控訴人 N 氏
被控訴人 郡司篤晃
控 訴 理 由 書
平成13年2月6日
東京高等裁判所第8民事部 御中
第1 原判決の基本的な誤りについて
1 勝手な主張整理に基く判断の誤り
原判決は、「本件立て看板が原告の名誉を毀損しかつ名誉感情を侵害したか。」との争点について、原告の主張を、@ 薬害エイズ関連、A ワイロ関連、B 立て看板全体について、の3点に整理している(16頁以下)。このBの立て看板全体についての整理では、原告(被控訴人)の顔写真の掲出が取り上げられている。そして、「第三 争点に対する判断」の項では、@の薬害エイズ関連が、原告(被控訴人)には薬害エイズ事件の発生および結果に対して重大な責任が存在し、被害者に謝罪すべきとする記載部分と、原告が血友病患者に対し「殺人政策」を選択執行したとの記載部分に分けて、上記Aのワイロ関連、Bの顔写真の計4点が、それぞれ独立した項目の中で判断が示されている。
原判決は、被告(控訴人)に200万円の損害賠償と謝罪文の交付を命ずる主文を掲げながら、それを基礎づける理由については、甚だしく形式的な記述に終わっている(「殺人政策との記載内容」についての59〜60頁にかけての個所、顔写真についての40〜41頁にかけての個所等)。その一方で、「エイズ被害者に謝罪し責任を取れとの記載部分」についての真実性および相当性については相当な紙数を費やしている(42〜59頁)。このように控訴人の責任の根拠が甚だしく皮相かつ形式的な理由付けで処理されていることが原判決を一読すれば判明する特徴と言える。
なぜ、このような偏頗な構成となってしまったのであろうか。
それは、判断の対象を勝手に分解した争点整理の誤りから来ていると解される。原告(被控訴人)の訴状請求原因について、原告は、原審第1回口頭弁論期日で、裁判長の求釈明に対して、原告が不法行為として主張するのは「被告が平成8年11月ころから平成10年に至るまで本件立て看板(10枚)を掲示するという一連一体の行為により、次の二つの事実を摘示し、原告の名誉を毀損したことである。1 原告が厚生省薬務局生物製剤課長時代に誤った政策をとり、その結果薬害エイズ事件を発生せしめたもので、原告には右事件の発生及びその結果400人が死亡した事実に対して重大な責任が存するとの事実、2 原告がユナム社から賄賂を収受したとの事実」と陳述し、調書に記載されている。これは、原告(被控訴人)の主張がそうであるばかりでなく、証拠にあらわれた立て看板の実情や経過からしてもそのように理解するのが当然のことである。
ところが、原判決は、どのような観点からかは不明であるが、一連一体と原告が主張する立て看板の内容を、誠に勝手に、責任・謝罪を要求する部分と、「殺人政策」なる記載の部分、それに顔写真掲出部分とに3分割して、これを独立項目として判断しているのである。これは、主張上も事柄(事物)の性質上も一体のものを分割判断するという判断方法において誤ったものである。この結果、いたずらに形式的理由を繰り返し、以下に述べるように、肝心の争点についての判断を欠くという結果を導いた。
顔写真について、原判決は全くの私人扱いしている点は後述のとおり問題であるが、顔写真も立て看板の内容と一体であることは明らかであって、他の部分と要件を異にして判断する方法自体誤りである。
2 前提事実と意見・論評の区別を全く無視している。
最高裁平成9年9月9日判決(判例時報1618号52頁)が指摘するように、現在の判例においては、「事実を摘示しての名誉毀損と意見ないし論評による名誉毀損とでは、不法行為責任の成否に関する要件が異なるため、問題とされている表現が、事実を摘示するものであるか、意見ないし論評の表現であるかを区別することが必要」である。
このように名誉毀損の不法行為の要件が分別されるようになったのはいわゆる「公正の論評」の法理が判例上も定着してきたからである。「公正な論評」の法理は、多くの判例解説が要約しているように、公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事であるような事項については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活暴露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正である限りは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、また、その結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることがないとする法理であり、裁判所としては、その論評が当たっているか否か、その意味いかんを具体的に確定する必要はないことになる。かかる公共事項については、国民が広く情報を与えられ、自由に批判・討論し得ることは国民や社会の利益であるとの考え方に由来するとされている。
前記最高裁判決は、従来の判例では明確でなかった意見・論評の前提事実について相当性の抗弁が成り立つ場合について、前提事実の真実性が立証されたときと同様に、逸脱の基準以外に、あえて合理性を要求しない緩和された要件で表現の自由の保護を認めたと解されている(平成9年度判例解説627頁)。
これらの判例の趣旨について原判決が十分な理解を念頭においたかどうか極めて疑わしい。原判決は「問題とされる表現が、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させるものであれば、これが事実を摘示するものであるか、又は意見ないし論評を表明するものであるかを問わず、名誉毀損は成立するものと解するのが相当である。」(35頁以下)と判示しているが、この部分は、前記最高裁判決の一部と同文である。
しかし、原判決は、最高裁判決の理由文を借用しながら、肝心の、事実を摘示しての名誉毀損と、意見ないし論評による名誉毀損との不法行為成立の要件の分別を把握しようとしていない。このことは、原判決が、原告に重大な責任があり謝罪すべきとの記載については、「論評」の範疇に含まれるとしながら、これが真実と信ずべき相当な理由について検討したり(50頁)、「『殺人政策』の責任を取れ等」の記載部分については、これが意見ないし論評にあたるかどうかについて何ら判断を示さず、事実摘示そのものとして判断している(59頁以下)ことなどからも窺うことができる。原審としては、意見ないし論評か事実の摘示か、また意見ないし論評であってもある事実を前提にするものかどうかについて厳密に検討を加える必要があったのである。
このような検討を怠って要件を曖昧にしたため、原判決は、論理構造においても混乱した構成となったものと考えられる。
この端的な表れは、原判決が、控訴人において、平成8年(1996年)11月当時、被控訴人が薬害エイズ発症に責任があり患者に謝罪すべきであると信じることに相当な理由があると認めながら、他方で「殺人政策」との記載内容については名誉毀損の成立を認めた点に見られる。被控訴人に対して「責任をとって謝罪せよ」というのが論評ないし意見であれば、「『殺人政策』の責任を取れ」というのも「責任」についての論評ないし意見であることは明らかである。
原判決は、前述のように一連の立て看板の表明(言明)を勝手に二つに分解したが、原告(被控訴人)が原審第1回口頭弁論期日で陳述したように、前提事実としては一つの社会的歴史的事実に他ならない。何人も、薬害エイズ事件発生の鍵を握る時点で被控訴人が日本の血液製剤政策の実質的な責任者であったことを承知しているからこそ、大きな社会問題、政治問題としてエイズ問題が取り上げられる中で、被控訴人の対応が絶えず批判にさらされてきたのである。この社会的に提起された事実に対して、東大職員の立場から被控訴人の責任を指摘したものが一連の立て看板に他ならない。立て看板が「殺人政策」と括弧に括って表現している意味は、掲出者側の意見や論評であることを物語っていると解するのが、正しい社会通念である。それを、「殺人政策」の記載を証拠によって証明されるべき事実の摘示と把握し、「原告が、エイズ被害の発生を認識して、被害者が死亡することを表象、認容していたにもかかわらず、エイズに関する厚生省としての政策を実行したとの事実が存在する必要がある」(判決書59頁)などと言うのは、不当さを越えて滑稽ですらある。
このような原判決の論理構成の曖昧さは、東大の学内の立て看板上の「ワイロ」表現についても当てはまる。控訴人が1992年に発生した医学部助教授の収賄事件に端を発して制定された「倫理綱領」との関連で論評したものであると主張していることについて、原判決は、何らの検討を加えず、収賄罪の要件事実を前提にした判断で事足れりとしてしまっている。論評や評価(意見)に当たっては、一つの事実について様々な観点から検討や批判がなされるということを完全に見落としている。兼業禁止違反は、法的評価の一側面であって、東大倫理綱領違反の全てではないことを理解していない。「ワイロ」との表明(言明)が、倫理綱領に違反する金銭の授受を指すものであるかどうかについては、本件立て看板の性格に着目して判断すべきであり、大学の場を無視して新聞や週刊誌の記事のように一般読者を基準にすべきでない。
3 原判決は、被控訴人(原告)の地位(公務員)を無視している。
(1) 原判決が認定するように、被控訴人は、血友病治療に関してエイズが問題とされた1983年、1984年当時、生物製剤課長として厚生省における血液関連問題を扱う実務上の責任者であった。また、本件立て看板の掲出時点では東大医学部教授であった。原審準備書面においても引用した最高裁平成元年12月21日判決(民集43巻12号2252頁)は、「公正な論評」の法理に関連して、被論評者が公務員の場合について、次のとおり判示している。
「公共の利害に関する事項について自由に批判、論評を行うことは、もとより表現の自由の行使として尊重されるべきものであり、その対象が公務員の地位における行動である場合には、右批判等により当該公務員の社会的評価が低下することがあっても、その目的が専ら公益を図るものであり、かつ、その前提としている事実が主要な点において真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠くものというべきである。」
この公務員に対する公正な論評の法理を特に指摘したのは、ニューヨーク・タイムズ事件についてのアメリカ連邦最高裁判決(1964年3月9日)であるが、同判決では、公務員の公の行動に対する批判が問題となり、民主主義社会においては、公務員の行動は批判の対象とされる(ねばならない)との前提に立って、自己の行動を批判された公務員が名誉毀損による損害賠償を求めるためには、いわゆる「悪意の抗弁」等の極めて重い立証責任を果たさなければならないと判断された。
法廷意見を書いたブレナン判事は、「公の問題についての議論は禁圧されず、力強く、かつ辛辣であるべきであり、時として政府や公務員に対する不愉快な程に痛烈な攻撃であるべき」として、公の問題について、あたう限り自由な言論が許さるべきことを強調している。 また同判事は、「(被告が)挙証責任を負う『真実性』の抗弁を許すことは、虚偽の言論のみが抑制されるということにはならない。そのようなルールのもとでは、公務員の行為について批判をしようとする人たちが、仮にその批判が真実であるとしても、それが法廷で真実であると立証されるかどうかについて疑いを持ち、またそれに要する費用を恐れて、批判をさしひかえるかもしれない。・・・このルールはかくして批判をする活力を抑え、公の議論の多様性を制限することになる。」と述べて「真実性」の抗弁の構成が、言論の自由な行使に萎縮効果を与える危険性を警告している。
「公正な論評」法理を飛躍的に拡大し現実の悪意の法理を明らかにした前記アメリカ連邦最高裁判決の後、1966年のローゼンブラット対ベア事件では、この法理が適用される公務員の範囲について、政府の行為について実質的責任を持っているか、あるいは持っていると一般人に見られる政府職員を指す、とされている。 ただし、前記最高裁平成元年12月21日判決については、連邦最高裁の判例の影響を認めつつも、現実の悪意の法理を採用せず、相当性の判断と重なりあうとの評釈がなされている。
しかし、ニューヨーク・タイムズ事件判決が示した法理の核心は、一般市民間の名誉毀損とは異なり、政府や公務員についての批判・論評が民主政治と深くかかわり、単なる不法行為の域を越えて憲法問題化されたところにある。現代の政府の政策は、一旦誤った場合には、取り返しのつかない多大な被害が生ずる危険性を孕んでいることを考えれば、これらに対する批判・論評の自由が最大限保障される必要性が実際にも認められるべきである。本件エイズ問題は、まさにこの誤った政策のもたらす被害の深刻さを象徴するものである。
エイズ被害者の勇気ある行動や訴訟提起とともに、多くの批判や論評が繰り返されてきたことは顕著な事実である。東京地裁の所見の公表は、エイズ問題を一気に社会問題化した。これを受けて更に多くの批判や論評がなされ、ついには厚生省当局の内部資料(「郡司ファイル」を含む)が公開されるに至った。真実を明らかにする資料すら、国民に対して隠匿されていたのである。
被控訴人の厚生省生物製剤課長当時の対応が社会的政治的問題となったのは、10年以上も経過した後のことであるが、世論の厳しい追及や裁判所の見解の公表等によって、責任の所在が明らかになってきたのである。
このような事態に至るまで、最も重大な鍵を握る時点でその政策の担当責任者の地位にあった被控訴人は、事実を一切明らかにしようとはせずに、東大教授として勤務してきた。学生や職員が被控訴人についての疑惑について学内新聞に投書したり公開質問をしたことに対し、一切具体的な反論も事実の解明もしようとせず、逆に学生を恫喝するような対応を取ったことから、控訴人は立て看板で批判を行ったものである。
原判決は、当時の厚生大臣や国会論議等を引いているが、大学職員である控訴人らは、生真面目な態度で、入手しうる各種の信用性の高い資料を集め、学習会を重ねて、大学人としてあるまじき態度を取りつづける被控訴人に対して、学内批判を行った。被控訴人は、学生や職員に反論せずに、立て看板の内容を証拠として保全する努力をし、退官するや本訴を提起したものであり、大学の自治の観点からしても非難に値するものと言わなければならない。
(2) 被控訴人は、前記平成9年9月9日最高裁判決の公務員が公立小学校の教師であることに比較しても、際立った差異がある。被控訴人は、文字どおりローゼンブラット対ベア事件の連邦最高裁が指摘する「政府の行為についてコントロールの実質的責任を持っている政府職員」であった。被控訴人は、その地位からして、血友病患者から多くのエイズ発症者を出し、死亡者数約400名にも上る被害を生じた厚生省の血液製剤政策の象徴的人物である(原判決も、「平成8年11月ころまでに、東京地裁の所見、各社新聞報道、菅厚生大臣の発言等により、非加熱製剤によるエイズ感染の認識を有しながら、右対策を講じなかった原告の責任が厳しく追及されて」いたと認定している。)。被控訴人が、一方ではその裁量判断で「エイズ研究班」を組織しながら、他方で非加熱製剤の使用継続を決定していたことは、後に詳述するとおりである。
しかし、ここで指摘しなければならないことは、このような地位にあった被控訴人のその地位に伴う行為についての批判は、政府の政策批判と重なるということである。ここでは、個人の名誉の保護と表現の自由との調整法理としての相当性の理論も大幅に修正を余儀なくされると解すべきである。政治に対する表現の自由が相当性の制約を受けることは基本権たる表現の自由の制限に他ならない。仮に、相当性の判断の余地を残すとしても、主要な脈絡に関する事実についての限りで相当性が認められれば十分である。原判決が、被控訴人の地位をわきまえず、枝葉末節の如き言葉の綾に入り込んでいることは(37頁の「殺人政策」の見出しについての説示部分参照)、この点について全く理解していないことを示すものである。被害者の類型によって名誉毀損の要件を異にするという判例が積み重ねてきた法理の意味を解しておらず、ただ形式的に一つの要件を適用せんとしたため、厚生大臣という主管大臣すらも懲戒処分をしようとした人物が社会的非難を依然として浴びながら、所属大学内での立て看板批判を攻撃して200万円もの賠償金を獲得するという本末転倒の結果が導かれたのである。 本件のごとき意見ないし論評は、逸脱の基準で処理すべきであって、合理性の基準は要求されないことは前掲判例解説が述べるとおりである。
また、東大教授の地位におけるユナム社からの300万円以上の金員の受け取りについての学内批判は、「一般市民社会とは異なる部分社会」(最高裁判昭52・3・15)を形成している大学の自律的規範としての批判の自由という観点から積極的に尊重されなければならない。東大で「倫理綱領」が定められたことは、「倫理綱領」に基く相互批判が保証されるという意味でなければ、一体どこに「倫理綱領」の意義があるというのであろうか。原判決は、「ワイロ」問題についての解釈で最も重要な要点を無視していると言わざるを得ない。
第2、殺人政策について
1 殺人政策の意味について
原判決は、「『殺人政策』の責任を取れ等の記載内容を見た一般人は、原告が、血友病患者に対して、非加熱製剤の使用を継続すればエイズに感染する危険性が高いにもかかわらず、それもやむを得ないという状況でこれを放置し、その結果として、多数の血友病患者を死亡させる結果となる政策をとったとの印象を受けると解するのが自然である。」として、殺人政策という表現から直ちに、「殺人政策」という見出しは、薬害エイズに対する原告を含めた厚生省の対応が遅れたために被害が拡大して多くの死者を出すことになり、その意味で被害者を見殺しにしたという評価ができるということを表現したにすぎないという意図を一般人が読みとることができるとは解されない旨判示する(36頁)。
原判決は、「原告が、血友病患者に対して、非加熱製剤の使用を継続すればエイズに感染する危険性が高いにもかかわらず、それもやむを得ないという状況でこれを放置し、その結果として、多数の血友病患者を死亡させる結果となる政策をとった」ことと、「薬害エイズに対する原告を含めた厚生省の対応が遅れたために被害が拡大して多くの死者を出すことになり、その意味で被害者を見殺しにした」ことは、別なことと判断しているが、一体どこが違うのか、全く明示されていない。
また、原判決が「本件全証拠を検討するも、原告において、血友病患者がエイズに感染する危険性があるにもかかわらず、それもやむを得ないとして、これを放置したとまでの事実があったと認めるに足りる証拠はなく、また、被告において、右事実が真実であると信じるにつき相当な理由があったと認めるに足りる証拠もない。」(59〜60頁)と判示する根拠も何ら示されていない。 原判決は、「殺人政策」について真実性も相当性も認めなかったが、かかる誤った認定に至った原因の一つに、血友病治療やクリオ製剤・非加熱製剤等に対する認識不足があると言わざるを得ない。
2 血友病患者が置かれていた状況
(1) 血友病の治療には、当初輸血しかなかった。患者は内出血による激痛に苦しめられたが、死ぬことはなかった。1970年から、1人〜数人の血液からいわば「手工業的」に作られるクリオ製剤が使われるようになった。出血時にクリオ製剤を注射すれば関節の内出血も治まるので、クリオ製剤の登場により血友病患者の日常生活は飛躍的に暮らしやすくなった。
1978年、厚生省は濃縮血液製剤(以下、非加熱製剤)の製造を許可した。血清肝炎続発の経験から、アルブミン製剤は加熱処理されていたが、濃縮製剤は非加熱のまま許可された。
ここで重要なことは、クリオ製剤も非加熱製剤もこれらを使用しなかったからといって血友病患者の生命には何らの危険性もなかったこと、及び、非加熱製剤はクリオ製剤にくらべて濃縮度が高いので小量の水にとかして注射でき自己注射しやすかったが、クリオ製剤でも効果に変わりはなかったこと、である。
(2) 1983年2月、厚生省は血液製剤の自己注射療法への健康保険適用を認可した。それまで医療従事者以外に許可したことのない自己注射を血液製剤に認めたのである。患者は医者から注射器セットと血液製剤をもらえば、自宅でもどこでも注射できるようになったのである。
自己注射への健康保険適用を契機に、非加熱製剤の「予防投与」が推進され、1人の血友病患者が1年間に150本(1週間に約3本)近くもの非加熱製剤を使用するようになり、エイズ感染の危険性が飛躍的に増大した。
なお、被控訴人は、すでに1982年12月に非加熱製剤の危険性を承知しており、自己注射への健康保険適用の危険性も承知していたはずであるが、これに反対した形跡はない。
(3) 1人〜数人の供血者の血液から作られるクリオ製剤と違って、非加熱製剤は数千人から2万人の血液を混合して作られており、供血者の中にエイズの病原体を持っている人が1人でもいれば、その血液を混合して作られた1ロットの非加熱製剤すべてがエイズ感染源となる。 米国CDCの調査により、1982年12月段階で、非加熱製剤に混入している病原体によってエイズに感染する可能性が高いこと、エイズの潜伏期間は長いので、一見健康な人もエイズ病原体を持っている可能性があり、エイズ病原体を持っている人の供血を完全に排除することは不可能であることが明らかになっていた。これは、米国で採血された血液から作られた全ての非加熱濃縮製剤がエイズ病原体に汚染されているものとして対策をとらなければならない状況になっていることを意味していた。しかも、米国で採血された血液やその血液から作られた非加熱製剤が、日本をはじめ各国に輸出されていた。
3 非加熱製剤の使用を禁止すべきであった。
(1) 1982年末には、米国で採血された血液から作られた全ての非加熱製剤がエイズ病原体に汚染されているものとして対策をとらなければならない状況になっていたが、当時はまだエイズウイルスは同定されておらず、どのロットの非加熱製剤が危険なのか確かめる方法もなく、どのロットも安全の保証がなかった。非加熱製剤によるエイズ感染を防止するためには、使用禁止という結論以外はあり得なかったのである。
(2) 日本は米国より遅れて非加熱製剤の使用を開始しており、非加熱製剤を禁止すればエイズ感染の大部分を防げた。
「濃縮製剤は、米国では1970年代初期、日本では1979年から普及しはじめた」(甲20の58頁)ので、米国は日本より約5年早くから非加熱製剤を使用し始めていた。だからこそ米国ではすでに1982年に薬害エイズ被害が出始めたのであり、米国での悲惨な被害を生物製剤課長の職責に照らして正確に受け止めれば、非加熱製剤の使用を禁止すべきだった。日本の薬害エイズ感染の大部分は83年以降であり(乙104)、83年の段階で非加熱製剤を禁止していれば、日本の薬害エイズの大部分は防げたのである。
(3) 1983年2月までには、米国の血友病患者の中にはエイズの前駆症状と思われる症状を呈している患者が多数いること、血友病患者の数十%がエイズに感染している可能性があることを示唆する事実が次々に明らかになっていた。従って、直ちに非加熱製剤の使用を禁止すべき事態だった。
4 非加熱製剤の使用禁止などの措置をとらないことは厚生省の政策であった。
(1) 被控訴人の専門分野は「公衆衛生学」(原告準備書面(6)の4頁)であるが、公衆衛生学は疫学とも呼ばれており、疫学を専門とする被控訴人は、MMWR(「疾病週報」)に掲載された血友病患者のエイズ発病事例や医学論文などから、非加熱製剤にウイルスが混入しエイズを引き起こしている可能性が高いこと、非加熱製剤のどのロットが安全でどのロットが危険なのか判別できないこと、を直ちに理解したはずである。
従って、厚生省としては、直ちに血液凝固因子製剤の安全性を確保するための対策をとらなければならなかったのであり、「生物製剤課長として厚生省における血液関連問題を扱う実務上の責任者」であった被控訴人(原判決49頁)に突きつけられていたのは、エイズ研究班第1回会合で被控訴人がいみじくも述べたように「我が国が安全であるとして許可している薬をどうするかという問題」(甲18の31頁)であった。
(2) 被控訴人は「(1982年暮れか83年のきわめて早い時期の)当時血友病の濃縮製剤は原料、あるいは製品の形でアメリカから輸入されていたものですから、アメリカの血友病患者がリスクにさらされれば日本の血友病患者も同程度のリスクにさらされることになると私は考えました。」(乙14の4の2頁)と述べており、日本の血友病患者がエイズに感染する危険性を認識していた。しかるに、被控訴人は、患者の管理体制を強化すれば患者以外の者への感染は防止できるとの判断から非加熱製剤の使用禁止などの措置はとらなかったのであり、まさに血友病患者への感染はやむを得ないと判断したのである。この結果、多数の血友病患者を死亡させることになったのは言うまでもない。非加熱製剤の使用禁止などの措置はとらなかったことは、厚生省の当時の方針だったのであり、まさに一つの政策に他ならない。
本件立て看板が掲示され始めた平成8年11月当時、薬害エイズ問題は大きくマスコミ等で報道され、社会的な問題となっており、「薬害エイズに対する原告を含めた厚生省の対応が遅れたために被害が拡大して多くの死者を出すことになり、その意味で被害者を見殺しにした」ということは、いわば世間の常識となっていたことは明らかであり、控訴人も同様の認識を持った。「厚生省の対応が遅れた」ということは、採用しようと思えば実行可能な方法(非加熱製剤の使用禁止、非加熱製剤使用の危険性の患者などへの周知徹底など)があったにもかかわらず、その方法を採らなかったことを意味しているのであって、まさに厚生省の方針として行われたものであり、「政策」と言うべきものである。
(3) ある政策を実行した場合にメリットだけでデメリットは全くないという政策は本来あり得ないのであって、一般的に言えば、どんな政策にも一長一短があり、メリットとデメリットを評価してその政策を実行するかどうかを決定することになる。最大多数の最大幸福という言葉が象徴するように、メリットがデメリットよりはるかに大きいと判断されれば、その政策が是として実行されることになる。
本件で言えば、非加熱製剤の使用禁止のメリットは血友病患者のエイズ感染の防止であり、デメリットは非加熱製剤の「自己注射」ができなくなること等の血友病治療における不便さである。 非加熱製剤の使用継続によるエイズ感染はまさに死に至る可能性が極めて高いものであるが、非加熱製剤の「自己注射」ができなくなること等の不便さは少なくとも生命とは無関係のものであり、正しい情報を与えられていたとしたら、血友病患者にとってどちらを選択すべきかの結論は明らかである。死に至る可能性が極めて強い非加熱製剤を使用し続けようとする血友病患者がいるとは全く考えられない。
にもかかわらず、被控訴人は、後述するようにエイズ研究班第1回会合以前から、非加熱製剤の使用禁止措置は採らないとの結論を有していたのである。
5 非加熱製剤の使用禁止措置を採らないことはエイズ研究班の会合以前からの方針であった。
(1) 仮に、殺人政策等という記載内容を見た一般人が、原判決が認定するような印象を受けたとして、「原告が、血友病患者に対して、非加熱製剤の使用を継続すればエイズに感染する危険性が高いにもかかわらず、それもやむを得ないという状況でこれを放置し、その結果として、多数の血友病患者を死亡させる結果となる政策をとった」ということは真実ではないのであろうか。
原判決は、原告が、生物製剤課の課長に在職当時、非加熱製剤の使用中止の施策を採らなかったことをもって、右施策が不適切な施策であったとまではいうことができず、真実性の証明は、いまだ十分ということができないと判示し、その理由として、@ 原告は昭和57年暮れころにはエイズの危険性を認識し、エイズ研究班を組織するなど積極的に対応を取ろうとしたこと、A 昭和58年ころにはエイズの原因が血漿または血液製剤を介して伝播されるウイルスであるとの疑いを強めていたこと、B 当時日本におけるエイズ患者の認定がされなかったこと、C 当時血友病の専門家の間では非加熱製剤の使用継続を求める意見が多数をしめていたこと、D 原告自身、非加熱製剤やクリオの使用経験がなく、血友病の専門家ではなかったことから、原告も右専門家から非加熱製剤の使用継続を教授され同様の認識を持ったこと、E @〜Dの事情から、非加熱製剤の輸入を継続する中で加熱製剤の治験を進める方法を採ったことが認められること、をあげている(49〜50頁)。
原判決の上記認定によれば、被控訴人は、エイズの危険性を認識し、エイズの原因が血漿または血液製剤を介して伝播されるウイルスであるとの疑いを強めたが、血友病の専門家から非加熱製剤の使用継続を教授され、非加熱製剤の輸入を継続する中で加熱製剤の治験を進める方法を採ったことになっている。要するに、原判決は、当初エイズの危険性を認識し、エイズの原因が血漿または血液製剤を介して伝播されるウイルスであるとの疑いを強めていた被控訴人が非加熱製剤の輸入を継続したのは、血友病専門家の意見を尊重したものであり、同人の積極的な意思ではなかったと認定しているのである。
(2) しかし、非加熱製剤の使用継続=非加熱製剤の使用中止の施策を採らなかったことは、以下に述べるように、エイズ研究班の会合以前からの厚生省(被控訴人は実務上の責任者であった)の方針であり、エイズ研究班は、その方針にお墨付きを与えるものでしかなかったのであって、原判決の上記認定は明らかに誤っている。「エイズ研究班」は正式な諮問機関として作られたものではなく、あくまでも「研究班」であり、その報告は法的には厚生省の政策決定を拘束するものではなかった。非加熱製剤の使用継続は、被控訴人を「実務上の責任者」とする厚生大臣の責任であり、「エイズ研究班」の責任ではなかったことは言うまでもない。
(ア) エイズ研究班の第1回会合(昭和58年6月13日)以前の同年5月25日時点で、厚生省は、フランスの輸血用血液の輸入禁止措置に関連して日本の対応を検討し、血液製剤の輸入禁止措置は行わない旨の結論を出しており、その理由として、@ 血友病患者に対する凝固因子はその多くを輸入に頼っており、輸入禁止による同製剤の不足は患者治療に重大な影響を与えること、A 血友病患者の日常生活の管理を強化することにより他者への感染は極めて少ないと考えられること、をあげており、今後の対応の一つとして、血友病患者の管理指針の作成をあげている(乙21)。
(イ) 昭和58年6月7日付け「班長手持ち」(乙23)は、血液製剤の輸入は当面可とした上で、「血友病患者の管理」を対策としてあげている。
(ウ) 同年7月11日付「AIDSに関する血液製剤の取扱いについて」(乙25)は、「薬務局の対応」の一つとして、「米国よりの非加熱処理の製品の一律輸入禁止は行わない」ことをあげている。
乙21、23、25を見る限り、厚生省にとって、非加熱製剤の輸入禁止を行わないことは既定の方針であったのであり(エイズ研究班の結論も、そのように持っていこうとしていたのであり、行政がある政策を実行するにあたって、審議会などを設置し、その結論を既定の政策に導くことによりお墨付きを得るというおなじみのパターンである。)、血友病患者がエイズに感染することよりも、「他者」への感染の防止に力点が置かれていたと判断せざるを得ない。
(3) 第2回エイズ研究班会合(昭和58年7月18日)を目前にした同年7月11日付「AIDSに関する血液製剤の取扱いについて」(乙25)は、問題点として、以下のように指摘している。
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「AIDSは、血友病[因子製剤により感染することが疑われており、安全な製剤の確保が必要と考えられる。 現在、同製剤の輸出国たる米国において、AIDSの感染のリスクを低下させることに成功したとされる製品が承認されており、各国に既に輸出されている。 我が国でも血友病患者等により同製品を輸入すべしとの声が高まると考えられる。 この要請は、患者発生が報告されると急速に高まり、感情的なレベルまで高まる可能性がある。 しかしながら、薬事法上の手続では、可及的速やかに処理しても本年11月頃になってしまう。超法規的措置による承認は、以下の2点の理由から好ましくない。 @ 薬事承認行政に特例扱いの前例を作ってしまうことになり、丸山ワクチンの審議にも影響を与える。 A 当該製品は、血友病医療上の安全性、有効性については疑問の点があり、冷静な学問的判断を行う必要がある。」 |
乙25を見る限り、厚生省は、エイズ患者発生の報告により、加熱製剤の輸入を求める血友病患者等の声が高まり、超法規的措置による承認(=薬事承認行政における特例扱いの前例を認めること)をせざるを得ない事態に陥ることを恐れていたことは明らかである。そこには、薬事承認行政における一貫性という官僚特有の発想はあるものの、血友病患者の健康への配慮は極めて希薄である。
(4) 以下の事実は、非加熱製剤の使用継続という厚生省の方針を裏付けるものである。
@ 非加熱製剤の新規認可
厚生省は、83年5月23日、トラベノール社の第\因子濃縮製剤「プロプレックス」、同月29日にはバイパス製剤「ファイバ・イムノ」の製造を承認した。薬害エイズ東京原告団のうちの2人は、この時に輸入承認された2種類の非加熱製剤によってエイズに感染させられた。
A エイズ汚染製剤の「自主回収」の意味を無視し、安全性の保証のない非加熱製剤に「安全証」添付を指示したこと
1982年末、CDCの調査によって非加熱製剤によるエイズ感染の危険性が明らかになり、米国では血液製剤メーカーは供血者に対するスクリーニング(問診)と引き替えに非加熱製剤の使用を継続した。
1983年6月2日、トラベノール社は後にエイズを発症した供血者の血漿から作られた非加熱製剤を回収したことを被控訴人に報告した。スクリーニングしてもエイズ汚染を防ぐことはできないことが明らかになったのである。このケースではたまたま、問題の非加熱製剤が使用される前に回収されたが、供血者のエイズ発病がもう少し遅ければ回収は手遅れとなるところであった。これは非加熱製剤の使用禁止を必然のものとする重大な報告であった。
ところが、被控訴人は、この重大な事実をマスコミ等に公表せず、エイズ研究班第1回会合でもその意味を明らかにすることなく、「参考の出来事としてお聞きいただきたいのですが、トラベノールがワンロット回収しています」と極めて簡単に触れただけだった(甲18の31頁)。
それどころか被控訴人は、「検査もできない、同性愛者の反対で性的嗜好も聞けないという、単に現在の症状の有無を確認するだけの問診で」「あまり意味があるとは思えなかった」(乙108の102頁)が、1983年7月22日、「ハイリスク者から供血されたものでない旨の証明書添付を指示」した(甲22)。ますます安全の「保証」が無くなった非加熱製剤に、わざわざ「安全証」を張って「安全を保証」して見せたのである。
B エイズ研究班による非加熱製剤継続方針の正当化
1983年6月13日、エイズ研究班第1回会合が開かれた。当時すでに非加熱製剤の危険性は明らかであり、トラベノール社がエイズ汚染製剤を自主回収した直後であるから、エイズ研究班の任務は、第1に、CDCの調査結果やトラベノールの自主回収の事実などを明らかにし、「我が国にエイズ患者がいるか否か」に関わりなく、非加熱製剤の使用禁止の方向性を打ち出すことであった。
しかし、被控訴人は、「我が国にエイズ患者がいるか否か」をエイズ研究班の第1の課題に据えた(甲18の1頁)。これは、非加熱製剤の使用禁止を「エイズ患者がいるか否か」にすり替えるものであった。
C 「帝京大症例」の否定
エイズ研究班は「帝京大症例」をエイズではないとしたが、これは、被控訴人の非加熱製剤の使用継続を正当化するものであった。エイズ専門医・CDCのスピラ博士が「帝京大症例」をエイズと認定したにもかかわらず、被控訴人はこれをエイズ研究班に明らかにしなかった。その原因は、非加熱製剤の使用継続を既定方針としていた厚生省ないし被控訴人にとって、エイズ患者発生は極めて不都合な情報であったからだとしか考えられない(乙25参照)。
被控訴人は、「日本において、エイズ患者はゼロ、もしくは仮に右症例(帝京大症例)がエイズ患者だとしてもわずか1例かもしれないということから、安心した」と述べている(甲16)。多数の潜在患者がいると推定されるにもかかわらず、「わずか1例かもしれない」と安心したという被控訴人は、一体何を考えていたのか。血友病患者の健康ではなく、非加熱製剤が継続使用できなくなることを心配していたとしか考えられない。
6 厚生省及び被控訴人は、エイズ研究班の第1回会合以前から、非加熱製剤の使用継続を既定方針としており、この方針は第1回会合後も変更されなかったことなどを考えれば、「原告が、血友病患者に対して、非加熱製剤の使用を継続すればエイズに感染する危険性が高いにもかかわらず、それもやむを得ないという状況でこれを放置し、その結果として、多数の血友病患者を死亡させる結果となる政策をとった」ことは真実であると言うべきである。
仮に、原告が、血友病患者のエイズ被害の発生ないしその可能性は認識していたが、被害者が死亡することは表象、認容していなかったとしても、エイズ研究班の第1回会合以前から、非加熱製剤の使用継続や血友病患者の管理強化を既定方針としていたことなどから考えれば、控訴人が、「原告が、血友病患者に対して、非加熱製剤の使用を継続すればエイズに感染する危険性が高いにもかかわらず、それもやむを得ないという状況でこれを放置し、その結果として、多数の血友病患者を死亡させる結果となる政策をとった」ことが真実であると信じたのは当然のことであり、相当の理由があったのであって、「殺人政策」について名誉毀損は成立しない。
第3、「ワイロ」の真実性・相当性について
1 はじめに
(1) 原判決は、本件各立て看板の「記載内容を読んだ一般人は、・・・職務に関連して違法な金銭を受領したとの印象を持つ」として、右記載内容が原告(被控訴人)の名誉を毀損するものであることを認めた(39頁)。
(2) その上で、原判決は、名誉毀損の成立阻却要件を検討する中で、
@ 「ワイロ」の意義について、「一般人がどのような印象を受けるかという見地から判断すべき」とし、「一般人は職務に関して公務員が収受する違法な報酬との印象を受ける」と断じ、 A 真実性について、被告(控訴人)の主張事実を認定したにもかかわらず、結論的には、原告が「教授として、自己の職務に関連して違法な金銭を受け取ったとは評価できず」「原告が賄賂を収受した旨の本件各立て看板記載内容は真実とは認められない」とし
B 相当性について、
(a)原告のユナム社からの金員受領を報じた新聞記事は、かかる行為が国家公務員法・東大倫理綱領への抵触の可能性を報じたものであること、
(b)被告に対するユナム社の回答内容には、職務に関連して収受した金員の記載はなかったこと、
(c)ユナム社からの金員受領は、兼業を禁止した国家公務員の服務規律に違反するとして、原告は戒告処分を受けたこと、
(d)収賄罪に当たるとして逮捕、勾留された事実はないこと、 といった事実を認定したにもかかわらず、当該金銭の授受が国公法に違反する事実は認められるが、「右事実だけでは・・・『ワイロ』の授受と評価することは困難」とした上で、結論的には、「したがって、・・被告には、原告が、職務に関連して違法な報酬を収受したと信じるにつき相当な理由があったとはいえず」として、名誉毀損の成立阻却事由を認めなかった(61〜66頁)。
2 原判決の誤り
かかる原判決は、被控訴人のユナム社からの違法な金員受領を認めながら、これが「ワイロ」に該当すること、ないしは、東大職連が「ワイロ」に該当すると信じるにつき相当な理由が存したことを認めなかった点において、重大な誤りが存するものである。以下、詳述する。
(1) 原判決が上記のような誤りを犯した基本的な原因は、第1に、前提事実と意見・論評を区別していないこと、第2に、本件立て看板が掲出されたのが東大本郷キャンパスという限定された空間であったことを全く考慮していないこと、第3に、「ワイロ」の意義を刑法上の賄賂概念に限定して極めて狭く解したこと、にある。
(2) 東京大学医学部教授たる被控訴人が一私企業の営業活動に便宜を図り、その対価として300万円以上に上る多額の金員を収受したことが、問題の発端であり、本件立て看板は、被控訴人による金員の収受に対する学内からの批判であったことは言うまでもない。
そもそも、「学問の自由」の尊重は教育の基本とされ、教育における「学問の自由」を保障するため、教員の身分は教育公務員特例法により特に保護されている。それだけに教員には厳しい職業倫理が求められている。とりわけ大学の教官は、小中高校の教員とは異なり、文部省に教育内容を規定されることもないのであり、さらに厳しい職業倫理が求められている。東京大学では賄賂に関する職業倫理が「倫理綱領」として具体化されている。
被控訴人がユナム社から受け取った300万円以上の金員は明らかに「倫理綱領」に違反している。教官が自ら定めた「倫理綱領」に違反した以上、本来なら退官するしかない問題だが、被控訴人にはその気配もなかった。教授会も仲間をかばい合う体質があり、東大職連が取り組んだからこそ、懲戒処分が発令されたのである。
また、大学では「大学の自治」が保障されているが、その自浄作用が働かなければ、「大学の自治」は外部勢力からの批判を招く脆弱性を有していることは、これまでの歴史が示しているとおりである。大学の自浄作用は「大学の自治」の保障の実質的な担保となっているのであって、自浄作用が働かなければ、「大学の自治」も崩壊しかねないのである。
本件立て看板は、被控訴人のユナム社からの金員の受領に対する学内からの批判(意見ないし論評)であり、「学問の自由」「大学の自治」を保障するためには、学内での自由な言論が保障されなければならない。
(3) 原判決は、本件の基本的構造についての無理解の上に立って、本件各立て看板の性質を無視した上で、「ワイロ」の意義を前記のように判断した。
しかし、そもそも本件各立て看板は、被控訴人の一私企業への便宜供与及びその報酬としての多額の金員の収受という行為を、学内において議論・批判し、大学の教員そして大学そのもののあり方について問題提起するために掲出されたものであり、その性格上、東京大学本郷キャンパス内の教職員及び学生を主な対象とするものである。実際にも、本件立て看板の記載内容を読むのは、殆どが東大の教職員、学生であった。
従って、本件立て看板に記載された「ワイロ」の意義は、東大本郷キャンパスという限定された空間を前提として理解しなければならない。本件記載内容が新聞や週刊誌などに掲載されたものであれば、原判決が述べるように、一般人を想定した上で、「ワイロ」の意味も一般的な「職務に関して公務員が収受する違法な報酬」と理解することに合理性があると言える。しかし、本件立て看板は、東大本郷キャンパスという限られた空間に掲出されたものであるから、東大内における「ワイロ」、即ち、東大教官の倫理綱領に違反した金員の収受であると解釈されなければならない。「ワイロ」は括弧書きであるが、このような括弧書きは、「いわゆる」という趣旨で用いられることがあり、本件の場合、まさにその趣旨で用いられていることに留意する必要がある。 この点につき、原判決は、本件立て看板は、「当時収賄罪で起訴されていた岡光序治元厚生省事務次官との対比で『便宜供与』といった表現も交えて金銭授受をワイロと断じて非難している」として、「単純に倫理綱領に違反する行為と考えていたものでないことも明らか」であるとする。しかし、東大職連は、当時作成していたビラ・パンフレットでも、被控訴人の行為が東大倫理綱領に違反していることを度々指摘しており、東大職連が当時から倫理綱領違反を問題としていたことは明らかである。しかも、本件立て看板の岡光に言及した記載は、企業に便宜を供与し、その対価として違法な金員を収受することに何の疑問も持たない被控訴人の体質が、被控訴人が以前所属していた厚生省の官僚である岡光と共通であることを指摘したものであり、原判決が説示するような趣旨の記載ではない。また「便宜供与」の対価としての多額の金員受領自体、「倫理綱領」の中で、「講演料・技術指導料等の報酬」という名目での「職務との関係で、社会の疑惑を招く」額の「報酬」、ないしは、「大学の教官の地位に対する信用に安易に寄りかかっ」た「常識を越えた報酬」の受領として、受領を禁止しているのであり、かかる点からしても、原判決の説示は全く合理性を有しない。
本件立て看板における「ワイロ」とは、「東大教官倫理綱領に違反して収受した金員」の意義であり、本件立て看板を見た一般の東大教職員・学生は、被控訴人が東大教官倫理綱領に違反する金員を収受したとの印象を持つのであるから、本件における真実性・相当性の対象も、「被控訴人が東大教官倫理綱領に違反する金員を収受した事実」とされなければならない。
被控訴人がユナム社から上記のような金員を収受したことは、既に提出済みの証拠によって優に認定されるところであるから、東大職連の本件立て看板掲出については名誉毀損は成立しないことは言うまでもなく、かかる点において原判決には事実認定及び法律判断の誤りが存する。
(4) 百歩譲って、本件「ワイロ」の意義を「職務に関して公務員が収受する違法な報酬」と解するとしても、一般人は、刑法上の「賄賂罪」の構成要件等についての厳密な知識などはなく、まさに「公務員が職務に関して収受する違法な報酬」と理解するのであって、厳密な意味で刑法の「賄賂罪」に該当するかどうかは問題ではない。
「ワイロ」の意義を、一般人の理解に従って、「公務員が職務に関して収受する違法な報酬」と解した場合であっても、
@ 被控訴人が公務員であることは争いがない。
A 被控訴人がユナム社に対して行った講義・アドバイスは、講義内容が「日本の医療システム、社会保障・社会保険制度」という被控訴人の専門とする教育研究内容そのものであること、医師選定のアドバイスも保険制度・労働災害の分野に関するものであることからすれば、被控訴人の「職務」である専門分野における教育研究と「密接」に関連するものであることは明らかである。
B 被控訴人が報酬を収受したことは争いがない。
C 報酬は、少なくとも国家公務員法に違反する行為の対価であったことは明らかである。
従って、「ワイロ」の意義を原判決の説示するように解したとしても、被控訴人がかかる「ワイロ」を収受した事実は原審において十分に立証されているところであるから、やはり、本件立て看板掲出について名誉毀損は成立しないのであって、かかる点においても、原判決には事実認定及び法律判断の誤りが存する。
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