セブのスラムで考えたこと

すみだ のぞみ


8/20〜27、私はネグロス・キャンペーン兵庫のスタディーツアーでフィリピンのネグロス島・セブ島を訪れた。わずか1週間のあわただしい駆け足の旅だったが、日系企業の進出で影響を受けている地域を訪問したりセブ島の輸出加工区を訪れたりネグロスの農村に滞在したりといろいろな要素の詰まった濃い旅だった。それらを全部報告することはとてもできないので今回はその中でセブのスラム地区を訪れたときのことを報告してみようと思う。


セブ島で私たちはボホール・ボホールというスラムを訪れた.水辺に所狭しと簡素なつくりの家が建ち並ぶ.興味深げにぞろぞろついてくる子どもたちと一緒に歩きながら私の頭の中に或るひとつの風景がぼんやりと浮かんでくる.何となく後ろめたさを感じてあわてて消し去ろうとしたが,その風景は私の前にますますはっきりした輪郭を持って現れてきた.それはなんとキャンプの風景なのだった.

キャンプ.それは私にとって夏ごとに心躍る行事だった.夜は電気がない,水は汲みに行かなければならない,食事は火をおこすところから始めなければならない,そんな多少不便な生活.にもかかわらず夏が来る度に喜々として荷物を作り,このちょっとした野外生活を体験しに出かけていく娘にある時母はこう問うた.「どうしてわざわざそんな不便な生活をするのがいいの?」そんなこと考えたこともなかった私はしばらく考えてこう答えた.「何をするのも不便やから周りの人とどうしても深く関わらなあかんようになるやん.それがいいねん.」

大勢で走り回る子どもたち.閉じこもれるようなきちんとした家もなく,何となく皆で一緒にその辺で遊んでいる.別のところに目をやれば少し大きな子が水汲みや子守をしている.いつも周りに人がいて,そして自分の役割がある. 「主人の給料が期日に支払われないことが多くて,食べていけなくなります.そんなときは子どもたちの収入が頼りです.何も頼まなくても黙って働きに行ってくれます.」突然訪問させてもらったある家のお母さんがそんな言葉を口にした.私には衝撃だった.

ふと私の脳裏に日本の景色がよみがえる.日本で出会う子どもたち,そして自分自身がまだ子供だった頃のこと.友だちと外で遊ばなくたって快適な家があり,おもしろいおもちゃがある.母親の手伝いをしなくたって母親には洗濯機もあれば炊飯器もある.ひとと関わることが,その必要性がどんどん薄れていく中に私たちはいる.「不便やとどうしてもひとと深く関わらなあかん」.だが,便利さの中でその必要さえなくなっていく.人の輪の中にうまく入っていけない,コミュニケーションが苦手,他人の目が気になる・・.「人間関係」が学問になるこのご時世.子どもにとっても時に切実な悩みなのだろう.そして「人間関係」という言葉は多くの場面においてマイナスのイメージをともなう.

もちろん駆け足で通り過ぎるだけの訪問者である私たちに子どもたちの本当の姿などわかりようもない.想像の世界でしかない.が,やはり考えてしまうのだ.この子達にひととの関わり方が分からないという悩みがあり得るのだろうか.あるいは「人間関係」という概念そのものが果たして存在するのだろうか.

しかし・・スラムで出会った子どもたちのことをこのように語ることに私は抵抗を感じる.わざわざ不便さを求めて出かける日本の私たちにとってその不便さは趣味でしかないが,スラムの人々にとっては選ぶことのできない「生活」そのものなのだ.南北格差という言葉は普通経済的格差のことを指す.が,私は生活そのものの金銭的,物質的な貧しさにではなく,選ぶことが可能かどうかというところに厳然とした「格差」を感じた.例えば私たちははるばる遠くフィリピンまでこの子達に会いに来ることさえできるのだ.だからこそそこに問題が存在するのであり,それは「輝く瞳の子供」「助け合う人々」という表現に決してごまかされてはならない事実なのである.

だがまたしかし・・さらに私は考える.本当に日本は「選ぶこと」の可能な国なのだろうか.本当に私たちは今の生活を選んでいるのだと胸を張って言えるのだろうか.これは本当に私たちの望む暮らしなのだろうか.

フィリピンの問題,日本の課題.照らし合わせれば何かが見えてくるのかもしれない.日本の子どもたちとセブのスラムで出会った子どもたち,ネグロスの子どもたちがもし出会ったらお互いにどんなことを感じ,どんな言葉をかけるのだろうか.暮れかけていくスラムの夕べ,子どもたちのとびきり上等の笑顔に囲まれながら私は忙しく思いをめぐらせていた.

 

 

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