京大ユニセフクラブ2000年度11月祭研究発表
「私たちのお金がこわす途上国の暮らし」

コラム パク・ムーン・ダムを訪れて


「タイ、どうだった?」
その何気ないひとこと、その屈託のない明るい響きが私は怖かった。何と答えていいかわからないからだ。相手が「楽しかったよ!」という返事を期待しているだろうと思うと余計戸惑ってしまう。 それでたいていは「うん、まぁね」と下向き加減にあいまいな返事をしたり、もう少し話のわかりそうな人だと「今回は楽しいような旅行でもないしね…」と語尾を弱くしながらごまかしていた。
3月にユニセフクラブのメンバーとタイを訪れたあとの話である。

 いや、別に楽しくなかった、というわけではない。気のおけない仲間との旅だったし、生まれてはじめて寝台列車にも乗った、食べ物だっておいしかった、タイの大学生と大騒ぎもした。 「タイ、どうだった?」「うん、楽しかったよ〜〜! ! やっぱりタイは食べ物がおいしいね。」そう言っておけば話は簡単だし相手も満足してくれるだろう。

 でも、そうできなかった。それを明らかにためらわせるものが私の中にあった。

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3月の旅で私たちが出会ったのはダムで暮らしを失った人たちだった。
世界銀行の融資で完成したパク・ムーンダムというダムが暮らしを奪っていった。

暮らしを失う?暮らしを奪う?
いや、正確にいうとダムは魚を奪っていった。
魚の通り道を、ダムがさえぎってしまった。

けれども奪われたのはまさしく暮らしだった。
魚がなくなれば漁はできない、漁ができなければむらで生きてはいけない。
男たちは出稼ぎに、家によっては女たちも出稼ぎに行った。むらは子どもとお年寄りばかりになった。
去年のことである。そんなむらむらから集まって来た人々が、ダムのそばに住み込んだ。ダムはいらない、魚が、暮らしがほしい=@ダムの堰を、開けてほしい
その声を少しでも遠いバンコクの役人に届けるためだ。

ひと月過ぎ、ふた月過ぎ、半年過ぎ、1年が過ぎた。けれども声は届かなかった。
今度はバンコクまで出ていって首相府前で訴えた。
騒ぎにはなった、血が流れた、新聞も伝えた、テレビも伝えた、
けれどもまだ何も変わってはいない。

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「タイ、どうだった?」
そんな無邪気な声で聞かれたらどう答えればいいのだろう。

話すということ、書くということ、言葉にするということ。
何かを言葉にするという行為は、他を切り捨てるという行為だ。

悲しい、と思った。
くやしい、とも思った。
日本でたくさんの人にこのことを伝えたい、この状況を変えたい、とだって強く思った。
一方で自分はいったい何をしに来たんだろう?何の役にも立たないのに、と恐ろしくもなった。
自分だって日本でたくさんの人の犠牲のもとにできた都市で暮らしているのではないのか?と問うている自分がいた。
忘れてしまったほうが楽とちゃうか、そう思う自分だっていた。

見てきたって、わからへん。
わからないことをわかるようにきっちり頭の中で整理して、自分にとって何が一番か、何は切り捨ててもいいものか、何は諦めてもいいものか、そんなふうにすっきりきれいにしてしまうのは苦手だ。

だから私の中にはわからないことがいっぱいだ。
けれどわからないことをわからないなりに、たくさん抱えて歩いていきたい。
そして 時々それが解決したり、またわからなくなったり、また勉強してみたり、他のひとに伝えてみたり、何かを変えたいと思って行動してみたり、そんなふうに歩いていきたい。

だからパク・ムーンの人たちとも、それに関わる人たちとも、開発の問題ともODAの問題とも関わっていきたい。

「タイ、どうだった?」と今度聞かれたら・・
見てきたってわからへん、でも関わっていきたいし、もっと考えたいし、みんなにも知ってほしいと思うねん。

そう答えよう。

(京大農3 角田 望)

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