欧州環境庁のレイト・レッスンズ報告書より

報告者:市民科学研究所・代表
上田昌文

 『レイト・レッスンズ―14の事例から学ぶ予防原則』(七つ森書館2005年)という本をご存じだろうか? 原著は、EUの独立行政庁として、環境問題に関して政策決定組織と加盟国へ客観的情報を提供することを目的としている欧州環境庁(EEA)が、2002年に発行した報告書「Late Lessons from early warnings: The Precautionary Principle 1896-2000」だが、この第2巻(Late lessons from early warnings: science, precaution, innovation/訳すと「早期警告からの遅ればせの教訓:科学、予防、革新」)が、2013年1月に公表された。全体は5部からなり(健康被害の教訓/生態系からの新たな教訓/新たな問題/コスト、正義、技術革新/科学とガバナンスのあり方)、初めの3部では20の事例研究がとりあげられている(鉛、テトラクロロエチレン、水俣病、ベリリウム、タバコ、塩化ビニル、農薬DBCP、ビスフェノールA、DDT、増強殺生物防汚剤、卵胞ホルモン剤(低容量ピル)、気候変動、洪水、生態系管理、ミツバチ消失、チェルノブイリと福島原発事故、遺伝子組み換え食品、特定外来生物種、携帯電話、ナノテクノロジー)。こうした事例に即して、これまでのリスク評価をレビューし、予防原則に照らした対応の進展具合や必要性を(事前警告が無視あるいは軽視された経緯の分析も含めて)検討している。福島原発事故への言及が含まれていることからわかるように、現時点での最新のデータを取り込んでいるのが大きな特徴の一つであり、環境や健康のリスクを考える上で非常に多くの示唆を得られるレポートになっている。40ページほどの要約編が付されており、化学物質問題市民研究会のウェブサイトにその翻訳が掲載されている。総論として、科学技術がこれまで以上に早く進化・普及していることに比して、環境や健康のリスクを認識し回避する素早い対応能力が得られていないことを警告し、予防原則に立脚することの重要性を訴えている。

バイオイニシアティブ・グループが働きかけ
 「携帯電話と脳腫瘍リスク:早期の警告、早期の行動?」と題した第21章は、このテーマの疫学研究をリードしてきたスウェーデンのハーデル博士(及び彼の同僚2名)が書いている。本文にも記されているように(545ページ)、EEAが報告書第1巻を出版した後、バイオイニシアティブグループ(電磁波研会報第80号5ページを参照のこと)が、EEAに接触をはかり、このテーマが早期警告が必要な事例に相当するだろうこと、そうみなせるだけの多くの証拠がそろいつつあることを、EEA側が認識するにいたったわけである。この翻訳は、市民科学研究室のウェブサイトに掲載している。EEAはその後、2007年、2009年、2011年に欧州議会において携帯電話の脳腫瘍リスクに関する予防的な勧告を公表してきた(本文にBox21.2として特記されている)。ハーデルはバイオイニシアティブグループの主たるメンバーの一人でもあり、周知のように、2011年にWHOに属する国際がん研究機関(IARC)が、携帯電話などから放射される無線周波数電磁波を「グループ2B(発がんをもたらす可能性あり)」に分類した際に、その根拠としたのが、IARCが主導した、国際共同疫学調査のインターフォン研究と、このハーデルらの疫学研究であった。

電磁波リスクへの見解が割れる理由を考察
 この章では、ハーデルが、まず自身の研究を「第1期1999年まで」「第2期2002−2006年」「第3期2007−2009年」「第4期2010年」「1997−2003年のプール分析(メタ・アナリシス)」に分けて、その結果を整理している。次に「子どもへのリスク」の節では、「20歳以前に携帯電話を使用し始めた者は、神経膠腫と聴神経腫の発症のハイリスクグループとなる」ことを示した、自分自身の研究と、それを否定する、他の研究とを突き合わせながら、子どもを対象とした種々の疫学研究が持つ難点を考察している。続く「インターフォン研究」の節では、その結果をめぐる、研究実施者たちの意見の不一致と公表の遅れの原因を探っている。全体を通して興味深いのは、ハーデル自身の研究、インターフォン研究そしてIARCの2B評価のそれぞれの結論に対して、異論や別の解釈を出している、いくつかの主要政府関連機関や業界関連団体をとりあげ、そうした見解が出てくる理由を、ハーデルなりに分析している点だ。疫学の専門的な議論も含まれているので、やや煩雑ではあろうが、「携帯電磁波と脳腫瘍の疫学」を大きく振り返りながら、今抱えている課題を知り、この先の見通しをつけるのには、役立つ内容となっている。例えば、スウェーデン、デンマーク、ロスアンジェルスのそれぞれのがん登録を用いた疫学研究で、その結論の違いに登録制度の項目立ての違いが反映している恐れがあり、そのことをふまえて結果を再解釈する必要があるとの指摘や、ハーデルといえども、「高周波曝露による発がんのメカニズムがわかっていない以上、(疫学で使うような)記述データだけでは限界が出てきてしまう」と認めている点などである。

なぜ各国政府は対応しないのか
 予防原則を考える上で、私たちが特に注目しておかねばならないのは、「IARCの2B評価が出たにもかかわらず、それを受けて、携帯電話使用に対して新たな予防的政策を打ち出した政府が、ほとんどないのは、なぜであろうか」という点であろう。ハーデルは次のように述べている(556ページ)。
 「(健康リスクがあることを指摘する)個々の研究者が正当な理由もなしに攻撃されるのは、これまでにアスベストや鉛やタバコで繰り返されてきたことだ。健康影響ありとの結果が公表されると、その結果を曖昧にする方法を用いて、あるいは、全体の文脈を無視して一つの結果だけを引合いに出して、研究全体に疑問を突きつけるのだ。」「高周波曝露の生物学的あるいは生態学的な影響は知られていないことが多くあり、それらを解明するための独立した研究がなんとしても必要である。」

非加熱作用の証拠を詳細に
 ハーデルは、本文の最後に、2012年10月にイタリアの最高裁で、仕事で携帯電話を長時間使用したことが、脳腫瘍の発症につながったとする、男性(60歳、2002年までの12年間に仕事で1日5〜6時間、携帯電話やコードレス電話を耳に当てて使い続けた)の訴えを認め、労災保険の支払いを命じる判決を下した、という事例に言及している。私たちは、これを単なる一つのエピソードとして、聞き流してしまうわけにはいかないだろう。ハーデルも紹介している、最近の論文集「電磁場と生体の間の非加熱影響とその作用メカニズム」(Giuliani, L. and Soffritti, M. (eds), 2010, Nonthermal effects and mechanisms of interaction between EMF and living matter: a selected summary. An ICEMS Monograph. Ramazzini Institute, Eur. J. Oncol.Library, vol. 5. )は、400ページも費やして、非加熱作用の存在を示す証拠をこれまでにないほど詳細にとりあげ、そのメカニズムを検討している。こうした最近の動向は、電磁波リスク認知の転換が迫れられていることを示す端的な例だと言えはしまいか。
 本書は、ここで紹介した携帯電磁波に限らず、環境健康リスクの問題の核心を衝く、極めて時宜を得た報告書である。大部ではあるが、いち早い全文の翻訳が望まれる。


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