Osaka International School 訪問記

角田望


 去る10月22日木曜日,石川,石原,原田,そして私,角田というNF研究発表・「(仮称)外国人班」の4人の面々は箕面にある大阪インターナショナルスクールへと向かっていた.JR茨木からバスで171号線を走ること30分.住宅地の中を歩くこと15分.その工場のような建物は目の前に現れた.千里国際学園.その建物の中に大阪インターナショナルスクールはある.

 大阪インターナショナルスクールは通称OISという.幼稚園から高校生までの外国人の子どもが学ぶその学校は大阪国際文化中学校,高等学校(OIA)とともに7年前,この箕面に誕生した. ここで外国人子女教育に携わる先生にお話を聞こうというのが今回の「(仮称)外国人」班の目的なのであった.

 幾分緊張しながら門を入る,と,いつもの風景が私を待っている.そう,ここは私が6年間を過ごした母校なのであった.(私の出身校はOIAの方である.OISはいわゆる一条校ではないので卒業しても日本の大学に入れない).そして今回の訪問は私にとっては大学生活と高校生活が接点を持つ奇妙な訪問でもあったのだ.


 まずお話をしてくださったのは日本語の先生である大迫先生.年齢も,レベルも様々な子どもたちの日本語指導を担当しておられる.

 ことば・・・それが当然のことながらこのインタビューの重要な位置を占めるKeywordとなった.世界各国から様々なことばを母語とする子どもたちが集まり,英語を共通語として勉強し,その傍らで日本語を学んでいく・・いったいその過程でどんなことが起こるのか.このことについていろいろと興味深いお話をしてくださった.ことばというのはコミュニケーションの道具であるとともにその人の思考を形づくるために重要な役割を果たす.子ども時代にどんな「ことば環境」で育ったかということは私がこれまで思っていたよりもその子の人生において重要な意味を持つものなのかもしれないと思った.

 もうひとつ,いろいろな文化,考え方,価値観を持った人々が集うこの学校の運営上の難しさについても伺った.―この学校では基本的に欧米式のスタイルで学校運営をしている.多文化といっても結局欧米重視なのではないのか?― という問いに,「何もかも本当にバラバラな人たちが集まって,一つの組織として動いていくためには何かの〈形〉が必要.その〈形〉として欧米型を使っているだけ.」とのこと.

 ―どうやったら日本の公立学校は外国からの子どもを受け入れやすく変わっていけると思うか?― という問いには「移民受け入れの時でもいろんな国の子が集まっているこの学校でもそう,ぶつかってみなければわからない.」 出会ってぶつかってみて考えてそして変わっていく.その繰り返しで7年間やってきた.そしてこれからもやっていくだろうということだった.

 次にお話を聞いたMs.Rupticは小学3・4年複式学級の担任の先生である.韓国,フランス,アメリカ,スウェーデン,日本・・といろいろな国から集まった15人ほどの子どもたちが一つのクラスで学ぶ.英語を母語とする子どもは思いのほか少なくてたった1名.英語の到達度もさまざまならばもちろん得意分野もさまざまな子どもたち.複式学級はその多様性をより受け入れやすくするためだという.

 開校当時は欧米の先生,子どもが多数を占め,行事などもクリスマス,ハローウィン,・・と欧米流だった.しかしだんだん子どもたちが多様化していって"Trully International"になりつつあるという.― 学校のスタイル,英語を使うことなど見かけは欧米の学校と似ているように見えますが・・ ― という問いに対しては「中にいる子どもたちが違う.子どもたちは私たちが想像もできないほどのいろいろなものを持ってきてくれる」という自信のある答えが返ってきた.

 自国を離れ,日本のインターナショナルスクールで学ぶことにより子どもたちはもはや○○人という枠に当てはまらなくなってしまう.それは時として寂しさを伴う.しかしそのことは"A little sad but good."とRuptic先生.世界をほかの子どもたちとは違った見方で見られる,この子たちは世界にとって"hope"だと熱く語ってくださった.

 しかし,その反面でこの学校の先生方は日本の社会の一員として生きていくという意識は薄いようだった.Ruptic先生自身は熱心に日本語を勉強しておられるがほかの先生のほとんどがそういったことにあまり関心はなく,外国人社会の中で事足りるならそれでいいという感覚で日本に暮らしている人も多いようだ.


 以上が簡単ではあるがインタビューの概略である.この訪問は研究発表のためのものなのでここではあまり深くは考察しないが,感じたことを少しだけ書いておこうと思う.

 ぶつかってみなければわからない,やってみなければわからない・・この言葉の重さを今回私は感じた.多文化社会への移行というのは理念だけでは決して実現しないものなのだ.そこにはまさに人と人との関わりがある,いや,人と人との関わりがその全てなのであった.「(仮称)外国人班」として研究発表に向け,調査を進めていく中でこのことはしっかりと心に刻んでおかなければならないと思う.(といっても結局紙面上の議論しかできないのだろうが)

 その一方で,以下のような疑問も今回私は感じたのであった.

 千里国際学園は1987年臨時教育審議会答申において提唱された,帰国生徒,外国人生徒,一般日本人生徒がともに学ぶ「新国際学校」構想を受けて設立された学校である.今回のインタビューからは様々な問題や矛盾を抱えながらもこの学校が多様な子どもたちが学ぶ場として着実に成長していっている様子がわかった.しかしこの学校の成長を願うとともに,このような学校がなくても帰国生徒が,外国人生徒が安心して日本の学校で学べるようになることを願わずにいられない.

 私が危惧するのはこのような学校をどんどんつくることで日本を「国際化」したと勘違いしてしまうことである.今となってはどこで読んだ本かわからないが,ある本の中で同じ各種学校であるのにインターナショナルスクールにはお金を出し,朝鮮学校にはお金を出さないといったどこかの地方行政のあり方に批判がなされていた.いわゆるエリート層の外国人の子どもを受け入れる場所をとりあえず用意することで表面上国際化に対応し,抱えている大きな問題に目をつぶる.それでは本当の国際化とは言えないのではないのだろうか,そんな気がした.

 以上がインタビューの報告であるが,さてさて,非常に個人的ではあるがこの「奇妙な訪問」において私は全く別のことも考えていた.学校というものは私の人格形成,いや人生そのものにどのくらいの影響を与えうるものなのだろうかということである.6年間をここではなく全く別のところで過ごしたなら私は今の私ではあり得なかっただろう.自分の周りの環境は常に自分に影響を与え,自分を変えていく.それは当たり前のことだ.だが・・いったいどのくらい?違った6年間を過ごしていたならばここにいるのは違った私で,違った人生を歩もうとしているかもしれないと考えるにつけ,今私がこのような形でここに存在することの不思議さを思う.これからも私は自らの選択で,あるいは何らかの偶然で,不可抗力でさまざまな環境に身を置き,その環境が私を変えていくだろう.けれども自分の過ごしてきた環境とそして今ここにある自分をいつでも肯定していけるような人生を送りたいと思う.

(すみだのぞみ)

 

 

ユニトピア1998年度目次へ