1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと労働―」

感想


見つめるちから

【段原 志保】


今日、未来世代を担う子どもたちが、特に南の国々において(第三世界)困難な状況のもとで、生きることを脅かされている。インドの民衆詩人タゴールが「生へのあこがれは子どもの姿をよそおってやってくる」

ものであると言うように、子どもはある社会の希望としての存在なのではないだろうか。

しかしながら、実際にはユニセフの「世界子供白書」(1988年版)で報告されているように、毎日4万人近い子どもたちが、そして一年間で1400万人もの子どもたちが、伝染病にかかったり、栄養不要が原因で死んでしまうという現実がある。また、第三世界の都市に生きる多くの子どもたちはストリートチルドレンとして、自分の家族や生活のために、様々な困難のもとで、その日暮らしの生活に従事している。その他にも、商業的性搾取、児童労働、難民としての子ども、少年兵などといった自らの意志では抗えないような厳しい現実の下に生きる子どもたちは、彼らに秘められている力を開花させる機会が十分に与えられぬまま命を落とすことさえあるのだ。しかし、このように世界の子どもたちについて、想いを馳せた時になぜか自分自身の中で生れる物悲しくもあり、透明感のある感情。これがなんであるのか、突詰めた時に見えてきた恐ろしい現実は、私にとって生き方を大きく問われるものであった。「子ども」という響きに惑わされて、その背後で姿を潜めているものを見逃してしまっていること。実際に、「フィリピンのストリートチルドレン」「酷使されるタイの子どもたち」という言葉が目に入った時に、自分とのつながりを実感する人々が一体どれだけいるのだろうか。同じアジアの国でありながら、なぜだか心の距離が遠い。なぜ子どもたちがそのような現状に直面しているのか、そして、子どもたちはその中でどのように生きているのか、そして私と子どもたちのつながりは、果してどのようなものなのかと、少しずつ近づけて見ていくうちに、私の中で何かが壊れ、何かが生れた。貧困と飢え、絶望の中で生きているこどもたちと、暮らしそのものがそんな現実を生み出している、この日本の飽食文化に浸かりきる私。何かがおかしい。どこでそうなってしまったのか。どこを目指したら、この構造を変えていけるのだろうか。

そんな自分自身への問いかけを動機にして、貧困がもたらすもの、貧困をもたらすものについてフィリピン、タイの現状に焦点を当てて見てきた。

「子ども」から出発して見えてきたことには、フィリピンのストリートチルドレンが日々危険と向かい合いながら路上で働くなかで、「働く」ことから生れる喜び、自信、楽しみを得ている子どもたちもいるということがあった。実際に、タイの出稼ぎ児童労働のように、悲惨で苛酷な状況の中で、奴隷化されて働いている子どもの存在が、働くことで生きがいを得る子どもの存在でかき消されることは、短絡的で危険である。しかし、より広範囲に存在する働く子どもたちの現実の多面性や底の深さを「貧困のために働かされている'かわいそう'な子ども」とひと括りにして問題視することも、子どもたちを益々困難な状況に追い込む危険があることを認識しなければならない。そして、その「貧困の下で働くことに直面する子ども」は自分とは関係のない遠い国で起こっていることではなく、「アジアの働く子どもたちの背景」の中で見てきたように、日本そして私と深いつながりをもっていることなのである。しかしながら、そういった働く子どもたちと自分自身の「つながり」を認識していく中で、一体私に何ができるのだろうかという最大の命題にぶつかってしまう。子どもたちとのつながりを認識したことによって、私の価値観がが根本から揺るがされ問い直されている。

ぬくぬくと日本で暮らす私が働く子どもたちに思いを馳せ、社会的歪みに憤りを感じれば、感じるだけ、どうすることもできない自分の無力感と絶望感に心を痛め、現実から目を背けたいと思ってしまうことさえある。だが、現在の私に出来る唯一のことは、私の暮している社会そのものを様々な視点から"見る"こと、そして人間同士のつながり、重み、温かみを"感じる"ことである。そして、それが長い時間を通してみた時にちっぽけかもしれないけれど、動き出す力をもつのではないだろうかと思うのである。

誰も(私)がもっている力を十分に開花させることが出来ることを願って




コドモ≠ニオトナ≠フはざまで

【角田 望】


「子ども班」として研究活動(といえたようなものではないが)をはじめて2ヶ月ほど。なんとか一応かたちになった原稿を前に呆然とたたずむ午前3時半。 この2ヶ月間の軌跡を自分なりにたどってみる。

考えてみると、どうやらやはりこの夏休みフィリピンのセブ島で見てきたスラムの風景とそこで出会った子どもたちが私にとってのこの研究発表の原点になっているようだ。そこで感じたことは、ひとつはあまりに月並みだが子どもたちの表情がとても生き生きとしていること。ないないづくしの暮らしにもかかわらず、いや、それゆえにだろうか。人とひととの関わりがごく自然に存在する風景に驚きを感じた。

そしてもうひとつは、やはり圧倒的な格差という現実。おそらく一生このスラムで親と同じような仕事をし、暮らして行くであろうスラムの子と、遠くフィリピンまで飛行機でやってくることのできる私〜しかもまだ学生だというのに〜。

「なぜこんな風になるんだろう」はじまりは、そんな単純な疑問だったような気がする。 「スラムの子ども」はいつの間にか「『南』の働く子ども」というテーマになって、答えが見えないままに気の向くままここまで調べてきた。いろんな面から多角的に見たとはとても言えないものになった。単に自分の興味・関心の持てる方向を強調しただけでとても「研究」とはいえない代物になってしまった。子どもが働かなければならない背景など、考え出すと本当はこの社会全体を見わたさなければならなくなるのだろう。 が、言い訳ではないが今度私がやりたかったことはおそらくそのようなことではないのだと思う。問題は、なぜこのような方向に研究が進んできたかだ。

セブのスラムでであった子どもたちから始まった研究発表がなぜここまできたのか。それは、「南北格差」という現実≠知識として知りながらも、どこかそれを「自分が生れる前から、そしてこれからも続いていく『あたりまえ』の現実」として諦めている自分、「そんなもんだよ」とすれたふりをしている自分に気付いたからなのだと思う。「発展のためには少しくらいの犠牲は仕方がない」とまでは思わないにしても、「この広い世界、子どもが働くこともあるだろう。貧しいんだから仕方ないさ。」くらいには思っていたかもしれない。そのように諦めないと何もできないし、生きてはいけない世界の中に私は生まれ、そして生きているのだから、と。そして、年齢が上がるにつれて、つまり世間でいう「オトナ」近づくにつれて、その思いは私の中で力を増していった。

私たちはあまりにたくさんの矛盾、悲しみ、怒りを知りながら大人になる。その過程で「あきらめること」を身につける。「あきらめ」。それはオトナの特権、あるいはオトナのしるしなのかもしれない。しかし、すべてをあきらめた後に残るものとは一体何なのだろう?スラムに生きる子どもに会っても何も感じない、あるいは見ないようにしてとおり過ぎる、それが大人になることならば大人の世界の喜びと悲しみは一体どこにあるのだろう?

が、まだ考える余地はありそうな気がする。それでは、あきらめないことはいいことなのだろうか。どうやらそれも違う。いくらあきらめずに生きていたいともがいていても,自分はまさに今、このような世界の北側に生きているのだ。 そこをきちんと認識することを「あきらめ」と呼ぶならば、やはり諦めなしにはどこへも進めない。

そう、「オトナ」にならざるをえないのだ。この世界で生き、考え、何かを変えていくには。私はこれからこの世界でいろいろなことに出会い、そしてオトナ≠ノなっていくのだろう。

けれども、それでも忘れたくないものがある。

私の中のどこまでもコドモ≠ネ部分。あきらめきれない部分。

「なぜ?」と問う部分。

あきらめきれない、すべてを自分と切り離せないコドモ≠ネ感覚でオトナ≠ネ冷静な目を持って現状を認識し、そして進んでいくこと、それは可能なのだろうか?そんなことをぼんやりと考える11月の夜更けなのだった。(あ。もう明け方だ。)



前のページへ
「おわりに」へ

 

1999年11月祭研究発表 「見つめよう子供から―子どもと労働―」のページへ