郡 司 氏 の 控 訴 審 答 弁 書

この準備書面は2001年3月15日の控訴審第1回公判で提出されたものです。


平成12年(ネ)第6021号 損害賠償等請求控訴事件

控訴人  N    氏

被控訴人 郡司篤晃

2001年3月15日

東京高等裁判所第8民事部御中
                                

被控訴人訴訟代理人 弁護士 弘中惇一郎
 同                 喜多村洋一
 同                 飯田 正剛
 同                 坂井   眞
 同                 加城 千波

答弁書(準備書面)

(控訴の趣旨に対する答弁)


第1 控訴人の立論の基本的誤り

  原判決は、本件立て看板の内容を検討するにあたって、エイズとの関係では、「被控訴人には薬害エイズ事件の発生及び結果に対して重大な責任が存在し、エイズ被害者に謝罪すべきである」旨の記載と、「殺人政策」との記載に大別し、それぞれについて、名誉毀損該当性と名誉毀損成立阻却要件の有無を検討している(原判決35頁以下及び42頁以下)。そのうえで、原判決は、両者の記載とも、その内容は真実ではないと認定し、他方、相当性については、前者についてこれを認め、後者についてはこれを認めなかった。

  控訴人は、原判決が上記のような区分を設けた点を論難し、控訴人の一連の立て看板は、エイズ事件における被控訴人の責任を指摘するものであり、両者ともに控訴人の意見ないし論評であると主張する。

  しかし、原判決が正しく指摘するとおり(原判決35〜36頁)、ある表現が人の社会的評価を低下させるものであれば、その表現が事実を摘示するものであるか、意見ないし論評を表明するものであるかを問わず、名誉毀損は成立するのであり、控訴人が言う「立て看板の内容は、被控訴人の責任についての控訴人の意見ないし論評である」との主張は、それだけでは控訴人の責任を否定するものではなく、法的には無意味である。

  控訴人が、意見ないし論評であると主張する真意は、原判決で名誉毀損の成立が認められた「殺人政策」との記述が意見ないし論評であり、これについては「[人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したか否かという]逸脱の基準で処理すべきであって、[意見内容の]合理性は要求されない」(控訴理由書9頁)から、控訴人は名誉毀損の責任を負わないとする点にあるものと思われる。

  しかし、「殺人政策」との記載に関する上記のような主張は、控訴人が引用する最高裁平成9年9月9日第3小法廷判決(民集51巻8号3804頁)の解釈を誤るものである。同判決は、ある表現が事実を摘示するものであるか、あるいは意見ないし論評の表明であるかの区別は、「証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項を主張しているもの」と理解されるか否かであるとして、その判断にあたっては、「当該部分の前後の文脈や、記事の公表当時に一般の読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行うか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないしえん曲に前記事項[証拠等をもってその存否を決することが可能な他人に関する特定の事項]を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また・・・当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である」と判示した。

  そして、「郡司戒告教授は血友病患者1800人『殺人政策』の責任を取れ!」等と記載された立て看板1が設置された平成9年10月頃までには、被控訴人が昭和57年ないし59年頃、厚生省薬務局生物製剤課長の職にあったこと、非加熱製剤の使用によって血友病患者にHIV感染者、エイズ発症者が大量に発生したこと等が広く知られていたのであるから、上記の立て看板1の記載は、@被控訴人が、殺人政策を採ったという事実主張と、A被控訴人は、そのような政策を採ったことに責任を負うべきであるとの意見ないし論評が含まれると解される。

  立て看板1における見出しのように短い表現の中に、事実主張と、意見ないし論評が共に含まれることは珍しいことではない。たとえば、上記の平成9年最高裁判決の事案は、いわゆるロス疑惑事件で殺人ないし殺人未遂の嫌疑がかけられていた者(X)について、夕刊紙が「『Xは極悪人、死刑よ』」との見出しの記事を掲載したというものであったが、最高裁は、上記見出しは、「[某女]の談話の紹介の形式により、Xがこれらの犯罪を犯したと断定的に主張し、右事実を摘示するとともに、同事実を前提にその行為の悪性を強調する意見ないし論評を公表したものと解するのが相当である」としたのである(ちなみに、控訴人は、「平成9年9月9曰最高裁判決の公務員が公立小学校の教師である」とするが[控訴理由書8頁]、平成9年判決の原告は公務員ではなく犯罪の被疑者であり、公立小学校の教師が原告となった事案は、最高裁平成元年12月21日判決である)。これと対比しても、「郡司・・教授は・・『殺人政策』の責任を取れ!」という立て看板1が、被控訴人が殺人政策を採ったと「断定的に主張し、右事案を摘示するとともに、同事案を前提にその行為」に対する責任を追及する意見ないし論評という、事実言明及び意見言明の双方が合体した表現であることは明らかである。そして、「殺人」とは、人を殺すことであり、「殺す」とは、人の死という結果を望み、少なくともそれを認容していることが必要であるから、原判決が述べるとおり、上記の立て看板1は、被控訴人が、「エイズ被害の発生を認識して、被害者が死亡することを表象、認容していたにもかかわらず、エイズに関する厚生省としての政策を実行した」(原判決59頁)との事実を摘示したものである。

  したがって、控訴人が、名誉毀損の責を免れるためには、上記の事実の真実性、または控訴人がその内容を事実と誤信することについての相当性を立証しなければならないことは当然である。このように、「殺人政策」という立て看板の表現は、被控訴人がそのような政策を採ったとの事実を摘示するものであるから、これを意見ないし論評とする控訴人の主張は、既にして立論の出発点から誤っていると言わざるを得ない。「殺人政策」と括弧に括って表現しているのは、意見や論評であることを物語るとの控訴人の主張(控訴理由書5頁)は、何ら根拠のない独自の主張であると共に、平成9年最高裁判決が明らかにした「意見の前提としての事実主張の存在」を無視するものである。

  上記のとおり、「殺人政策」が事実主張である以上、このような表現についての責任の有無が、意見ないし論評の違法性阻却事由である「逸脱の基準で処理すベきであ[る]」(控訴理由書9頁)との主張が成り立ち得ないことは明白である。

  控訴人は、被控訴人が公務員であったことから、これに対する批判は自由であるべきであるとし、米国の名誉毀損法制を援用する。しかし、日本においては、表現の自由と対象者の人格権をどのように調和させるベきかについては、最高裁昭和41年6月23日第1小法廷判決(民集20巻5号1118頁)、最高裁平成元年12月21日第1小法廷判決(民集43巻12号2252頁)などを経て、上記の最高裁平成9年判決に至っているのであり、他国の制度を無批判に援用することは不相当である。たとえば、控訴人は、ニューヨークタイムズ対サリバン事件判決(1964年)において、ブレナン判事が「真実性」の抗弁では不十分であると述べた箇所を引用するが、表現内容が真実である場合にしか抗弁が認められないことにより、表現の自由が制限される危険性に対しては、日本では、、最高裁昭和41(1966)年判決以来、相当性が認められれば抗弁が成立することとして解決されているのである。

  控訴人は、この相当性について、「政治に対する表現の自由が相当性の制約を受けることは基本権たる表現の自由の制限に他ならない」(控訴理由書9頁)とするが、上記のとおり、相当性の理論は、これが認められる以前は真実であることの証明ができた場合しか抗弁が認められなかったことと比して、たとえ事実とは異なっていてもこれを真実と信じるについて相当の理由があることを証明できれば抗弁の成立を認めるとするものであるから、表現の自由を伸長する理論である。これを「表現の自由の制限」であるとし、相当性による「表現の自由の制限」を認めないとすれば、控訴人は、どのような表現であっても、それがいかに不合理な誤りを含むものであろうとも、名誉毀損は成立しないとの立場を採るべきであると主張するのであろうか。どのような考え方に立つにせよ、相当性が「表現の自由の制限」であるとの控訴人の主張が、日本の最高裁の考え方と全く異なるものであることは明らかであろう。

  また、控訴人は、「被害者の類型によって名誉毀損の要件を異にするという判例が積み重ねてきた法理」(控訴理由書9頁)と主張するが、これが何を指すかも不明である。米国のように公人と私人を峻別し、そのいずれであるかによって、原、被告のどちらがどのような立証責任を負うかを異ならせている法制では、上記のような主張もできようが、日本においては、そのような分け方をしていないのである。

  以上を要するに、控訴人は、本件立て看板に記載された「殺人政策」との記載が事実を摘示するものであることを認識せず、意見ないし論評における抗弁をあてはめようとしたところに根本的な誤りがあるのであり、控訴人のその他の主張は日本における確立した判例に反する独自の主張と言わざるを得ないのである。


第2 「殺人政策」について

  1 はじめに

 控訴人は、被控訴人について、@一方において、1983年当時非加熱製剤は、直ちに使用禁止にされるベきことが明らかであったのにあえて使用継続を推進し、A他方において、その結果血友病患者が多数エイズに罹患し死亡することを容認しつつ、血友病患者を「管理」して感染が他の国民に波及しないという方針をとったとし、これをもって「殺人政策」としている。そして、控訴審においてもなおこの主張を維持している。

 しかしながら、この主張は、まったく事実とかけ離れたものである上に、その内容自体甚だしく条理に反し、しかも裏付けるべき事実もないものである。いまだにこのような主張を維持すること自体に、控訴人の被控訴人に対する理由なき悪意、事実を無視した独善性が如実に示されているものである。以下述べる。

  2 非加熱製剤の使用

   1)控訴人は、その立論の前提として、クリオや非加熱製剤による治療は血友病患者の生死には関係のない程度のものであったとする(準備書面11べージ)。しかし、これはまったくの誤りである。クリオや非加熱製剤による治療が行われる以前には、血友病患者の大多数は成人を迎えることなく出血死していたのであり、平均寿命は20歳を下回っていたのである。また、クリオと濃縮製剤とでは、使いやすさの大きな違いのみならず、その治療効果にも圧倒的な差があり、生活のレベルの差を含めて、濃縮製剤は「大きな福音」とまで言われたのである。

  2)控訴人は、1982年段階で非加熱製剤使用継続によるエイズ発症の危険は明らかになっており、もはやそれが使用禁止されるベきことは明らかであったとし、それを立論の前提としている。しかし、そのような事実はまったくない。実際、血友病治療にておいて唯一の国際機関であるWFH(世界血友病連盟)は1983年、1984年の国際会議で、その時点までの情報を検討した上で非加熱製剤の使用継続を認めているのである。米国を含めて、世界各国においても「非加熱製剤使用禁止」などを打ち出した国はない。それどころか、たとえば、米国のNHF(米国血友病財団)は、1985年3月に、CDCとの協力を得て作成した患者向けパンフレットにおいても、濃縮血液製剤による治療を控えれば出血による死亡や身体障害に陥る率が上昇する危険が高く、それほど高いとは思われないエイズのリスクを考慮しても、その使用を継続すべきとしているのである。

  3)厚生大臣が、現に使用されている医薬品を使用禁止するべきなのは、その医薬品の効果をはるかに上回る危険性があることが判明したという場合である。

  より具体的には、@効果がないことが判明したり、あるいは効果はあっても同等以上の代替医薬品が存在している場合。この場合には、危険性の存在が多少とも認められれば使用禁止にすることは合理的である。

  A同等以上の代替医薬品が存在しない場合には、危険性に対して、家庭用医薬品とはせずに医師の処方のもとでのみ使用を認める(薬事法の要指示薬にする)とか、使用上の注意を明記して使用を認める、というのが一般である。劇薬・毒薬でさえ使用禁止とはされていないのであり、危険なものをすべて使用禁止にするなどということは医薬品の何たるかをまったく理解しない発想である。

  B危険性が顕著で、かつ医師において、メリット・デメリットを考慮して使用することができないような例外的な場合に、はじめて使用禁止が問題になる。この「危険性顕著」ということには、当然のことながら、その発症率が問題になる。たとえば、麻酔薬はまれに致命的な合併症をもたらすが、だからと言って、麻酔薬の使用を禁止するなどという考えはない。

  4)本件について言えば、濃縮血液製剤は、血友病治療に不可欠であり、代替医薬品も存在しなかった。非加熱濃縮製剤の代替医薬品は加熱濃縮製剤であり、それが使用可能になるまでは代替医薬品はなかったのである。

   他方で、血液製剤とエイズとの問題は懸念されてはいたが、その感染率ないし発症率はきわめて低いと考えられていた。控訴人は、わが国にエイズ患者がいるか否かを問題にするのではなく直ちに使用禁止すべきであったと主張(準備書面21ぺージ)するが、これは、メリット、デメリットを考慮して医薬品の使用継続を決めるという基本的な考えと相容れないものである。そして、控訴人は、わが国にエイズ患者がゼロかせいぜい一人という考えはおかしいとし、「多数の潜在患者の存在が推定された」と主張(21ぺージ)しているが、メリット・デメリットを考慮するときに、現実に患者がいるのか否か、あるいはどの程度いるのかを問題にしないというのは基本的に誤っている。また、当時、「多数の潜在患者の存在が推定された」などという事実はまったくない。

  5)そもそも、血友病治療は、少数の専門家が中心になって行っていたのである。当然のことながら、それらの専門家は、諸外国の臨床や研究状況も常に念頭におきながら、何が最善の治療かを日夜考えていたものである。非加熱濃縮製剤の前にはクリオが使われており、かつ、クリオはわが国に存在していた。したがって、それらの専門医が、メリットとデメリットとを考慮すると非加熱濃縮製剤の使用をやめてクリオに戻すベきと考えたのであれば、直ちにそれは実行可能であった。何も、非加熱製剤の使用禁止などという強権発動をするまでもなかった。しかしながら、わが国内外の専門医はクリオに戻すことは不適切であり、非加熱濃縮製剤使用継続をすベきと判断したのである。

  6)控訴人は、乙25号証を引用して、非加熱製剤使用継続を規定方針としていたと非難する。しかしながら、この時点で非加熱使用継続(換言すれば、使用禁止などの強権を発動するだけの根拠がないことの確認)をしたこと自体、誤りではなかったことは上述のとおりである。さらに、「超法規的な措置をとらない」とするのは、換言すれば、法を無視した行政をしないということであり、法治主義国家の行政官としては当然の発想であり、これを非難される理由はない。

   また、被控訴人が、研究班を設置し、専門家の意見を聞いたり、さまざまの調査を行って、それに基づいて方針を決めようとしていたことは証拠上明らかであり、専門家の意見や調査結果の如何にかかわらず非加熱使用継続を決めていたなどという事実はまったくない。また、そのような理不尽なことをあらかじめ決めるべき理由もない。

 3 患者の「管理」

 控訴人は、乙21号証、乙23号証などに存在する「血友病患者の管理」という字句を勝手に解釈して、これを血友病患者についてはエイズの罹患を放置し、ただ患者を管理して感染が他の市民に及ばないという考えである、と非難する。しかし、この字句をそのように理解することは到底できない。そもそも、強制入院させられているわけでもない血友病患者をそのような意味で「管理」することなどできるはずがない。当時は、ウイルスも同定されておらずその感染力も感染方法も不明であったのであり、多数の血友病患者が感染したとして、どのように「管理」すればそれが他の市民に波及しない、などと言えるのか、ほとんど滑稽とさえ言える発想である。この「管理」という意味が、当時、相対的にエイズ感染の危険が高いとされていたグループの一つである血友病患者について、持続的に観察を続けるという意味以外にないことは自明である。


第3 控訴趣意書「第3」に対する反論

 1 第2項について

 控訴人は、原判決の判断に重大な誤りが存すると主張するが、そのような誤りは一切存しない。

  (1) 同項(1)について

   原判決は、前提事実と意見・論評を明確に区別しているし(たとえば原判決42ページ)、本件立看板が東大本郷キャンパスに掲出された事実も考慮している(たとえば原判決61ぺージ)。したがって、この点に関する控訴人の主張は理由がない。

   また、控訴人は、原判決が「ワイロ」の意味を極めて狭く解したと主張するが、この点は、そもそも控訴人が「ワイロ」の意味を、独自なものとして我田引水的に主張しているに過きず(原審原告準備書面(二)11ぺージ、同(四)16〜17ページ)、したがってこの点も理由がない。

  (2) 同項(2)について

   ここでの控訴人の主張は、本件とは何らの関連性もない。前提として指摘しておくが、控訴人は、「被控訴人が一私企業の営業活動の便宜 を図り、その対価として300万円以上に上る多額の金員を収受した」と述べているが、どのような証拠に基づいてこのような誤った主張をなすのか、被控訴人としてはまったく不可解としか言いようがない。上記の下線をひいた2箇所については、準備書面に名を借りて被控訴人に対する新たな誹謗中傷にわたる主張をなしていると判断されても致し方のない不用意な主張である。

   さて、控訴人はそのような誤った事実を前提に、何らの証拠もなく「言うまでもない」などと結論付けているが、そのような主張には何の意味もないというベきである。

   ところで、控訴人は、ここで「学問の自由」から「教員の職業倫理」を導き、さらには「大学教官の職業倫理」を持ち出しているが、それらの主張と本件立看板で問題になっている「ワイロ」の収受とが、いったいどのようにかかわるかについては何ら具体的に主張していない。そしてそのような具体的な関連を主張することなく、控訴人は、「学問の自由」、「教員の職業倫理」、「大学教官の職業倫理」についての独自の主張なした後、突然、「東京大学では賄賂に関する職業倫理が『倫理綱領』として具体化されている」と結論付ける。しかし、控訴人が「倫理綱領」のいったいどの部分を指して「賄賂に関する職業倫理」を規定しているとするのかは、明らかにされていない。

   そもそも、ユナム社との関係で問題とされたのは兼業禁止の問題であって、控訴人がここで問題にしている「賄賂」問題としてではない。そして、乙第67号証においても、「I 教官倫理の基本理念」が(3)(公務員の収賄禁止)として賄賂問題を取り上げているのは事実であるが、本件と関連するのは別項目である「U 点検すべき事項」の中の「(3)教官の専門性に基づくサービスの提供について」と「(5)兼業等について」二項目であって、そこでは控訴人が問題とするような「賄賂に関する職業倫理」などについてはまったく触れらていない。したがって、上記の控訴人の主張は、意図的だかどうかはともかく、問題点を混同して論じているにすぎず、主張としてはまったく意味がない。さらに控訴人は「大学の自治」を持ち出しているが、被控訴人も原審判決も、「学内での自由な言論が保証されなければならない」ことを否定するものではないから、この主張もまったく意味がない。

  (3) 同項(3)について

   控訴人は、「ワイロ」という表現は、東大本郷キャンパス内においては「東大教官の倫理綱領に違反した金員の収受である」と解釈されなければならないとする。しかし、この点については何らの根拠もないばかりか、東大の倫理綱領の規定の仕方にも反するので、まったく理由がない。

   すなわち、乙第67号証は、上記の通り賄賂については「I 教官倫理の基本理念」(3)(公務員の収賄禁止)」において定め、「収賄とは、『公務員が』『その職務に関し』『賄賂』(職務に関する行為の対価としての不正の利益)を『収受、要求または約束』することである」と明確に規定しているのである。したがって、このように明確な大学の見解が存在しているにもかかわらず、「ワイロ」という表現は、東大本郷キャンパス内においては「東大教官の倫理綱領に違反した金員の収受である」と解釈されなければならないとする被告の主張は、まったく根拠のないものといわざるを得ないのである。

   原審判決が、岡光元次官との対比での記載されたビラの内容を指摘している点はまったく正当である。控訴人は、ビラの中で「倫理綱領違反」を指摘しているから「ワイロ」と記載しても賄賂について述べたのではないと主張するが、当時被控訴人が倫理綱領に関して問題とされたのは上記のとおり賄賂に関連してではなく、直接的には倫理綱領のUの「(5)兼業等について」であり、仮に広げるとしても「(3)教官の専門性に基づくサービスの提供について」との関係が生じるにすぎず、「I 教官倫理の基本理念」(3)(公務員の収賄禁止)」との関連では何ら問題とされていなかったのである。したがって、控訴人がビラの中で「倫理綱領違反」を指摘していたからといって、それだけでは「ワイロ」という記載が正当化されるものではない。まして、上記の倫理綱領における「賄賂」の定義を前提とすれば、控訴人の主張が成り立たないことは明白である。

   したがって、原判決のこの点の判断には何らの事実誤認もない。

  (4) 同項(4)について

   控訴人は、「厳密な意味での『賄賂罪』に該当するかどうかは問題ではない」と主張する。しかし、控訴人も原審判決も、「厳密な意味で」、「賄賂罪に該当するかどうか」を問題にしたことは一度もないのであるから、意味のない主張である。

   また、東大倫理綱領が「『賄賂』(職務に関する行為の対価としての不正の利益)と定めていることはすでに指摘したとおりである。したがって、それ以上に架空の「ワイロ」概念について論じても意味がない。

   控訴人が、@〜Cとして事実を挙げて主張している部分は、賄賂の意味を「公務員が職務に関して収受する違法な報酬と解した場合でも」としておきながら、そこにおける「職務に関して」及び「違法な」という要件の意味を、前者について「教授が専攻する専門分野に関連すること」、後者については「国家公務員法違反の行為」というふうに、控訴人「独自」の解釈をしたうえで、自己に有利な結論となるように当てはめを行っているにすぎないから、無意味である。

   賄賂という概念の一般的解釈はこのような控訴人独自のものではないからである。


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