甲25号証
ユナムの件に関して
郡司篤晃
中村氏と私の家内は、大学時代のヨット部の友人でした。そのようなことから、中村氏と私達は小さな競技用のヨットを共有しておりました。中村氏はアメリカの疾病保険を扱うユナム社の日本への進出の責任者になり、生命保険出身の中村氏からいろいろと相談を受けるようになりました。
私はこの日本にはない疾病保険が多くの人のためになる、と考えました。というのは、私は鹿児島県の衛生部長を努めていたとき、職場の衛生管理者の役割を担っており、その役割上、病気である期間以上(半年だったと思いますが)欠勤した場合、また復帰不可能と判断される場合は、その職員に対し県庁退職させる決定を下しておりました。病気の職員とその家族は、病気の負担の上に一家の主人が職を失い、その後の保障はしないわけですから、その家族はその後どうやって生きていくのかと思うと心が痛みました。
そのような経験から、病気で職を失っても、それまでの所得の数十%を保障する保険は大変よい保険だと思ったのです。
また、そのような保険が自由に市場に登場しないのは、日本の保険制度が護送船団方式として批判されていた体制自身にあると、私は思っていました。ちょうどその頃日米経済摩擦を解消するため、日本も金融・保険市場の開放の動きにもありましたので、私はそのためにも貢献できるだろうと思いました。 事実、ユナム社が発足することが決まったときには、大蔵省がリークしたためだと思いますが、日本経済新聞のトップ記事として報道されました。
そのようなことから、アメリカ本国の副社長さんがやってきて、私に話を聞きたいと、二度ほど私の教授室を訪問されました。話しは多岐わたりましたが、私に残る印象は、日本市場を良く調査していたが、結局色々と不安が残って、それらを直接自分で確かめたかったのだろう、と言うものでした。彼は、私の応答に大変満足して、「なんという専門性だろうか!」といって感動してくれました。そんなことから大変高額なお礼をしてくれたのだろうと思います。
その後、会社は保険の性質上、医療的な事柄の判断が重要になるので、その最高責任者を捜してほしいと、と言うことをたのまれました。条件は、@英語が出来る、A臨床経験がある、Bマネージメントが出来る、というものでした。私はかなり一生懸命に、各方面をさがしましたが、なかなかこの三つの条件を満たす人は得られませんでした。
その努力は、きわめて多岐に渡りましたので、中村氏としてもどの項目にどれだけという形でのお礼のしようがなかったのだと思いますが、月末に私の銀行口座に謝礼を振り込んできました。私がその口座を知らせたのか、家内がしたのか、私は記憶しておりませんでした。
そうして半年ぐらいがたってしまいましたが、ある日「こんな人が自薦してきたが、どうか」という問い合わせが来ました。その人は東大の医学部の卒業で、その当時は安田生命の保険医をいているということでした。また、保険統計士の資格を持っていました。名刺を見たら「証券アナリスト」とかいてありました。私の後輩に当たるので、学校の雰囲気は知っているつもりでしたが、証券アナリストと名刺に書くこと自身に不安を覚え、ちょうどそのとき安田生命には友人がいたので、彼についての評価を調べてもらいました。帰ってきた答えは、「大変頭は良いが人格は未熟である」というものでした。ですから、そのように中村さんには伝えました。
結果的には、日本人のスタッフは反対したようですが、アメリカ人のスタッフが強く押したので、彼が採用されました。
しかし、その後、彼の部下達は次々に辞め、彼自身も昼間外出しては株取引をしていたようで、ついに会社は彼を解雇しました。それに対して彼は地位保全の訴えをし、争いました。その争いを有利に進めるために、当時エイズ問題でマスコミにたたかれていた私を持ち出したようです。
ある時、突然に赤旗の日曜版の記者が取材にやってきました。そんなことからマスコミにを報道されました。
当時の状況下でしたので、大学当局をはじめ文部省まで、厳罰をもって臨めとの方針だったようです。結局、その半年間の定期的に謝礼を受け取ったのが兼業と見なされ、戒告処分となりました。また、私がユナムの人と教授室で会った時間の給与の返還をさせられました。私としても、その当時の状況下では恭順の態度を取る以外にはなく、私もそれを受け入れました。そして定期的に振り込まれた分は、会社に返すよりも良いと思って、ある団体に寄付しました。ちなみに、税務処理についてはきちんと行っていたことを付け加えます。
N氏は、それを「わいろ」として、立て看板を構内の至るところに立て、また多くのびらに書きたては、私の教授室や教室のある医学部三号館のロビーなどで学生らにも配りました。エイズの問題については私はできるだけのことをしたという確信がありましたが、この件は、学生の前で講義をすることが仕事である私には、本当に耐えがたいことでした。
私は、立て看板についても、大学当局に何度も撤去をお願いしましたが、清掃日を決めて撤去はしますが、「私物だから壊すことはできない」とのことで、設置場所から移動させるだけなので、温品氏によってまたすぐもとの場所に戻されました。そして、赤門前の立て看板には私の大きな写真まで拡大コピーして貼りつけたのです。
その結果、私が退職後の職場として内ないに進んでいた話も立ち消えになり、私は自分の専門の研究教育を続けることが出来なくなりました。これも極めて残念なことです。
私はおそらく戦争の記憶がある最後の世代に属する教授だろうと思います。かつてファシズムが日本に吹き荒れ、ジャーナリズムも戦争を煽って、その旋風は大学の中に入り込み、東大からも多くの若者が戦争にかりだされ、その命を失いました。私は戦争実体験を持っているわけではありませんが、「聞けわだつみの声」を読み、映画を見て号泣したことは、私の戦争体験お重要な部分を占めています。私は、学問の府である大学を二度とそのような場にしてはならないと思います。従いまして、大学における彼のこの一連の行動は、絶対に許されるべきではないと思います。
2000年7月11日
郡司篤晃 印
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