京大ユニセフクラブ2002年度11月祭研究発表
「水家族」

3 海辺に暮らす人々の立場から

第4章 諫早干拓事業(文責:多田)



3−1 有明海異変
潮受け堤防で諫早湾を閉め切ったため、干潟が消失し、水質浄化能力が低下するとともに魚貝類の産卵や育成の場が失われました。また、諫早湾の形状が変化したため、有明海全体の潮流・潮汐が弱まり、強い潮流により海の底層まで酸素を供給したシステムが崩れ、海底で酸素が不足する状態になりました。
その結果、調整池内の富栄養化が深刻化しています。諫早湾口中央部では、海砂採取地の巨大な窪地が底生動物生息密度の激減を招いています。諫早湾口周辺から有明海奥部にかけて底生動物生息密度が年とともに減少しています。有明海域における赤潮発生件数は、事業着工以降、年を追って激増しており、堤防閉め切り後に有毒な赤潮による漁業被害も発生しています。珪藻プランクトンの増殖によるノリの色落ちのみならず、タイラギ、ガザミはじめ多くの魚介類において、着工ないし堤防閉め切り後の漁獲量の激減が伝えられています。農水省の調べでは2000年の有明海のタイラギ漁獲量は46トンです。近年のピーク、1990年の7343トンと比較して100分の1以下です。アサリ類の漁獲量は85年には約30000トンありましたが、2000年は10分の1に落ち込みました。


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長崎県有明海域における赤潮発生件数とタイラギ漁獲高



3−2 翻弄されるフナトたち
 有明海の漁師たちはフナトとよばれます。諫早湾北岸の湾口部に位置する長崎県小長井町漁協は、湾内12漁協の中で最後まで事業に反対し続けていました。「どうしても調印せざるを得なかったのは市民の財産・命を守る防災が目的といわれてやむなくでした。それでも納得したのは、海が残るといわれたからだった。」と当時の小長井町漁協組合長は言います。
 小長井は高級貝として知られるタイラギの漁場としてずば抜けた漁獲高を誇る、まさに「宝の海」でした。有明海では、潜水具を身につけて貝を採る潜水漁が冬場に続けられていました。諫早湾の入り口付近では、小長井町や島原半島の瑞穂町などの漁民らが漁を続けてきましたが1993年の冬から休漁に追い込まれています。タイラギ漁民らは潮受け堤防の工事に使う石材や砂を船で運んだり海砂を採取したりした際、浅い海底のヘドロが巻き上げられるなどしてタイラギが生息できない環境になってしまったと指摘しています。漁民らは九州農政局諫早湾干拓事務所に原因究明と救済を訴え続けました。
 小長井町では冬場の三カ月間に1500万円前後の水揚げを稼ぐ人も多く、小長井町漁協ではその当時一人当たり平均で1500万円の補償金がありましたが、これはたった一年分の年収ほどにしかならず、漁船や漁具などの借金の返済にすら足りませんでした。
 事前の県や干拓事務所の説明では、漁獲量は20%程度の減少にとどまると説明されていました。しかし、91年ごろからタイラギが大量に死滅する被害が起き、92年から93年にかけてとうとう漁獲高ゼロになりました。しかし、干拓事務所は原因究明の調査をしようとすらしませんでした。
 小長井町漁協青年部はタイラギ死滅の原因究明などを求めて海上デモを行いました。しかし干拓事務所は91年の漁獲量減少は台風のせいだなどとし、92年についても干拓工事との因果関係を認めませんでした。農政局は8年以上が経過した今でも原因を公表していません。
 タイラギ漁がすっかりダメになった今、漁船の建造費など多額の借金をかかえた小長井町の漁民は、敵だったはずの干拓工事や干拓工事のための建設資材や砂の運搬船の水先案内船の仕事に従事している人も少なくありません。
 その後、97414日に干潟が完全に閉め切られて以来、にわかに全国的に諫早湾の干拓問題が注目されるようになり、「排水門を開けて干潟を守れ」と叫ばれ、国会議員、マスコミ、自然保護団体が次々とやってきました。
 今でも、堤防の排水門を開けて、干潟の保全を図り、干拓問題を再検討することを求める声が強くあがっています。しかし、干拓事業が中止になれば、工事に従事している人は仕事をなくします。また、排水門を開けると、ようやく安定してきた漁場が再び荒れてしまいます。


3−3 「バカゴロウ」とよばれた農民たち
干潟に次々と鉄板が海中に投下され、諫早湾が完全に閉め切られる衝撃的な映像は、テレビで繰り返し流され、新聞でも全国的に報道されました。しかしながら、これらの報道のほとんどは事業に批判的な報道でした。地元住民の総意が事業反対であるかのような印象を与える報道も少なくありませんでした。
諫早湾沿岸の干拓地には、干潟よりも2〜3メートルほど低い地域があります。この低地帯の干拓地に住む人々の多くは諫早湾干拓事業に賛成です。そのあたりの干拓地では、ガタ土の堆積で、排水不良による田畑の冠水や床上・床下浸水の被害に長年苦しめられてきました。さらに塩害の苦労もあります。満潮時に台風が来ると、高潮による堤防決壊の恐れがあるだけなく、竜巻のように巻き上げられた海水が干拓地の稲にかかります。すると、稲は潮で真っ白になり、枯死します。このような問題を一挙に解決するのが諫早湾干拓事業でした。
1997414日の夜の報道番組で、あるニュースキャスターは、諫早湾が閉め切られたことを喜んでいる地元農民を「バカゴロウ」とよびました。地元農民はそれに対し謝罪と発言の撤回を求め次のような抗議文を出しました。
「(前略)諫早湾の干潟が貴重であることは、干潟で遊び干潟が与えてくれる豊富な自然の恵みを受けて育った私たち自身が誰よりもよく知っていますし、愛着心も人一倍です。(略)しかし、その干潟の堆積による被害はもはや農地にとどまらず、私たちの生命そのものを最も脅かす存在なのです。(略)この事業は私たち地元農家や沿岸の低地に住む人間にとってどうしても必要な事業のです。事業を否定することは、私たち地元農家の存在そのものを否定することでもあるのです。(後略)」
その番組のプロデューサーは、後日、現地を訪れ陳謝しました。
そもそも干拓地の農民は、伝統の地先干拓を切望していました。それに対し農水省や長崎県は、大規模な複式干拓に固執しました。そのため小規模な地先干拓は見送られ、干拓農民は排水不良に苦しみ続け、高潮の不安にさいなまれ続けていました。そして結局、大規模干拓に頼るしかなくなくなりました。防災を望む切実な干拓農民の願いが、公共事業をやりたい農水省や長崎県に利用されたのです。
 
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