東 大 職 連 の 準 備 書 面 (3)

原文は縦書きです。そのため一部表記が変わっています。


 平成一〇年(ワ)第一八九八三号損害賠償請求事件

準   備   書   面  (三)



                             原  告   郡  司   篤  晃
                             被  告   N  氏   氏  名
    一九九八年一二月七日
                             被告訴訟代理人

                             弁 護 士  新  美      隆
                             同       虎  頭   昭  夫
                             同       藤  田   正  人
                             同       保  田   行  雄

 東京地方裁判所
   民事第三六部合議係  御  中

第一 原告の本件請求は大学の自治の本旨に反する。

  日本における大学の自治は、明治憲法下においては、慣習法として形成されたにとどまり、多くの禍根を残した。日本国憲法の制定にあたっては、歴史的反省をこめて、学問の自由を憲法上の自由権として明示し、大学の自治はその制度的保障と解されている。大学が、学術の中心として深く真理を探究し、専門の学芸を教授研究しかつ学生を教育する場であるためには、監視や統制とは相いれない自由闊達な自治が必要不可欠となるからである。大学は、単なる営造物ではなく、自治のあり方を含めて自由な批判が保障され、構成員相互の精神の交渉が保障されるところにその特色がある。大学の自治が憲法二三条に基づくものであることについては、最高裁ポポロ事件判決(最高裁大法廷判決昭三八・五・二二刑集一七巻四号)において判示されているところでもある。

  この大学の自治と一般市民法秩序との関係については、いわゆる富山大学経済学部事件について、最高裁判例は、つぎの如く判示している(最高裁判昭五二・三・一五民集三一巻二号二三四頁)。
  「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものであることは、叙上説示の点に照らし、明らかというべきである。」

 二 右の大学の自治の特性から本件に関しては、いかなる解釈原理が導かれるべきであろうか。

  1 第一に、大学は、その自治の範囲内においては、広範な自主決定権能が認められここに種々の自律的な規範が形成される可能性があることである。単なる法令の根拠によらない慣習(法)が成立することを容認しなければならない。生きている大学の自治のあり方を決するのは、過去の規則類ではなく運営の実態こそが重要な判断の根拠にならなければならない。
 例えば、原告は、被告がその一員である東大職連について、東京大学からの形式的な回答を根拠にしてか、交渉団体として認知された事実はない、などというが、長年にわたって東大職連が、総長補佐交渉を継続している事実こそが重要であって、国家公務員法上の職員団体であるかどうかとは関係なくその存在および交渉が認められてきているのである。
 これは、東大闘争が提起した問題を受けて取り交わされた昭和四四年三月五日付の「東京大学当局と東京大学職員組合との確認書」(甲一四の三添付、以下東職との確認書という。)において、「大学の自治は教授会の自治であるという従来の考え方がもはや不適当であり、職員、院生、学生も大学の構成員として固有の権利を持ち、それぞれの役割において大学の自治を形成する」とうたわれている原則の規範認識からも裏付けられる。
 東大職連の大学当局との交渉は、東大闘争後の一九七四年五月二四日に、臨職闘争を闘った職員に対する解雇と休職処分の撤回を求めて職員が総長に交渉を要求して総長室に座り込んだことが刑事事件されたことに対して、職員、院生、学生有志が一九七七年七月一八日、同二七日に総長と交渉したことが端となって、開始されたものである。以後、学内の様々な問題に関して総長補佐交渉が慣行化されて現在に至っている。
 また、立て看板(立て看)についての規制の根拠になるやに見られる「掲示に関する内規」については、右の東職との確認書でも明らかなように、職員等の自主的な活動を制限しているとの認識のもとに、その改正または廃止、および改廃の必要性が確認され空洞化されている。むしろ、「立て看」は、大学自治の担い手である職員、学生にとっては極めて重要な意思、情報の伝達手段として積極的に活用される自主的な慣行が定着している。無届けを理由に撤去されるような事実はない。原告代理人の執拗な照会に対する大学当局のおざなりな回答よりも大学の内部の憤行の方がはるかに重要な事実である。

  2 第二に、大学の運営や教員の疑惑等についは、大学にふさわしい批判や意見表明が保障されるべきであるし、教員においては積極的にこれらの批判や要求に応える責務があり、それこそが大学の自治を実現するものに他ならないことである。教員たる者についての疑惑等の意見表明を抑圧せんとすることは大学の自治の本旨を否定するものである。大学内で取り上げられた問題は、大学内で解決する努力が真撃になされるべきが当然である。
 そして自治が広範に保障される大学という「部分社会」の特色に照らせば、大学運営や教員の疑惑についての論議は、学内において、単に違法行為にとどまらず、倫理的側面にも至る批判がなされ、時には(本件の場合のように、指摘された側において、批判に率直に応じようとせず姑息に立ち回る如き場合など)歯に衣を着せない厳しいかつ自由な意見表明がなされることがむしろ大学にふさわしいあり方とされなければならない。
 本件の立て看による原告の責任追及は、当初、学内新聞への法学部学生の投書に端を発している(乙一)。これに対する原告の対応は、大学の教員であることを忘れたものと言う他ない不当なものであり、脅迫的な言辞については、匿名の投書が同新聞に寄せられる程であった。原告に対して真実を述べることを求める教員の投書も続き(乙五)、公開討論を求める要求(乙八一)も出て、原告に対する批判は、大学内部の問題となったのである。
 原告は、平成一○年三月、大学を退職するまでこれらの声に耳を貸し、積極的に対応する十分な時間がありながら、証拠写真を撮影するのみで、学生、職員の要求に一切の応答もせず(思い余って原告サイドと接触し事態の打開を図ろうとした医学部内一部の教員らも、原告の態度からして「何らかの形で話し合いが行われても、会われる方々の不信感をさらに増強したり、事態を紛糾させる以外の結果はない」として断念させる有り様であった。乙七九)、退職後に至って、本訴訟を提起してきたのである。
 原告への批判や責任を追及する東大職連の立て看は、大学全体の問題であることを如実に示し、大学当局から撤去を求められることはなかったのである。原告が東大職連に対して抗議したり、異議を申し出たこともない。一九九六年の「ユナム事件」についての原告に対する懲戒処分(乙六八ないし七八)は、東大職連の原告の責任追及に対する大学当局の回答であった。本来、学内問題は、学内で大学の自治の本旨に基づく方法で解決すべきであり、その努力も尽くそうとせずに、名誉棄損を言い立てる原告の主張自体全く大学の自治の否定というべきものである。

第二 立て看板(立て看)の意義について

 

一 立て看は、職員、学生にとって学内での意見表明、情報伝達の必要な手段である。

  前掲の「掲示に関する内規」中にも立て看についての規制規定が見られるように、立て看は伝統的に学内における意見表明、情報伝達の手段として利用されてきた。東京大学においては、重要な問題が発生した際に、学生や職員側の意思や意見はその都度、立て看に表現され、学内に周知されてきた。構内には学部や研究所単位毎に建物が立ち、大学当局が事務組織や教員組織さらには「学内広報」を通じて職員、学生全体に業務情報を伝えることが可能であるのに対し、職員、学生側の全学に対する意思伝達手段は存在していない。
  立て看は、ビラの配付に比して経済的、労力的に有利であり、また学内の静謐を害さず、持続性があり極めて有効な方法として、職員、学生の大学自治参加に役立ってきた。現代の我々を含めた市民にとって、大学構内に立て看を見ることは、職員、学生の自由な意思、意見の表明がなされていることを確認できる以上の違和感はないのである。このようにして立て看は一種の大学文化として定着しているというべきである。立て看は、大学が管理社会ではなく、その構成員の自治社会であることの伝統的、象徴的表現でもある。

 二 立て看は、大学内部に向けられた意思形成の手段である。

   立て看は、右のように大学社会の特性から発生し、支持容認されて定着してきた伝達手段である。職員、学生の横断的な意思形成を嫌悪する大学当局によってその規制が加えられようとした時期を通じて、職員や学生の自主的な活動が継続する限り、立て看は存在してきたのである。前掲の東職との確認書にも表現されているように、大学はその構成員の自主的、民主的な意思に依拠して大学の自治を不当な圧力から守る、との共通認識からすれば、構成員たる職員(同確認書では、「職員は大学自治の担い手である。」と確認されている。)等の自主的な活動を制限する立て看規制が事実上廃止されたのは当然の結果というべきである。
  また、このような確認書の形式をとらずとも大学内の慣行の事実からも認められるべきである(例えば、現行の学部共通細則第六条によれば、「学生生徒は、本学所定の制服制帽又はバッチを着用するものとする」とあるが、誰にも顕著なように、現在、制服制帽又はバッチを着用している学生は皆無に等しいのに対し、立て看は「無届け」だからといって撤去されたことはないのである。このことは、学内の規範を何によって判断すべきかを自ずから明らかにしている。)。

  さらに重要なことは立て看に表現される内容は、決して一般社会の受け売りではなく、もっぱら大学自治の観点から大学の内部問題として学内に向けられていることである。原告のユナム社からのワイロ受領に関する立て看は正しくこれであり、また薬害エイズ被害についての原告の責任に触れる立て看にしても、社会問題として喧伝されたことそれ自体の伝達ではなく、原告の大学教員としての資質、責任について大学構成員の観点から取り上げているものである。
  原告は、本件立て看によって名誉及び名誉感情が侵害されたなどというが、大学自治内部の問題を全く取り違えている。なるほど原告の主張するとおりの立て看が長期間にわたって継続されたとしても、その間、このことが社会的に報道されたことはなく、誰しも大学内部の問題と理解していたのである。
  かって、原告の如く、立て看による学内批判を学内において反論せず、名誉棄損などと訴え出た事例は過去に一つもない。それは、大学自治に基づく、自由な精神の内部的交渉として尊重せざるを得ない最低限の大学人としての良識があったからに他ならない。  

以上


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