●TOPへ


日本軍性奴隷(慰安婦)台湾人被害者の   
     対日賠償請求運動の現状と発展    

                            台湾・台北市婦女救援基金会


 日本軍性奴隷の台湾人被害者の対日賠償請求運動は、1992年にはじまり、今年ですでに12年目に入っているが、初期の個別の認証調査や社会への提唱などは、今なお続けている。
平均83歳の年老いた阿媽たちは、日本政府の頑迷に責任を負おうとしない態度に向かって、国際会議と抗議告発をたゆまず続け、疲れはするものの、前進しようとしている。

 わたしたちが現在とりくんでいるのは、対日訴訟、阿媽たちの心身への配慮、日本軍性奴隷関係の資料の整理、学校や社会での情宣活動、国際運動などである。

 以下、それらの発展状況について述べる。

 

1、対日訴訟について

 

 2004年2月9日、日本の東京高等裁判所で、「日本政府に対する日本軍性奴隷被害者の賠償請求」の敗訴の判決を聞いたときのわたしたちの心痛、かなりのものだった。この敗訴の結果は、日本政府の態度が終始一貫して残酷無比であることを示していた。1999年に訴訟がはじまって以来、5年余りのあいだに、台湾の阿媽は68人から33人に減り、そのあげくに些かの人間性もなく、人権も尊重しない、このような結果を得たのだった。

 

 けれど、わたしたちは放棄することはできない。なぜなら「頑張ろう」「日本政府から正義をとり戻そう」というのが、台湾の阿媽たちを今まで支えてきたからだ。司法の道であれ、立法の道であれ、わたしたちはさらに東京高裁に上告し、さらに多くの日本の国会の有識者にはたらきかけ、この60年間未解決の戦後補償問題を解決する。

 

 2月9日午前11時10分、人々が席に着くか着かないうちに、東京高裁の裁判官は、さっさと宣告した。「本件控訴をいずれも棄却する。判決理由および事実は判決文で説明する。控訴費用は控訴人らの負担とする。」

 3秒にも満たない敗訴の判決だった。

 

 原告の台湾阿媽たちと、その場にいた全ての人たちが理解できないでいるうちに、裁判官はすばやく身を翻してたち去った。傍聴の日本人支援者も事の次第がわかると、怒りのあまり起立して裁判官に礼もしなかった。盧満妹阿媽も涙をこぼしていった。「こうなるとわかっていたら、来るんじゃなかった。」 傷心もし、憤慨もした彼女は、思わず日本政府を激しく非難した。「ばかやろう、人でなし。」

 満妹阿媽は叱責した。「17歳で騙されて連れていかれたのに、どうしてこんな判決なのか。日本政府に罪がないのなら、われわれに罪があるというのか。どうして、あんたたちに侮辱されなくちゃならないのか?」

 

 原住民タロコ族の阿媽・林沈中も悲しみをこめていった。「14、5歳で騙された。若かっただけ、受けた傷も深い。今でも全身が病み、痛む。身体全体がめちゃめちゃになっている。わたしはこの苦しみを忘れない。」

 

 鄭陳桃は泣きながらいった。「裁判に負けたからといって、わたしの心まで負かすことはできない。まだ学生だったときに拉致されて、日本軍の性奴隷にされ、一生をだいなしにされて、今は孤独に暮らしている。日本の裁判官はわたしたちに賠償する法律はないというが、それは戦後の法律だ。戦争中にわたしたちが受けた傷は、みんな自分の運が悪かったといってすませようとするのか?」

 

 高裁の敗訴判決のあと、阿媽たちは口々にいった。「このような無情な仕打ちをされて、わたしたちは放棄するわけにいかない。最高裁までつづけよう。」

 

 日本のボランティアの弁護団も、この結果に心を痛めた。団長の清水由規子弁護士はこう述べた。「裁判官が判決文を読みあげて、さっさと退廷するというのは、通常、死刑判決のときだけに見られるものだ。弱者を救済するのが司法なのに、このようなやりかたはこの精神にも違反しているし、被害者に二次被害を与えるものだ。わたしは、この判決は非常に悪い判決だと思う。」 藍谷弁護士はいった。「この度の判決には新意がない。高裁の裁判官は再度調査をおこない、案件をさらに明瞭にせねばならないのに、一審の判決を援用するだけにとどまっている。」

 

 番敦子弁護士もこういった。「毎回、原告の阿媽たちの涙を見ることになって、とても悲しい。この問題はすでに公認されている事実なのだから、裁判官は人間性を尊重した判決を出すべきだ。賠償や謝罪までとはいわないが、せめて事実認定だけでもすべきなのに、このようなひどい判決を出した。」

 

 廖英智婦援会理事長は述べている。「判決は、東京高等裁判所が被害者が過去に受けた傷に対していささかも同情していないことを、はっきりと意味している。当事者が法廷で陳述することを拒否したことは、非常に残酷なやりかただ。当事者の声を聞こうともしない、このような無情な対応と判決は、被害者に大きな傷害を与えることは疑いない。」。

 

 廖英智理事長はいう。「裁判所は法理に照らして本件を棄却したとはいえ、裁判官は司法制度の2項の重要使命に違反しており、非常に硬化した保守的な態度で判決を下し、正義をおこなう司法の使命をおろそかにした。しかし、われわれは放棄しない。さらに上告もするし、国会での立法をはたらきかけ、国際的支持を求める。」

 

 盧満妹阿媽は、この日の判決に大きな無力感を覚え、こういった。「もう79歳になって、今日は遠くからやってきた。長いあいだ裁判をしたのに、全然進展がなく、わたしの心は無力感と憤慨しかない。今日は、遠くからやって来た年老いたわたしたちに話もさせず、こんなに軽々しく扱われ、悲しくて仕方がない。わたしたち台湾の阿媽は、老いたものは老い、死ぬものは死に、病気のものは病み、歩けないものは歩けず、実際、非常につらい。わたしは現在まで生きてはいるが、もし、このままさらに引き延ばそうとするのなら、わたしも告発をつづけていく。死んでもつづける。わたしの息子も、孫も、わたしの告発に手を貸すだろう。」

 

 

2、学園での情宣活動計画:「阿媽の秘密」の学園での上映活動−−

「阿媽!GO!」大学での上映活動に前進

 

 日本軍性奴隷のテーマに含まれる範囲は広範囲で、戦時下の女性の人権問題、性奴隷とされた女性の問題、日本政府の犯罪問題、被害者の心のケアー、心身への配慮などの問題がある。このような歴史事実は、現在提起する人も少なく、日本政府もまた謝罪も責任をとることもしたがらない。日本軍の性奴隷とさせられた阿媽たちは、時の流れとともに数が減ってきて、かつて残酷な目にあわされたことを公開の場で訴えた阿媽たちのなかで、現在生き残っている人は36名にすぎない。彼女たちは歴史の証人であるが、現在まだ歴史は彼女たちに真相と正義と公正を返還していない。戦争で心身に傷を負った彼女たちは、人類の歴史に大きな教訓を残し、この教訓は台湾では、まだ後世の人たちに明らかにする機会を得ていない。

 

 一昨年、婦援会は、はじめて中学のキャンパスで情宣活動をおこない、熱烈な反響を得た。2年目の今年もつづけ、今まで3000人近い中学生が阿媽の歴史を知る機会を得た。台湾の阿媽たちは何度も韓国や日本へ行き、現地の大学生と対談し、若い世代に戦争の恐ろしさと史実を知らせ、若い学生たちの関心と反響を得てきた。

台湾の阿媽たちも、大学生との対談の機会をもち、台湾の若者にも歴史の真相に触れてもらうことを希望している。

 

 わたしたちは次世代の人々に、戦争の殺傷力と、性奴隷とされた女性たちに対する日本政府の罪業を明らかにし、人権は尊重すべきことを明らかにすべきである。このような歴史の真相は記録し、伝えていくべきで、そのため阿媽たちは、今年はじめて大学のキャンパスに入り、「生きた歴史」として現代の若い人たちに重要な歴史資料を伝え、今日まで3か所の大学で活動をおこなった。

 

 黄阿桃阿媽は大学のキャンパスで、生き残って家まで帰り着いた経験を語った。南洋の戦場から生きて台湾に戻り、母親に会ったとき、娘がすでに死んだと思っていた母親は、生きて帰ってきた娘を見ても信じられず、阿桃阿媽の顔と手を撫でまわし、冷たい幽霊ではないことを確認してから、やっと家に入れてくれた。阿桃阿媽がこのくだりを話したとき、阿桃阿媽が家を出たときと同じ年頃の大学生たちは、堪えきれずに涙を流し、阿媽のために悲しんだ。

 このような活動でも多くの支持を得て、阿媽たちの対日賠償請求運動の若い戦力となった。

 

3、口述歴史と映像の記録

 

 1992年、日本軍性暴力被害者の劉黄阿桃阿媽が、第2次大戦中に日本軍の性奴隷とさせられた悲惨な体験を、はじめて社会に公表し、台湾女性が遭遇したこの残酷な史実が、やっと日の目をみることとなり、66人の性奴隷被害者がつぎつぎと名乗り出て、日本政府を告発した。1998年には記録映画「阿媽の秘密」がつくられ、10名の阿媽が50年間心のなかにしまっていた秘密を記録した。1999年、台湾の阿媽は、ついに勇気をだして日本の東京へ行き、「日本政府に対する損害賠償請求」を提訴した。

 2004年、日本政府はまだ、この未解決の戦争被害者補償問題を解決しようとはしない。阿媽たちの対日賠償請求運動も休むわけにはいかない。しかし、多くの阿媽が寄る年波には勝てず、現在生き残っている阿媽は、わずか33名にすぎない。わたしたちも「生きた歴史」のすべての生活映像を残すことはできなかった。

 

 婦援会は毎年定期的に阿媽の心理治療のワークショップをおこなっている。それは全国唯一の「戦争と性暴力被害者の老婦人の心理治療」で、すでに7年間継続していている。阿媽たちは、同じ体験をした仲間たちと思いのかぎりを表現し、いままで美術治療、舞踏治療、音楽治療のなかで感動的な絵やすばらしい作品を残してきた。だが、当会の力には限りがあり,この価値あるものの映像記録を完全かつ専門的に完成できていない。

過去に受けた苦しみは、阿媽の身の上に消えない痛みを残し、阿媽たちのその後の生涯完全に塗り変えた。日本軍による暴虐の歴史を身をもって目撃し、経験し、いま最後に残った阿媽たち。わたしたちは、さらに多くの人の手で「阿媽の生命の映像の全記録」を制作し、後の世代に、正確かつ貴重な資料を残し、未来にふたたび同じように戦争が女性の人権を蹂躪する罪業が起こらないようにしたいと思う。

 

 撮影地は阿媽たちの生活の場と活動の場を主とし、カメラマンは、すでに阿媽と良好な信頼関係を結んでいる婦援会スタッフの立会いのもとで、阿媽の家へ行って撮影する。婦援会が毎年定期的におこなっている心理治療ワークショップにも、カメラマンを招いて全過程の記録を撮影する。阿媽たちの唯一の願いは、ただ普通の人の生活を送ることであるが、過去の悲惨な体験が、彼女たちの身の上に当然あるべきすべてのものを奪い、恐怖と耐えがたい思いでと悲しみと怒りだけを残した。こうした阿媽たちの生活を撮った写真が、戦争で生き残った人たちの勇気ある姿を示してくれたらと思う。

 

 後の世代にこの歴史の教訓を心に留めてもらうために、婦援会も、台湾で暮らす「日本軍性奴隷被害者」の生命の写真を、一冊の本にして出版し、一枚一枚の写真から、その女性の苦痛の体験を訴えたい。

 日本軍性奴隷被害者たちの対日補償請求運動は、いまだ日本政府の謝罪も賠償も勝ち取っていない。阿媽たちに遅れた正義と尊厳の回復を勝ち取るためには、持続して日本軍による性奴隷被害の史実を伝え、将来も国内外で巡回写真展を開き、学生や市民への情宣活動が必要である。

 

4、博物館建設計画

 

 わたしたちは、台湾に日本軍性奴隷記念館を設立することによって、女性の人権、生命の尊厳、世界平和など、多くの人類社会の発展に関するテーマに台湾の人々が関心を寄せることを希望する。

 「日本軍性奴隷記念館」は世界とアジアの女性の団体と女性の意識と連帯し、「人権」「生命の尊厳」「ジェンダー」「世界平和」など、人類社会発展課題観念の探究と実践をうちたて、強化し、欧米の発展と歩調を合わせることを願う。

 現在、われわれはこのテーマで国際交流をすすめ、未来を信じ、さらに「記念館」によって積極的な役割を発揮し、国際的な軌道と接し、人類社会の文明の発展のために新しい局面を切り開いている。

 

 かつて台湾では少なからぬ少女が父母によって売られ、娼婦に身を落とした。こうした少女たちを救援し、長期にわたって援助するために、熱心な弁護士、学者、ソーシャル・ワーカーなどが、1987年に「台湾婦女救援協会」を設立し、台湾での婦女売買の廃止の先鞭をつけ、娼婦に落とされる女性に対する社会の注目を喚起した。

 

 1992年後、日本軍性奴隷、強制労働、細菌戦など、第2次大戦中の被害で今まで未解決であった戦争責任問題が現れ、韓国、フィリピン、インドネシア、タイ、東チモール、中国大陸などで、日本軍性奴隷被害者たちが名乗り出て告発し、各国のアジアの被害者は連帯して行動し、国際世論の圧力を形成した。各国の被害者は、それぞれ日本政府に損害賠償請求を提訴し、国連人権委員会も日本政府がこれら被害者に責任を負い、賠償すべきことを決議した。

 

 アジア被害各国は、毎年多くの国際連帯会議を開催し、国際圧力を形成し、日本政府に戦争賠償責任を果たすよう要求する一方、史実を正し、各国に正確な歴史教材資料を提供している。現在、各国は等しくこの問題の重要性と意義深さを認め、そのなかに含まれた人権、平和、弱者への配慮などのテーマに注目している。資料の収集、保存と教育を現段階で重点をおき、韓国は政府と民間の協力で、1998年にはじめて日本軍性奴隷被害者をテーマとした「日本軍性奴隷歴史館」を設立し、今年は二つ目の日本軍性奴隷犠牲者生活記念館の建設を準備中である。阿媽たちの権利のために奮闘している台湾も、休んでいるわけにはいかない。

 

 台湾女性の権利のために働く婦援会は、日本軍性奴隷台湾人被害者と台湾女性の人権のために、歴史教育効果を兼ねた非営利の博物館をつくり、国内外の人々に学術、非学術団体に、日本軍性奴隷台湾人犠牲者問題と、台湾史における台湾女性の社会的地位と発展状況への理解を深めようと準備している。

 

 日本軍性奴隷記念館によって、台湾女性の権利が重視され、さらに多くの女性関連テーマにまで広げる。というのも、今日「日本軍性奴隷」問題は、単に台湾の年老いた生存者の問題だけでなく、アジアの被害国の女性が共通して直面している国際的なテーマだからである。このためアジアの女性団体と女性意識と連帯を強め、欧米のような活き活きした「女性の人権」観念をうちたて、強化したいと思う。

 

 

5、国際連帯行動の今後の発展と建議

 

(1)日本の国会へ立法の働きかけを強化する:対日賠償訴訟のほか、日本の国会での立法もひとつの重要な解決の道であり、国際連帯で圧力を形成しなければならない。各国の民間団体が連帯し、各国政府に圧力を加えることも必要だ。国際政治利益の圧力に屈服せず、日本の国会への働きかけを強化して、すみやかに賠償法案の特別立法を通過させ、被害者が生きているあいだに、被害者が正義と尊厳と名誉の遅すぎた回復をなしとげられるよう協力しなければならない。
 

(2)アジア地域の国際連帯会議の定期的活動:アジア被害各国の民間団体は、毎年定期的に活動し、2年毎に活動のテーマを定めている。また各国の対日賠償請求運動をすすめ、資料の収集、社会教育、国会への働きかけなど、明確なテーマで、各国の運動の方向は一致しており、さらに大きな国際的な力を結集することが可能である。
 

(3)大会決議と要求の情報によって、国連と欧米の人権団体に理解され、支持されている:欧米の人権団体と国連人権委員会による被害国の運動の把握は、支持と支援を広げている。 
 

(4)欧米の人権団体と密接に連絡をとる:国際人権団体との横の連絡と強力を拡大し、人権に関するテーマの範囲を広げ、全世界の反戦、女性の人権などのテーマの実践に、声援を送り、戦後補償問題の運動のレベルを引き上げる。

                                             (2004.12.4現在記)