国籍のない子どもたち

下向 智子


 1987年、フィリピンからマリアンさんは単身日本へ出稼ぎにやってきました。経済大国日本へ行き強い円を稼げば、親兄弟も自分もいい暮らしができるようになるに違いない。見つけた職場はスナック。そこで働くうちにIさんという日本人男性と知り合い、一緒に暮らすようになりました。二人の間には3人の子供が産まれましたが、Iさんとマリアンさんは婚姻届をださなかったし、Iさんは子どもの認知をしませんでした。マリアンさんはオーバーステイだったので、2人は摘発を恐れたのです。

 (日本政府は単純労働者を外国から受け入れることを認めていません。日本に入国するためにはビザが必要ですが、マリアンさんは観光ビザで入国しました。観光ビザは3ヶ月で切れてしまうので、それ以上日本にとどまっていると不法滞在(オーバーステイ)ということになってしまいます。もちろん働くことも認められていませんから、不法就労ということにもなります。(現在日本にはこうした人々が30万人ほどいるといわれています) 婚姻届を出しにいくと、マリアンさんの不法滞在が発覚し、マリアンさんはフィリピンへ強制送還されてしまうのではないかと二人は考えたのです。)

 しかし、幸せな暮らしも長くは続かず、Iさんは突然亡くなってしまいます。その後、マリアンさんは3人の子どもの面倒を見ながら働いていましたが、1995年にイラン人と知り合い一緒に暮らすようになりました。ところがこのイラン人がマリアンさんの子どもに暴力をふるい、一人が死んでしまったのです。マリアンさんは恐くなり警察へ通報しました。そのためマリアンさんのオーバーステイは発覚したのです。マリアンさんは入管(入国管理局。日本における外国人の出入りを管理している)に出頭しましたが、仮放免となり、しばらく子どもとひそやかに暮らしていました。

 1996年1月25日、横浜入管から月一度の出頭日の際、「子どもを連れて顔を見せにきてくれ」といわれ、子どものキヨ(6才)とヨシミ(4才)を連れて出頭したところ、突然、マリアンさんは子どもとともに入管の収容所に収容されてしまいます。収容所では親子3人が6畳一間に押し込められ、「危ないから」という理由で子どもへのミニカーやクレヨンの差し入れも認められないという状況でした。1ヶ月もすると子どもの様子がおかしくなってきました。やせ、目は落ちくぼみ、何を話しかけても反応がなくなり、爪をかみだしました。マリアンさんを支援する人々が何度も「収容所からだしてくれ」、「日本で親子が暮らしていけるよう在留特別許可(法務大臣の裁量に任されている)を出してくれとかけあいましたが、どれも容れられませんでした。

 1996年3月28日、「マリアンさんの過去の行状がよろしくないので(複数の男性と同棲していたことをさす)日本での在留は認められない。母親が日本にいられないのだから子どもも一緒に出ていってもらおう」という入管の見解が出され、マリアンさん親子はフィリピンへ強制送還されてしまいます。

 このケースは様々な問題をはらんでいると思います。日本の外国人受入の体制、入管のありかたetc. それらをおいても私はまず、「なぜ日本に住みたいと願う人が日本で住めないのだろう。なぜ子どもまでが収容所で過酷な生活を強いられ自由を奪われるのだろう」という疑問を抱かずにはいられません。マリアンさんは日本にずっと住みたいと願っていたし、ヨシもキヨミも生まれたのも育ったのも日本、何ら日本人の間に生まれた子どもと変わらない生活を送ってきていたのです。日本政府は、しかし、最後まで子どもの日本での存在を認めようとはしなかったのです。

 昨年の7月30日、法務省が次のような通達を出しました。

「・日本人との間に生まれた実子を相当期間監護養育している。

・その子どもが日本人の父親から認知されている ・・・の条件を満たす外国人には、定住を許可する。」

 これまで法務省は婚姻関係にない日本人との間に生まれた子どもをひきとり養育している外国人について日本への定住をケース・バイ・ケースで対応していましたが、「公序良俗に反する」として多くの場合認められませんでした。しかし、子ども自身に罪がないことから、こうした親子が日本で安定した生活を営めるよう取り扱いを見直すことになったのです。しかし、「親権」、「認知」という高いハードルがあるため、それほど多くの人に定住への道が開けるわけではなく、マリアンさんのケースも対象とはなりません。

 日本人男生徒フィリピン人女性の間に生まれ、父親に認知してもらえない子どもはジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンといわれ、フィリピンに2、3万人、日本にも数万人いるといわれています。どうすることが悪くて、どうすれば良いというような問題ではないと思うし、私自身まだ答えは見つかっていません。しかし、こういった状況があることを知り、認め、少なくとも子どもたちが国籍や権利を持つことが当たり前になるように努力していくことは大切だとおもうのです。

(しもむかい ともこ/京大ユニセフクラブ)

 

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