」や「責任」の在り方を追求する環境倫理学という学問も生まれている。「人間が『種』を破壊してもやむを得ない限度は」などが主題だ。

   環境倫理が必要になった背景の一つは「家庭の省エネ」など個人の取り組みに限界が見えてきたことだ。

   全大阪消費者団体連絡会は昨年8月、「わが家の省エネ統一行動」に取り組んだ。「クーラーの使用を1時間減らす」「テレビは見たい番組だけに」「リモコンの機器は主電源を切る」。行動目標にモニター約200人が挑戦、電気使用量を平均で前年同月より14・2%削減できた。

   「クーラーの時間カットは思ったよりできた」「主電源を切るのは慣れれば簡単」という感想があった。反面「受験生がいるのでだめだった」「夫の協力がなかった」「テレビはゲームに使うので切れなかった」と正直な声も。省エネの難しさが浮かび上がった。

  仮に消費部門で限界まで省エネをしても、温暖化防止のエネルギー削減には足りない。“心がけ主義”を超えることが必要なのだ。

<レジ袋1枚5円>

  とはいえ、強制的に資源を割り当てるような強権社会はご免だ。そこで、環境倫理の考え方を基に、野放しでも“環境ファシズム”でもない第三の道が様々に生まれている。総称して「環境政策」。化石燃料に課税する炭素税、企業の環境対策を認証するISO14000などがその例だ。

  身近なのはデポジット制だ。飲料を販売する時、価格にびんやペットボトルなど容器の預かり金を上乗せする。空の容器を店に持っていくと払い戻されるから、ポイ捨てが減ることも期待できる。

  コープこうべ(組合員数128万7000人)は、1995年6月、レジで渡すポリ袋を有料化した。「阪神大震災で、資源の大切さを実感したからです」(丹羽めぐみ環境活動課長)

  78年以来、買い物袋を持参した人にはカードにスタンプを押して値引き。新方式では、ポリ袋がいる人は1枚5円を箱に入れる。買い物袋持参率は15%から77%に上がり、ポリ袋の経費約3億円が削減できた。

   集まったポリ袋の代金は95年が約1億円、96年は約1億1800万円。県内の自然保護団体への支援などに活用されている。

   市民活動団体「環境市民」のすぎ本(もと)育生さんは、この有料化でCO2の発生量が年間、約1400トン減ったと計算。国内全体で同じ有料化が行われたら、乗用車約32万台分のCO2の排出量を削減できると試算する。

   コープこうべの丹羽課長は「小さなことでも環境によい行為をできることが組合員に喜ばれています」。

<持続可能な会社へ>

  こうした環境政策が世界で最も進んだ国の一つがスウェーデン。91年、炭素税を世界で初めて導入。20回繰り返し使用する仕様にしたペットボトルはデポジット制で回収。預かり金は1本4クローナ(60円余り)で回収率は90%に上る。

  80年には国民投票を経て、運転中や建設中の12基の原子力発電所をすべて2010年までに廃棄すると国会が決議。今年の夏から廃止計画が動き出す。一人当たり電力消費量は世界第三位。電力の50%を原子力に頼る。全廃で電気料金が1・5倍になる、とも。

「自ら痛い思いを引き受けようとしているのは、自分たちのことをそれだけ真剣に考えているからでは」。スウェーデン大使館に長年勤めて、現在は環境問題ジェネラリストとして評論活動などを行う小沢徳太郎さんは言う。

  スウェーデンの国会議員選挙の投票率は、85%を下らない。「未来世代を守る政策が多数決で決まる。現在の生活を犠牲にしてでもね。それが環境倫理でしょう」(小沢さん)

  巨大エネルギー消費文明から持続可能な社会へ。大きな転換は避けられない。環境倫理を「共通理解」とするのか。それともこのまま−−。人類は選択を迫られている。

 


A資源をめぐり顕在するであろう南北対立

97/11/30  豊かさの後退覚悟を (中日新聞社説)

 先進国は少子化でも発展途上国は多産で人口は増え、地球温暖化で砂漠化は進み、超食糧難の到来も予測されています。環境問題と南北問題が人類生存の課題です。

 「親の代より豊かになれない初めての世代」という自覚が、アメリカの大学生たちの間に広まってきたと聞きました。建国以来まだ二百二十余年。若さとフロンティア・スピリット(開拓者精神)の衰えていないアメリカの若者たちがなぜでしょう。

 彼らには、二十世紀を生きてきた大人たちには見えない二十一世紀が見えている、そんな気がするのです。もうすぐそこまで来た二十一世紀とは、つまり「二十一世紀観」を、若者たちが持ち始めているとは、さすがアメリカだと思います。

 最近、学校教育とか企業経営とかの勉強会で、「二十一世紀は二十世紀の延長線上にはない。だから改革を」の大合唱が盛んですが、では二十一世紀って何なんだということが、必ずしも明確ではありません。

(中略)

 京都で温暖化防止の会議

 あす一日から世界各国の代表が京都に集まって「地球温暖化防止会議」が開かれます。先進国も発展途上国も一堂に会しての国際会議ですが、人類や諸生物の生存環境を危機に陥れる地球温暖化を招いた元凶は、主として先進諸国の経済発展でした。

 石炭や石油などの化石燃料を、自然環境の許容量以上に使い過ぎた結果、環境を破壊。このままでは人類の破滅につながることがはっきりしてきたのです。といって、一律に規制するのは無理でしょう。

 豊かな先進国に発展を遂げた国が、これからそのような国になりたいと努力している発展途上国に、経済成長を阻害する化石燃料の消費抑制を強要することができますか。

 こっちは我慢しますからどうぞお使いくださいと、途上国に譲るのがスジというものです。いま先進国として威張っている国も、程度の差はあれ、かつては力ずくで弱い国を侵略し、植民地化し、そこからの収奪で財を築いてきたのです。そのご先祖さまの行いのツケが、いま子孫に回ってきているといえませんか。

 温暖化のもととなる温室効果ガスを排出するエネルギーの筆頭は石油で、経済成長の著しい国ほどたくさん使っています。とくに中国をはじめとするアジア地域の途上国が目立ちます。

 このため、二十一世紀の初頭にもアジア諸国は石油不足に見舞われる見通しです。

 国際エネルギー機関(IEA)によれば、二〇一〇年にかけて、日本を除くアジア全体の石油需要は現在の二倍以上に増え、二十世紀中は石油輸出国だったインドネシアやマレーシアでさえ輸入国になるという予測です。

 さて、やがて来る“新オイルショック”に日本はどうするか。札束をちらつかせて、途上国との間で石油の奪い合いを演ずるのか。温暖化防止策とからめて頭の痛い問題です。

 このような資源・環境問題と密接につながっているのが南北問題です。情報化時代を迎えて地球が狭くなり、先進国と途上国の二極分化の枠組みが、仕方がないんだで許される時代ではなくなっているのです。

 つい先日、日本人観光客がエジプトで襲撃されたテロ事件も、背景にこの南北問題があります。ペルーで起きた日本大使公邸人質事件もそうです。先進国としては、非難するだけでは根源的に解決することはできません。これまで以上に、途上国の自立への手助けが必要です。

 こうみてきますと、二十一世紀は先進国にとって、けっしてばら色ではありません。

 とりわけ二十世紀後半に世界の奇跡といわれたほどの超高度成長を遂げた日本にとって、険しい様変わりの世紀になる可能性大といえましょう。(後略)