京大ユニセフクラブ1998年研究発表「こころの国境線〜ニューカマーと私」

2.学校

ニューカマーの子どもたち受け入れの今とこれから

担当:角田 望


1.海の向こうからやってきた転校生

― 両親に手を引かれ,突然知らない国,日本にやってきた.知らない人ばかり,みんなが話している言葉もわからない.今いったい何をすればいいのだろう。明日からどうしよう・・・

― まぁ,うちのクラスに外国人の子どもを引き取れですって?ちょっと私がベテランだからといって困るわ.40人もいっぺんに見ているのよ.日本語ができない子どもに勉強を教えるだなんて,そんな余裕がどこにあるというのかしら.だいたいその子にどうやって話しかければいいというの?親との連絡は?ほかの子に不満がたまるんじゃないかしら?あぁどうしましょう.

― 今度うちのクラスに外国から転校生が来るんだって.外国ってどんなところだろう.どんな子なのかな.仲良くなれるといいけど・・ちょっと怖いなぁ.

 学校生活の中で転校生がやって来るというのはちょっとわくわくする小事件だった.みんななんだか少しそわそわして変な感じ.それが海の向こうからやってきた転校生だったら・・多くの学校ではやはり大事件だろう.

 ニューカマーのうちの多くは家族を残して単身,日本に渡ってきた.しかし家族とともにやって来ることを選んだ人たちもまた存在する.たくさんの外国人が日本に来る,その子どもの数も当然増える.今まであまりそのような子どもを受け入れた経験のない日本の公立学校にとってこれはやっぱり大事件ではないだろうか.

 この章ではこの「大事件」について考えていきたいと思う.いったい学校ではどんなことが起こっているのだろうか?そして私たちはどうしたらいいのだろうか?この「大事件」は私たちに何を示唆しているのだろうか?学校現場.その中でのさまざまな葛藤,試行錯誤.そこから見えてくるものがあるかもしれない.

2.ニューカマーの子どもたちの公立学校での受け入れ状況

 まずはじめにいったい外国からやってきた,日本語を話せない子どもがどれだけいるのかを知ることから始めよう.

(1)日本語指導の必要な外国人児童生徒数・受入校数

区分 小学校 中学校
学校数 2,611校 1,094校 3,705校
児童・生徒数 7,569人 2,881人 10,450人

(2)日常生活で使用する言語(母語=第一言語)別外国人児童生徒数 (公立小・中学校全体)

ポルトガル語 中国語 スペイン語 英語 ベトナム語 韓国・朝鮮語 フィリピノ語 その他(41語)
4,056人
38.8%
3,171人
30.3%
1,347人
12.9%
429人
4.1%
346人
3.3%
328人
3.1%
284人
2.7%
489人
4.7%
10,450人
100.0%

(3)日本語指導が必要な外国人児童生徒数別学校数

人数

1人 2人 3人 4人 5人 6〜10人 11〜15人 16〜20人 21〜30人 31人以上
校数(校)
割合(%)
1,682
45.4
848
22.9
406
11.0
203
5.5
167
4.5
281
7.6
72
1.9
18
0.5
19
0.5
9
0.2
3,705
100

(数字はいずれも平成5年9月1日現在)

(文部省発行 日本語指導が必要な外国人児童生徒の指導資料『ようこそ日本の学校へ』より)

 つまり現在小中学校あわせて日本語指導の必要な児童生徒は1万人余り.しかもその多くがひとつの学校に一人,二人といった圧倒的少数の立場にいるのである.

 初めて日本に来た子どもが突然日本の公立学校に編入したという状況を試しに今一分間かけて想定してみてほしい.しかもその学校がいまだかつてそのような子どもを受け入れたことがないとすればどんなことが起こるであろうか.

3.言葉の問題

 言葉の問題は,誰もがまず思いつくであろう問題である.言葉の違いはもっとも大きな表面上の違いであることから,言葉を覚えることがもっとも緊急かつ大きな課題であると考えるのは自然である.

 さて,実際このような子どもを受け入れた学校ではどのように子どもたちに日本語を指導しているのか見てみることにしよう.

 以下に紹介するのは大阪府で在日外国人の教育問題に取り組む大阪府在日外国人教育研究協議会が府下の市町村に対して行ったアンケートの結果である.

日本語を理解しない外国人児童生徒の指導に、加配教員を使っているか

  使っている 使っていない 無回答 非該当
大阪 13 27 1 1 42

日本語を理解しない外国人児童生徒の指導に、日本語指導ボランティアを使っているか

  使っている 使っていない 無回答 非該当
大阪 6 34 1 1 42

日本語を理解しない外国人児童生徒の指導に、通訳ボランティアを使っているか

  使っている 使っていない 無回答 非該当
大阪 20 20 1 1 42

日本語を理解しない外国人児童生徒の指導に、一般教員で指導しているか

  している していない 無回答 非該当
大阪 7 33 1 1 42

日本語を理解しない外国人児童生徒の指導に、日本語指導を実施しているか

  実施している 実施していない 無回答 非該当
大阪 31 9 1 1 42

 アンケートによると大阪府では日本語のわからない子どもに対してとりあえずほとんどの市町村が何らかの形で日本語指導を行っている.一般教員で指導するのには無理がある,が,加配教員を使う余裕もないという状況で,日本語指導ボランティアや通訳ボランティアの力を借りてやっと何とか指導を行っているというのが現状のようである.

〈現在問題となっていること〉

●教員の不足

 30〜40人の学級に教員一人,全員一斉に授業をするというと教育システムの中で個別に日本語指導をすることは大変難しい.日本語指導専門の教師がいれば問題はないが,すでに述べたように大方の学校において外国人の子どもが数人といった状況ではそのようにもいかないのが現状である.これに対し,外国人の子どもを日本語の時間だけ周辺の学校から集めて指導するセンター校方式や,教頭や校長が指導を担当することで対処しているところもある.しかし,放課後担任が指導する,通訳の人に指導を依頼するといった状況が多く見られ,十分な指導ができないことや担任・通訳の過剰負担が問題になっている.

●学力の不足

 上記のように現在日本語を理解しない子どもに対する日本語指導は不完全な状態にあるといわなければならないようだが,このために全般的な学力の不足ということも起こりうる.これは母語による抽象的,論理的思考ができていないまま日本語による学習を始めたためで,日本語学習の不足によって日本語も中途半端な状態にとどめられると言語による抽象的,論理的思考が難しくなってしまう.単に母語を除去して日本語に置き換えようとするだけでは日本語も母語も中途半端なセミ・リンガル(半言語状態)の子どもが増えていくことが予想され,「思考や表現の道具としての」母語教育の強化が求められている.

4.習慣の違い

校則のカベ:ピアス,服装,おやつ・・・

給食の問題:食習慣の違い,宗教上の問題

 このほかにも掃除の時間にやり方がわからずにからかわれた,和式トイレになじめないなど習慣の違いから生じる問題は枚挙にいとまがない.もちろん違う環境で育った人どうしが一緒に生活するところには常にこういった問題があらわれるわけだが,この中には学校特有の問題もあることに注目しなければならない.ピアス,給食などはこの例である.大人ならば個人の自由として許されることが子どもだからというだけでままならなくなるというのはちょっと考えると不自然なことではないだろうか.

 郷に入れば郷に従えという方法にはもちろん限界がある.それがなぜかは上に述べたとおりだ.しかし,だからといって外国人の子どもだけを特例化してしまうという方法にも限界がある.「あの子は小さいときからピアスをつけていたからそのまましていてもいいけれどあなた達はだめ」で納得させることなど到底できまい.そのあたりでまじめな先生ほど困惑して深く悩んでしまうという.もはやこれらの問題を外国人の子ども特有の問題としてとらえ,対症療法的に対処していくことができなくなっているのは明白だ.中身である子どもたちは昔からの学校のスタイルという入れ物にもうおさまりきらない.中身が変われば入れ物ももちろん変わっていかなくてはならない.もうその時がやって来ているのだろう.

5.言葉,習慣,その後・・

 さて,学校の中で特殊な,さらにいえばお客様的存在であった外国人の子どもたちはしばらくするうちにその大部分は日本の学校に表面上なじんでいく.日常会話には困らなくなり,友達と歓声を上げて運動場を走り回る,一緒の教室で勉強が出来るようになる.はじめはとてつもないカベに見えた習慣の違いも,あるいはその子なりの必死な適応で,あるいは学校側が多少なりとも変わることで,問題にならないほどになるかもしれない.学校や先生や保護者はこれで一段落だとほっとするであろう.しかし現場からの声によると問題はここから始まるという.

 いじめが始まるのはこのころのことも多い.言葉がわからなかった間は親切にしていたのに言葉がわかり出すと不思議なことに急に友達関係が難しくなるという話もあるそうだ.

 また,日本語ができるようになるのと時を同じくして今度は急速な母語忘れが始まる場合が多い.日本の学校側からすれば大した問題ではないかもしれないが,これはその子にとっては非常に大きな問題を含んでいる.

 まず,家庭でのコミュニケーションがとりにくくなるといった場合もある.両親(特に日本人との関わりが少なくなりがちな母親)の日本語を習得するスピードは子どもと比べてふつうかなり遅い.つい日本語が口をついて出てしまうという子どもと,いつまでも片言を駆使している親との格差は広がる一方で深刻な場合は意志の疎通が以前より難しくなる.あるいはそこまで行かなくても日本語ができるということに子どもが優越感を持ち,できない親をバカにするといった状況も見られるという.

 また言葉の否定にとどまらず日本になじもうとするあまり母語だけでなく母国的なものを全て否定しようとする子も多い.お弁当の中身も母親がつくってくれる自分の国の料理はみんなと違うというのでいやがり,お国柄が現れる自分の名前まで否定して日本的な名前(=通名)を使ったりする子もいる.日本語ができない親をバカにするというのも,もとはといえば単に言語の問題だけでなくいわば母国的なもののかたまりである親という存在を煙たく思ってのことかもしれない.自分が必死で日本に同化しようとしているときに,親という存在が目の前に存在することは自分の中の母国的なものを見せつけられているような気がして否定したくなるのかもしれない.

 外国からの子どもがやってきた場合,言葉もわからなければ習慣も考え方も違い,その子本人も受け入れる側も様々な苦労や葛藤があるだろうことは容易に想像がつく.しかし言葉を習得し,日本の学校社会に「なじみ始めた」時に新たな,しかもより大きい葛藤が生まれるというのはどうしたことであろうか.

6.異質性と同質性のはざまで

 外国からの子どもは確かに日本語が分からず,その面だけを見れば学校生活の中で先生やほかの子どもにとって「重荷」になってしまうことは否定できない事実だろう.

 しかし同時に外国からの子どもは「国際的なもの」がもてはやされる現代においてつきない興味,好奇心の対象になることもまた事実である.これは想像であるが,外国から来た子どもと仲良くなった子は,先生からも頼られきっと得意になってますますその子を助けようとするかもしれない.まるで外国の子と仲良くなることが自分自身の価値を高めるかのように争ってその子と仲良くするという状況も生まれるかもしれない.「外国人」であるということが言葉のわからない不自由さをおいて余りあるほど周りの子どもにとって価値のあることなのだろう.

 さてこのような状況において外国人の子どもが言葉を覚え,日本の習慣になじんでくること,それはまさに「外国人」性の喪失を意味する.求めていた異質性が得られなくなったとき子どもたちは今度は同質性を求め始める・・・いじめや母国文化の否定などといった問題はまさにこんなところから生じるものなのではないだろうか.

 外国人の子どもの受け入れ問題で一番注目されやすいのはまず言葉の問題,つまりどうやって日本語を習得させるか,さらにいえばどうやって日本になじませるかといったことである.これは学校生活を円滑に進めるためにどうしても避けて通れないことだからであるが,それがある程度解決した後に起こってくる様々な問題については大きくは取り上げられず,あくまでも個人個人の問題として取り扱われやすいようだ.しかし私はここでこそ国境を越えた人の移動が盛んになった時代において私たちがどのように考え,行動すればよいのかが問われているように思うのだ.

7.同質対異質の枠組みを越えて

 教室で子どもたちが外国からの子どもに対してはじめは外国人としての異質性を,しばらくすると仲間としての同質性を求めるといった状況についてはすでに述べた.

 これに対し,先生の方は学級運営上のやりやすさからどちらかといえばその子に日本に同化するよう求めるであろうことが予想される.あるいは少し意識の高い先生であればそれを学級全体の国際理解に対する興味を引き出すきっかけにするかもしれない.実際,国際理解の試みとしてその子の国の伝統行事や料理を体験するといった授業もたくさん行われているそうである.これはいわば異質性を価値として際だたせる取り組みである.

 しかし,ここでもあくまでも「異質なものとして」取り扱うかそれとも「同質化させていく」かの二者択一の形の議論がなされている.誤解のないように言っておくと何も日本語教育をして日本語を身につけさせたり日本の習慣を教えることや,あるいはお互いの国の文化を紹介することといった個々の取り組みに問題があるといっているのではない.それらはどれも是非必要なものばかりである.

 ただ,私がここでいいたいのは「日本人=同質なもの」と「外国人=異質なもの」の対峙としてとらえる見方自体をそろそろ変えていかなくてはならない時期に来ているのではないかということである.

8.関わり合いの中で

〜外国人の子どもをめぐって〜

 確かに外国人は日本人どうしと比べてふつう異質な部分が大きい.特に,肌の色や目の色が違う場合外国人は異質の固まりのような気がしてしまい,それと比較するところの日本人どうしはますます同じものどうしに見えてしまうかもしれない.外国人と比べて日本人同士は一般的にいって比較的似ている.それははじめのはじめ,両者が始めてであったときには少なくともそう見える.

 しかしこの差異を絶対的なものとして固定してしまうといままで述べたようないろいろな問題が起こってくる.日本の学校に入った外国人の子どもは異質なものとして存在し続けるか,それとも多数派である日本人に「同化」するかのどちらかとしてしか存在し得なくなるからである.

 差異を絶対的なものととらえること,つまり同質と異質の間に境界線を引いてしまうことは,お互いの違いを固定された「静」的なものととらえていることである.しかし実際はもちろん「動」的なものでしかあり得ない.つまり一緒の時間を過ごしていくことで双方ともに変わっていく可能性があるということだ.いや,全く変わらないことなどあり得ないといった方がいいかもしれない.「日本人=同質」「外国人=異質」という図式ははじめのはじめには見かけ上存在しても,両者が出会った時点ですでにその崩壊は始まっているのである.

 しかしすでに崩壊し始めた図式は相変わらず信仰し続けられる.外国人は違う文化,価値観,考え方を持った異質な人々である・・と決めつけてしまう.あるいはがんばって「同質化」させようとする人あり,あるいは違いをそのまま尊重する人あり・・しかしどちらにしてもその子は,実際は日本に来て日本的なものをある程度自分なりに受け入れ,変わってきているのに相変わらず「異質なもの」としての窮屈な枠の中に閉じこめられてしまう.しかし,その捉え方にも無理があることに周りがやがて気づく.するとあわてふためいて今度は「この子は日本にしばらくいるうちに同質化していた.」という認識に変える.どちらにしてもその子はある窮屈な枠組みの中に閉じこめられていることは変わらない.

 けれども実際は子どもはそのように異質あるいは同質といった枠組みの中に当てはめられるようなものではない.関わり合うということは変わっていくことである.はじめのはじめにあるように見えた「日本人=同質」「外国人=異質」という図式さえもともとは幻想である.それは単にそのような傾向があるというだけにすぎない.当たり前のことであるが,同じ日本人でもそれぞれ違う.

 関わり合いの中で違いがぶつかり合い,融合したり新たなものができたりする.皆がお互いの,あるいは自分の中にあるいろいろな部分に気づく.いろいろなものの見方を知っていく.それぞれが変わっていく・・・枠組みを取り払ってその機会を与え,そして過程を見守るのが学校の役割となるのではないだろうか.

 言葉で言うほど簡単ではないのはわかっている.しかし,せめてそのような方向を模索することだけでもできないだろうかと思うのだ.

9.みんなにとって過ごしやすい学校へ

 ニューカマーの子どもたちの公立学校への受け入れということでこれまで民族や育った環境からくる文化の違いと,それに対する考え方を述べてきた.しかし違いとは日本人と外国人が出会ったときだけに現れるものではない.外国人を異質なものとして対処してしまうのが問題なのと同じくらい日本人を同質なものとして対処するのが問題であるということはもうご承知の通りである.同質でなければいけないという暗黙の了解のもと,いじめや,障害を持った子どもの排斥が起こる.子どもを学力試験というひとつの物差しで測ることができるといった認識も同質性を前提としているからである.

 つまり,同質なものと異質なもののカベをなくすことは外国人の子どもを受け入れる際だけに求められる考え方ではない.同質と異質の二分化をやめてそれぞれの子どもを別々の個性として見ることができるのが豊かな学校というものではないだろうか.外国から来た子どもが窮屈な思いをすることなく過ごせる学校,それはまさに日本の子どもたちにとってもHappyな学校ということになりはしないだろうか.

 外国人の子どもが一人でも入ってくると,日本語の個別指導ができるほど教師の人手に余裕がなく,細かいところまでを定めた規則は少しの例外を認める余地もなく,さてどうしたものかとあわてふためいてしまう.そんな学校が豊かな学校といえるはずがない.それなのにこれまでこの状態でやってくることができたのは,日本人の中の表面化しにくい違いを見て見ぬ振りをして目をつぶってきたからである.特に,違いの部分の大きい子ども,皆と同じにしようと思ってもできない子どもの必死の叫びに耳を傾けてこなかったからである.

 皆が日本人の学校ではとかく均質信仰が生まれやすい.常識は自分たちだけではうち破りにくいものである.子どもは一人一人違う.しかしその違いが国を隔てた場合特に大きくなる.均質という常識をうち破ってくれる存在,それが言葉も何もわからないまま日本にやってきた子どもたちなのである.

 外国からやってきた子どもを受け入れることは制度も未整備ならば経験も少ない今,大きな困難を伴う一大事であると思われる.が,そのような子どもは日本の学校の「常識」に新しい風を吹き込んでくれる存在であると思いたい.風はいろんなものを引っかき回すかもしれないが,だからこそ新しいものを再構築することができるのだ.


p.s. おわかりだと思いますがこの文章の〈子ども〉を〈人〉に〈学校〉を〈社会〉に置き換えてみることは・・できますよね.

 

《参考文献》

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