郡 司 氏 の 陳 述 書
この陳述書は、2000年2月28日の第11回公判で提出されたものです。
平成10年(ワ)第18983号
陳 述 書
私は、左記の通り、陳述いたします。
2000年(平成12年)2月28日
郡 司 篤 晃
東京地方裁判所民事第36部合議係 御中
記
(目次)
第一 私の経歴について
第二 私の専門分野について
第三 厚生省について
第四 エイズ研究班について
第五 濃縮製剤について
第六 加熱血液製剤の「治験」について
第七 ユナム社の問題について
第八 本件立看板について
第九 本件立看板による私の損害について
第一○ その他
第一 私の経歴について
私の経歴は、別紙「経歴書」記載の通りです。
その概略を述べれば、私は、1970年(昭和45年)3月、東京大学の大学院を卒業後、東京女子医大に勤務しましたが、その後、1975年(昭和50年)4月1日、厚生省医務局総務課課長補佐、1978年(昭和53年)12月4日、環境庁企画調整局環境保健部保健業務課課長補佐、1980年(昭和55年)6月7日、鹿児島県衛生部長、1982年(昭和57年)8月27日、厚生省薬務局生物製剤課長、1984年(昭和59年)7月16日、厚生省保健医療局健康増進栄養課長に、それぞれ、就任した後、1985年(昭和60年)8月、東京大学医学部教授になりました。
そして、1998年(平成10年)4月1日から現在まで、聖学院大学総合研究所の教授をつとめております。
第二 私の専門分野について
私の専門分野ですが、東京大学の大学院では、公衆衛生を専攻しました。
前述の通り、私は、大学院を卒業後、東京女子医大の「日本心臓血圧研究所」の研究部に勤務するようになり、そこでは、循環器外科の基礎研究をやっていました。
その後、私は、厚生省などに勤務した後、東京大学医学部教授になりましたが、このとき、「医学部」「保健学科」の「保健管理」という教室の教授でした。
私は、ここで、保健管理教室を主宰し、主に医療行政と健康管理についての研究を行っていました。
第三 厚生省について
一 製剤課課長について
前述の通り、私は、1982年(昭和57年)8月27日から、1984年(昭和59年)7月15日まで、厚生省薬務局生物製剤課課長でした。
したがって、私は、厚生省薬務局生物製剤課課長をやめた1984年(昭和59年)7月16日以降においては、エイズあるいは血液製剤の問題には全くタッチしていません。
二 1983年(昭和58年)7月5日の血友病患者さんの死亡など
ところで、1983年(昭和58年)7月5日、血友病の患者さんが亡くなりましたが、これによって、エイズ研究班の方針が変わった、というようなことはありません。
また、同年7月4日から7月11日に方針が逆転した、という事実もありません。
おそらく、当時の藤崎課長補佐の「メモ」を見て、「7月4日から7月11日に方針が逆転した」などというような話が出てくるのてしょうが、それは、全く事実に反しています。
藤崎課長補佐は、当時、いろいろなアイデアをメモしていたようですが、そのメモを見て、「厚生省の方針が変わった」などということはできません。
そもそも、そのメモは、藤崎課長捕佐のアイデアであって、決して、「厚生省の方針」ではありません。
また、いろいろなアイデアのメモであって、「逆転した」というようなものではありません。
三 一律輸入禁止措置について
また、当時、厚生省が、「非加熱血液製剤」の「一律輸入禁止措置」を実施しようとした事実などありません。
確かに、一時、「フランスでは、非加熱血液製剤を一律輸入禁止にしている。」という情報が流れたことがありますが、そのとき、その情報を確認をしたところ、誤報であって、フランスにおいて、非加熱血液製剤を一律輸入禁止にしている事実はないことがわかりました。
四 輸入血漿量の把握について
当時、厚生省は、輸入血漿量を把握していました。
厚生省は、輸入血漿量について、データをとっていましたし、統計もまとめていました。
第四 エイズ研究班について
一 はじめに
1982年(昭和57年)の暮れの予算の作業をしているとき、私は、村上省三先生から、「こんな変な病気がアメリカではやっているよ。」という走り書きと一緒に二、三の資料が送られてきたのを、受け取りました。それを見てみますと、アメリカで、数百人(だいたい600人だったと思います)のエイズ患者というものが同性愛者の中に出ているということでした。
そして、その中に、3人だったと思いますけれども、血友病の患者さんが含まれているということでした。その「600分の3」というのは、明らかに母集団における割合よりも高いエイズ感染率ということになりますので、私としては、エイズ研究班をつくるとき、一つの危険として、研究しなければならないだろうなと思ったわけであります。
そして、私は、その予算作業が終わったら、直ちにこれに取り組もうと思って、実際にそれに取り組みましたが、この予算は、いわゆる「枠取り予算」でありますので、その中身を早急に決めて、大蔵省に合議して、そして先生方にお願いをして、次年度の予算化を待たずに、直ちに研究班にこぎつけたという経緯です。
前述した「経歴表」にもある通り、私は、生物製剤課の前において、鹿児島県衛生部、環境庁の企画調整局保険業務課というところに勤めておりました。その課自身は、いわゆる公害といわれているものの第一種、つまり大気汚染の問題をやっていましたが、その課の中に室というのがありまして、そこが第二種、つまり水系の汚染による公害、つまり「水俣病」とか「イタイイタイ病」を扱っていました。
大変な後始末行政でしたが、その水俣病におきましても、行政の対応が遅れたということが責められていました。私は、行政の対応が遅れると、事態が深刻な状態であることを身にしみて知っていましたので、このような危険、つまり村上先生の警告が「水俣病」のようなことになってはいけないというふうに思いましたので、できるだけ早く、この問題に取り組んだほうがいいと思って、取り組んだのです。
ニ エイズ研究班の活動目的
エイズ研究班の活動目的は、二つありました。一つ目は、エイズといわれれるものの危険を評価することであり、二つ目は、その危険の評価のうえにたって、日本の血友病の治療をどうするかということを調査研究して、審議するということです。
三 エイズ研究班の活動
そこで、エイズ研究班は、第1の活動として、エイズ患者の把握を早急に行うため、第一回と第二回の研究班会議の1箇月間に調査を行いました。
早急な調査とは、エイズ研究班が、全国の一定規模以上の病院に対して、「エイズ患者」がいないがどうか、調査を行い、それらの病院から報告を受けた症倒を検討しました。
そして、「エイズ患者」かどうかに関しては、最終的に、「帝京大学」の一症例が議論になりましたが、結論として、その症例は、アメリカで見るような典型的な「エイズ患者」とは言えないということになり、私は、日本において、エイズ患者はゼロ、もしくは仮に右症例がエイズ患者だとしてもわずか一例かもしれないということから、安心したのです。
さらに、「エイズ患者」を正確に把握するためには、「エイズ」の診断基準をきちんと作られなければならないことから、「エイズ診断基準小委員会」を設置しました。
また、血友病治療の調査研究の小委員会を設置することになりました。
第五 濃縮製剤について
一 濃縮製剤の重要性について
エイズ研究班を設置した当初、私は、前述した村上省三先生から送られた論文などの知識から、血友病の治療として、緊急避難として、クリオに戻る可能性を検討しなければならないと考えていました。
しかし、第一回血液製剤小委員会において、血友病治療を実際に担当している血友病専門医の先生方から、「血友病治療において、クリオから濃縮製剤になったことは、治療の進歩なんです。現在の治療の状況から考えた場合、クリオに戻ることはできません。」ということを教えられました。
つまり、血液製剤は、「全血」「血漿」「クリオ」「濃縮製剤」と進歩してきたのですが、クリオでは、点滴のため、病院にいかなければなりませんし、そもそも、止血効果も十分ではないうえに、副作用もあったのです。
ところが、濃縮製剤では、止血効果においても、副作用の危険においても、クリオと比べて、格段の進歩があり、さらに、濃縮製剤では、自己注射すれば、病院に来なくてもいいので、血友病の患者さんは、ほとんど健常人と同様に、日常生活をおくれるようになったのです。
つまり、「クオリティオブライフ」ということで、生活の質がより良くなって、濃縮製剤は、血友病患者さんに対して、大変な「福音」をもたらしたのです。
また、血友病の患者さんたちも、濃縮製剤の大きなメリットを考えて、血友病の治療は、濃縮製剤の使用を前提として、クリオに戻ることのないように、というような要望書を出しました。
二 濃縮製剤の危険性について
このように、当時、血友病治療を担当する血友病専門医にとって、濃縮製剤は、治療の中心であり、直ちに、その使用を中止にするような「危険性」を認識することはできなかったのです。今日、エイズの怖さ、その感染の結果による死亡という重大な事実からみれば、それは、大変残念なことですが、当時、濃縮製剤のメリットとリスクを考えれば、直ちに、使用を中止しなくてはいけないような危険性の情報は、なかったのです。
私自身、1983年(昭和57年)秋ころ、濃縮製剤の使用を中止すべき危険牲については、その危機意識が、急激に下がっていました。
というのは、@ 厚生省の調査、エイズ研究班の検討によっても、日本においては、エイズ患者さんが、ゼロか一名疑わしい患者さんがいるだけであり、A 血友病治療は変更すべきでないというのが専門家及び患者さんの意見であり、B ギャロが、1983年(昭和57年)5月、その原因はウィルスであり、HTLV1であるとの発表をしました。この発表によって、原因ウィルスが日本でいうATLVと同一であることから弱いウィルスであり、3000人に1人の発症率であり、やや安心するようになったのです。
また、エイズ研究班に属する先生方の濃縮製剤の危険性に関する意識は、同様に、低いものでした。
こうして、エイズ研究班は、当時の血友病治療として、濃縮製剤を基本とした治療を変えないという報告書をまとめました。もちろん、このような結論は、研究班において、全員の考え方であり、安部先生一人の考え方ではありませんでした。
当時、私も、このような考え方は妥当であると考えました。
エイズ患者が実際に多発していたアメリカにおいても、NHFという公的機関は、当時の血友病治療として、濃縮製剤を基本とした治療を変えないという考え方でした。
実際にも、当時、血友病治療医(専門医)の中で、濃縮製剤の使用を中止してクリオに戻るという治療方針の変更を取った専門医は、世界的に見ても、ほとんどいなかったのではないでしょうか。
また、当時、厚生省は、請外国のデータを集めましたが、そのデータを見ても、血友病治療において、濃縮製剤を使用しており、その使用を変更するということを行った国は、ありませんでした。
三 濃縮(非加熱)製剤の「一律輸入禁止」と加熱製剤の治験について
フランスにおいて、「非加熱製剤の一律輸入禁止」が実施されたという誤った情報が、流れたことがあります。
しかし、厚生省の調査により、フランスにおいて、「非加熱製剤の一律輸入禁止」が実施されたことはありませんでした。
ところで、「加熱処理製剤の使用を促進する」ということと、「非加熱製剤の使用継続」ということとは、矛盾するものではないのです。
日本だけでなく、諸外国においても、当時(1983年(昭和58年))、血友病の治療として、濃縮製剤は使用されており、また、加熱製剤のB型肝炎予防の有効性から、その使用が推進されていたのです。
さらに、前述したように、1983年(昭和58年)7月5日、血友病の患者さんが亡くなりましたが、これによって、エイズ研究班の方針が変わった、というようなことはありません。
また、そもそも、厚生省は、同年7月5日、患者さんが亡くなったことについて、報告を受けていませんでした。
第六 加熱血液製剤の「治験」について
一 治験の必要性
ところで、加熱製剤は、当初、B型肝炎対策から、技術的には、加熱処理ということが考えられましたが、日本では、肝炎ワクチンが製造承認直前であったことから、肝炎対策という理由だけで、加熱製剤に切り替えるということは、考えられませんでした。
しかし、その後、エイズ対策としても、加熱は有効ではないかということが言われるようになったのです。
そして、加熱血液製剤の治験についてですが、血液製剤小委員会は、加熱製剤を承認するためには、治験が必要であると考えていました。
というのは、血液製剤は、加熱をすると、たんぱく変牲が生じますので、いろいろな副作用やインヒビターの発生などが起こる可能性があることや、加熱により有効成分が失活する可能性があるため、その安全性や有効性を確認しなければならず、治験が必要であると考えたからです。
こうして、エイズ研究班では、治験が必要ないという人はいませんでした。
二 1983年(昭和58年)11月10日の説明会
1983年(昭和58年)11月10日、厚生省は、加熱製剤の治験に関する説明会を開いて、加熱製剤の治験に関する厚生省の考え方やその必要性などについて、説明が行われました。
このとき、私自身は、ミドリ十字が遅れている、というような認識はありませんでしたし、厚生省の中でも、ミドリ十字が、加熱製剤の治験において遅れているというような話を聞いたことはありません。
私は、加熱製剤について、従来のものを加熱するだけであるから、簡単な技術であって、「共同して治験を行うこと」も可能であろうと思っていました。
しかし、実際には、企業間の同意は得られませんでした。
三 外国における「承認」との関係
なお、アメリカにおいて、既に、「加熱血液製剤」として、承認、使用されている場合でも、日本においては、改めて、臨床試験が必要であることは、日本の薬事法の大原則であり、現在も変わっていません。
四 トラベノール社について
トラベノール社の加熱製剤ですが、B型肝炎予防に対する加熱の有効性の証明として、十分ではないなど、いろいろと問題があったのです。
五 いわゆる「一相試験」について
いわゆる「一相試験」というのは、「治験」の場合、原則として、行われるものであって、省略されるのは、あくまでも例外です。
血液製剤の場合、いわゆる「一相試験」が必要かどうかについて、薬事審議会において、必要説と不要説との議論があり、長年の懸案事項でした。
私自身が、1983年(昭和58年)5月当時、一相試験が必要であるかどうかについて、結論を出していませんでした。
最終的には、薬事審議会の結論として、「一相試験は必ずしも必要ではない。」ということになりました。
1983年(昭和58年)11月10日の厚生省の説明会においても、「一相試験は必ずしも必要ではない。」という説明が行われました。
ただ、この結論は、「一相試験をやってはいけない。」というものではありませんでしたが、実際には、「一相試験」を実施した会社もありました。
第七 ユナム社の問題について
本件において問題となっているユナム社の問題ですが、私の協力が不定期で多様だったため、私の友人が、一定期間定期的に、謝礼を振り込んだにすぎません。
しかし、大学当局から、「定期的であり、したがって、公務員の兼業禁止に該当する。」とされたのです。
つまり、ユナム社の問題は、公務員の兼業禁止に関する問題です。
言い換えれば、ユナム社の問題は、私が、大学教員の権限を利用したものではありません。 したがって、いわゆる賄賂などということではないのです。
一体、被告のNさんは、どのような根拠があって、ユナム社の問題を、ワイロなどと決めつけたのでしょうか。
第八 本件立着板について
一 本件立看板の設置について
本件立看板は、私が知っている限りですが、いわゆるHIV感染の問題が、マスコミによって報道されるようになった1996年(平成8年)11月ころから、1998年(平成10年)4月ころまで、約1年半にわたって、東京大学の構内(キャンパス)に設置されていました。
写真撮影報告書(甲第1号証ないし甲第10号証)を見ていただければ明らかな通り、本件立看板は、かなり大きなものであり、また、その文字も、人目を引くようなものです。
特に、本件立看板は、私の顔写真まで掲載していて、私のことを書いていることが、すぐに分かるようになっています。
二 本件立看板の内容について
本件立看板は、第一に、「私が厚生省薬務局生物製剤課課長時代に誤った政策をとり、その結果、いわゆる「薬害エイズ事件」を発生せしめたものであり、私には、この事件の発生及びその結果400名が死亡した事実に対して重大な責任がある」とするものであり、第二に、「私が、ユナム社から賄賂を収授した」というものです。
しかしながら、既に述べた通り、私は、厚生省薬務局生物製剤課課長時代に誤った政策をとったことはありませんし、その結果、いわゆる「薬害エイズ事件」を発生せしめたものでもありません。
つまり、私は、「薬害エイズ事件」の発生及びその結果400名が死亡した事実に対して、何ら責任を負うべきものではありません。
また、私は、ユナム社から賄賂を収受したこともありません。
このように、本件立看板の内容は、いずれにおいても、事実に反する記載がなされているのです。
第九 本件立看板による私の損害について
一 本件立看板の設置・内容について
前述した通り、本件立看板は、いわゆるHIV感染の問題が、マスコミによって報道されるようになった1996年(平成8年)11月ころから、1998年(平成10年)4月ころまで、約1年半にわたって、東京大学の構内(キャンパス)に設置されていました。そして、本件立看板は、その内容において、いずれも、事実に反する記載がなされているのです。
二 私の損害について
このような本件立看板により、私は、本当に、大きく深い痛手を蒙りました。
大学構内を歩いているとき、本件立看板が目に入ると、私は、いたたまれない気持ちになりました。
「どうして、こんな間違ったことを書いて、平気なんだろう。」
「この間題について、マスコミ報道を鵜呑みにするのではなく、自分自身で、どこまで調べて、考えて、書いたのだろう。」
「こんなことが許されるのだろうか。」
本件立看板によって、HIV感染の問題や、ユナム社の問題について、誤った情報が継続的に流されたということは、「暴力そのもの」ではないでしょうか。
私の人格を全否定するような本件立看板の存在は、私にとって、本当に、大きな侮辱でした。
第一○ その他
一 本件訴訟について
本件訴訟を起こすかどうかについて、私は、かなりの時間をかけて、考えました。
いわゆるHIV感染に関するマスコミ報道を見ると、大変一方的なものが多く、私は、様々な事実に反する報道をされて、本当に、辛い思いをしました。
本件訴訟を起こすことによって、さらに、私は、辛い思いをするのではないかと心配したのです。
しかし、私は、自らの尊厳をまもるために、また、HIV感染という重大な問題に関する歴史的な事実を歪めることのないように、本件訴訟を起こすことを決めました。
二 裁判所に理解していただきたいこと
最後に、HIV感染に関すろ報道に関して、一言、私の思うところを言います。
私も、HIV感染に関する報道において、様々な取材を受けて、いろいろな報道をされた一人です。
前述した通り、HIV感染は、多くの血友病患者さんの死という痛ましい結果となったものです。
しかし、このような重大な結果が起きたからこそ、情緒的な報道ではなく、客観的、科学的な事実に基づいて、報道をしてほしいと思います。
私も、このようなことが、二度とおきてはならないと思います。
しかし、そのような再発防止は、報道機関が「犯人」と勝手に決めつけた人を攻撃することによって、実現できるものではないと思います。
医学技術は、不完全なものであっても、旧来のものより改善されていれば、使わざるを得ないのです。
そのような医学の性質を理解した上で、さらに、再発防止のために、何をしなければならないのか、報道機関も、市民も、考えなければならないと思います。
私は、再発防止の一つとして、諸外国でやっているように、学術専門家(団体)を結集した調査チームが、科学的な事実に基づいて、このような事態が起きた原因・対策を調査・検討し、市民全体に、問題提起して、再発防止の実現に取り組む、という冷静な行動が必要だと思いますが、いまだ、日本において、HIV感染に関して、そのような観点から、問題提起をした学術団体や報道機関は、ありません。
私は、そのことを、本当に、残念に思います。
以上
経 歴 書
氏名:郡司篤晃
昭和40年3月 東京大学医学部卒業
昭和41年4月 医師国家試験合格
昭和45年3月 東京大学医学部 社会医学専門課程 卒業 医学博士学位取得
昭和45年4月 東京女子医科大学助手
昭和48年1月 東京女子医科大学講師
昭和50年2月 東京女子医科大学助教授
昭和50年4月1日 厚生省医務局総務課課長補佐
昭和53年12月4日 環境庁企画調整局環境保健部保健業務課課長補佐
昭和55年6月7日 鹿児島県衡生部長
昭和57年8月27日 厚生省薬務局生物製剤課長
昭和59年7月16日 厚生省保健医療局健康増進栄養課長
昭和60年8月27日 東京大学医学部教授
平成10年4月1日 聖学院大学総合研究所教授