乙175号証の3

「構造薬害」

第4章 「薬害エイズ」 の加害構造

 日本で「薬害エイズ」が起きたのは、「日本で血友病の治療に用いた濃縮血液製剤の原料血漿がエイズウイルス(HIV)に汚染されていたため」である。このように自然科学的に表現すると、「薬害エイズ」の原因はHIV、つまり、責任はウイルスということになり、関心はこの「やっかいなウイルス」(西岡久壽禰氏・日本赤十字社血液事業技術顧問)の構造とか、挙動、変異、起源などのことに向く。

 このような関心の持ち方は、HIV感染症の治療と予防の上で重要だが、「薬害という社会的な事象の治療と予防」ということには役に立たない、つまり、はるばる海を越えて日本で販売された血液製剤という「医薬品」を使用したがゆえに、なぜ2000人もの規模の人たちがHIVに感染させられたのか、その理由を解明することが、こうした悲劇を二度と繰り返さないためには不可欠なことといえる。

 本章では、非加熱濃縮製剤の製造・承認・販売過程(1972〜85年ころ)と、「薬害エイズ」の発生過程(1979年ころ〜85年ころ)をふり返り、どのような事実があったのかを明らかにする ことにより、「薬害エイズ」の加害構造を解明しよう(ただし、この問題はいまだ解明の途上にあり、今後も新しい事実が明らかにされる可能性があることをあらかじめお断わりしておきたい)。

1 肝炎対策を行なわずに濃縮製剤を発売

 日本においては、濃縮製剤は第9因子製剤が1972年から、また第8因子製剤は1978年から、それぞれ製造・輸入の承認を受けて発売が開始されている。

 この濃縮製剤は、それまでの血友病治療薬であるクリオプレシピテート(クリオ)に比較すれば効果は高い(血友病Aの場合)と報告されているが、2000人とも2万人ともいわれる人の血液を混和してつくることから、供血者の中にウイルスなどの感染者がいた場合は、それらにより汚染される危険性が高い。「東京地裁HIV訴訟」において、国が「細菌やウイルスなどの病原微生物による感染症が血液製剤を通じて、血液製剤の施用を受けた者に感染を引き起こす危険性は、血液製剤の有する危険性の代表的なものである」と述べているとおりである。

 ところで、薬事法においては、1978年当時の改正前のそれであっても、「病原微生物により汚染され、または汚染されている恐れがある医薬品」は製造・輸入等が禁止されていた(第56条)のであるから、そうした恐れの高い濃縮製剤の製造・輸入の承認にさいしては、薬事法のこの条項に触れないかどうかを慎重に検討し、そうした恐れがあった場合には製造・輸入を承認すべきではなかったし、また、承認後にそうした恐れが生じたときは、ただちに禁止すべきであったといえる。

 本件濃縮製剤の場合はどうか。もちろん、1978年の段階ではエイズは報告されていないから、その予測は無理である。しかし、血液を介する感染症は、代表的なものだけ挙げても、マラリヤ、梅毒、肝炎などがあり、これらはHIVの登場以前に発生していた。濃縮製剤投与による肝炎発生は1970年から報告されていた。

 こうした病原体による汚染対策の一つに、血液製剤の加熱処理がある。濃縮製剤と同じ血漿分画製剤であるアルブミン製剤を通じての血清肝炎への感染は1940年代に問題となり、S・S・ゲリス氏らはその対策として製剤への加熱の有効性を1948年に報告している。

 加熱第8因子濃縮製剤は、西ドイツではベーリング社が1978年に開発し、1981年から発売を開始しており、アメリカでは1983年3月からトラベノール社が発売している。これらは肝炎ウイルス対策として開発されたものだが、HIVも熱に弱く、結果的にHIVのリスクを低くするのにも役立ったことになる。

 以上のことから、日本においては、1978年の濃縮製剤の製造・輸入の承認のさい、製剤の安全性を確保するため、肝炎対策として加熱処理を求めることを検討すべきであったといえるが、こうしたことはなされていない。ちなみに、日本においてHIV対策で加熱処理製剤の市販が認められたのは、後述のように、第八因子製剤は1985年七月、第9因子製剤は1985年12月に至ってであった。

2 「安全」宣伝を続けた製薬会社

 1982〜83年当時、アメリカから濃縮製剤の原料血漿または製剤そのものを日本に輸入していた製薬会社は、トラベノール(現バクスター)、カッタージャパン(現バイエル薬品)、ミドリ十字、化学及血清療法研究所、日本臓器の5杜である。

 筆者は、米国においては、血友病患者のエイズ発症が1982年7月にはじめて報告され、すぐに血液製剤に疑いがかけられ注意が喚起されていたことを1989年に報告した(『エイズジャーナル』第2巻1号、77頁)。このことから、製薬会社は、濃縮製剤のHIV汚染の危険性は早くから予知していたと考えられたが、その後、そのことを裏付ける事実が次々に明るみに出されたのである。

 たとえば、アメリカのカッター社取締役兼顧問弁護士のエド・カッター氏は、「第8・第9因子製剤の印刷物にエイズの警告を入れるように。訴訟は不可避」との会社宛上申書を、1982年12月29日付で提出している(図4−1)。

 そのカッター社は、1983年8月に、社内に「エイズシナリオ」のプロジェクトチーム(Dietrich Buchner議長)をつくり、エイズの将来の発生予測を立てていたことが、1994年2月6日放映のNHKテレビで明らかにされた。

 その後、裁判所に提出された原資料(CONFIDENTIAL=機密文書)によると、このシナリオづくりは経営陣から要求され、「都合よい場合」「中間の場合」「都合悪い場合」の三つを想定している。

 1988年までの予測は、「都合よい場合」では1万人発生し、うち80人が血友病患者、「都合悪い場合」は8万人発生し、うち約2000人が血友病患者である。そして、「選択的な、都合悪いシナリオ――血友病患者」では、「エヴァットの理論的投影によると、約5000人の血友病患者がエイズにかかるであろう」「濃縮製剤が何年もの間エイズの伝染因子を感染させ広め続けてきたとすれば、その結果として、濃縮製剤を使用してきた血友病患者は、事実上すべて上記期間の間にエイズにかかる可能性がある。このことから、同時に、潜在的に家族および夫婦間に広がる危険が著しく増大する」と記している。

 また、トラベノール社は、1983年3月のFDA(アメリカ食品医薬品局)勧告よりも数カ月前から、「自発的に」血液製剤のエイズによるリスクを減らす対策を実施していたとしている。

 日本においては、ミドリ十字の血漿部長が1983年6月2日付で、エイズの感染経路の一つに血液製剤が関連する可能性を指摘し、エイズの症状を記して採血への注意
を喚起している。

 ところが、日本国内においてこれらの製薬会社は、血友病患者や一般国民に対しては、濃縮製剤の危険性を伝えるのではなく、逆に安全性を強調した発言や広報を行なってきた。

 たとえば、薬事関係者を中心に読まれている『日刊薬業」(1983年8月5日)によれば、ミドリ十字の須山忠和副社長(当時)は、「米国のエイズ多発地からの採血はなく、できうる限りの対策をとっているので、輸入血液製剤によるAIDSの感染はほとんどないと考えている」「血友病患者の敵は、AIDSよりむしろ出血と血清肝炎といわれている」などと語っている。

 また、1983年8月には、カッタージャパンがその広報誌『エコー日本語版」において、「AIDSが、濃縮製剤によって感染されるということを示す証拠はどこにもない」「患者は出血に対しては従来通り、血液製剤を輸注して止血すべき」などと記している。

 かくして、製薬会社は非加熱の濃縮製剤の販売をそのまま継続し、販売促進活動を行なった。濃縮製剤の広告は、1983年1月23日発行の埼玉県の患者会機関誌『埼友』第21号に掲載されたのを皮切りに、加熱製剤の販売が開始された1985年7月から4カ月も経過した1985年11月(愛知県の患者会機関誌『鶴友』31号)に至るまで、全国各地の患者会の会報に掲載されていた。

 広告の中には「厳選された原料プラズマを使用しています」(コーエイト、コーナイン)、「副作用の少ない安定した日本トラベノール製品群は、安心して患者さんにご使用いただけます」(ヘモフィルS、ヘモフィルH、プロプレックス)などと記してあるものも見られた。

 これらのうち、各地患者会の全国組織である「全国ヘモフィリア友の会」の会長がいる愛知の地区会では、「会報広告料」として多額の決算が計上されていた(1982年度250万5000円、1983年度314万5000円、1984年度265万5000円)。

 濃縮製剤の家庭における自己注射は1983年2月に健康保険適用になっているが、そのための働きかけや、白已注射の練習などを行なう講習会「サマーキャンプ」の開催なども、後述のように製薬会社各社は積極的に推進していた。

 1955年ころから約200人ほどの血友病患者の治療をしてきた加々美光安医師は、1993年5月に東京地裁に提出した「意見書」の中で、次のような記述をしている。

 「……ところが、昭和57年ころと記憶していますが、この高度濃縮製剤については、臨床の現場でたいへん異常なことが起きてまいりました。そのころ、外資系製薬会社を中心に、高度濃縮製剤の売り込みが急に激しくなり、私ども医師の部屋にまでその営業担当者が足しげく訪れ、ついには大幅な値引きやおまけ(たとえば10本買えば何本かを無償で添付するなど)をはじめ諸々のサービス・便宜などを提示するというようなことが行なわれたのです」

 この加々美医師は、「多人数のプール血漿から製造される高度濃縮製剤の一般的な使用には安全の点で少なからぬ懸念があり」、国産のクリオと濃縮製剤を使っていた人で、このような考え方から、上記のような売込みによる製品は使用せず、その結果1人のHIV感染者も出さなかったという。

 さらに問題なのは、製薬会社は加熱製剤を市販したあとも、非加熱の製剤を回収していないと指摘されていることである。筆者が東京地裁原告の投薬証明書を調査したところ、少なくとも5人の血友病Aの患者が、1985年7月以後も非加熱製剤を投与され続けており、最も遅い例では1987年9月に及んでいた。以上の事実から、被告製薬会社は、遅くとも1983年の時点で、非加熱濃縮製剤の使用によりエイズになる危険性があることを予知しながら、血友病患者には「安全」であるとして、販売を続け、加熱製剤販売後もその回収をしなかったということがいえる。

3 汚染の可能性を知っていた国の責任

 米国におけるエイズの多発と、その病原体の感染ルートの一つが血液製剤である可能性があることについての情報は、遅くとも1983年3〜4月には厚生省に伝えられていた。

 筆者が村上省三元日本輸血学会会長から聞き取り(1989年7月17日)をしたところ、「1983年3月か4月ころ、郡司篤晃生物製剤課長にエイズの文献のコピーを送った。厚生省が知らないと困ると思って」ということであった。

 村上元会長からエイズに関する論文の提供を受け、日本の血友病患者にエイズのリスクが考えられたということは、郡司元課長も法廷で認めている(1993年3月15日)。

 1983年5月26日付「読売新聞」は、「米で流行“恐怖の奇病” 厚生省が厳戒体制」と題する記事を掲載。この中には、「血漿製剤は9割以上アメリカからの輸入に頼っており、AIDSについて
は、きわめて重大な関心を持っている。発病者が出た場合、早く発見し、対策を打てるよう、早急に研究班を発足させたい」との郡司課長の談話が記されている。

 厚生省は、6月に至り「AIDS(後天性免疫不全症候群)の実態把握に関する研究班」(安部英班長)を設置した。この研究班には「血液製剤小委員会」(風間睦美委員長、以下風間委員会)と「エイズ診断基準小委員会」(塩川優一委員長)が設置され、血液製剤の問題は風間委員会で扱われることになった。

 風間委員会ではエイズの危険を避けるため血友病の濃縮製剤による治療を変更するか否かの検討をしたが、委員会は「血友病患者の治療が後退する」として反対し、米国で採取された血液を原料とする濃縮製剤の使用にはなんらの規制も加えられなかった。

 また、これもNHKテレビで放送されたことだが、厚生省は、1983年6月2日付でトラベノール社より、「供血者の一人がエイズの兆候を示したので、製剤の回収をしたい」旨報告を受けているが、そのことをエイズ研究班に報告するなどして適切な措置を取ることをしなかった。

 厚生省が、血友病患者のエイズ感染のリスクを減らすための緊急対策として検討したのは以下の三つである。

 第一は、日赤で集めている日本人の献血血液を原料として濃縮製剤をつくる方法である。それまで日本で使用されていた濃縮製剤は、国産の製剤もあるにはあったが、売血を原料とし、献血の血液からは濃縮製剤はつくられていなかった。前記の郡司課長の談話に示されているように、エイズの流行地アメリカでの売血血液に依存する危険性は、厚生省も認識していたのである。しかし、この方法は、凝固因子を除いた血液製剤が医薬品として利用できるか否かの検討に時間を要し、なんら「緊急」対策にはならなかった。

 第二は、アメリカから加熱濃縮製剤を緊急に輸入する方法である。アメリカでは、肝炎対策として加熱処理をした濃縮製剤が開発され、1983年3月からトラベノール社ハイランド事業部より発売されていた。しかし、この製剤の輸入は、「副作用が心配」などの理由で、すぐには決定されなかった。

 同じ成分の製剤であっても、製法などが異なる場合の医薬品は「新薬」として扱われ、通常の手順では日本国内での臨床試験が必要とされる。しかし、緊急の場合の「超法規的措置」は不可能ではない。1961年、ポリオ(小児まひ)が流行したとき、日本政府はソ連とカナダから「生ワクチン」を緊急輸入したことがある。ところが、今回はこうした緊急措置は見送られてしまった。

 結局、厚生省がとった措置は、加熱処理濃縮製剤の臨床試験を日本国内で実施することであった。当然のことながら、人間を対象とする臨床試験には一定の歳月を必要とする。加熱濃縮製剤の場合、1983年11月には厚生省が説明会を行ない、1984年2月から臨床試験が開始されたが、帝京大学の安部英教授が、後発のミドリ十字に配慮して先発組を待たせるなどの「調整」をした(「毎日新聞」1988年2月5日)こともあり、加熱濃縮製剤の製造承認がされたのは1985年7月(第8因子製剤)、1985年12月(第9因子製剤)に至ってであった。

4 2年近くも遅れたエイズ認定

 日本のHIV感染血友病患者のうち、エイズの症状が発症したことが疑われた最初の報告例は、1983年7月に帝京大学病院で死亡したP氏である。P氏のことについては、1983年7月12日付「朝日新聞」朝刊が「AIDS国内に上陸の疑い」と報じ、7月18日に主治医である安部教授も出席して開かれた厚生省の「AIDSの実態把握に関する研究班」の会議では「エイズと断定できず」とされ、マスコミでは「シロ」などと報道されたが、1年10カ月後の1985年5月30日に至って日本初の血友病のエイズ症例と認定されている。P氏は、なぜ1983年7月にはエイズと認定されなかったのであろうか。

 東京地裁における風間睦美・郡司篤晃両氏の証言を総合すると、その理由は、それだけでも免疫不全を起こすくらいの多量のステロイド剤が使われていた、死亡原因はカリニ肺炎
とかカポジ肉腫などではなく、カンジダ症だった、細胞免疫の数値がそれほど下がってない、血友病Bのエイズ症例は世界に1例しか報告されてない、ということであった。

 しかし、これらは、いずれも、エイズであることを否定する医学的理由とはなっていない。1983年7月8日の研究班会議に出席したC医師によれば、P氏について、安部教授はエイズであると主張したが、厚生省との間をとりもっていたS教授が「CDC(アメリカ防疫センター)が定めた診断基準のすべての条件を必ずしも満たしていないし、厚生省の立場もあるので、限りなく灰色に近いシロであると判定したらどうか。もちろん、安部教授が個人として発表するのは自由だが」と発言し、A、Bの2教授がこれを支持する発言をした結果、エイズとは判定できずとなったという。

 ところが、翌8月下旬、京都で国際免疫学会が開かれたとき、来日したCDCの研究者トーマス・スピーラ博士などが東京に立ち寄り、安部教授がP氏の記録を提示したところ、「アメリカの診断基準ではエイズ」との判断が示されたという。

 このように、エイズの流行地であるアメリカの専門家が「P氏はエイズ」との判断を示したにもかかわらず、その認定を2年近く先へ伸ばした「厚生省の立場」とはどういうものであろうか。

 1994年2月6日のNHKテレビで、厚生省感染症対策室長(当時)野崎貞彦氏は次のように発言している。

 「…対応というものが整っていない。そうしないと大パニックになってしまう。患者が出ていることを隠しているということでなくて、慎重に第1号を……誰が見つけてどこに出るかが関心事。対応ができた段階で、軟着陸した状態で第1号患者が見つかるというのが一番いいかたちではないかと……」

 また、S教授のいう「厚生省の立場」とは、C医師によれば、「対策がないのに報道が過熱するのを恐れたため」であるという。

 これらの発言からいえることは、厚生省における血友病のエイズ患者の認定は、医学的な判断ではなく、きわめて政治的なものだったということである。つまり、加熱濃縮製剤の緊急輸入という「対応」をとらなかったために、当初は適切な「対応」がなく、そのために患者の認定を先送りにし、加熱濃縮製剤の承認という「対応」の見通しが立った1985年5月という時点で、はじめて認定をしたと考えられる。

 以上の経過に示されているのは、厚生省が非加熱輸入製剤のHIV汚染の危険性を真に認識していなかったということである。事実、郡司元課長は、1993年3月15日の東京地裁では、日本の血友病患者にエイズが発生する可能性は「4人とかそんなオーダーではないかなと当初は考えておりました」と証言している。

 もし、厚生省がそうした危険性を真に認識していたならば、非加熱輸入製剤の使用を禁止し(そのとき不確定なことが多かったというのなら、「暫定的措置」でもよかったはずである)、製剤の回収をはかるとともに、緊急の代替策としては、血友病A患者には国産のクリオと濃縮製剤の使用、血友病B患者には国産濃縮製剤の使用をはかることができたはずである。そして、それでも治療に支障をき
たすというのであれば、加熱製剤の緊急輸入ができたはずである。

 いずれにせよ、厚生省は、HIV汚染の可能性のある輸入製剤の輸入・使用をとめるという、血友病患者には最も必要な対応はとらなかったのである。

5 「危険性」を予知しながら「安全性」を強調した血友病専門医も

 血友病患者の治療に当たる専門医からは、1982年11月から1983年6〜7月にかけて、日本の血友病患者のHIV感染の危険性を予知し、懸念したり警告する発言や論文が出されていた。以下にその例を示そう。

 ◇1982年11月23日 東友会(東京ヘモフィリア友の会)第9回総会にて、安部英教授が講演。「血液を多くするためにはどうすればよいか。これは外国から輸入するんですが、ここでたいへん大きな問題が起こりそうなのでございます。今、アメリカが大部分ですが、アメリカから輸入する血漿は、これは売血なんです。………その人たちがどういう病気にかかっているかということが、私どもにとってたいへん重大なんですね………」と述べて、血液製剤を通じての日本の血友病患者のHIV感染を示唆。

 ◇1983年4月19日 「毎日新聞」が「AIDS―米国で流行の死亡率高いナゾの伝染病」という記事を出す。帝京大・風間睦美教授は「(エイズが)1人でも(血友病患者に)発生すれば大変なこと」と談話。

 ◇同年5月1日 鹿児島ヘモフィリア友の会第5回総会にて、神奈川こども医療センターの長尾大医師が濃縮製剤の副作用について、「肝炎の問題。最近アメリカで騒いておりますエイズとか、そういったものも問題になってきたりするかもしれません。やはり血液製剤の副作用それ自体は解決されていない問題だということであります」と述べる。

 ◇同年6月18日 厚生省エイズ研究班の班長になった安部英教授が「読売新聞」紙上にて、「輸入に頼っている血液製剤で感染する危険もあるので、私としては、もう居ても立ってもいられない」「(水際作戦は)輸入血液を60度で10時間加熱し、ウイルスを不活化する方法をとりたい」と談話。

 ◇同年7月2日 長尾大医師(前記)、『医学のあゆみ』にてAIDSを論評し、血液製剤による感染を示唆、警告。
 これらの発言のうち、1982年11月23日の安部発言は、その2カ月前に命名された「エイズ」という言葉こそ使っていないものの、その内容は明らかにエイズの危険を指摘しているといえる。そして、1983年6月13日には、輸入製剤の加熱によるウイルス不活化の方策まで述べている。

 ところが、1983年6月29日、ストックホルムで開かれたWHF(世界血友病連盟)国際会議では、「血友病の治療法の変更は必要ない」旨の決議が行なわれた。この国際会議には、日本から安部、風間、長尾、山田兼雄(当時聖マリアンナ医大教授)医師らが参加している。

 ストックホルムで「血友病の治療法の変更は必要ない」との決議を出した理由については、ディートリック医師(アメリカの血友病専門医)が「1983年6月の時点で、ある国に対し、あるいは特定の医師に対し、血友病患者の治療方法を変更するために、それを十分に裏づける情報ないしデータは存在しませんでした」と証言した。

 しかし、アメリカにおいては、血友病患者が凝固因子製剤を用いることによるエイズ罹患の危険性を警告した勧告は、1983年1月から3月にかけて、NEJM(ニューイングランド医学雑誌)、MMWR(疾病・罹病週報)の両医学雑誌において、また全米血友病財団(NHF)の委員会、そして国の機関であるFDAから出されていた。

 これらの勧告は、「十分なデータ」とはいえないにせよ、エイズの危険性を示唆し警告したものであり、こうした勧告がなぜ軽視されたのだろうか。

 ストックホルム会議に出席した山田兼雄教授の東京地裁における証言(1992年12月20日)によれば、この会議は製薬会社の資金的援助・協賛によって運営されたという。そのような製薬会社の「ヒモ付き」の会議であれば、製薬会社の利益を擁護する決定がされても不思議ではない。

 なお、ミドリ十字が1977年にWHFの”模範会員”に指定され、“顕彰”されているという事実も、WHFの性格を知る上で参考になることである。

 1983年7月18日になって、前記のように、厚生省研究班は帝京大学でエイズが疑われた患者をエイズと認めず、日本においては表向きにはエイズは発生していないとされた。

 こうしたことを経てからは、前記のように「警告」を発していた医師たちは、それまでの発言とは逆に、血液製剤の安全性を強調するような発言を繰り返している。

 同年8月14日の全国ヘモフィリア友の会全国会拡大理事会では安部英教授が講演を行ない、その中で「現状では、エイズの心配はわずかですから、アメリカからの輸入をとめなければならないということはちょっと思いすごしでしょう。治療に欠かせない程度の輸入は許可してもらいたい。班の委員の中には、輸入をとめるべきだという考えの人もいると聞いているが、それは血友病のことをやらない医者のいうことである。私としてはとても考えられない。薬があるからこそ、皆様が助かっている」と述べる。

 同年11月6日発行の愛知県の患者会機関誌『鶴友』第27号誌上では、安部教授が「AIDSが特定の病原体によって引き起こされるという証拠は得られておりません」「とにかく血友病の治療には第8因子、第9因子製剤が絶対に必要でありますので、上に述べたようなAIDSの状況から見ますと、これまでの補充療法を中止または変更する必要はありません。いえ、今までの私たちの治療法(用法、用量)はそのまま続けて差し支えないと思われます。先般ストックホルムの会議でも、専門家の間でそのように合意が得られました」などと述べる。

 このような専門医の「認識の転換」のもとで、濃縮製剤の使用にはなんらの措置も講じられることなく、その販売・使用の促進が病院単位での説明会や患者会の「サマーキャンプ」などで行なわれた。たとえば、1983年7月31日には、トラベノールの本社がある新宿野村ビルで、東京医大の医師たちが外来血友病患者を対象に「説明会」を開き、濃縮製剤の輸入と治療の継続を表明している。

 また、同じ7月23日には、日本トラベノール社と産業医大の援助で「福友会」のサマーキャンプが開かれ、血液製剤の自己注射の講習会などがもたれている。このときの模様について、参加者の1人は、エイズのため血液製剤を「打つことに恐ろしさを感じ」たが、医師の話を聞いて「少し安心しました」との感想を記している(福友会サマーキャンプ感想文『思い出』、1983年10月発行)。

6 危険性を知りながら非加熱製剤を投与し続けた安部教授

 前記のような経過の中で、血友病患者などからとくに問題とされているのは、エイズ研究班長も務めた安部教授の、1984年9月以後の非加熱製剤の使用継続である。

 安部教授は、1984年8月に、日本の血友病患者の血液(48検体)をアメリカNIH(国立衛生研究所)のギャロ博士に送って抗体検査を依頼し、P氏を含む23人がHIVに感染したことの報告を9月に受けている。

 その後、1984年11月に東京で開かれた「第4回血友病治療国際シンポジウム」において、安部教授の弟子の風間教授がP氏につきエイズの疑いが強いことを報告している。さらに1984年12月にアメリカベセスダで開かれたHTLV(ヒトT細胞白血病ウイルス)シンポジウムでは、50人の抗体検査の結果や、うち2人がエイズの症状を示したことなどを安部教授がギャロなどと連名で報告している。

 ところが、安部教授は、1985年になっても、非加熱濃縮製剤を血友病患者に投与し続け、その結果、少なくとも2人の血友病患者をHIVに感染させていた。

 すなわち、安部教授らは、ギャロ博士らの回答を得てからも、非加熱濃縮製剤の使用を継続し、治療を受けた血友病患者がHIVに感染しているか否かの抗体検査を続けた。その結果、A氏(氏名・年齢等不明)の抗体検査は1985年2月4日の時点では陰性だったが、同年5月24日には陽性だった。またB氏(氏名・年齢等不明)の抗体検査は1985年6月7日の時点では陰性だったが、7月22日には陽性となっていた(『日本輸血学会雑誌』第34巻第3号、332頁、1988年)。

 ヒトがHIVに感染すると、通常6〜8週間でHIV抗体反応が陽性になる。このことからすれば、2人の血友病患者のエイズ感染は、A氏は1984年12月から1985年3月までの間、B氏は1985年4月から5月の間ということになる。

 このようなことから、安部医師の行為は「未必の故意」による殺人未遂の罪に相当するとして、1994年4月4日、216人の血友病患者・家族が東京地検に告発した。

 このような告発がされた以上、地検は厳正に捜査し、安部医師は真実を公の場で明らかにすべきである。

7 安全性に疑問を持った患者会への妨害

 アメリカでのエイズ発生・多発の報道に接し、日本の血友病患者の中に輸入血液製剤の安全性についての不安と動揺が広がった。1982年11月23日の東友会第9回総会では、患者K氏がアメリカでのエイズ流行と血友病との関係について質問したのに対し、帝京大学風間教授は「血友病患者には関係のないホモの病気」と回答している。

 しかし、血友病患者たちの中には不安を持ち続け、情報収集を続けた者もいた。東友会などは1983年4月ごろから、血液製剤の企業を訪問するなどしてエイズに関する情報収集を続けた。こうした活動に対しては、地方の会員や東京の医師から「東京の人たちはエイズ・ヒステリーの集団だ、君らはエイズの危険を過大視している」などと非難されたという。また翻訳のアルバイトで生計を立てていた会員に東友会が企業から入手した文献の翻訳を依頼したところ、その会員はアルバイト紹介先の病院と製薬企業に呼ばれて、仕事を取り上げるといわれたということである。このような中で、仁科副会長のように、自ら医師に申し出て、濃縮製剤の使用をやめた人もいた(仁科氏はその2、3年後のHIV抗体検査で陰性だった)。

 また、ある患者は、日本の製剤に変えてほしいと担当医に話したところ、「日本人の血液のほうが汚い、日本の製剤のほうが汚い」とまでいわれて、申し入れを聞いてもらえなかったということである。

 前記のように、1983年7月12日、「朝日新聞」が「AIDS国内に上陸の疑い」との見出しで、帝京大学の血友病患者がエイズに似た症状で死亡したと報じた。この報を受けて、東友会は血液製剤の安全性確保の要望書を国に提出することを決め、1983年3月のFDA勧告前の製剤の回収、国内血液を原料とする製剤の供給、加熱処理製剤の認可などの対策についての要望書案をつくり、8月14日の全国会拡大理事会に提出した。

 理事会はこの原案をそのまま採択したが、その後顧問医の安部教授の意見で、「血友病の治療は過去10年間に長足の進歩を遂げたが、この治療を後退させることなく、私共血友病患者の治療に必要なだけの血液製剤を確保供給されたい」という1項が全国友の会K会長の判断で追加され、要望書は9月22日に林厚生大臣宛に提出された。

 なお、8月6日の東友会理事会では、14日の拡大理事会参加の患者のため緊急用に濃縮製剤を用意するとの提案があったが、危険な製剤を使うことは問題との意見が出されて中止になるという経緯もあった。

 東友会は、その後も血液製剤の安全性確保のための行動を続け、1983年10月19日には国内血漿を原料とした製剤をつくっている日本製薬葛飾工場に見学に行き、「国産品」の増産を求めている。

8 輸入製剤は血友病患者の「命綱」だったか?

 以上のことから、企業・国・血友病専門医たちは、輸入製剤の危険性を軽視・無視して販売・使用を続けたことは明らかである。

 読者の方々の多くは、「ずいぶんひどい」と思われるであろうが、一部の方は、あるいは「血友病患者には濃縮製剤が必要不可欠で、『命綱』であったから、被害者にはまことにお気の毒だけど、やむを得なかったのでは」と思われるかもしれない。そのように考えることは、結果的には、被告側の立場と同じ考えになる。

 実際、法廷において、被告側は、血友病治療における濃縮製剤の有用性、不可欠性を強調しており、血友病専門医の中にも「年長児や成人血友病の補充療法に第8因子濃縮製剤は不可欠である」(風間医師ら、1984年)、「……結果的に、日本の血友病患者の約3分の1が、この命綱ともいえる高純度血液製剤から、エイズウイルス(HIV)に感染してしまった」(長尾医師、1993年)などの認識が示されている。

 もしこの「命綱」という認識が正しいのであれば、血友病患者は出血のさい、濃縮製剤がなければ止血ができずに死亡に至る危険を有することになる。このことを前提として被告側の立場で考えれば、1983年当時においては、たとえ輸入製剤(非加熱)の使用によりエイズという予後不良の疾患に感染する恐れがあったとしても、「濃縮製剤の使用中止は困難だった」ことになり、「血友病患者のHIV感染はやむを得なかった」という結論になる可能性もあろう。

 それでは、輸入製剤は本当に血友病患者の『命綱』だったのであろうか。このことを明らかにする作業の一環として、筆者は、第1章に記した「匿名アンケート調査」のデータから、「対象者の中には濃縮製剤のなかった時代に生まれ育った患者は含まれていないのかどうか」調べてみた。つまり、もし濃縮製剤が血友病患者の『命綱』ならば、濃縮製剤がない時代に生まれた血友病患者は、少なくとも重症者は生き永らえることができず、死んでしまっていて、対象者の中には含まれていない可能性が大きいと考えられたからである。

 ところが、結果は表のとおりで、血友病Aの患者123人のうち、「濃縮製剤のなかった時代」に生まれたのは95人(77.2%)で、この中に「濃縮製剤のなかった時代に20年以上生存した人」が41人いた。この41人のうち、血友病が重症の人は27人で、全員が生存していたが、約半数の13人がHIVに感染していた。

表4−1 対象血友病A患者の出生時期別・重症度別に見た現在の状態
出生時期
〔出生年〕
血友病
重症度
小計 現在の状態
非感染 感染 感染の
有無
不明
AC ARC AIDS 死亡
全血輸血時代
〔1957年以前〕
重症 27 12 10
中等症
軽症
不明
全血輸血時代
〔1958〜66年〕
重症 10
中等症
軽症
不明
AHG・AHFの時代
〔1967〜77年〕
重症 15
中等症 14
軽症
不明
非加熱濃縮製剤の時代
〔1978〜85年〕
重症 13
中等症
軽症
不明
加熱濃縮製剤の時代
〔1986年以降〕
重症
中等症
軽症
不明
123 57 36 18

表4−2 対象血友病B患者の出生時期別・重症度別に見た現在の状態
出生時期
〔出生年〕
血友病
重症度
小計 現在の状態 感染の
有無
不明
非感染 AC ARC
全血輸血時代
〔1951年以前〕
重症
中等症
軽症
不明
全血輸血時代
〔1952〜71年〕
重症
中等症
軽症
不明
非加熱濃縮製剤の時代
〔1972〜85年〕
重症
中等症
軽症
不明
20

 血友病Bの患者20人の場合は、「濃縮製剤のなかった時代」に生まれたのは15人(75.0%)で、この中に「濃縮製剤のなかった時代に20年以上生存した人」が5人いた。この5人のうち、血友病が重症の人は1人で、HIV非感染で生存していた。

 以上のように、たとえ血友病が重症であっても、濃縮製剤がない時代に20年以上も生きてきた患者が合わせて28人もいたということは、濃縮製剤は必ずしも血友病患者の『命綱」とはいえないことを示している。

 前記の風間医師も「頻度の多い四肢の大関節や筋肉内の出血は、生命の危険をもたらすものではないが……」(Medical Practice,vol.9,314,1992)と書いており、そうしたことが一般的であれば、濃縮製剤が「命綱」であるとは必ずしもいえないことになる。

 このように書くと、おそらく、「28人もいるといっても、その人たちはたまたま生き抜いてきたということであって、濃縮製剤のなかったころは出血による死亡率は高く、それが濃縮製剤の出現で改善されたのではないか? つまり、少なくとも一部の患者にはやはり『命綱』だったのではないか」といわれるかもしれない。

 筆者はそうした濃縮製剤出現後の血友病患者の死亡率改善のデータを見ていないが、仮にそうしたデータがあったとしても、「だから、1983年
当時、濃縮製剤の輸入禁止をしたら、日本の血友病患者(の少なくとも一部)は生きていけなかった」などといえるであろうか。そうしたことは、とうていいえないことである。なぜなら、1983年当時存在していた血液製剤は、すでに指摘したように、非加熱の輸入製剤だけでなく、血友病Aの患者には国産のクリオ製剤があり、また、国産の濃縮製剤も血友病AおよびBの患者用にあったからである。

 濃縮製剤の添付文書には「本剤は貴重な血液を原料として製剤化されたものであるので、有効利用の立場から低単位の製剤が使用しがたい場合に投与することが望ましい」と書かれている。ここでいう「低単位の製剤」とは、クリオ製剤のことである。つまり、濃縮製剤が一般の血友病患者にとっては「命綱」などではないことを製薬会社がはからずも記しているということがいえよう。

 それでは、人数が多い血友病Aの場合、その治療をクリオ製剤でまかなうことはできたであろうか。このことについて、日赤中央血液センターの徳永栄一氏は、風間委員会の報告書(1984年3月)で「現在のように製造工程中に[因子活性の80%をロスする濃縮製剤に依存する体制が改められ、クリオプレシピテートの使用が多くなれば、[因子製剤に関する限りは、輸入血漿に頼ることなく年間800万単位に近い国内献血による血液事業の枠内で十分処理し得る」と記している。

 また、同氏は、大阪地裁の証言(1993年4月、同9月)で「得られていた40万リツトルの血漿のうち半分を製剤用に使用することができれば、当時の凝固因子の需要量を完全にまかなえたということですね」との原告代理人の質問に対し、「そういうことですね、あるいは20万リッターよけいに取るか、どっちかですね」と答えている。そして「もしクリオでいいんだといったら、いかようにもいたしましたよ」とも答えている。

 以上のことから、輸入製剤の使用禁止に伴う「代替策」はあったといえるが、仮に上記のような措置では血友病患者の治療に支障をきたすのであれば、最後の手段として、1983年3月にはアメリカで市販されていた加熱濃縮製剤の緊急輸入という「超法規的措置」も、取ろうと思えば取れたのである。

 表4−1および4−2が示しているのは、HIVに感染させられた血友病患者にとっては、非加熱の輸入製剤が「命綱」どころか、逆に命と健康を奪う「毒薬」であったということである。こうした残酷な事実が、今回の調査結果から確認できよう。

9 薬害多発の社会的要因―まとめに代えて

 以上に紹介した事実から、読者は、薬害エイズの加害構造が、薬害スモンのそれときわめて類似していることに気づかれたことと思う。

 筆者は、サリドマイド、スモンなど日本の薬害問題の解明を通じて、1981年に「日本における薬害多発の社会的要因」を次のようにまとめた(片平「薬害と国民の健康」飯淵康雄・野村拓編『生活と健康(第2版)』篠原出版、1981年)。この指摘の妥当性・有効性を「薬害エイズ」で検証し、本章のまとめとしたい。

 薬害多発の推進・促進・助長要因

(1)製薬企業の安全性を軽視・無視した利潤追求、大量生産・大量消費政策

 @濃縮製剤の開発・販売時に肝炎対策をとらず、米国由来製剤を輸入・販売。

 A輸入製剤のHIV汚染の危険性は早くから予知していたが、安全策をとらずに販売を促進、加熱製剤の市販後も非加熱製剤の回収を行なわず。

(2)国の(大)企業追随、安全性軽視の医療・薬事行政

 @濃縮製剤の国内自給策をとらず、輸入製剤に依存。薬事法に反して米国由来製剤の安全性確保を行なわせずに輸入・製造販売を承認。

 A輸入製剤のHIV汚染の危険を予知していたが、そのリスクを軽視し、製薬企業の前記のようなポリシーを容認。

 B1983年7月初の「エイズ疑い例」を「シロ判定」し、濃縮製剤の安全確保を直ちにとらず。

 C加熱製剤の製造承認後も非加熱製剤の回収を行なわせず。

(3)医療従事者とりわけ医師の問に見られる薬物療法への安易な姿勢傾向

 @当初はエイズの危険性を「警告」していた血友病専門医たちも、リスクを軽視し、輸入製剤の使用継続を容認・推進。安部医師は、輸入製剤のHIV汚染の危険性を知りながら、そうした製剤を使用し続けて、血友病患者のHIV感染を拡大した疑いが持たれている。

 A濃縮製剤の「予防投与」をすすめた医師もいた。

 B国産よりも輸入製剤のほうが「薬価差益」があったとされる。

(4)医学・薬学界の製薬企業追随傾向

 @「説明会」「サマーキャンプ」などで濃縮製剤の使用を企業とともに促進。

 A血友病専門医と血液製剤企業との密接な関係。


 薬害多発を防止できなかった要因

(1)医学・薬学分野における科学性確立の立遅れ

 @濃縮製剤の安全性確保の立遅れ。

 A初の「エイズ疑い例」の「シロ判定」。

(2)医療従事者とりわけ医師の薬害問題取組みの立遅れ

 @血液製剤という「特殊な医薬品」でもウイルス汚染という「薬害」が起きることの認識不足。
 A患者の不安・疑問を患者の身になって科学的に究明する姿勢の不足。

(3)国民への保健教育の立遅れ

 @血友病患者に対し中立的・科学的な情報提供をするシステムの欠落。

(4)国民の保健衛生・人権意識の全体としての立遅れ

 @血友病患者会内における安全性の軽視、安全性を重視する人への非難。

 A「血友病患者の危険な状況」をどれだけ国民が自分の問題として考えたか?

 少々解説しておこう。

 筆者は、これらの要因を、当初は「羅列」していた(『生活と健康』の第一版参照)。

 しかし、考えてみれば、ある事件(現象)は、それを起こそうとする力が起こさせまいとする力を上回り、「綱引きに勝った」ときに起きるのだ。薬害事件では、前者の力は原因となる医薬品をのちに被害者となる人に服用(使用)させようとする「安全性軽視の資本の論理」であり、後者はそうした使用をやめさせようとする「安全性重視の保健医療の論理」である。

 このように考えると、要因を羅列すべきではなく、右のように、「起こそうとする要因」と「起こさせまいとする要因」に分けて考えることが必要である。そして、今後の薬害防止のためには、「起こそうとする力」すなわち「安全性軽視の資本の論理」を抑え、「起こさせまいとする要因」すなわち「安全性重視の保健医療の論理」を強化していくことが必要という結論になる。


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