台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 1999.10.16
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台湾元「慰安婦」損害賠償請求事件
訴 状
原告  高 寶珠、外8名
被告  国
1999年7月14日、東京地方裁判所に提出

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台湾元「慰安婦」損害賠償請求事件・訴状 (全文)

訴   状

当事者の表示  別紙当事者目録記載のとおり

台湾元「慰安婦」損害賠償請求事件

    請求金額 金 九〇〇〇万円

    貼用印紙額 金 三七万七六〇〇円


請 求 の 趣 旨

一 被告は、各原告に対し金一〇〇〇万円と、これに対する
   訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による
   金員を支払え。

二 被告は各原告に対し公式に謝罪せよ。

三 訴訟費用は被告の負担とする。

  との裁判並に仮執行の宣言を求める


請 求 の 原 因

目  次

第一 序
  一 はじめに

  二 戦後処理の状況

第二 台湾における日本の植民地支配

第三 日本軍の「慰安婦」制度
  一 「慰安婦」制度

  二 台湾における「慰安婦」制度

第四 原告らの被害事実

第五 損害賠償

第六 結語


第一 序

 一 はじめに

1 二〇世紀も残り一年有余で終わろうとしている。この世紀にあ
 って、わが国は台湾、朝鮮に対する植民地政策を遂行し、同地の
 人々に対して筆舌に尽くし難い艱難を強いてきた。同時に植民地
 政策は、今世紀最大の悲劇であった二度の世界大戦を招来させ、
 とりわけ第二次大戦においては、わが国の戦争政策がアジアをは
 じめとする様々な人々に多大の被害を及ぼした。わが国はこれら
 戦争の罪科に照らし、憲法で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫
 と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会におい
 て、名誉ある地位を占めたい」と決意したのである。しかるに、
 今世紀が終わろうとしている現在においても、戦争被害に対する
 処理が終わったとは到底言えない現状にある。とりわけ、本件で
 訴える「従軍慰安婦」については、戦争における最もおぞましい
 政策であり、その被害者らは長く自らの経験すら口外できない状
 態にあった。歴史の恥部として永遠に埋め込まれようとしていた
 かの如くである。戦争被害の処理においても、回復さるべき被害
 として俎上にのぼることなく推移してきた。

  一九九一年韓国の一女性がこの体験を告白するにおよんで、漸
 く人々の言の葉にのぼり、その罪科が白日の下にさらされるよう
 になった。何人かの献身的研究者によって、その内実も徐々に明
 らかにされている。本訴状においてもその一端を述べるものであ
 るが、その中で言えるのは、彼女らが、自らの被害を訴えるまで
 半世紀の年月を要したことは、女性に対する差別、性に対する偏
 見等様々な障害があった からである。その意味で、「慰安婦」と
 された女性らの被害は、戦争によるそれと、女性であるが故に受
 けたそれとの二重の被害であった。加えて、本件原告らは当時も
 台湾に生活して「慰安婦」とされた人達であり、植民地の住民と
 しての差別の下にあった。その中何人かは台湾先住民として同地
 の中でも更なる差別を強いられた結果が本件の被害となっている。
 いうなれば、二重はおろか三重、四重の差別の下に被害を強いら
 れたのである。

  「従軍慰安婦」の被害女性らによる訴えは、これまで七件が提
 起され、既に判決がなされたものもある。中でも一九九八年四月
 二七日山口地裁下関支部判決は、「これが(慰安婦の被害.代理
 人注)日本国憲法秩序の根幹的価値に関わる基本的人権の侵害を
 もたらしている」として、国の責任を認めた。今ここに本件原告
 らが訴えるのは、「慰安婦」とされたことによって侵害された人
 間としての尊厳を回復するためには、他に手段がないためである。
 長年にわたって、閉ざされ、無視されてきた忌まわしい戦争被害
 者に対する日本政府の責任を明確にし、被害者に対して誠実且つ
 正当な損害賠償をつくすことこそが、前記憲法の趣旨でもあり、
 日本が国際社会の中で真に信頼されるに至る道であり、現在に生
 きる者たちの将来でもある。


2 台湾における「慰安婦」調査

  一九九二年二月、日本の公文書から台湾籍「慰安婦」の存在が
 明らかとなったのを受けて、台北市婦女救援社会福利事業基金会
 は直ちに電話相談に取り組み、その後台湾政府は、「台湾籍慰安
 婦専門案件グループ」を設置し、この史実の調査究明に積極的取
 り組みを表明し、右基金会に対し、「慰安婦」の個別の調査、確
 認作業を委託した。

  右基金会は、元「慰安婦」として訴えた者を対象に、個別に訪
 問し、面と向かって話を聞き、仮に本人が死亡していた場合には
 家族を訪問し、調査を行った。その際、本人のプライバシー保護
 に留意しつつ、必要であれば再度訪問するという丁寧かつ精力的
 な活動が展開され、一九九三年六月、右基金会によって、訪問調
 査結果について詳細な報告書がまとめられた。

  右報告書によれば、六六件の訴えを受け付け、内五八件につい
 て訪問調査が実施された。また、その中で、「慰安婦」とは考え
 られない者が二名、確証が得られない者が八名、「慰安婦」ある
 いは「性奴隷」であったと確認できた者が四八名であったという。
 四八名中、被害者本人が生存していたのは三八名であり、徴集時
 の年齢は一六歳から二〇歳が最も多く二四名、二一歳から二五歳
 が一七名となっている。また、ブローカーによる徴集が過半数で
 あったが、中には役場や日本軍による場合もあった。そして、そ
 のほとんどが、「慰安婦」として徴集されたことを知らない騙さ
 れた者であり、中にはまさしく強制力で「連行」された者もいた。
 しかしながら、右調査によって明らかとなった「慰安婦」の数は
 全体のごく一部にすぎず、右元「慰安婦」たちの証言及び日本側
 資料に顕れた台湾女性の被害者数を合算すると、少なくとも七六
 六名もの台湾籍「慰安婦」がいたということになる、と右報告書
 は述べている。

  右基金会は、事実の調査、確認を目的として訪問調査を行った
 が、右報告書においては単なる調査結果だけでなく、元「慰安婦」
 たちの悲惨な状況を訴え、台湾政府に対し被害者らの救済を求め
 ると共に、日本政府に対して「慰安婦」問題に対する真摯かつ早
 急な解決を強く求めている。

  台湾政府は、右基金会を通じ、調査で明らかとなった元「慰安
 婦」たちに対し、支援金を交付し、右基金会は、その後も「慰安
 婦」たちの支援に積極的に取り組んでいる。

  一方、日本政府は、軍の関与を隠し続け、ようやく関与を認め
 たものの、依然として被害の実態の解明を行おうとせず、被害女
 性たちに対する賠償もなされないまま、すでに敗戦から五〇年余
 が経過しており、被害女性の老齢化、そして死亡という事態が深
 刻な現実となっている。

3 本訴訟の意義

  わが国が原告らに対して行ったことは、植民地支配の下で、
 下は一六、七歳からの若い女性たちを狩り集め、日本軍兵士た
 ちの性欲処理のための道具にしたということである。一日に数
 人、時には数一〇人もの兵士たちが、列をなして、自らの性的
 欲望を満たすために、いたいけな少女を含めて女性らに強姦、
 輪姦を繰り返した。原告らはこのような屈辱と苦難の日々を送
 らされた末に、敗戦と同時に、何の生活の保障もないままに放
 置され、遺棄されたのであった。

  原告らは、いまわしい過去の事実を口にすることもできず、
 隠れるようにして生きてきた。原告らにとって、この戦後の五
 〇余年の間は、戦争中「慰安婦」として辛酸を嘗めた日々に劣
 らず、苦悩にみちた歳月であった。

  その原告が、やがては訪れる死を間近にして、自らの存在の
 意味を問いかけている。「いったい、なぜ、私はこのような一
 生を送らねばならなかったのか」と・・・。

  戦後、五〇余年も経って今頃になって訴え出たのかとの声も
 あるが、原告らにとって、「慰安婦であった」という過去はあ
 まりにも重すぎる体験で語ることさえ苦痛であり、できること
 なら消してしまいたい過去だったのである。

  人生の終焉を目前に、今、勇気をもって過去の告発に踏み切
 った原告らに対して、それが遅きに失する告発だと責めること
 はできない。

  今、われわれに求められていることは、この原告らの訴えに
 対し、一人の人間として、誠実に答えることである。

  「従軍慰安婦」制度の開設、運営に関わった者、軍関係者、
 自らの性的欲望のために原告らを犯した多数の兵士たちばかり
 でなく、犠牲者に対する救済を放置し続けてきた日本政府、わ
 れわれ国民、すなわち、全員が過去に対して責任を負っている。
 わが国の戦後補償の極めてお粗末な現状は、直接的には政府の
 怠慢によるものだが、それを放置してきた国民一人一人に、そ
 の責任がある。その意味で、われわれ国民全員が、厳しく過去
 を認識し、その罪を償わねばならない。それは、一人一人の尊
 厳を具現し国際社会におけるわが国の名誉回復することでもあ
 る。

  日本国憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷
 従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際
 社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「いずれの
 国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
 とある。

  この憲法の精神に沿う英断が、裁判所によって下されること
 を切に希求する。


二 戦後処理の状況

1 我が国の戦後処理

  わが国では、植民地支配、中国、東南アジアの占領地住民に
 対する日本軍の残虐行為が存し、殊に一九三二年から第二次世
 界大戦終了時までに、日本政府と日本軍は、アジア地域全域に
 わたって数多くの女性に対して残虐な性暴力を行っていたこと
 が、被害女性からの告発によって明らかになりつつある。さま
 ざまな国の女性たちが、このような日本軍による性暴力被害に
 対する救済を求めて、名乗りを上げ、訴を提起している。

  このような女性たちの告発によって暴かれた日本軍による性
 暴力の実態は、軍の管理の下で、女性たちを強制または偽計に
 より連行し、いわゆる「慰安所」に監禁して、性奴隷にして強
 姦、輪姦を繰り返すというもので、その残虐性といい、規模の
 大きさといい、世界史上類稀な恥ずべき国家的犯罪である。

  これについては、わが国自身は、真相究明どころか事実周知
 のとおり、ポツダム宣言の受諾を決めると、軍および政府機関
 が真っ先に取り組んだことは、後に戦犯容疑で追及される恐れ
 のある証拠書類の焼却、湮滅であった。日本軍による性暴力の
 実態も、一九九〇年に韓国の女性団体によって告発を受けるま
 で、日本国は知らぬ顔を決め込んでいた。韓国女性団体の告発
 の後でさえも、事実を隠蔽しようとしたのである。

  このような日本政府の不誠実な態度に結局被害を受けた女性
 たちは、自ら「慰安婦」であったと名乗り出ることによって、
 日本政府に身をもって抗議した。「慰安婦」であったことは、
 彼女たちにとって、決して口外してはならない秘密であり、も
 し、そのようなことが露呈すれば、周囲から白眼視され、蔑ま
 れたからこそ、彼女たちは約五〇年間にわたって、重く口を閉
 ざしてきたのである。しかし全く自ら事実を認めようとしない
 日本政府の姿勢に、生き証人として自ら名乗り出ることを決意
 せざるを得なかった彼女たちの心中は察するに余りある。


  この苦渋に満ちた被害女性の告発に対し当初日本政府は、
 「慰安婦」制度を一切認めなかった。一九九〇年六月の国会答
 弁でも、政府は、「民間の業者が連れ歩いた」「実態はわからな
 い」などと自己の責任を否定した。
  「慰安婦」制度は、軍の関係者には公知の事実であった。南
 京大虐殺の後に、軍によって組織的に、第一線部隊に追随して
 押し進められたものであって、中曽根元首相も、自ら軍「慰安
 所」を開設したことをその回想記に記しているくらいである。
 したがって、少し調査をすれば、事実が究明できたはずである。
 後述のとおりその後の調査によって政府は一転して軍の関与や
 強制的徴集の事実を認めるに至っているのである。しかるに、
 政府は、自らの責任を棚上げにして、不届千万な態度に終始し
 ていたのであった。

  一九九二年一月に吉見義明中央大学教授が軍の関与を示す文
 書の存在を指摘したことが報道されるや、その翌日には、それ
 までの態度を一変し、日本軍の関与を認める官房長官談話を発
 表した。しかし、強制徴集については、「資料は発見されてい
 ない」と述べ、責任回避の姿勢を継続した。

  ところが、一九九三年三月、韓国の金泳三大統領が「日本に
 物質的補償を求めない」との方針を明らかにし、「真相究明」
 の重要性を言及したのに対し「強制性の認定」へと傾き、同年
 七月末、急遽被害者らに対する聞き取り調査を行い(それまで
 政府は聞き取り調査の必要性を否定していた)、あっさりと「強
 制性」を認める第二次調査結果を発表し、「お詫びと反省を表
 す措置」の検討を約束した。

  そして政府は、一九九五年七月になって「お詫びと反省を表
 す措置」として「女性のためのアジア平和友好基金」を創設し
 たのである。

  しかし、これは日本政府の法的責任を認めた措置ではなく、
 多くの被害女性たちにとって「お詫びと反省を表す」どころか、
 逆に彼女たちの名誉感情を傷つけるものであった。このため、
 基金の受け取りを拒絶する者も少なくない。原告らも同様であ
 る。

  心に深い傷を受け、現在もなおその後遺障害に苦しめられて
 いる原告ら被害女性は、加害者たる日本国によって、被害者と
 して正当に認められること、すなわち心からの謝罪と、その証
 としての国家による損害賠償を要求しているのである。「加害
 者による人道的措置」という転倒した方法では、決して彼女ら
 の心の傷を癒すことはできないのである。

  なお、このような被害者の心情を汲み取って台湾の財団法人
 台北市婦女救援社会福利事業基金会は、一九九八年三月、逼迫
 した財政状況の中にもかかわらず、「基金」の受け取りを拒絶
 している台湾人被害者人に対し、一人当たり月額約六万円の支
 援金を支給している。

  右に述べたように、日本政府の対応は、「反省」と呼べるよ
 うな態度ではない。

  日本人だけの戦争犠牲者援護措置

  ところで、わが国の戦争犠牲者援護立法は、ほとんどが国
 籍条項を設け、外国人を除外しているばかりか旧植民地出身
 者で現在は外国人となっている人々をも除外している。戦争
 中は、植民地支配の下では、「日本兵士」として徴用し、戦
 後、旧植民地の独立が認められるや、今度は外国人だからと
 いう理由で、戦争による傷害の補償もしていないのである。
 諸外国では自国の軍隊に勤務中に死傷した外国人にも補償を
 認めている中、このような日本国の態度では、到底国際社会
 の信頼を得ることはできない。

  ことにドイツ、アメリカの姿勢と比べて、日本人として、
 一人の人間として、恥ずかしさの念を禁じ得ないのである。

  台湾元兵士の戦後処理の状況

  当然ながら、このような立法措置のあり方については、台
 湾などの旧植民地出身者から告発や、訴訟提起もなされてい
 る。

  戦中、戦後に駆り出された台湾人の軍人は約八万余名、軍
 属・軍夫は約一二万六〇〇〇余名、合計約二〇万七〇〇〇名、
 このうち戦死及び病死者は約三万余名といわれる。終戦時の
 台湾人口(約六〇〇万人)の二〇〇人に一人が戦争の犠牲に
 なったのであり、こうした高率な犠牲もまた、植民地の過酷
 な現実を示すものといえる。

  戦後、これらの三万余の戦争犠牲者及び負傷者は、日本の
 敗戦による台湾放棄によって日本国籍を失ったことを理由と
 して、日本政府から何ら補償を受けていない。その後、一九
 七〇(昭和四五)年以降、台湾元軍人、軍属の補償運動が展
 開された。

  台湾人元日本兵戦死傷補償請求訴訟における東京高裁判決
 では、原告らは敗訴したが、裁判所は特に次のような付言を
 行った。

  「現実には、控訴人らはほぼ同様の境遇にある日本人と比
 較して著しい不利益を受けていることは明らかであり、しか
 も戦死傷の日からすでに四〇年以上の歳月が経過しているの
 であるから、予測される外交上、財政上、法技術上の困難を
 克服して、早急にこの不利益を払拭し、国際信用を高めるよ
 う尽力することが、国政関与者に対する期待であることを特
 に付言する」

  この付言は法的拘束力を有するものではないが、裁判所の
 立場からの精一杯の理解を原告らに示した発言として多くの
 人々の共感を呼んだ。そしてその後、これを受ける形で立法
 措置がとられ、一九八七(昭和六二)年九月に議員立法によ
 り「台湾住民である戦没者の遺族に対する弔慰金等に関する
 法律」が成立し、戦病死及び重傷者を対象に一人につき二〇
 〇万円の弔慰金が支払われた。

  これによって、立法的な解決が一応なされたかのように思
 われるが、日本人であれば格段に厚い補償が受けられること
 を考えると、当時、台湾人は植民地人としての支配された状
 況において、「日本人」として戦場に連れ出されながら、補
 償の処遇は「日本人」としてのものではなかったという矛盾
 と日本の同化政策の詭弁を感じる。また、後述のように平和
 条約等による解決もなされなかったという台湾の特別な事情
 があり、台湾における戦争被害者に対する日本による補償問
 題は、到底満足なものとは言えない。

  国家間協定に基づく戦争賠償による「解決」

  わが国は、アジア諸国との間で、戦争賠償に関しての条約、
 協定を締結しており、政府はこれまで戦争犠牲者への補償も、
 二国間協定によって解決ずみであるとの態度を示してきた。

  しかしながら、戦争賠償と個人損害の補償とが異なること
 は国際的常識である。

  すなわち、戦争賠償とは国と国との間で行われる一般的な
 戦争損害についての賠償であり、損害の補償は、例えば国際
 人道法違反のような特定の不正行為に基づく被害の補償であ
 って、個人が請求権を有するものである。したがって、国家
 間の賠償協定があっても、個人の補償請求権の存否には関係
 がない。

  また、国家は、外交保護権の行使としてしか個人の請求権
 について関与することができないということも、これまた国
 際法上の常識である。その意味でも、国家間条約の締結が、
 個人の補償請求権の存否に何ら影響を与えるものではないこ
 とは明らかである。

  台湾に対する戦後処理の未解決

  第二時大戦の戦争処理として、一九五二年サンフランシス
 コ平和条約が締結された。その中で、アジアの地域にあって
 は、二国間条約による処理が必要となった。日本と台湾との
 間では、一九五二年日華平和条約が締結され、その処理とさ
 れるかであった。しかし、一九七二年日中共同声明により、
 右日華平和条約は遡及して無効とされた。よって、日本と台
 湾との間では、戦争及び植民地被害に対する処理は何らなさ
 れないまま現在まで推移している。いうなれば、平和条約に
 よる法的な戦争処理としては数少ない未解決地域であること
 を付言する。

 2 各国の戦後処理

  戦争中の非人道的行為の犠牲者への補償について戦後、諸外国
 ではさまざまな取り組みがされ、ようやく国際的な共通認識が確
 立されてきた。ここで、ナチスによるユダヤ人等の迫害という問
 題に対するドイツと、日系人の強制移住問題に対するアメリカの
 対応を見たい。

 ドイツ

 ドイツはわが国同様、第二次世界大戦の敗戦国である。
 ドイツにおける戦後補償制度は、一九五〇年、戦争の人的
被害に対する措置としての戦争犠牲者援護法の制定に始まり、
その後、物的損害に対しては、負担調整法(一九五二年)及
び賠償補償法が制定されている。
 これらドイツの法制度の特徴は、戦争犠牲者である限り、
軍人か民間人か、国籍はどこか、ドイツ国内に居住している
かどうか等を問わず全て援助を行い、また、戦争による被害
は、被害を受けなかった国民も等しく分かち合うべきである
との基本理念に基づいている。

 このような戦争被害の補償措置の外、ナチスによる迫害の
犠牲者には、多様な措置が講じられている。一九五一年九月
二七日、当時のアデナウアー首相は、ナチスによるユダヤ人
虐殺等の犯罪行為について、大多数のドイツ人がこれを嫌悪
し、犯罪に関与しなかったとしながらも、「ドイツ民族の名
において、言葉では言い尽くせぬほどの犯罪がなされ、その
犯罪には、道徳的、物的補償が義務づけられている」ことを
認め、ドイツ国民は、「(ユダヤ人らの)終わりなき苦しみの
精神的な除去を少しでも容易にすべく、物的補償問題の解決
をはかる用意がある」旨の演説を行った。

 そして、このような精神に基づき、一九五二年にはイスラ
エル及びユダヤ人会議との間でナチス犠牲者のための補償協
定(ルクセンブルク協定)が締結された。また、ナチス犠牲
者の物的人的損害に対する補償の国内法的措置として、連邦
補償法(一九五六年)、連邦返済法などが制定されている。
さらに、その後、フランス、オランダ、など西欧一二カ国と
の間で、補償協定が次々と締結され、一九九一年にはポーラ
ンドとの補償協定も成立している。

 このような措置によってドイツが支払った補償給付の合計
額は、一九九一年現在約八六四億マルク(約六兆九、〇〇〇
億円)に達しており、現在も支払いが続いている。

 さらに、戦争中強制労働を行った民間企業に対しても補償
要求がなされ、裁判も起こされている。こうした企業の中に
は、被害者の救済のための拠出金を出す企業も出現している。

 又、ナチスが犯した犯罪行為に対しては徹底した訴追主義
が貫かれ、ナチス追跡センターを設置して逃亡している容疑
者の追跡を行い、また、刑法の時効を廃止して、永久訴追の
道を開き、徹底した責任追及がされ、戦後、捜索対象となっ
た容疑者は一〇万余人にも及んでいる。

 アメリカ

 アメリカは戦勝国である。そのアメリカで戦争中に日系人
を強制収容させた件につき、一九八八年に市民的自由法が制
定され、(1) 不正義を認め、公式に謝罪する、(2) 生存者各自に
対し二万ドルの補償を行う、(3) 五〇〇〇万ドルを公教育への
基金として準備するなどの補償措置が講じられた。
 その結果、一九九〇年一〇月、ブッシュ大統領からの謝罪
状とともに、二万ドルの小切手が日系人に送付された。

第二 台湾における日本の植民地支配

一 日本の台湾領有に至る経緯

1 中国・清の支配

台湾は、もともとマレー・ポリネシア系先住民の住む島であり、
台湾本島の西側・台湾海峡の澎湖列島は、古くから海賊や倭寇を
防ぐための中国の前線基地であり、元王朝の一四世紀には「巡検
視」がおかれていたとの記録があるが、台湾本島について、歴代
の中国王朝は、領有権あるいは支配権を及ぼそうとはしなかった。
清が中国を制覇しようとしていたころ、明王朝を奉じる鄭成功が
台湾に渡り、当時台湾を支配していたオランダを追放し、鄭政権
が打ち立てられた。鄭氏と共に多くの漢民族が中国本土から渡っ
たが、鄭政権は三〇年余り後崩壊し、台湾は清国領となった。し
かし、その後も清国は台湾に対し積極的な施策を施さなかった。

2 台湾出兵から日本による領有まで

 一八七一(明治四)年、琉球漂流民が台湾の先住民に殺害され
るという事件(牡丹社事件)を理由として、一八七四(明治七)
年明治政府は、台湾出兵を敢行した。一八七一年に、日清修好条
規を締結していたことから、右台湾出兵は条約違反行為とも解さ
れるものであったが、明治政府は、台湾通で知られていたアメリ
カ前廈門領事のリゼンドルを顧問として迎え、清国の支配権が希
薄であるという台湾の事情やその豊富な資源について知り、台湾
の領有という野望を抱いた。右台湾出兵は、清国との間で、清国
から日本への賠償金の支払での和解という結末で終わったが、後
に日清戦争に至る清国との摩擦と日本のアジア侵略の第一歩とい
う重大な意味を持っている。
 一八九四(明治二七)年、日清戦争が勃発し、日本軍の勝利に
終わり、これを受けて一八九五(明治二八)年、台湾と澎湖列島
の日本への割譲をその内容に含む日清講和条約が調印された。こ
れによって、日本の台湾植民地支配が開始された。

 二 台湾における日本の植民地政策

1 同化主義、皇民化主義

 日本は、台湾住民の抵抗を武力で押さえながら、台湾総督府を
置き、台湾統治体制を整えていった。

 支配のために日本政府が特に力を注いだのは、教育であり、日
本語教育の徹底であった。これは、「同化主義」教育であり、日
本の軍国化強化と共に「皇民化」教育へとつながった。台湾での
こうした植民地政策は、後の朝鮮、満州、東南アジア諸地域にも
活用され、民族のアイデンティティを失わせ、日本民族の優越性
を植え付けようとするものであった。

 また、日本は、台湾の先住民に対するいわゆる「理蕃事業」と
して、山地先住民の居住区を侵食、縮小し、彼らを中央山脈の山
間部に閉じこめた。「撫蕃政策」の名の下、先住民に対する日本
語教育を徹底し、その結果、台湾の漢民族以上に日本語教育の普
及率は高かったが、一方、先住民を「蕃人」として日本の教科書
に載せる等、未開・野蛮な民族という差別意識を助長した。こう
した先住民に対する支配には、警察力が特に大きな役割を担った。

 台湾の大規模な抵抗運動がほぼ収まると、台湾総督府には文官
総督が派遣されるようになり、教育機関を充実し、「同化主義」
がより徹底して推進された。地の利を生かした農業生産も向上し
た。

2 日中戦争以後の南進基地としての役割

 一九三七(昭和一二)年以前、台湾の工業生産は農産物加工業
程度のものであったが、日中戦争を契機として、軍需産業が盛ん
に育成され、工業生産が驚くほど急速に伸びた。台湾における皇
民化教育が推進され、日本国内での「大政翼賛会」発足に呼応し、
台湾総督府は「皇民奉公会」を設立した。また、総督も文官から
武官出身となった。

 一九四〇(昭和一五)年には台湾人の日本名への改姓名が始ま
り、男子は軍属や軍夫として徴用されるようになり、一九四二(昭
和一七)年最初の台湾人志願兵が半ば強制的に入隊させられた。
台湾は、日本の植民地として、戦争に完全に巻き込まれたのであ
る。一九四五(昭和二〇)年一月の太平洋戦争末期には、台湾人
に対する徴兵制も実施された。先住民たちも、「高砂義勇隊」と
して戦争に駆り出されていった。台湾での食料の統制・配給も行
われ、台湾人は苦しい生活を強いられた。

 台湾は、日本の南進政策の基地であり、南方作戦の兵たん基地
となった。

 三 台湾における日本軍の展開

 台湾は、太平洋戦争における直接の戦場とはならなかったが、南
方作戦の兵たん基地として、重要な軍事的役割を担った。

 台湾では台北に台湾軍司令部が置かれ、台南、基隆、澎湖島、高
雄等重要拠点に部隊が配置されていた。また、一九四四年には第一
〇方面軍が創設された(詳細は後述)。

 敗戦時、第一〇方面軍司令部の下には、第三一軍と独立混成第六
一旅団(フィリピン、バブヤン島駐留)を別にすれば、五つの師団、
一つの飛行師団と六つの旅団が置かれ、台湾各地に配置されていた。
また、台湾の基隆港、高雄港は、南方への海軍の重要な港であり、
軍艦や陸海軍徴傭船の寄港地となっていた。敗戦時、海軍の部隊と
しては高雄警備府、高雄方面根拠地隊、馬公方面特別根拠地隊、基
隆防備隊、第二九航空戦隊(新竹)、北台海軍航空隊(台北)、南台
海軍航空隊(岡山)があった。

 一九四五年敗戦により、在台湾日本軍部隊の日本への帰還が始ま
ったのは一九四六年一月からであり、復員が完了したのは四月であ
った。同年五月、台湾総督府が廃止となり、五〇年間に及ぶ日本の
台湾植民地支配に終止符が打たれた。

第三 日本軍「慰安婦」制度

 一 「慰安婦」制度

1 「慰安婦」制度とは

 「従軍慰安婦」制度、あるいは日本軍「慰安婦」制度とは、戦
時において日本軍兵力が派遣された地域に日本軍が設置した軍性
奴隷制度であり、「慰安婦」とされた女性たちは、日本軍将兵の
ために「性的慰安」、性交を強制された。

 *「従軍慰安婦」や「慰安婦」という用語は、軍性奴隷制度の
本質を覆い隠すものであり、正確には「日本軍性奴隷」または「軍
性奴隷」というべきである。そこで、「従軍慰安婦」や「慰安婦」
には括弧をつけるべきである。また、「売春婦」という用語は「性
的に搾取されている女性」といいかえるべきであり、その意味で
これにも括弧をつけるべきである。以下、資料の引用に際しては、
カタカナはひらがなに直した。

2 「慰安所」設置の経過と軍の深い関与

 現存する資料で「慰安所」の設置が確認されるのは、一九三二
年の第一次上海事変の時からである。上海で戦闘が一段落した時
に、上海に派遣された陸海軍部隊は「慰安所」を設置している。
海軍では、従来からあった貸席を軍指定とした(在上海総領事館
「昭和十三年中に於ける在留邦人の特種婦女の状況及其の取締並
に租界当局の私娼取締状況」、吉見義明編『従軍慰安婦資料集』
大月書店・一九九二年・一八四頁。以下『資料集』と略す)。陸
軍では、上海派遣軍が、長崎県知事に依頼して女性たちを集めて
送ってもらっている(稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻・戦
場回想篇・原書房・一九七〇年・三〇二頁)。この女性は日本人
だったと思われる。

 一九三三年の熱河侵攻時には、混成第一四旅団が平泉に事実上
の「慰安所」を作ったことが確認されている(混成第一四旅団司
令部「衛生業務旬報」一九三三年四月中旬号、国立公文書館所蔵)。
連れて来られた女性は朝鮮人三五名・日本人三名だった。これは
現地にいた「売春婦」が性病に罹患していたから、性病の蔓延を
おそれて旅団司令部が導入したのである。

 しかし、「慰安所」が数多く作られるようになるのは、日中全
面戦争期で、南京大虐殺が起こった一九三七年一二月頃からであ
る。その背景には、戦争が長期化していったという事情があった。
また、日本軍にとって大変な苦戦となり多くの死傷者を出した上
海戦がおわり、南京に進撃する過程で日本軍部隊が復讐心にから
れて虐殺・放火・略奪・強姦などの不法行為を数多く起こし、一
定の対策が必要になったという事情もあった。

 以下、陸軍の場合をみると、中支那方面軍司令部(のち中支那
派遣軍司令部)・北支那方面軍司令部・第二一軍司令部は、それ
ぞれ華中・華北・華南で上から慰安婦制度を作っていった。

 【華中】飯沼守上海派遣軍参謀長の日記には、一九三七年一二
月一一日、「慰安施設の件、方面軍より書類来り実施を取計ふ」
とあり(南京戦史編集委員会『南京戦史資料集』偕行社・一九八
九年・二一一頁)、中支那方面軍の指示で、南京占領直前に上海
派遣軍が「慰安所」設置に動き出したことがわかる。南京では、
一九日から上海派遣軍の長勇参謀が「慰安所」設置に動き出した。
湖州では、第一〇軍参謀が、憲兵を指導して、中国人女性を集め、
一八日に「慰安所」を開設している(「山崎正男日記」・同上・四
一一頁。山崎政男少佐は当時第一〇軍参謀)。以後、長江流域の
日本軍占領地に「慰安所」が開設されていく。

 【華北】一九三八年六月二七日、岡部直三郎北支那方面軍参謀
長は、方面軍麾下の各部隊に「成るへく速に性的慰安の設備を整
へ」るよう指示している(「軍人軍隊の対住民行為に関する注意
の件通牒」『資料集』二一〇頁)。これは、日本軍人による中国人
女性強姦事件が「頻発」したため、住民が怒り、占領地支配がゆ
らぎはじめたからである。北支那方面軍参謀長が発したこの指示
により、華北の各地に急速に「慰安所」が設置されていく。

 【華南】一九三八年一〇月、第二一軍は広州をはじめ広東省の
要地を占領したが、翌三九年四月、第二一軍司令部は、把握して
いる「慰安婦」数を約一〇〇〇名と記録し、別に憲兵駐留地以外
の各地にも、「慰安婦」がいると報告している(第二一軍司令部
「戦時旬報(後方関係)」一九三九年四月中旬号・『資料集』二一
五頁)。また、四月一五日、同軍の松村桓軍医部長は、「性病予防
等のため兵一〇〇人につき一名の割合で「慰安隊」を輸入す。一
四〇〇〜一六〇〇名」と陸軍省医務局で報告している(金原節三
「陸軍省業務日誌摘録」一九三九年四月一五日陸軍省医務局課長
会報記事、防衛庁防衛研究所図書館所蔵)。ここでは、設置の目
的として性病予防がうたわれていた。また、陸軍は、上からあて
がう(「輸入」する)「慰安婦」として、兵一〇〇名当たり一名と
いう基準をもっていたことがわかる。もちろん、これ以外にも、
警備隊や分遣隊が占領各地で独自に徴募する場合がある。

 アジア太平洋戦争開始(一九四一年一二月八日)以降には、日
本・朝鮮・台湾・中国から「慰安婦」を東南アジア・太平洋地域・
香港に送る場合、陸軍省が統制することになった。設置・徴募の
具体例をみると、一九四二年三月一二日、南方軍司令部の要請を
うけた台湾軍司令部は、憲兵を使って業者三名を選定し、集めさ
せた「慰安婦」五〇名を引率する業者三名をボルネオ島に送りた
いと陸軍大臣の許可を求めており、一六日に陸軍大臣の依命で副
官が認可を伝えている(台湾軍起案「南方派遣渡航者に関する件」
『資料集』一四四ー一四五頁)。さらに、六月には二〇名を送っ
ている。

 九月三日、陸軍省人事局の倉本敬次郎恩賞課長は「将校以下の
慰安施設を次の通り作りたり」として、「北支一〇〇ヶ、中支一
四〇、南支四〇、南方一〇〇、南海一〇、樺太一〇、計四〇〇ヶ
所」という数字を挙げている(前掲「陸軍省業務日誌摘録」一九
四二年九月三日陸軍省課長会報記事)。陸軍省人事局恩賞課が「慰
安所」設置に関わるようになった理由は、この課が一九四二年四
月から軍人の厚生に関する事項をも担当することになったことの
ほか、戦争遂行に忙殺されている他の部局と較べて相対的に人
的・時間的余裕があったからである。このように、この時期には、
陸軍省が設置に直接関わるようになった。

 以上のように、「慰安所」の設置を主導しているのは軍である。
末端で業者が使われたとしても、それは脇役として使われたので
あり、その逆ではない。また、業者は純粋の民間人ではなく、軍
または警察から選定された者で、軍の身分証明書を持っており、
その身分は、少なくともアジア太平洋戦争期には「軍従属者」と
されていた。

3 「慰安所」の形態

「慰安所」は、民間の貸座敷をモデルにつくられたが、経営に関
する軍の関与の程度からみると、軍直営、軍専用、軍指定の三つ
の形態があった。軍直営というのは、経営・運用をほとんどすべ
て軍で行うものである。軍専用とは、「軍従属者」たる業者に経
営をまかせるが、「慰安所」の利用者は軍人・軍属専用とする者
である。軍指定とは、戦地・占領地等にすでにある民間の貸座敷
を軍用として一定期間指定して利用するものである。

 つぎに、利用者別からみると、「将校倶楽部」などと呼ばれる
将校専用「慰安所」と、下士官・兵も利用する「慰安所」とがあ
った。後者においては、「慰安所」で将校・下士官・兵が鉢合わ
せすると、軍紀風紀を維持する上で不都合だとして、利用時間を
区別していた。一例をあげると、一九四四年に中国広東省中山に
駐屯していた独立歩兵第一三旅団中山警備隊では、兵は午前九時
三〇分から午後三時三〇分まで、下士官は午後四時から八時まで、
将校・准士官は八時三〇分以降というように利用時間を区分し、
将校は終夜利用もすることができた(「軍人倶楽部利用規程」『資
料集』二八八頁)。

 さらに、設置場所による相違があった。大都市の「慰安所」で
は、設備等は日本国内の遊廓に類似し、性病検査なども定期的に
なされていたが、前線に近い「慰安所」では、設備・待遇とも極
めて劣悪だった。

 4 「慰安所」が設置された地域

 日本軍が派遣された地域には、ほとんどどこでも「慰安所」が
設置された。それは、中国(東北地域を含む)、フランス領イン
ドシナ、香港、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネ
オ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、東部ニューギニア・グ
アム島・ニューブリテン島など太平洋の島々、アンダマン・ニコ
バル諸島(インド)などである。

 また、日本の委任統治領南洋群島や樺太のほか、アメリカ軍の
反攻に備えて陸海軍部隊が派遣された台湾・沖縄・千島列島、本
土決戦に備えて部隊が配置された九州・四国・房総半島にも設置
された。

 その範囲は、確認される限りでも、北は千島列島北端の占守島、
中国東北の孫呉、南はインドネシアのスンバ島、東はニューブリ
テン島ラバウル、西はアンダマン・ニコバル諸島、ビルマのアキ
ャブという広大な範囲に及ぶ。

 5 「慰安婦」制度創設の動機

 日本軍が「慰安婦」制度を作っていく動機は、(1) 日本軍人によ
る強姦の防止、(2) 性病の蔓延防止、(3) 慰安の提供、(4) スパイ防止
(防諜)の四つであった。これらの動機による「慰安所」設置は
つぎのような問題を生むことになった。

 まず、(1) 強姦防止だが、その目的はあまり達成されなかった。
たとえば、岡村寧次第一一軍司令官は、一九三八年の武漢攻略戦
下の状況について「現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行
し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは、
慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」と
述べている(前掲『岡村寧次大将資料』上巻・三〇二ー三〇三頁)。

 国府台陸軍病院の早尾乕雄軍医中尉は、自らの戦場体験と調査
とに基づいて、「軍当局は……支那婦人を強姦せぬ様にと慰安所
を設けた、然し強姦は甚だ旺んに行はれて、支那良民は日本軍人
を見れば必ず是を怖れ」たと、一九三九年に報告している(「戦
場に於ける特殊現象と其対策」一九三九年六月・『資料集』二三
二頁)。

 このように、「慰安所」が設置されても、強姦事件はあまり減
らなかった。なぜなら、軍紀風紀を確立するために「慰安所」を
設けるという措置は矛盾しており、かえって風紀を乱し、性暴力
を容認することになったからである。また、特定の女性を「慰安
所」に閉じこめ、継続的にその人権を侵害することにもなった。

 (2) の性病予防についてみると、占領地にある民間の売春宿に将
兵が通うと性病に感染するおそれが高く危険だから、出入りを禁
止し、軍が管理・統制する「慰安所」を作る必要があるというの
が軍の考えだった。しかし、これも成功しなかった。なぜなら、
すでに相当数の将兵が性病にかかっており、「慰安所」を介して
それが蔓延したからである。「慰安婦」の性病検査は、占領地で
あったため、よくて週一回程度であり、軽症の場合将兵の相手を
させるというように不徹底であった。兵士の性病検査はさらに不
徹底で、月例検査がある程度であった。内地の遊廓でさえ性病蔓
延の原因になっていたのに、これでは性病蔓延を防ぐことはでき
ない。

 こうして、性病の新規感染者は、把握された限りでも、関東軍・
支那派遣軍・南方軍の総計で一九四二年に一万一九八三人、四三
年に一万二五五七人、四四年に一万二五八七人と増加していった
(陸上自衛隊衛生学校編『大東亜戦争陸軍衛生史』一巻・陸上自
衛隊衛生学校・一九七一年・六〇五ー六〇七頁。動員兵力が増加
するので、相対的には低下している)。

 それでは、強姦防止にも性病蔓延防止にもさほど役立たない「慰
安所」がなぜ増え続けていったのだろうか。それは、(3) の理由が
あったからである。将兵に「性的慰安」を提供するという動機が
とくに日本軍の場合には大きかった。

 将兵の置かれた状況をみると、戦争の大義名分がなく、勝利の
見通しもない泥沼の侵略戦争に釘づけにされていた。また、欧米
の軍隊のような明確な交代・帰還の基準がなく、休暇制度もない
に等しかった。映画・スポーツなどの健全なアメニティー施設も
不十分だった(ATIS, " Amenities in the Japanese Armed
Forces," Research Report, No.120, p.27, U.S. National Archives
at College Park.『資料集』五三二頁)。軍隊内での兵士の人権は
全く無視され、厳しく抑圧されていた。このような絶望的な状況
に置いたまま、かつ自暴自棄になるのをふせぐため、将兵には酒
と女が提供されたのである。しかし、過度の放縦にならぬよう、
「慰安所」の統制が必要とされた。

 (4) のスパイ防止というのは、将兵が民間の売春宿に通い、そこ
で軍機を漏らすことがないよう、業者や女性を管理・統制できる
「慰安所」が必要だというものである。こうして、とくに(2) (3) (4)
の理由から、日本軍は「慰安所」を深く管理・統制することにな
った。

 6 徴募の方法

 徴募については、日本内地と、植民地であった朝鮮・台湾と、
新たに日本の占領地となった中国・東南アジア・太平洋地域とで
は異なる。

 一九三八年二月二三日付の内務省警保局長通牒により、日本内
地からは、満二一歳未満の女性を売春目的で国外に連行すること
は禁止されていた。また、二一歳以上の女性の場合は、本人が現
に「醜業婦」であり、かつ売春目的で国外に出ることに同意して
いることが絶対条件であった(内務省警保局長「支那渡航婦女の
取扱に関する件」『資料集』一〇三ー一〇四頁)。売春の前歴のな
い女性を前借金により拘束して連れていくことも、当然許されな
かったのである。しかし、そのような通牒は、台湾・朝鮮では出
されなかった。こうして、日本内地と植民地とでは、まったく差
別的な取扱いがなされ、そこで強制の問題が植民地ではるかに多
くおきているのである。

 確かに、朝鮮では、官憲による奴隷狩りのような連行があった
ことは、確認できない。しかし、軍に選定された業者が、(1) 前借
金でしばって連れていくケース(人身売買)、(2) だまして連れて
いくケース、(3) 拉致するケースは、韓国でのヒアリング記録で数
多く見られる。とくにだまして連れていくケースは多かった(台
北市婦女救援社会福利事業基金会『台湾地区慰安婦訪問調査個別
分析報告書』一九九三年によれば、台湾内で徴募された四四名中
二二名がこのケースであり、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊
研究会『証言ーー強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』〔明石書
店・一九九三年〕によれば朝鮮内で徴募された一七名中一二名が
該当する)。

 また、(1) と(2) が重なっている事例があったことは、アメリカ戦
時情報局の資料でも確認できる。これはアメリカ軍がビルマで保
護した二〇名の朝鮮人「慰安婦」と二名の日本人(業者夫妻)か
らのヒアリングをまとめたものである。尋問者は、「慰安婦」を
殆ど信用しておらず、軍性奴隷制の本質を見抜けなかったが、そ
れでも、女性たちは騙されて連れてこられ、前借金により「軍の
規則と『「慰安所」の楼主』のための役務に束縛」されていたと
記している(Japanese Prisoner of War Interrogation Report, No.
49, pp.1-2.『資料集』四四一ー四四二頁)。

 同様の例としては、前線近くの「慰安所」と違って、相対的に
条件がよかったはずの漢口の兵站司令部管下の「慰安所」に、日
本内地から連れてこられた「慰安婦」の実例がある。漢口兵站司
令部の長沢健一軍医大尉の体験によれば、この女性は、「慰安所」
とは何かも知らされず、だまされて連れて来られたが、軍医の性
病検査があると知って「私は慰安所というところで兵隊さんを慰
めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなこと
をさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれ」とい
って、泣きながら訴えたという(以下、長沢健一『漢口「慰安所」』
図書出版社・一九八三年・一四七ー一四九頁)。このため、その
日は検査できなかった。翌日やって来たときは眼はふさがりそう
に腫れ上がっていた。長沢大尉は、業者に殴られ、説得されて来
たのだろうと記している。

 この女性は、身売りされた上、漢口までの旅費・雑費を加算さ
れて、債務奴隷状態にされていた。性病検査の時は「脚は緊張し
て堅くなりぶるぶる震えていた」。その翌日には、多くの兵隊の
相手をさせられたため、「慰安所」の洗浄場の窓から身を乗り出
して、嘔吐しており、吐き止むと「子供のように声を張り上げて
泣く。泣くというより絶叫して」いた。この姿を見て、長沢大尉
は、多くの兵隊たちの乱暴な性交のために、腹膜が刺激されて、
嘔吐をもよおしたのかも知れない、と記している。しかし、この
女性も、このような現実から逃れることができず、これを運命と
あきらめて、悲惨な「慰安所」生活に適応していくほかなかった
のである。

 以上のようなケースは、当時の刑法第二二六条の国外移送・誘
拐罪(「帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者
は二年以上の有期懲役に処す、帝国外に移送する目的を以て人を
売買し又は被拐取者若くは被売者を帝国外に移送したる者亦同
じ」)に該当する可能性が高いものであり、強制ではないという
ことは絶対にできない。

 軍の要請により総督府が上から割り当てていったと思われるケ
ースには、次のようなものがある。まず、一九三八年一一月、第
二一軍参謀と陸軍省徴募課長の要請で、内務省は内地で五府県に
割り当てて業者に「慰安婦」約四〇〇名を集めさせた。このとき
の記録によれば、台湾では「既に台湾総督府の手を通じ同地より
約三百名渡航の手配済」と記されている(内務省警保局員「支那
渡航婦女に関する件伺」一九三八年一一月四日・警察大学校所蔵)。
これは、台湾総督府が上から各州に割り当てていき、各州の警察
が業者を選定し女性たちを集めさせたものと思われる。
 一九四一年七月の対ソ戦のための大動員である関特演では、関
東軍は二万人の慰安婦を集めようとし、朝鮮総督府に依頼して約
一万人を集め、ソ「満」国境に配置したという(島田俊彦『関東
軍』中公新書・一九六五年・一七六頁。千田夏光『従軍慰安婦』
正編・三一新書・一九七八年・一〇三ー一〇四頁)。これが事実
だとすれば、上から割り当てるしかなく、そこで事実上の強制が
あったと思われる。

 占領地では、軍が地元の有力者に「要請」して集めるケースと、
軍が自ら集めるケースがあり、いずれの場合も、「売春婦」が「慰
安婦」にされる場合と、「売春婦」ではない女性が「慰安婦」と
される場合がある。

 まず、地元の有力者に「要請」するケースでは、地元に「売春
婦」がいない場合、村長や治安維持会長がやむなく地元の貧しい
家庭の若い女性を犠牲として差し出すことになる。たとえば、一
九四〇年八月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第
二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰
安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、二十数名の若い女性が
集められたが、その性病検査を担当した軍医は、八月一一日の日
記に、その様子を次のように記している。

「さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかな
か子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてや
っとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手
をひっ掻く。見ると泣いている。……次の姑娘も同様で、こっち
も泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初め
ての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を
覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の
治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?なか
には、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいる
かも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している
自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には
向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れな
い。」(溝部一人編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版・
一九三八年・五八頁)。

 この強制は、村の有力者が行ったもので、軍はただ依頼したに
すぎないというのが、日本軍関係者の言い分だが、実際には、軍
の「依頼」とは、事実上の命令にほかならなかった。
 次に、軍による暴力的な連行のケースをみると、中国・フィリ
ピンの被害者の証言は、ほとんど軍による暴力的な連行である。
インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。

 中国人被害者の証言をみると、日本政府の謝罪と個人賠償を求
めて東京地方裁判所に提訴した、山西省盂県に住む李秀梅さんを
はじめ山西省の五名の女性たちは、独立混成第四旅団など日本軍
兵士によって連行され、数カ月間監禁されて性行為を強制された
という(『第一次中国人「慰安婦」損害等賠償請求事件訴状』一九
九五年参照)。

 被害者の証言以外では、インドネシアの暴力的連行の事例がか
なり明らかになっている。ジャワ島スマランなどでオランダ人女
性を暴力的に連行したケースや、スマランからフローレス島へオ
ランダ人・インドネシア人女性を暴力的に連行したケース(一九
九四年公表のオランダ政府調査報告書、『戦争責任研究』四号〔一
九九四年六月〕五二ー五三頁)、モア島で軍が強制的に連行した
とする裁判資料(「極東国際軍事裁判検察文書」第五五九一号)、
サパロワ島で地元女性の暴力的連行があったとする証言(禾晴道
『海軍特別警察隊』太平出版社・一九七五年・一一六頁)、アン
ボン島で地元女性が暴力的に連行されたとする証言(海軍経理学
校補習学生第十期文集刊行委員会『滄溟』海軍経理学校補習学生
第十期文集刊行委員会・一九八三年・三一二頁)などがある。

7 「慰安婦」のおかれた状態

 戦前から一九五七年まで日本内地にあった公娼制度は、実際に
は性奴隷制度であった。しかし、その事実を隠すために、内務省
は一九〇〇年に「娼妓取締規則」をつくり、娼妓に「拒否する自
由」や「廃業の自由」を認めた。娼妓は自由意思で売春に従事し
ているというのである。また、一九三三年には「外出の自由」を
認めるようになった。しかし、これらは建て前であり、また居住
の自由はなかったから、当時の廃娼運動は公娼制を「人身売買と
自由拘束の二大罪悪を内容とする事実上の奴隷制度」だといって
いたのである(廓清会婦人矯風会連合「公娼制度廃止請願書」、
市川房枝編『日本婦人問題資料集成』一巻・ドメス出版・一九七
八年・三七二頁)。ところが、「慰安婦」にはこのような「拒否す
る自由」「廃業の自由」「外出の自由」すら認められていなかった
のである。

 軍は、娼妓取締規則に該当するような軍法すら作ることなく、
「慰安所」を作っていった。当然、「廃業の自由」はなかった。
 それどころか、「慰安所」では、事実上の性奴隷制度である内
地の公娼制度にもないような人身拘束がまかり通っていた。兵站
司令部が介入して「慰安婦」の待遇を改善したという、条件の恵
まれていた漢口の「慰安所」の事例でも、「慰安所」担当の長沢
健一軍医大尉の記録によれば、前借金を「売春」で返済しなけれ
ばならないという、日本の民法第九〇条に明確に違反する契約を、
軍は当然視している(前掲『漢口「慰安所」』六四頁)。山田清吉
漢口兵站司令部慰安係長も「妓は自分の身体で稼いで前借を返さ
ねばならぬという拘束がある。何とも不合理な話なのだが、私に
も特別の配慮のしようがない」と記している(山田清吉『武漢兵
站』図書出版社・一九七八年一一〇ー一一一頁)。違法な契約に
よって人身が拘束されているのだが、軍はそれを破棄しようとは
しなかったのである。

 これは、漢口という大都市にあって、兵站司令部が管理する条
件のよい「慰安所」の実情であった。現実には、これよりはるか
に条件の悪い「慰安所」の方が多かったのである。この点につい
て、山田係長は、「私が沙洋鎮の前線で見た「慰安所」はバラッ
ク建てのアンペラ小屋で、お粗末なものだったが、南洋の島の施
設はもっとはるかにひどいものだったにちがいない」と明確に述
べている(同上・一〇四頁)。

 「外出の自由」を認める軍法がなかったことは、「慰安婦」の
外出を厳しく制限する「慰安所」規則が現地の部隊によって種々
作られていることから確認できる。そのいくつかを列記すると、
次のようになる。

 *独立攻城重砲兵第二大隊「常州駐屯間内務規定」の「第九章
「慰安所」使用規定」=「営業者は特に許したる場所以外に外出
するを禁ず」(一九三八年三月、中国江蘇省常州)(『資料集』二
〇八頁)。

 *独立山砲兵第三連隊「森川部隊特種慰安業務に関する規定」
=「慰安婦の外出に関しては連隊長の許可を受くべし」(一九三
九年一一月、中国湖北省葛店・華容鎮)(独立山砲兵第三連隊「自
昭和十四年十一月一日至昭和十四年十一月三十日 陣中日誌」所
収・防衛庁防衛研究所図書館所蔵)。

 *独立歩兵第一三旅団中山警備隊「軍人倶楽部利用規定」=「妓
女の出花〔外出のこと〕は原則として之を許さず」(一九四四年
五月、中国広東省中山)(『資料集』二八七頁)。

 *比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所「慰安所」(亜細亜
会館、第一「慰安所」)規定送付の件」=「慰安所」経営者は左
記事項を厳守すべし……慰安婦外出を厳重取締」「比島軍政監部
ビサヤ支部イロイロ出張所長の許可なくして「慰安婦」の連出し
は堅く禁ず」(一九四二年一一月、フィリピン・パナイ島)(同上・
三二五ー三二六頁)。

 もちろん、これらは許可制なので、「慰安婦」が外出できる場
合もあった。しかし、許可制であれば、「外出の自由」があった
とはいえない。たとえば、国内の公娼制の場合、一九三三年に娼
妓の外出の自由が認められた時、「所轄警察署より娼妓に対し貸
座敷営業者に口頭届出をなす様口頭示達をなすことは不可なり
や」という福岡県の照会に対して、内務省は「自由外出に対する
束縛となり改正の趣旨に反するものと思料せらるるのみならず、
省令第十二条の規定にも添はざるを以て不可なり」と指示してい
るのである(福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史』昭和
前編・福岡県警察本部・一九八〇年・一八五頁)。

 なお、このイロイロ市の「慰安所」では、「慰安婦」の外出は
午前八時から午前一〇時までに限られ、その散歩区域も一ブロッ
ク区画の公園を囲む道路より内側に制限されていた。

 「拒否する自由」も当然なかった。拒めば、軍人や業者に殴ら
れるのは当たり前だった。多くの兵士は「慰安婦」とされた女性
たちの苦しみを察することができなかったが、それでもかなりの
兵士がその境遇について、ある程度の理解を示している。たとえ
ば、中国東北の琿春にいた第七三三部隊工兵一等兵はつぎのよう
に回想している。

 「兵隊専用のピー屋は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店
に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女
たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もま
じっていた。兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上
に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気が
ついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として
躯を投げださねばならなかった。日曜日にはけだものとなった兵
隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の
兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧
弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。せ
んべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪
い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働か
ねばならない女たちであった。」(島本重三「軍「慰安所」、戦争
体験を記録する会編『私たちと戦争』第二巻・株式会社タイムス・
一九七七年・三二頁)

 また、武昌近郊の青山にいたある兵士はつぎのように回想して
いる。

 「日曜の「慰安所」は、いつも満員、さもあろう。十名足らず
の慰安婦に八百名近い男、兵隊は、「慰安所」の前に列を作り、
一部は、中に入って、『おい、まだか!!』と部屋の戸をたたく。『や
かましく言うな、いま最中だ。』喜劇というべきか?悲劇という
べきか?人間の恥部は、この方十間の民家の中にくり広げられ、
しかも、公然として、本能のむき出しで、笑うべからず、悲しく
も人間の宿命なのだ。」(松川文吉『湖南への回顧ー一工兵の戦
い』私家版・一九七五年・三〇ー三一頁)

 毎日がこのような状況ではなかったとしても、数多くの兵士が
行列をして待っている中で、女性たちが性交渉を拒否できる自由
がなかったことは明らかであろう。あったのは泥酔した兵士の相
手を拒むことができることぐらいで(United States Office of War
Information, Psychological Warfare Team attached to U.S.
Army Forces India-Burma Theater, Japanese Prisonerof War
Interrogation Report, No. 49 (Oct. 1, 1944), p.3, U.S. National
Archives at College Park.『資料集』四四五頁)、この程度では
拒否する自由があったとはいえない。軍人の相手を拒否すること
ができるような状況ではまったくないのである。

8 未成年者の連行・使役

 朝鮮・台湾からの未成年者の連行・使役についてみると、日本人
「慰安婦」は、おおむね満二一歳以上で、前歴も「売春婦」である
ことが通例であった。これに対して、朝鮮人や台湾人の場合は、多
くが「売春婦」ではなく、年齢も二一歳未満の女性が半数以上であ
ったことは、証言や資料から明らかである。

 台北市婦女救援社会福利事業基金会の調査によれば、「慰安婦」
とされた四八名のうち二四名が未成年だった(前掲『台湾地区慰安
婦訪問調査個別分析報告書』)。外務省所蔵の公文書によれば、一九
四〇年に台湾から広東省欽県に連行された六名の台湾人女性は全員
一八歳以下で、最低年齢は一四歳だった(台湾総督府外事部長「渡
支自由証明書等の取寄不能と認めらるヽ対岸地域への渡航者の取扱
に関する件」『資料集』一三四ー一三七頁)。

 朝鮮人については、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会の
ヒアリング記録によれば、一九名中一六名が二一歳未満だった(前
掲『証言ーー強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』参照)。未成年
者が多数だったことは、漢口兵站司令部慰安係長だった山田清吉氏
の次のような簡潔な記述によっても裏付けられる。

 「内地から来た妓はだいたい娼婦、芸妓、女給などの経歴のある
二十から二十七、八の妓が多かったのにくらべて、〔朝鮮〕半島か
ら来たものは前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった。」(前
掲『武漢兵站』八六頁)

 多くが、「売春婦」ではなく、しかも未成年者だったのである。

 9 軍の深い関与

 最後に、軍の関与だが、すでにみた「慰安所」設置の指示、業者
の選定と徴募の指示、渡航・移動の便宜の供与などのほか、建物の
提供、「慰安所」規則・料金の決定、各部隊利用日の指定、各部隊
による「慰安所」の監督、経理将校による経営内容の把握、軍医に
よる女性の性病検査など、「慰安婦」制度の創設・運用における軍
の深い関与を示す資料は数多く発見されており、軍の深い関与、い
いかえれば慰安婦制度の創設・運用における軍の主体的役割は否定
できない。

二 台湾での「慰安婦」被害

1 台湾の「慰婦所」設置及び「慰安婦」徴集についての関わり

 一九三七年、南方A作戦中止時の大軍の高雄での一時駐屯におい
て、当局が急ごしらえでの粗末な「慰安所」を設置した、という当
時の兵士の回顧談がある。これによれば、女性は新竹、台中、台南、
高雄から多数の「商売女」が「急きょ半強制的に狩り集め」られた
「内地人・朝鮮人・台湾人」の女性であったという。

 また、太平洋戦争末期の一九四四年、高雄付近の野戦病院に勤務
していた日本軍衛生兵によれば、週に一回「慰安婦」二〇〇名以上
の性病検査にあたったこと、「慰安婦」は一人一日三〇人近くの兵
隊の相手をさせられていたという。「慰安婦」は多くは朝鮮出身者
であり、その他中国人、台湾人もいたという。この他、将校クラス
の相手をする「慰安婦」が四〇ないし五〇名ほどいたという。

 日中戦争期には、台湾での「慰安婦」徴集は、総督府中心であっ
たが、太平洋戦争以降台湾軍が中心となっていた。一九三九(昭和
一四)年二月、海軍は陸軍と合同で海南島北部を足がかりとして占
領計画を立てたが、この際、根拠地隊機関長中佐は、台湾総督府海
軍武官中佐宛「慰安婦」五〇名を海南島に進出させるよう要請して
いる。右海軍占領後、台湾総督府海軍武官中佐からは、「特要員A
約二〇人、B約三〇人」計約五〇名の派遣予定を海軍宛知らせてい
る。この「特要員」いう言葉がその後海軍では、「慰安婦」を称す
る言葉として普及したという。ちなみに、Aは准士官以上、Bは兵
員、工員相手とされた。

一九四〇(昭和一五)年、総督府は「慰安婦」六名を広東
省に送る渡航許可を出したという記録がある。

2 台湾人「慰安婦」徴集

 日本軍は、その南進政策に伴い、軍隊の展開と共に、「慰安所を
設置した。

 台湾における「慰安婦」徴集も、一九四一(昭和一六)年の太
平洋戦争開始後に集中している。徴集された台湾女性は、海南島、
マニラ、インドネシア、マレーシア、ボルネオ島等、南方各地に送
られた。徴集にあたっては、主に軍の指令を受けた業者が行ったが、
中には警察が関与していた例もある。女性に対しては、「南方に行
けば楽に稼げる、南方の病院で看護婦助手を捜している、食堂で給
仕を捜している」等の言葉で誘っており、「慰安婦」として赴くと
は知らないものがほとんどだった。また多くは、台湾で水商売等に
従事した経験もない女性であった。

 台湾を離れ、南方の地に船で送られた女性達は、その仕事が「慰
安婦」と知ったあとでも、台湾へ帰る手段もなく、強制されるまま
に働かざるを得なかった。

3 先住民女性に対する「性奴隷」の強制

 先住民は、「蕃人」として民族差別を受けると共に、徹底的に同
化教育を施された。先住民にはさまざまな部族がいるが、日本の植
民地時代には、「高砂族」と一括して呼ばれた。台湾の漢民族以上
に、先住民の日本語普及率は高かった。日本政府は、部族の言葉も
風習も否定したのである。また、日本政府は、台湾の植民地統治の
当初、先住民を中央山間部に押し込めたが、太平洋戦争開始と共に、
部隊の駐屯地確保のために、部族の居留地を強制的に移動させた。

 先住民に対する支配の特徴は、警察による支配である。各地の派
出所は、先住民を監視、統括していた。各部族内にも警察に協力す
る者がおり、先住民の生活の至る所に警察の目が及んだ。

 一九四〇年以後、先住民は、高砂義勇軍として半ば強制的に戦場
に駆り出された。山地農業により細々と生活していた先住民にとっ
て、働き手である男性を軍隊に奪われるのは苦しいものであった。
管轄の警察は、こうした苦しい家の若い女性に対し、日本軍での雑
用の仕事をするように誘った。警察官からの話は、ほとんど強制で
あったが、話を聞いた先住民の女性のほとんどは、貧しい生活のた
め給料を得ることができることを歓迎した。

 部隊では、朝から晩まで雑用に追われた生活であったが、雑用が
終わった後に、女性達は、閉じこめられ強姦されるという事態が待
っていたのである。これは、日本軍としての組織的な通常の「慰安
所」ではないが、日本軍部隊が部隊として許容した集団強姦である。
台湾における軍と警察の密接な関係性を考慮すると、女性達を部隊
に送り込んだ警察は、雑用だけではなく兵士の性的処理道具として
女性を送り込んだものと推察される。

 また、単に一部族、一部隊だけではなく、同様の事実が異なった
部族の女性を被害者として、異なった部隊において何件も発生して
いることから、台湾駐留の日本軍全体が、先住民女性に対する部隊
内拘束を伴う集団強姦を許容していたと考えられ、「慰安所」設置
に関する軍の責任と同様の責任を認めうる。

 女性達は、自分の置かれた状況を把握することもできぬまま、部
隊に閉じこめられ強姦され続けた。まさしく、「性奴隷」そのもの
であった。兵士には、コンドームをつけることの徹底もなされず、
女性達の多くが妊娠した。また、強姦に際し、暴行を受け、未だに
その傷に苦しんでいる者もいる。

 植民地の女性が、植民地の住民であることと共に、ジェンダーの
差別を受けたが、さらに先住民の女性は、民族的な差別も受けた、
と考えられる。何をしても構わない、人間としての扱いをしなくて
もよい、と日本人兵士が考えていた、つまりは日本軍、ひいては当
時の日本政府が考えていたと言える。

第四 原告らの被害事実

一 原告 高寶珠

1 招集される前の生活

 一九二一年九月一七日に台湾省台北県淡水鎮で生まれ三歳の時
に父が、一五歳の時に母が亡くなっている。そのため、原告高は
幼い頃から母の洗濯や裁縫の仕事を手伝っていたので学校にはい
っていない。一五歳のころから江山楼という店で歌を歌う仕事を
しながら、結婚していた姉夫婦と一緒に生活し、姉の夫から実の
妹のようにかわいがられて平穏な生活をしていた。

2 徴集時の状況

 (1)  一九三八年一七歳になったとき原告高は、将来のことを考え
養女をとったが、養女をとって間もないころ役所から原告高へ
の招集の通知がきた。

 その通知には広東に行って日本軍のために働くようにという
指示と、集合場所と集合の日付が記載されてあるだけだった。
原告高は、どんな仕事をするのか役所に聞いたが、広東にいけ
ばわかると言われたのみで仕事の内容は教えられなかった。通
知を持ってきたのは以前から役所にいた「ほくろに毛」と呼ば
れる人物で集合場所の台北に原告高を送り届けている。

(2)  台北の駅には一八人くらいの女性が召集されており「ほくろ
に毛」の役所の人は基隆まで汽車に同行している。基隆からは
は船に乗って広東に送られた。

この頃、広東は第一回の戦闘が終わったばかりで原告高らが船
から外を覗くと死んだ人が海の中に浮かび、また広東についた
後トラックに乗せられ仏山というところに連れて行かれる間も
道に死体がたくさんあるのが見える状況であった。

3 「慰安婦」とされた時の状況

(1)  広東からトラックで到着したところは金山寺という場所で、
その場所には「慰安所」と書いた看板が掲げられてあった。
 この看板を見て原告高ら女性たちは何をするのかわかり、泣
き悲しんだが、故郷から遠く引き離されかえる方法もなく頼る
先もなかったためにどうすることもできず、性行為を強制され
るという苦役に服さざるを得なかった。

(2)  その後、軍隊の移動に伴われ、香港から陸軍の船でシンガポ
ールを経てビルマに連れて行かれた。途中原告高の乗った船が
潜水艦の攻撃を受け、原告高はその轟音で右の耳の聴力を失っ
ている。ビルマまでは三ヵ月ぐらいかかっている。

4 ビルマの「慰安所」での生活

(1)  ビルマに着いてからは、軍隊のトラックに乗せられ山奥まで
連れて行かれた。そこには真新しい「慰安所」の建物が二棟建
てられてあった。台北に招集された一八人はここまでずっと一
緒であったが、原告高らの後から朝鮮から連れてこられた女性
たちも着いて、もう一棟の「慰安所」の建物で性行為を強制さ
れいていた。「慰安所」があった場所は、原始林の中で、兵隊
たちは三〇分かけて徒歩で通って来ていたが、原告高らは、女
性であり身支度もなく、戦争中で安全な道などないことから、
柵が無くとも逃げ出すことはできなかった。

 食事も、軍隊から米・野菜を支給されて、原告高ら女性たち
が自分たちで作り、必要な買い物も兵隊に頼んでラシオやラン
カンで買ってきてもらうしかないという、外部とは隔絶された
監禁状態で、全生活を軍隊に支配されていた。この「慰安所」
を利用した部隊の名前はタツ部隊であった。

(2)  「慰安所」は、台湾のおばさんとお姉さんと呼んだ女性二人
と九州から来た日本人のおばさんと呼ばれる女性の三人で管理
していた。兵隊は二元、将校は四元払っていたが、女性たちに
は一〇日に一度清算して支払われていたが、原告高が留守宅に
送金した金銭は届いていなかった。身体検査は、日本の軍医が
月に三回位来ている。

 土曜日曜は大勢の兵隊が来て特に酷使されていた。将校が夜
宴会を開くときにも動員されている。

5 ラングーンへの移動と慰安所での生活

 更に、何年かして戦況が厳しくなった中、日本軍の駐屯地から
の撤退に伴い女性たちは幾つかのグループに分けられて、軍隊の
車に乗って移動し、原告高は約一日かかってラングーンに移され
た。賑やかな町であったが、新しく「慰安所」の建物が作られ、
原告高らはここでも日本人軍の兵隊の性処理の道具という苦役に
つかされている。

 この場所も、日本軍専用の「慰安所」として運営されていた。
ここには一年から二年拘束されている。この「慰安所」に移され
たころには台湾から一緒だった一八人は七人か八人になっていた。
分かれた女性のなかには「タツ」部隊と一緒に山奥に移動した者
もいた。

6 敗戦と帰郷

 原告高らは戦争が終わった後、憲兵にベトナムに行って船を待
てと指示され、憲兵隊の高官の指示でベトナムに移動している。
憲兵から通行許可証と腕章を与えられている。

 原告高らはベトナムで船を待っている間に日本の許可証を持っ
ていたことから日本人と思われ抑留されそうになったが、台湾の
高官が中国人であることを説明したので抑留はされずに済んだ。
しかし、帰還船に乗船する際、西洋人が来て検査し、金や荷物を
取り上げたために原告高は、この時手元に五元だけ残して全財産
を失っている。

 台湾には一九四七年に帰っている。原告高が召集の通知で台湾
を出てから八年も経っていた。台北に集められた一八人のうち帰
ったのは四人のみであった。一四人が命を失ったり、故郷に戻れ
ないままになっている。

7 帰郷後の生活

 原告高は台湾に帰ったが、送金した金銭が留守宅に届いていな
かったりしたこともあり、また、せっかく縁組みをした養子も幼
いときに別れ、育てていないので親子の情がわかないままであっ
た。原告高は、酒家で働いたりした後、生活のために九人の子供
のいる男性と結婚したが、悲惨な体験を癒すすべもないまま今日
に至っている。

二 原告 盧滿妹

1 それまでの生活

 原告廬は一九二六年(大正一五年)九月二九日に新竹県湖口郷
の出身父盧慶彬、母盧羅六妹の間に出生し三歳の時に父のいとこ
の家に養女として売られ養父盧金火、養母盧荘茶妹に育てられた。
実親養親とも他家の茶摘みをしながら傘を売って新竹県近辺を
転々として生活しており出生した場所は不明である。原告盧は新
竹の関西で小学三年の一〇歳まで通ったが、読み書きはできない。

 養父母は双方とも五〇歳を過ぎていたので原告盧も傘を売る仕
事や茶摘みの日雇いをして家計を支えたが生活は、大層貧しいも
のであった。

2 徴集時の状況

 原告盧が一七歳(一九四三年)のころ、竹北で旅館を経営して
いた鐘が、海南島の日本人のやっている食堂が給仕を探していて、
台湾で働くよりも給料は高いし、一年だけでもいいと誘われたの
で、原告盧は海南島に行くことに決めた。当時、生活が苦しかっ
たので、給料が高いということに心が動いた。

 仕事は食堂の給仕で料理を運んだり掃除をしたりするというこ
とだった。

3 連行の場所やその状況

 高雄へまず連行されたが、そのとき旗山、台北、新竹などの
出身の女性を三〜四〇人鐘がつれて行き、高雄で日本人の子供
連れの夫婦に代わった。

 高雄から乗ったのは軍艦で、一週間ほどで海南島の檎林に到
着した。

 檎林で船を下りてトラックと徒歩で紅砂まで行かれた。

 到着した所には、まだ建物もなかったが、一週間後に通路を
挟んで両側に小さな部屋が二〇〜三〇ある建物が建ってゆき、
その一部屋を当てがわれた時、初めて原告盧が連れて行かれた
所が食堂ではなく「慰安所」だということを知った。その場所
は元墓地で骨が出た。建物は、日本式の宿舎で、板で仕切られ
畳の寝床があった。

4 連行場所での生活状況

 「慰安所」は日本人夫婦の男が管理しており、この男の額に
大きな瘤が一つあり兵隊ではなく、原告盧らはこの男を「ガン
リュウー(柑瘤)」「ボス」と呼んでいた。

 「慰安所」内には三〇人余りの女性がいて、一人一部屋ずつ
押し込まれた。

 台湾人が殆どで日本人もいたが、互いの付き合いはなかった。

 原告盧は仕事というのが性的行為であることは小部屋に入れ
られたことでわかった。わかったところで泣くだけで、それを
断っても逃げて行くところもなかった。それでも当初抵抗した
が無駄だった。

 それは、いきなり札を持った兵隊に来られて始まったが、と
ても恐ろしかったが、ひたすら我慢した。

 日本人の夫婦の男性(原告盧らはボスと呼んだ)が厚紙でで
きた「札」を兵隊に売って兵隊は札を持って原告盧らのところ
へ来た。原告盧に話をする者も一〇人に一人くらいいたが、多
くは何も言わずに強姦して行くだけだった。朝八時ころから昼
も夜も軍人が来て、軍人の中には朝まで泊まっていく者もおり、
断ることはできない。相手は将校、兵隊の軍人で、すべて日本
人で車に乗って来る者が多かった。

 付近には「慰安所」はほかになく『ケイナンショウ「慰安所」』
『ホンサ「慰安所」』という名称で呼ばれて看板は「慰安所」
となっていた。

 札をいらないと言ってビンタされた人もいたが、原告盧は一
年か一年半の我慢と思いひたすらおとなしくしていたので乱暴
されたことはない。

 海南島で、「サック」を使ってはいたが原告盧は妊娠した。
すぐに家に帰りたいと言ったが、妊娠八ヶ月まで客を取るよう
強制された。

 檎林には海軍病院があって、医者が何人かいて原告盧らは一
週間に一回検査につれて行かれて病気があれば休みになった。
生理の日は休みがとれることもあった。檎林港に検査のとき買
い物に行ったりしたがそれ以上の自由はない。

5 帰郷

 一九四四年、原告廬が一八歳で妊娠八ヶ月を過ぎた時、医者が
証明書を書いてくれて台湾に帰る事が許された。お腹が大きくな
って利用価値がなくなるまで利用された。また当時原告盧はマラ
リアにかかっていた。

原告廬は自分で九九元の船賃を支払い、大きな船で直接基隆ま
で戻り、家に帰った。

 台湾に戻ってから一一月に生んだ子供は生後三八日で亡くなり
数日後に紹介で養女をもらい受けた。また台湾へ戻って間もなく
父が亡くなり、半年後に母も死んだ。台湾に戻ってみたら原告廬
が海南島に行ったこと、そこで何をしたかと言うことを周りの人
が知っていて原告廬の評判はとても悪いものだった。
その後は工事現場の日雇い仕事をして暮らし、二七、八歳の時に
新埔に引し、三八歳の時に人に紹介されて結婚した。結婚相手は
最初は良くしてくれたが、原告盧の過去を知るとうまくいかなく
なった。

 小児麻痺の息子がおり、三〇歳で、原告と一緒に暮らしており
原告盧は他家の洗濯や子守などの仕事をして働いているが生活は
苦しい。

 当時、原告盧は、「慰安婦」にされると知っていたらは海南島
には行かなかったのであり、その後の苦しい生活、悲しみはなか

ったと思うと今も日本人を深く怨み日本の政府には謝罪と賠償を
求めている。

三 原告 黄阿桃

1 連行まで

 原告黄は、一九二三年二月六日台湾省桃園県の観音郷で生まれ
る。家は貧しく生後すぐに他家に養子にだされるが、七歳か八歳
のころ両親が再び引き取り、家で炊事・洗濯や弟妹の面倒をみて
暮らす。学校にはいけず、読み書きは出来なかった。一八歳のと
き家をでて、台北市の写真館に住込みで勤め、炊事の仕事(当時
の言葉で飯炊き)をしていた。

2 連行時の状況

 一九四三年、原告黄が二〇歳になったとき、住込み先の写真館
のすぐ近くの旅館の前に「南洋で看護婦として働きたい人は申し
込んで下さい」との貼紙があった。桃園出身の友達aがこれを読
んで教えてくれた。友達は既に申し込んでいて、一緒にいかない
かと進められた。しかし、原告黄は読み書きも出来ないため躊躇
していたが、受付で話を聞くと、炊事でもいいからといわれ、ま
た六カ月で帰れるということでもあったので、これに応募するこ
ととした。貼紙のあった旅館で受け付けもやっており、「KAK
I」という男性と四〇歳位の女性(ともに日本人)がいた。何日
何時その旅館に集まれと指示され、且つ戸籍謄本をもってくるよ
うに言われた。丁度旧歴の正月であったので、一旦実家に帰り、
母親にはその旨を話した。正月明けに集まり、他の女性達も含め
高雄に集合した。一緒にいった女性の中ではaとb(基隆出身)
が知り合いであった。全部で二三名位の女性がいた。ずっと、前
述の「KAKI」と四〇歳位の女性が現地まで一緒だった。高雄
から「浅間丸」という大きな船にのせられ、まずマカッサルに到
着し、ここに一週間位いた後、別の船に乗り換え再びバリクパパ
ンまでいった。上陸後トラックで一時間位の山中の航空隊の基地
に連れていかれた。上陸して一週間位の中に爆撃があり、女性二
名が死亡し原告黄も怪我をした。この時の怪我がもとで片方の目
が失明した。

3 「慰安所」での状況

 現地は、基地の外側に椰子の葉で作った建物があった。弾薬の
空箱を使って床を張りその上に軍用の毛布を敷いてあった。中は
二〇数部屋あり、一人一室が割り当てられた。建物のまわりに囲
いは無かったが、周りは山ばかりの地であった。到着して数日後、
建物の管理人(一組の日本人夫婦)が女性を集合させ、「軍人の
慰安をしろ」といった。初めて性的行為をさせられることを知っ
て、女性らはこの管理人に殴りかかったが、「看護婦はそんなに
大勢必要ないから、お前達は軍人の慰安をしにいけ」と言うのみ
であった。原告黄は震えが止まらず手は氷のように冷たくなった
が、応じるしかなかった。山の中であり、帰る船も沈めるとまで
言われ絶望的な気持ちであった。最初のとき、原告黄の札を買っ
たという軍人がきて原告黄の名前を呼んだ。原告黄が拒否すると、
「お前がここにきたのは軍人を慰安する事なんだ、同意しない事
などできるものか」と言われ、どうせ死ぬしか無いのならとの想
いで泣く泣く応じざるをえなかった。原告黄はこの時が初めての
性行為であった。

 以後、一日に二〇人から三〇人の相手をさせられた。管理人の
妻(女性たちはやり手婆と呼んでいた)は「御国の為に」が口癖
で、帰国するときに纏めて金を払うといっていたが、結局一銭も
貰うことは無かった。あるとき夜中に建物の外に出て歩いている
と直ぐに兵隊に何処に行くと誰何され、連れ戻される状態であっ
た。月に一度は基地の中の病院で検査があり、軍医がこれをした。
ここで朝鮮人の「慰安婦」と一緒になったこともあり、雑談では、
離れたところに朝鮮人の「慰安所」があるとのことであった。外
出は月に一度位の割合で軍のトラックで且つ集団で「KAKI」
等が付き添ってバリクパパンまで行く事があったが、勿論自由に
行くことは不可能であった。

4 帰国の状況

  一九四五年八月の敗戦と同時に、知らない間に日本軍の兵隊は
いなくなり、原告黄らには何らの指示もなかった。途方にくれて
いる時、現地の人間に日本人と思われて拘束され、一週間土蔵用
の所に監禁された。必死で台湾人であり無理に日本軍に連れてこ
られたと説明し、やっと監禁を解かれ、スラバヤに連行された。
そこで台湾同郷会の者が台湾人の女性がいると聞きつけて原告ら
を保護してくれ、同会で手配した宿舎に世話になり、数カ月船を
待って帰国することができた。

5 帰国後の生活

 帰国後、この経験は母親にしか話せなかった。その後、原告黄
は外省人と結婚したが、原告黄は卵巣を切除し子供は生めず、夫
には「子供は作りたくない」としか言えず、養子をもらって子と
した。現在その養子も死亡し、夫と二人の孫と生活している。現
在でも原告黄は、卵巣の摘出、爆撃時の怪我による片目の失明と
その後遺症を持った状態で暮らしているものである。

 四 原告 鄭陳桃

1 連行まで

 原告鄭は、一九二二年一一月一四日台北市で生れる。母親は原
告鄭が三歳のときに亡くなり、父親が再婚したが同人も原告鄭が
七歳のときに死亡した。以後継母と叔父に育てられる。中学(高
等課)にすすんだが、戦争の為これを中退した。一六歳の時に叔
父と継母は原告鄭を板橋(台北近郊)の林金という者に売買した。
林金は原告鄭に客を取るよう強要したが、原告鄭が「酒の相手な
らするが客をとるのは嫌だ」と拒否すると、台南塩水の柯鼻とい
う者に売り渡した。柯鼻は「月津楼酒家」という酒場を経営して
おり、原告鄭はそこで働いた。一七歳から一八歳にかけての頃、
原告鄭は新竹の叔母の処に逃げたことがあるが、連れ戻され、再
び同所で女給として働かされた。ここでは酒の相手をするが、客
(性行為として)をとることはなかった。

2 連行の状況

 一九四二年、原告鄭が一九歳のときに柯鼻は原告鄭を魏という
高雄の者に売り渡した。魏の妻は、原告鄭に対して看護婦の助手
として読み書きのできる人が必要だからといって(原告鄭は読み
書きができた)、アンダマンに行くことを指示した。二年間とい
う説明であった。二一名の女性が一軒の旅館に集められ一週間程
待機した後、同年六月四日高雄から日本の貨物船に乗船した。途
中ペナン等に寄り、アンダマン(インド洋上の島)に上陸した。
魏の妻も同行した。

3 アンダマンでの状況

 アンダマンは小さな島であり、海岸線に日本軍の基地があり、
現地人は山間部に居住していた。日本軍と現地人との交流や接触
は一切なかった。近くには集落といえるものも無かった。原告鄭
の感じでは二千人位の兵隊が駐屯していた。部隊名は石川部隊と
いい、イー一九 或いはイー一七の番号がついていた。基地は囲
い等はなく、軍用の建物が幾つかあり、その中の一つが原告鄭等
女性用として割り当てられた。この建物は二四部屋あったが、現
地に到着した女性は一八名であり、各部屋を割り当てられた。原
告鄭の部屋は三号であった。尚、先に居た女性はいない。

 上陸後すぐには何もなく、五日目位に魏の妻が原告鄭らを集め
て「慰安所」であることを話した。女性らは魏の妻に話が違うと
いって食ってかかったが、同人は金は払ってある、親には話てあ
る等といっていたが女性らは納得せず、魏の妻は大隊長を呼んで
きて、同人から威嚇的にここは「慰安所」であるとして諦めるよ
う説得させた。魏の妻も今度は哀願調になって諦めなと諭した。
原告鄭らは離島から逃げ出すこともできず諦観した気持ちで応じ
ざるを得なかった。

 ここでは、女性は番号を付けられ互いにその番号で呼ぶよう言
われた。又日本名として原告鄭は「モモ子」と付けられた。魏の
妻が管理人も兼ね他にもう一人の日本人の老女がいた。軍人は管
理人の処で札を買いそれを持って部屋にきた。原告鄭には前借金
があるといって金が渡されることは無かったが、軍人からチップ
を貰うことはあり、これは個人で貯めていた。毎月曜日に基地の
病院で性病検査が軍医によって行われた。外出は禁止されてはい
なかったが、所詮離島のことであり、禁止は意味のない状況であ
った。一週間に一度位の休みがあり、軍人が車で島巡りに連れ出
すことも有った。それでも身体的にも耐えきれず森に隠れたこと
もあったが、直ぐに探しにきて連れ戻された。

 一年二カ月が過ぎた頃、新しい女性と交代するとのことで、他
に移動することとなった。魏の妻と七人程の女性がジョホールに
移った。一八名の中、一名は死亡、他は島に残った。

4 ジョホールでの状況

 一九四三年秋、原告鄭らは前述のとおりジョホールに移された。
海軍旗を付けた船で移動し、同地に上陸し、日本軍の管理地域の
中にある倉庫用の建物に入れられ、ここで更に船を待つ様言われ
た。ここは、ゲートもありその外へは出られなかった。軍隊から
三度の食事が届けられ只待っているのみであった。しかし、一カ
月経ても船は来ず、女性達も次第にすさんだ精神状態になった。
チップを貯めた金も軍の酒保で遣い果たした。魏の妻に対し台湾
へ早く返すように要求したが、同人はサイパンに行く予定だと言
っているのみで、その船もなく、「見晴荘」なる「慰安所」へ売
り込もうとしたが、女性全員が拒否して諦め、挙げ句魏の妻は姿
を消してしまった。

 ここで四カ月経ったころである。七名程の女性は金もなくなり
途方に暮れていた。倉庫で世話をしていた兵隊の勧めで見晴荘に
いったらどうかと言われ、止むなく、見晴荘に行き当面の必要な
金として七名で一二〇円を借り、結局ここで「慰安婦」として居
ることになった。

 「見晴荘」も軍の管理地域の中にあり、建物自体には監視の兵
は居なかったが管理地域の境には兵の監視があり、シンガポール
への渡橋は禁止された。ジョホールの町へは外出できたが、所詮
行き場所の無い孤立した地域であった。「見晴荘」は勿論軍人の
みが出入りできるものであり、下野なる日本人が管理人をし、他
に経営者がいたようである。他に広東や朝鮮から連れて来られた
女性が総勢三〇名程居た。毎日一〇人から多いときは二〇人の相
手をさせられた。しかし、ここでは、一二〇円を返し終わってか
らは軍人が払う金の中から一部が原告鄭らにも払われた。原告鄭
はこれを軍事郵便貯金にし、総額で一八〇〇円程を貯金した。尚、
この貯金は一九九八年になって交流協会を通しての請求により、
日本政府から一八二九米ドルがやっと支払われたのみである。

 ジョホールでは、原告鄭ら七名程の女性は、金も無く、頼る者
もなく、台湾へ自力で帰る術を全く持たない状況で放置された。
「見晴荘」に原告鄭らが行ったことも、結局生きる為の止むを得
ない決断であり、強いられた結果となったものである。

5 帰国の状況

 一九四五年七月、「見晴荘」に客として通ってきていた山口看
護長と称する者が、原告鄭らを帰国させようと努力してくれた。
軍病院に所属する者らしく、疾病証明を偽造してくれ、赤十字の
病院船に乗船できる手配をしてくれた。これにより、原告鄭は他
の二名の台湾人女性とともに八月上旬高雄に帰還した。高雄の病
院に一週間程収用され、その後台北に帰った。丁度敗戦の日の頃
であった。

6 帰国後の生活

 台北に帰って叔父と継母に会ったが、叔父は原告鄭が「慰安婦」
であったことを知り軽蔑した態度を執った。原告鄭は、叔父や継
母が原告鄭を売るようなことが無ければこのような境遇になるこ
とも無かったと彼らを恨み、一カ月足らずで台北を離れ、以後彼
らには二度と会っていない。その後花蓮で住み込みの炊事の仕事
(当時は飯炊きといわれた)をし、更に台東にでて裁縫を覚えて
洋裁の仕事をしたりして生計を維持していた。二八歳のとき以前
塩水で知り合った者と再開し結婚したが、子供ができないといっ
て離婚された。その後は放浪して高雄で飯炊きの仕事等をしたが、
更に屏東に移り、四五歳のときに鄭標と結婚したが、その夫も一
〇数年前になくなった。子供は出来ず、この夫には過去のことは
全く話せなかった。現在は、知り合いの厚意で倉庫の一室に居を
得て一人で暮らし、老人年金と政府からの補助金で生計を維持し
ている。

 五 原告 A

1 原告Aは、一九二四年(大正一三年)七月一五日台湾省花蓮県
タロコの天祥シラク部落で生まれ、七人兄弟であった。日本の公
学校で四年の教育を受けた。

2 原告Aが一二才の時、日本の警察により部落全体が山地のシラ
クの部落から、花蓮県瑞穂郷紅葉村に強制移転させられた。
 紅葉村に移転後母親が死亡し、父親は再婚し継母が一男一女を
生み原告Aは学校を卒業するころから畑仕事のほか弟妹の子守を
し、そのかたわら紅葉村の、煙草工場に働いている日本人の子供
の子守もして生活をしていた。

3 数え年で一九か二〇才になったころ、原告Aは日本の軍隊の食
堂に連れて行かれたがそのときの経緯は次のとおりである。

 その頃、紅葉村で煙草関係者の日本人の一人が、軍が来たので
食堂(そばや)をつくった。原告Aとタロコのシラク時代からの
幼なじみで一緒に紅葉村に移った友人のcとが日本の警察の「コ
バヤ」に派出所に呼ばれて兵隊が軍に連き、そこで「ミズグチ」
から警察の下のそばやで働くようにいわれた。

 仕事は食器洗い、料理運び、掃除等で給料は月に一〇元(円)
ということで部隊のなかの、食堂に近い兵舎の一部屋が与えらた。

 当初、食堂の仕事は朝一〇時から始まり、飲み屋にもなるので
夜一時ころまで続いたが約束の仕事内容であった。その兵舎が休
憩所兼宿泊所で原告Aらは家に帰ったり泊まったりしていた。

 しばらくしてd(一九九八年一二月六日死亡)が加わった。d
は原告Aの兄嫁であり、当時「秀子」と呼ばれていた。

 なお、部隊は、「シマヤ部隊」といって隊長は松本であった。

 当時原告Aらを管理していたのは「ワタビ」、「ナカムラ」、「ミ
ズグチ」の三人の憲兵で、部隊は憲兵隊であった。兵隊達は朝ど
こかに出かけて夜帰って来た。

4 原告Aらが軍の食堂で働き始めて二〜三ヶ月ほど経ったある夜、
食事が終わって夜一〇時ころ、「ミズグチ」がcとdをわざと外
に連れ出し、原告A一人だけを休憩する部屋に残し、部屋にいた
ほかの四人の兵隊とともに原告Aを押さえつけ、いやがる原告A
を無理矢理代わる代わる強姦した。

 そのとき他の二人の女性は外の軒下に出されていたが、その後
cらをも部屋に入れ同様のことをした。

 それからは、毎日毎日三人の女性は夜一〇時から一二時ころま
で各人が四〜五人の日本兵の相手方をさせられた。

 原告Aら三人の女性で交代で日本兵の欲望に対処させられたが、
場所はいつも三人が寝泊まりしている部屋で交代で一人が部屋に
残り、あとの二人は軒下に出されるやり方であった。

 「ミズグチ」らが原告Aらを管理し、生理や流産の時のほか休
みはなく、この侮辱行為は日本が戦争に負けて日本兵が一九四六
年三月に撤退したときまで続いた。一年半位苦しみが続いたので
ある。

5 コンドーム等の使用もなく原告Aは、三回妊娠し、三回流産し
た。

 妊娠しても休めず、流産すると半月休んで又兵舎に連れ戻され
た。流産時家に帰ってたがタロコ族は貞操を重んじるため蕃刀で
殺されるのが恐ろしく、父に訴えることもできず流産のあとは姉
のところで療養した。村に「シガタ」という医者はいたがそこへ
行くこともできず、看護婦の訓練を受けたことがあるdに流産後
の後始末の仕方を教えてもらった。

6 四回目の妊娠をしているとき日本軍が撤退し、原告Aは妊娠し
ていたので、家に帰れず、父が山の上に持っていた畑の小屋で子
供の生まれるのを待った。

 原告Aは何度も自殺を考えたがdがそれを許さず、子のない夫
婦に産まれた子を渡すことになってその夫婦の家で子を産んだが
原告Aは赤痢にかかり子も生後三日で死亡した。

 婚約者とはこの軍の侮辱的仕事をしたために結婚できず、その
後結婚しても過去の忌まわしい事実のため、離婚したこともあり、
子宮等身体にも問題がありその後子供はない。

 六 原告 B

1 それまでの生活

 原告Bは、一九二九(昭和四)年、台湾省花蓮県秀林郷天祥で、
タロコ族の父と母の間の四人兄弟の末子として生まれた。上の三
人は兄であった。原告Bは、天祥から榕樹の平坦地に移り、銅門
小学校卒業後、家の畑作業の手伝いをし、粟や芋等を栽培してい
た。その後、部族は、日本軍によって、榕樹から銅門へ転居させ
られた。

2 徴集の実態

 一九四四年(昭和一九)年一二月、原告Bは、銅門派出所の「タ
キムラ」部長から、原告Bの部族の居住地であった榕樹に駐屯す
る日本軍の倉庫部隊で、裁縫等の雑用仕事をするように命じられ
た。当時、原告Bの兄達は日本軍に徴集されており、家は貧しか
った。右倉庫部隊での雑用仕事には、月一〇円の給料が支給され
るとの話だった。

 原告Bと共に、同じ榕樹に暮らしていた知り合いのe、f、g、
また、出身地の異なるh、iの計六名の女性が榕樹の倉庫部隊の
雑用係として集められ、すぐに部隊内で働き始めた。皆、派出所
の日本人警官によって集められたのであった。

 当初は通いでの仕事であったが、しばらくして、部隊は駐屯地
内に一部屋の宿舎を建て、原告Bら全員に、右宿舎に一緒に泊ま
り込んで働くようにと指示した。仕事は、兵隊の服や毛布を畳ん
だり、ボタン付け等の裁縫仕事等であった。

 3 部隊での「性奴隷」状況

 住み込みで働き始めて三月くらい経った頃、仕事が終わって宿
舎で寝ている時、原告Bは、部隊の「ナリタ」軍曹に呼ばれ、部
隊内にある洞窟内に連れて行かれた。洞窟の入り口近くには、板
ベッドと毛布が一枚あるだけであった。洞窟の奥は立入禁止区域
であったが、恐らく武器庫であったと思われる。

 原告Bが洞窟に入ると、「ナリタ」軍曹は、「お客さんが来るか
らここにいなさい、出てはいけない」とだけ言い、洞窟を出て行
き、直後に兵隊が入ってきた。原告Bは拒否したもの、その兵隊
に強姦されてしまった。原告Bだけではなく、他の女性も皆、洞
窟に連れて行かれ、同じように兵隊に強姦された。抵抗したため
兵隊から暴行を受け、怪我をした者もいた。

 その後、原告Bは、一週間に二、三回洞窟に連れて行かれ、時
には二、三人の兵隊の相手をさせられた。兵隊は、コンドームを
付けないことも多かった。原告Bは、部隊の「エラ」隊長や部隊
に常駐していたミヤモト医師にも強姦された。原告Bは、羞恥心
と恐怖心で、部隊での「性奴隷」状態について家族にも話せなか
ったし、部隊から逃げ出すこともできなかった。

 このような生活が続いたある日、原告Bは生理が止まった。生
理が止まったらすぐ言うように、と「ミヤモト」医師に言われて
いたので伝えると、ミヤモト医師は原告Bに薬を渡した。「ミヤ
モト」医師からもらった薬を服用すると、生理が始まった。原告
Bは、三回生理が止まり、その度「ミヤモト」医師から薬をもら
った。この薬は、早期に流産させる薬だったと思われれる。他の
女性のうち、e及びiは、日本敗戦後、洞窟内での強姦による日
本人の兵隊との子供を産んでいる。

 4 日本の敗戦と解放

 原告Bらは、恐怖と羞恥により、部隊内での集団強姦の事実を
家族に訴えることもできず、日本の敗戦までこのような境遇に置
かれた。

 右倉庫部隊は、日本敗戦後、一九四六(昭和二一)年三月、最
終撤退し、原告Bらはこの時に解放された。

 5 戦後の生活

 日本軍の撤退により、原告Bの部族は銅門から榕樹に戻った。
原告Bらは、倉庫部隊での生活について部族の人に話をしなかっ
たが、皆は原告Bらが何をさせられていたか知るようになった。
原告Bは、四回結婚して三回離婚したが、これも夫が原告Bの過
去を知り、我慢できなかったのが最大の原因であった。離婚によ
って、原告Bは子供をひとりで育てなければならず、大変苦労を
した。

 原告Bは二人目の子供を産んだ後に、子宮に汚れた物があると
いうことで、アメリカ人医師によって手術を受けた。倉庫部隊で
の生活が原因で、子宮や卵巣に異常を生じたと思われる。その後
も、時々子宮のあたりが熱を持った感じがして、呼吸が苦しくな
り喉が渇きやすく、薬が手放せない状態である。

 七 原告 C

1 それまでの生活

 原告Cは、一九三一年(民国二〇年)九月三日に台湾南投愛郷
春陽部落で生まれ、兄が二人、妹が一人いる。今数えで六八才に
なる。

 父親は原告Cが母親の胎内にいるときに「露社事件」に参与し
日本人に殺された。原告Cは、数え年八才で公学校に入り一三才、
六年生で卒業し、その後家の農作業を手伝暮らしていたが、一五
才の時に母が病死し、原告Cは伯母に引き取られて花蓮港の榕樹
部落で暮らす様になった。

2 徴集の方法とその状況

 一九四四年に、日本の警察の「ツバキ」の下で働いていたタロ
コ族の「ヤド」に原告Cは他に四人合計五人の女性とともに派出
所に連れて行かれた。

 他の四人は日本名で「サチコ」、「ヤエコ」、「カミオ」、ともう
一人であった。警官は「向かいの山の麓の日本軍の部隊が、掃除・
洗濯・洗濯物たたみ・お茶くみなどの手伝いを求めている明日か
ら行くように」と命令した。そのころ警察の命令は絶対で拒めな
かったから翌日から勤務についた。

 他の四人は結婚していて夫達はみんな南洋に軍夫として送られ
ていたから、子供のいる人は、子供を親戚や友人に預けて行った。

 原告Cらの働いた部隊は、「大山部隊」とも「倉庫部隊」とも
いわれていて五〜六〇〇人くらいの軍人がいて水源部落の向かい
の山に洞窟を掘り軍用物資を保管していた。

 最初、三ヶ月くらい原告Cらは毎日四〇分くらいの道を歩いて
通い、朝八時から夕方五時まで毎日休みなく約束通り雑用をして
働いた。給料を一〇元支給された。

3 性的奴隷状態の状況

 雑用を初めて三ヶ月くらい経過したある日、「西村隊長」が休
憩所で原告Cら五人に「五時になっても帰っては行けない。あな
た達に別の仕事をやらせるから」と言った。

 西村は先ず、「カミオ」を連れて行き「カミオ」は帰ってきて
泣いていた。そして西村は次に原告Cを山の洞窟の前に連れて行
き、「トンネル(洞窟)に入るように」と言ったが、そのトンネ
ル(洞窟)は普段入っては行けないと言われおり、前には人が一
人だけ入れる木造の見張り小屋があっていつも兵隊の見張りが立
っていたのである。

 中は真暗で顔も見えない状態で、原告Cは何をするのかとびく
びくして中に一〇メートルほど入ると小さな明かりがあって日本
兵が一人立っていた。

 その兵隊が原告Cに襲いかかり無理矢理服を脱がし暴行してき
た。原告Cは泣きながら抵抗したが相手方の力が強く無駄で結局
強姦された。そしてこの日本兵が出て行った後、別の日本兵が三
人入って来て原告Cを代わる代わる輪姦した。

 他の三人の女性も原告Cの後に、次々連れていかれ同じ目に遭
ったのである。

 時間は夜八時から九時半ころであった。原告Cらはその日夜一
〇時ころ泣きながら家に帰った。

 それから原告Cらは毎日昼は、それまでと同じに働いて夜は休
憩室に集められ、西村や警備兵が一人ずつ呼びに来て洞窟に連れ
て行かれ毎日強姦されて一〇時頃に帰宅することになった。呼び
にくる順番は「カミオ」、「サチコ」、「ヤエコ」、原告Cと決まっ
ていた。

 原告Cはみんな同じ目に遭っていると思ったがこの事について
辛くて誰にも話さなかったし、誰も原告Cに話さなかった。しか
し、後述するように拒むと殴られるのであるが、洞窟から帰った
女性が鼻血を出していたり顔に血がついていたりしていたことが
あった。

 原告Cは妊娠していたときそれを知らず疲れから嫌だと抵抗し
たが、そのときは西村らに背中から腰にかけてムチやベルトで何
度も何度も殴られ、踏んだり蹴ったりされてその後流産した。そ
の後もいやだというたびに殴られたり蹴られたりした。何も避妊
の手だてはされず、原告Cは性病に罹患し二回流産した。

4 解放及びその後の生活

 原告Cにとって地獄の様な日が一年位経過し、一九四五年一〇
月に部隊は突然いなくなり解放された原告Cは、その年の一二月
フイリピンに軍夫にとられていて帰還した夫と結婚した。原告C
は部隊での事は夫にも誰にも言えずに一人苦しんだが、一九九二
年に夫が肝臓ガンになったとき夫に隠したことに耐えられず、夫
の死の直前に部隊でのことを話し、クリスチャンの夫は原告Cを
許して逝った。

 八 原告 D

1 それまでの生活

 原告Dは一九二八年一一月三日に台湾省苗栗県(びょうりつ
けん)県泰安郷梅園村の天狗という集落でタイヤル族の父と母の
子として出生した。原告Dの戸籍が死んだ一九三二年生まれの妹
の戸籍と混同して原告Dの生年月日が混乱している。

 八歳のとき天狗小学校に入学し、三年生のとき別の集落の象鼻
小学校に移り、一四歳で小学校を卒業した。その後、原告Dは日
本の部隊に働きに行く前に後の夫とすでに婚約していたが学校の
先生をしていた婚約者は日本軍に徴兵された。

2 徴集の方法

 その翌年一九四四年のこと、日本人の警察官「カワハダ」が、
原告Dと近所に住むj、kの三人に、清泉区には日本の部隊が駐
屯しており、洗濯、炊事、草取り、裁縫、風呂焚きなどをする女
の子を必要としているが働きに行かないかと行って来た。

 原告Dら三人は、当時は日本人警察官の言うことを断ることは
でず、そこに行けばお金を稼げるというので生活の足しになるし
又その軍隊に行けば兵隊にとられた婚約者を探すことができるか
と期待し働きに行くことにした。

 原告Dら三人は「カワハダ」に連れられて泰安郷天狗から歩い
て大湖へ行って大湖旅館に一泊し、翌日大湖から苗栗駅までバス
に乗り、苗栗駅からさらに汽車に乗って竹東に行ったところ、竹
東では三人の日本兵が迎えに来ていた。(木村)班長と「スズキ」
(鈴木)班長という名前を記憶している。そのほかに運転手がい
た。「カワハダ」さんはここから帰って行った。

 木村班長たちは原告Dら三人を清泉(イノウエ)の「ダキ」部
隊に連れて行った。部隊で原告Dとj、kの三人は、当初洗濯、
お茶汲み、裁縫などの仕事をした。

3 性的強制の状況について

 原告Dは部隊に行って一ヶ月もたたないうちに、日本兵から性
的労働を要求さた。

 日本軍は清泉温泉区のすぐ横に駐屯しており、原告Dたちのい
る労働者寮も温泉区のすぐ横にあった。原告Dら三人が一部屋で、
タタミの上で寝ていた。

 ある日夜八時ごろ、原告Dは木村班長に別の部屋に連れて行か
れ強姦された。原告Dは大声を上げて逃げようとしが口を押さえ
られ平手及びベルトでも叩かれて、体を丸めると腰を蹴飛ばされ
転がされて又蹴飛ばされるという様な暴行を受けた。

 そしてその夜、六人の日本兵にかわるがわる強姦された。その
ときkは、足を暴行で脱臼しびっこを引いていた。原告Dはその
後は恐怖のあまり抵抗できなかった。

 それ以来、昼は洗濯等の仕事をし、夜は別の労働者寮に連れて
行かれ、七時から九時ころの時間一晩三人から六人ほどの日本兵
の相手を強制され、生理のときも休みさえ与えられなかった。

 労働者寮には、山地人が三人、平地人が三人の合計六人の女の
子がいた。原告Dは平地人女性とのつきあいはなかった。

 清泉にいる間は、原告Dたちは寮の敷地から外へ出ることは許
されず、いつも憲兵に見張られていた。少しでも嫌というとベル
トで殴ったり蹴飛ばして性的行為を強制した。

 原告Dは性病にかからなかったが、日本兵たちがコンドームを
使用したことはない。原告Dは、妊娠し、後に流産しjの世話に
なった。

4 解放とその後の生活

 kは八ヶ月近く働いた後、先に家に帰った。kは部隊に来る前
にすでに結婚していたので、夫に知られるのが恐ろしくて、スズ
キに頼み込んで先に帰ったのである。その後兵士がだんだん少な
くなっているのに気付いたが、当時原告Dは日本が降伏したこと
をまだ知らなかった。

 一年ほど清泉にいて、原告Dは妊娠八ヶ月になっていたjを連
れて、清泉の「ダキ」部隊から歩いて山中に一泊して竹東に行き
汽車に乗って新竹に行き、苗栗、大湖とバスを乗り継ぎ山中に又
一泊し天狗集落に帰った。

 当時、jはすでに妊娠八ヶ月だった。部族では、夫以外と性関
係を持った女子は首を落とされることになっており、原告Dたち
は首を刈られるのが恐くて、天狗に戻ったものの恐ろしくて家に
帰れず、山高くに潜んでまずは子供を生んでからあとのことを考
えることにした。

 原告Dの父親が山の上に作業小屋を持っていたので原告Dはj
をそこに連れて行って、原告Dだけ家に行って米をとって原告D
の母親とjの母親を連れて山に行った。母親に頼み、父親が小屋
に来ないようにしてもらって、その間は野草や山菜などを食べて
凌ぎ、原告Dはjが子供を産み落とすまで世話を続けた。母親ら
はjの子が危険だから山から下ろし家に連れて行ったが子供はす
ぐ死んだ。

 ところで原告Dは、この話を今初めてするが、実は、原告Dが
天狗の山に帰ってjの世話をしているとき、原告Dは自分では全
く分からなかったが、母親は原告Dが妊娠していることに気がつ
いた。

  そのため原告Dが集落に戻って間もなく、原告Dの母親は南
洋から帰った婚約者と原告Dの結婚を急いだ。夫は全く知らない
ことであるが、原告Dの第一子は誰か分からない日本軍人の子で
ある。原告D夫婦はその子を大切に育て誰にも事実を言わなかっ
たが…。

 また原告Dは清泉の日本軍であった出来事を長い間、夫にも言
わなかった。

 一九九六年の九月に花蓮で開かれた「台湾籍日本兵」に関する
会議に夫と参加して、会場で「慰安婦」の事が取り上げられたの
をきっかけに初めて夫に話した。原告Dの過去を知って二人は抱
き合って泣いた。夫は南洋に連れて行かれて十分辛い目にあった
のに原告Dまで日本兵に虐められていたことを知って原告Dの夫
は絶句した。原告Dも事実を五〇年以上も隠し通した苦しみは筆
舌に尽くしがたい。

 今も原告Dは日本の部隊で働いていたときに受けた暴行が原因
で腰と脊髄の後遺症に悩みつつ、日本の政府の正式な謝罪と賠償
を求めている。

 九 原告 E

1 それまでの生活

 原告Eは、一九二二年(大正一一年)五月二九日、台北で生ま
れ、生後すぐに養女に出された。小学校を途中でやめ、生計を助
けるために、織物工場、煙草工場、秤工場で働きながら、青年防
御団で、戦争のための訓練を受けていた。

2 徴集の実態

 原告Eは、一九四三年(二二歳)、幼なじみのlから、海外へ
行って働くことを誘われた。lは、知り合いから紹介されたアケ
ミなる台湾人女性より、海外で働くことを誘われ、原告Eを一緒
に誘ったのであった。

 原告Eもlも、具体的にそれがどのような仕事であるかは知ら
なかったが、食堂で働く仕事もあると聞き、原告Eは、現状の生
活の困窮や、戦争で死ぬなら海外で死にたいと思い、lとともに
海外行きを決意し、陳古山という台湾人男性の家に赴いて契約を
し、二〇〇円を受領した。このとき、仕事の内容が「慰安」であ
ることは、全く聞かされていなかった。

 旧暦一月、原告Eは、l及びアケミとともに、高雄からカマク
ラ丸という船で出発した。引率者は陳古山で、船には三二人程の
若い女性が乗っていた。

3 連行の場所

 原告Eらは、高雄を出発してから数十日で、ボルネオ島パリク
パパンに上陸し、そこから小舟で、「サンマリンラ」に到着した。

 同地は周囲を山に囲まれた場所で、あまり整備されていない場
所であった。原告Eらは、同地にて、初めて「慰安」の仕事であ
ることを聞かされ、騙されたと強く拒絶した。当初は兵士の酒の
相手だけをしていたが、日本人の管理者の女性から強要され、最
終的には性行為に応じざるを得なくなった。

 原告Eには、それまで性体験はなかった。

4 「慰安所」で強いられた生活

「慰安所」は、サンマリンラ、サンガサン、ロアクルの三カ所
であり、原告Eを含む三十数名の女性が定期的に交替で三カ所を
回った。サンガサンは地域の大きい、総司令部のあるところで、
将校を相手に、酒の相手と性的行為の相手をさせられた。サンガ
サンでは、油田採掘をする日本兵の性的行為の相手をさせられた。
ロアクルは、石炭採掘をする日本人及び現地人と性行為を強制
させられた。原告Eは、他の女性と同様、一日に何人もの客をと
っていたため、しばしば子宮に炎症を起こした。一週間に一度健
康診断があったが、原告Eは子宮炎症のため仕事を休むこともあ
った。また、原告Eは一度妊娠し、流産している。

 対価については、慰安は一札四円、酒の相手は一札二円で兵士
が札を買い、これを原告Eらが受け取り、定期的に清算する方式
であった。

5 敗戦と帰郷

 原告Eは、約二年間同地で慰安の仕事をさせられ、日本の敗戦
により、船でスラバヤへ送られた。一年後、自費により、帆船で
台湾へ帰国した。

6 戦後の生活

 帰国後、以前から結婚を予定していた男性からは、原告Eの過
去を知り結婚を断られた。原告Eの実家の援助は期待できず、苦
しい生活を強いられた。その後二度結婚したが、いずれも一緒に
暮らすことは少なかった。現在は、夫は死去し、子どもや孫とと
もに暮らしている。

第五 損害賠償

一 法的責任

1 「慰安婦」制度の国際法違反

本件原告らが、被告国の関与により「慰安婦」として身体を拘
束され、性的な奴隷状態におかれたことは、以下に述べるとおり、
数々の国際条約、国際慣習法上の義務違反を構成する。

 奴隷制度の違反

 奴隷制禁止の歴史

国際法上、奴隷制度の禁止の歴史は古く、一九世紀にその
端緒を見ることができる。即ち、一八一四、一五年のパリ平
和条約、一八四一年ロンドン条約、一八六二年ワシントン条
約などに既に奴隷制に関する規定が存在した。

また、国際連盟は、植民地・委任統治制度下における奴隷
制の問題を重要視し、連盟規約は、「委任統治地域における
原住民ないし土民の保護のうちに奴隷取引のごとき濫用を禁
止する」こと(二二条)、及び「加盟国は自国及び商工業上
の関係が及ぶあらゆる領域において、公正かつ人間的な労働
条件の確保並びに維持に努力すべき」ことを定めた(二三条)。
その後、国際連盟は一九二二年奴隷制に関する一切の問題
を調査するために奴隷臨時委員会を設置し、同委員会の調査
研究の結果、一九二七年、奴隷条約が発効した。

この条約は、一条で「奴隷制度とは、その者に対して所有
権に基づく一部又は全部の権能が行使される個人の地位又は
状態をいう。」と定義し、「締約国は強制労働の利用が重大な
結果をもたらすことがあることを認め…強制労働が奴隷制度
に類似する状態に発展することを防止するためにすべての必
要な措置をとることを約束する。」として強制労働と奴隷状
態の関連性について言及している。

第二次世界大戦後においては、世界人権宣言第四条で「何
人も奴隷の状態又は隷属状態におかれない」と宣言し、それ
までに確立されていた国際法の慣習を宣言した。

また、国連のもとで、一九五七年「奴隷制度、奴隷取引並
びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する補足条約」
(以下「奴隷制廃止補足条約」という。)が発効した。

奴隷に関するこれらの条約については、日本は締結・批准
していないが、本件原告らが被害に遭った一九三〇年代には、
奴隷制の禁止が確立した国際慣習法であることは、右の歴史
からみて疑いを入れない。

 本件原告らの状態

原告らは、「日本軍のために働く。看護婦として働く。」等
と騙されたり、警察官に無理矢理連れさられたりし、軍人た
ちに性的行為を強制された。

いずれの原告も、毎日ほぼ休みなく何人もの兵士の相手を
させられ、「慰安所」に閉じ込められ外出の自由もなく行動
を監視された。そして、逃げようとしたり性的行為を拒否し
ようとすると殴る蹴るなどの暴行を受けるなどした。

この状態は、まさに奴隷状態というほかはなく、日本国の
主導により奴隷制禁止違反がおかされたことは間違いがない。

 強制労働に関するILO二九号条約違反

 一九三〇年六月二八日、ILO第一四回総会において、「強
制労働に関する条約二九号」及び勧告第三五号、同三六号が
採択され、日本も、右条約を一九三二年一一月二一日批准し
た。この条約は、植民地で慣行化されている強制労働の非道
徳性を重視し、それが奴隷制度若しくは奴隷制度に類似した
状態に発展することを防止することを目的としたものである。
そして、同条約は「あるものが処罰の脅威の下に強制せられ
且右の者が自ら任意に申し出たるに非らざる一切の労務をい
う。」と強制労働を定義したうえで(二条)、女子の強制労働
を全面的に禁止し(一一条)、違反した場合、刑事罰として
処罰する旨定めた。

 本件原告らの状態

 本件原告らは、欺もうや暴行によって、強制的に居住地か
ら連れ去られ、性的行為を強制された。

 原告らのように、性的行為の提供を強制されたことをもっ
て強制労働があったといえるかについては若干の問題がある
が、これについてはILOの専門家委員会の勧告的意見によ
って解決された。即ち同委員会は、最初タイ国における幼児
ポルノの写真撮影が労働に該当するかについてこれを肯定し、
ついで、「慰安婦」の性的行為の提供も同条約の対象となる
ことを決議した。

 次に、原告らの性的行為の提供が処罰の脅威の下に強要さ
れたといえるかであるが、右条約の処罰については処罰規定
と解する見解はなく、事実上の処罰があれば要件は充足され
る。

とすれば、厳しい監視下におかれ、性的行為の提供を拒否す
れば暴力の制裁が待っているという原告らの状態は、まさに
処罰の脅威にさらされていたと言える。

そして、原告らは女性であり強制労働は全面的に禁止されて
いるのであり、どのような観点から検討しても原告らの状態
がILO二九号に違反していることには疑いを入れない。

 婦人子どもの売買禁止条約に対する違反

 右条約は一九〇四年協定、一九一〇年条約、並びに最終
議定書、一九一二年の三つの条約からなるものであるが、
ここでは主として一九一〇年条約(狭義の醜業条約)と最
終議定書を中心に主張する。

 一九一〇年条約は、「何人たるを問わず他人の情欲を満足
せしむる為醜業を目的として未成年の婦女を勧誘し、誘引
し又は拐去したるものは本人の承諾を得たるときと雖又右
犯罪の構成要素たる各行為が異なりたる国に亙りて遂行せ
られたるときと雖罰せらるべし。」(第一条)としている。
この文言からわかるとおり、本条約は直接的には女性を性
的行為に従事させるための売買をした者を加盟各国に処罰
することを求めたものであり、加盟国が右のような売買を
することについては言及していない。

 しかしながら、醜業目的のために女性を売買することを
処罰しなければならないはずの国が、自ら右の売買に関与
することが許されないのは当然であり、右条約は、国家が
そのような行為に関与することが予想外のことであったた
め直接的には触れられていないに過ぎない。

 これに対しては、植民地に右条約が適用されないという
見解もあるが、国家が醜業目的のための婦女の売買に加担
することは右条約の趣旨からして到底許されないはずであ
る。

 原告らの状態

 原告らはいずれも台湾の内外に欺もうや強制によって連
れ去られ、性的行為を強制されたのであり、これらの行為
が右条約に抵触することは明白である。

 そして、これまで述べてきたとおり、「慰安所」の開設
は日本国家の意思・政策により設けられたものであり、原
告らについても移動、その後の性的行為の強要について日
本軍若しくは日本国家が直接間接に関与したものである。
とすれば、日本国家は、右条約に基づき自らを罰しなけれ
ばならないことになる。

しかしながら、日本は敗戦後も右の行為の責任を何らとる
ことなく過ごしており、ここに日本の醜業条約違反がある。

 通常戦争犯罪への該当

 人道法の形成

 人道法とは、武装紛争での行動と武装紛争の犠牲者の保
護の原則を定めるもので、一八六四年のジュネーブ条約(第
一次赤十字条約)にその起源がある。

 その後、戦争手段の進化、戦争規模の拡大等に伴い、よ
り近代的な法体系として整備され、一九〇六年のジュネー
ブ条約(第二次赤十字条約)、一九二九年のジュネーブ条
約(第三次赤十字条約)と発展し、更に第二次世界大戦の
経験をふまえて一九四九年に文民の保護を含んだ諸ジュネ
ーブ条約が締結された。

 右ジュネーブ条約とともに、一九〇七年、ハーグにおい
て「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約)が締結
され、条約付属書として陸戦の法規慣例に関する規則が定
められた。

 これらの条約とその他の国際慣習法を併せて国際人道法
と称している。なお、右条約中、日本はハーグ条約のみを
一九一二年批准しており、その他のジュネーブ条約につい
ては批准していない。

 古くから民間人への攻撃、兵士による女性の強姦、強制
売春等は禁止されており、これらは戦争犯罪として処罰さ
れてきた。

 一九〇七年のハーグ第四条約に付属する戦争の法規慣例
に関する規則の四六条中には「家の名誉及び権利」を尊重
すべしという規定があるが、これは女性への強姦、強制売
春をも禁ずるものと解されている。本来は女性への強姦、
強制売春は「家の名誉」というようなものではなく、端的
に女性に対する暴力と位置づけられるものであるが、一九
〇七年当時は、女性の地位が低かったため、女性個人の権
利侵害として捉えられず、「家」という概念を通して保護
されたのである。

 しかし、いずれにせよ第二次世界大戦時において、強姦
と強制売春が通常戦争犯罪とされていたことは間違いない。
連合国はこの大戦での戦争犯罪を処罰するために、各国の
戦犯法廷の管轄すべき事項をガイドラインとして策定した
が、その中に強姦と強制売春が管轄事項となることがはっ
きり定められている。

 そして、原告らに日本軍がなしてきた行為が強姦や強制
売春にあたることは間違いなく、通常戦争犯罪に該当する。

 人道に対する罪の違反

 人種、民族、宗教、政治その他の理由に基づいて非戦闘
員に向けられた組織的又は広範な迫害、攻撃は人道に対す
る罪として訴追されうる。
人道に対する罪は武力紛争中のものが罪に問われてきたこ
とが多いが必ずしも武力紛争を要件とするものではない。

 そして、人間を大量にまたは組織的に奴隷化することは、
少なくとも過去半世紀にわたって人道に対する罪と認識さ
れてきた。

また、広範囲または組織的に行われた強姦行為は、人道に
対する罪の定義で普遍的に禁止されている「非人道的行
為」に該当する。

 ニュールンベルク憲章等

 第二次世界大戦の終結時、この戦争における戦争犯罪に
ついて、国際軍事法廷憲章が特別な国際法廷を設立した。
一九四五年六月二六日に開かれたロンドン会議に、米英ソ
のほかナチス・ドイツに占領されたフランス臨時政府それ
ぞれの代表団が参加し、同年八月八日「ヨーロッパ枢軸諸
国の主要戦争犯罪人に対する訴追と処罰に関する協定」
(ロンドン協定)が締結された。

 ロンドン協定にはその後一九ヶ国が順次参加、裁判を行
うための国際軍事裁判所規約が作られた。

その規約では、
(1)  侵略戦争、国際条約・規約違反などの計画・準備・
開始・遂行などの共同謀議をした平和に対する罪
(2)  占領地住民の殺害・虐待、奴隷労働、捕虜殺害・虐
待などの戦争法規や慣習違反の戦争犯罪に対する罪
(3)  戦前若しくは戦争中にすべての民間人に対して行わ
れた殺人・殱滅・奴隷化・追放及びその他の非人道的
行為、または犯行地の国内法に抵触すると否とにかか
わらず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、
若しくはこれに関連して行われた政治的、人種的、若
しくは宗教的理由に基づく迫害など人道に対する罪
の三点を裁くことが明記された。

 この規則に定められた基準の中、前記(3) が人道に対する
罪とされるものであるが、それは人道法の普遍的な諸基準
を侵害した行為であるために処罰の対象とされたのである。

 また、東京国際軍事法廷条例第五条は、通常犯罪を処罰
することを定めるとともに、人道に対する罪を付加し、そ
の定義として「人道に対する罪、即ち、戦前、又は戦時中
為されたる殺戮、奴隷的虐待、追放その他の非人道的行為」
と定めた。

そして、人道に対する罪を規定した最新の法規定「国際刑
事裁判所規程」によると、国内武力紛争であれ国際武力紛
争であれ紛争過程で行われた民間人への強姦は「その他の
人道的行為」という規定の中に含めるのではなく、明確に
人道に対する罪の一つにあげられるようになった。

 原告らの状態

 原告らは、強制的に台湾の内外に連れていかれ強制的に軍
人の性的行為の相手をさせられ奴隷状態におかれた。 これ
は、まさに人道の罪に違反する行為である。

 以上述べてきたとおり原告に「慰安婦」として性的行為を強制
したことは、当時の世界における国際法に違反する。これらの違
反は重畳的に適用されるものであり、いかにその重大な違反であ
ったかを示すものである。

 次項においてはその効果について述べる。

 2 国際法違反とその効果

 国家責任の発生…国際不法行為

 ある国家の元首または政府(元首または政府に命令・公認さ
れた公務員その他の個人の行為は、これと同等である)が、国
際法上の義務に違反して、他国に損害をもたらした場合には、
その国家の国際責任として、国際不法行為による責任を負う。

 国際不法行為が成立するための要件は、国際法上、作為また
は不作為から成る行為が、国家に帰属し、かつ、当該行為が国
家の義務違反を構成する場合である。

 本件において、原告らを「慰安婦」とした行為が国家に帰属
することは明らかである(要件(1) )。この点に関しては、「慰安
婦」の連行及び「慰安所」の設置・管理に国家が直接関与した
場合だけでなく、たとえ私人が行った場合でも、国家が間接的
に関与し、黙認し、または禁止しなかったことにより、国家責
任が生じる。

 かつ、本件右行為が国際法に違反することは、前項1に述べ
たとおり明白である(要件(2) )。

 以上より、被告国の行為には、国際不法行為としての国家責
任が生ずる。

 国家責任解除義務

 国際不法行為を行った国家は、それによって何らかの損害を
被った国家に対して国際責任を負う。即ち被害国には違法行為
国に対する国際請求の権利が発生し、他方、加害国には違法行
為の結果生じた責任を解除する義務が発生する。この責任解除
は、被害の回復をなすことである。

 ここで、留意すべきは、被害国の損害としても、国家の直接
の損害だけでなく、個々に国民が受けた損害も含まれることで
ある。責任の解除をなすためには、個々の被害者をも満足させ
るものでなければならない。ここでは、だれが請求をしうるか
の前に、国家の被害といえども個々人の被害を基に(国家の直
接の損害とは別に)算定されるのである。

 重大な人権侵害に対しては、個人または個人の集団は、国際
法のもとで実効的な救済と正当な賠償を受ける権利があるとい
える。すなわち、国際責任を解除するための行為としては、右
のような個人の被害をも回復させるものでなければならない。

 そして、右の責任解除義務は、責任が尽くされるまでは解除
されない。

 責任解除のために必要な行為

 国際違法行為国は、被害国に対する違法行為から生じた一切
の被害を回復すべき責任を負う。違法行為国は、その責任を尽
くすことによって、国際義務違反により自ら負った責任を解除
される。

 広義の賠償(reparation)とは、国家がその責任から解除さ
れ、またはそれを果たすためにとる様々の方法を示す固有の文
言である。広義の賠償を律する基本原則は、「賠償は、可能な
限り、違法行為のすべてを除去し、その行為が行われなかった
ならおそらく存在したであろう状態を回復しなければならな
い」(常設国際司法裁判所・ホルジョウ工場事件判決)という
ものである。

 賠償の形態には、原状回復、金銭賠償、満足、再発防止の確
認・保障がある(国家責任条文草案第四二条)。

 原状回復(restitution inkind)とは、違法な作為または不
作為が行われなかったならば存在したであろう状態を回復する
ことである。

 国家責任条文草案第四三条(原状回復)は、次のとおりで
ある。被害国は、国際違法行為から原状回復、すなわち、違法
行為が行われる前に存在した状態を回復すること、を得る資格
を有する。ただし、次の条件を満たす限りかつその範囲で認め
られる。(a)物理的に不可能ではないこと、(b)一般国際法
強行規範から生ずる義務の違反を含まないこと、(c)被害国
が金銭賠償の代わりに原状回復を得ることから得られる利益と
均衡を失する負担を含まないこと、(d)国際違法行為国の政
治的独立または経済的安定を著しく損なわないこと、である。
 金銭賠償(compensation)とは、最もよく行われる賠償形
式であり、可能な限り、違法行為の全ての結果を拭い去るもの
でなければならず、「原状回復が有しえた価値に相当する」金
額でなければならない。

 国家責任条文草案第四四条(金銭賠償)は、次のとおりであ
る。被害国は、その損害が原状回復によって償われないならば、
かつ、その範囲において、国際違法行為国から、その行為によ
り生じた損害の補償を得る資格を有する。

 本条の目的上、金銭賠償は、被害国の受けたあらゆる経済的
に算定可能な損害を含み、かつ、利子及び、適切ならば得べか
りし利益を含む。

 満足(satisfaction)とは、国家の威厳または人格に対して
引き起こされた非有形的損害または道義的損害にとって適切な
賠償の形式である。現代の実行上、この方式は、一般的には、
遺憾の意の表明や正式の陳謝、罪を負う公務員の処罰、及び、
とくに行為の違法性の正式の承認または司法宣言(宣言判決)
に限られている。

 国家責任条文草案第四五条(満足)は、次のとおりである。
被害国は、十分な賠償を得ることが必要であるならば、かつ、
その範囲で、国際違法行為国から、その行為によって引き起こ
された損害、特に道義的損害のための謝罪を得る資格を有する。
謝罪は、次のものの一またはそれ以上の方式をとることができ
る、(a)陳謝、(b)名目的損害賠償、(c)被害国の権利の
重大な侵害の場合に、侵害の重大性を反映する賠償、(d)国
際違法行為が公務員の重大な非行(職権濫用、違法行為)また
は犯罪行為から生じた場合、その責任者に対する懲戒行為また
は処罰、被害国が満足を得る権利は、国際違法行為国の威厳を
損なう要求を正当化するものではない。

 国家責任条文草案第四六条(再発防止の保障、Assuarances
and guarantees of non-repetition)は、被害国は、適当な場
合、国際違法行為を行った国家から再発防止の保障を得る資格
を有する、と規定する。

 本件に即していえば、わが国は、国際法に違反したことによ
り、国家責任を負うことになった。わが国は、国際違法行為国
として、その生ぜしめた一切の被害を回復することによって、
国際義務違反により自ら負った責任を解除されることになる。
国家に課される被害回復義務は、個人に対する効果的な救済措
置を行うことであり、それは行政府、立法府、及び司法府の全
て、またはそのいずれかによりなされうるものである。

 行政府に求められる被害者の救済措置は、まず何よりも、「慰
安婦」に対するわが国の法的責任を認めることである。そのう
えで、国家責任の解除として公式な陳謝などの「満足」が履行
され、及び原状回復が不可能である以上、金銭賠償をしなけれ
ばならない。金銭賠償について、立法化が必要であれば、内閣
は自ら有する法律案提出権を行使しなければならない。再発防
止の確認・保障についても、行政府がなしうるところである。

また、実際的な救済策としては、被害者の医療その他のリハビ
リテーションを行うことが必要である。

 これらの中で、本件では、金銭賠償によることが、最も現実
的な方法である。

 立法府の国家責任解除義務に関しては、「関釜裁判」判決が、
「慰安婦」に対する日本国憲法上の賠償立法義務を、後述のと
おり、明確に認めている。また、国際法の「国内法化」の本質
は、国内法の実現を担う司法府に、国際法の履行確保の役割を
委ねたところにあり、国際法が国内法化されているのは、裁判
所の司法的営みを通じて国際法の遵守を確保し、もって国際協
調主義の実現をはかることにほかならない。裁判官には、国際
法違反の事態を回避または排除する責務が憲法上の要請として
課せられているわけである。ちなみに、日本と同じように、国
際法を国内法化しているドイツやアメリカの裁判所なども、国
際法に関して、同様の役割・責務を担うものとされている。こ
うして、司法府も、国家責任の解除義務を担うことになり、し
かも、その最終的な担い手として、極めて重要な地位にあると
いわなければならない。

 3 法的責任請求の根拠

 国際法に基づく個人の損害賠償請求

 個人の損害賠償請求権

 (1)  国際不法行為に基づく請求

 本件請求は、日本国によって行われた原告らを「慰安婦」
とした行為に基づく被害の損害賠償請求である。この損害
賠償の法的根拠として本項では国際法違反による国際法上
の不法行為を主張する。国際不法行為に基づく国家責任の
発生及びその効果については既に述べたところである。

 では、国際不法行為に基づき国家責任が生じるとして、
被害を受けた個人は、かかる国家責任を追及することはで
きないであろうか。国際法における個人の法主体性がまず
問題となる。

 「国際法は本来的に個人の権利及び義務を直接に定める
ものではないとしても、現在、人権条約等極めて例外的に
は、個人に対して権利を付与することが明確に規定されて
いる条約の存在も認められるのであるから、国際法という
方形式であるということのみから直ちに個人の権利ひいて
は民事上の請求権などがそこに規定されることはありえな
いと結論づけることはできない」(オランダ元捕虜・民間
抑留者損害賠償請求事件についての東京地方裁判所平成一
〇年一一月三〇日判決。)

 そして、国際不法行為によって、損害を生じるのは、何
も国家だけにかぎられるわけではないのである。個人が損
害を受ける場合も多い。

かかる場合にはこれまでも、個人の損害を認め、国家が相
手国に請求する中で、個人の損害として請求してきたもの
である。かかる意味で損害の主体として個人をこれまでも
国際法は想定してきていたのである。

 そして、同一の行為による損害であっても、国家の損害
と個人の損害とはまったく別異のものであり、個人の損害
が発生している限り、個人の損害賠償請求権は成立してい
るのである。

本件で原告が主張するのは、国際法に基づくものであるが、
これを国内裁判所での民事上の請求としてなしているもの
である。我が国の裁判所において民事上の請求をなす場合
でも、国際法がそれを認めるのであれば、国内裁判所の裁
判規範として用いることは何ら問題はない。

さらに、本件請求は、被告のユス・コーゲンス(強行法規)
違反を根拠に請求するものである。確かに、本件ではハー
グ条約第三条のような規定を根拠にしているものではない。
故に、国際法違反の国際不法行為の損害賠償について明文
の規定はない。しかし、ユス・コーゲンスの侵害による被
害は、その被害回復が最も図られるべきものであり国際法
上でも、不法行為の一般理論が適用できると考える。

よって、個人が国家のユス・コーゲンス違反に基づき、損
害賠償請求することは認められるべきである。

(2)  強制労働に関するILO二九号条約に基づく請求

 同条約第一四条は、強制労働を課せられたものに対して
報酬請求権を規定する。容認される強制労働に対しては報
酬の規定があるのに、違反の強制労働には何らの対価もな
いというのはいかにも不合理である。この条項は、租税と
しての強制労働を除き、「一切の種類の強制労働は使用せ
らるる地方又は労力が徴集せらるる地方のいずれかにおい
て類似の労働につき通常おこなわるる率より低からざる率
において現金を以って報酬を与えらるべし」とする。本件
では、原告らの「慰安婦」としての行為について対価を考
えることはできず、通常おこなわるる率の報酬を考えるべ
きではないが、損害賠償としてとらえることができると考
える。

同条約一五条は労働災害について、強制労働が強制せらる
る者及び任意労働者に等しく適用さるべしとして、補償を
義務づけている。これらを相まって考えれば、本条約は強
要された労働に対しても、金銭の支払いを権利性を以て規
定している。

 そして、この条約は強制を受けない主体としての個人が
定められているのであり、個人の処罰も規定するのである
から、個人の権利・義務を規定しているのである。

 原告らの性的行為を強要されたことは、強制労働に該当
し、本条約に違反しており、それによって生じた損害につ
いて、本条約に基づき、損害賠償を請求する。

 民法上の不法行為責任

(1)  不法行為の成立

 「慰安婦」制度は、日本軍が戦争目的遂行のために設け
た制度であって、民間業者が経営する形態をとっている「慰
安所」も実質的には軍が主体となって経営していたもので
ある。

 原告らは、一九三六年から一九四五年にわたって、日本
軍が統制支配する「慰安所」において、日本軍の兵士らに
よって強姦等の被害を受けてきた。日本軍が「慰安婦」に
対して行ってきた行為は、前記条約に違反し、かつ「重大
な人権侵害」にあたる。国際違法行為であることは、国際
法の解釈上異論がない。そして、本件行為によって、原告
らに多大な損害を与えている。よって、不法行為を構成し、
原告らは被告に対し、民法七〇九条に基づく損害賠償請求
権を有する。

(2)  国内法への国際法の間接適用

 日本が締結している条約及び国際慣習法は、国内の法律
よりも上位の効力があることには判例学説上異論がない。
したがって、国内法は国際法に適合されるよう解釈されな
ければならない。

本件において、国家は右のとおり国際法上の国家責任を負
っているのであるから、国内法、すなわち、民法上の不法
行為及び国家賠償法の解釈において、裁判所は、これらを
国際法に適合的に解釈すべき義務を負う。

 したがって、国家無答責理論は適用されないし、時効・
除斥期間等により請求を退けることがあれば、新たな責任
すなわち責任解除を怠った国家の行為とみなされる。

 また、後述する立法不作為による損害賠償請求は、国家
が国際不法行為による責任を解除する義務を負っており、
同義務を履行するために立法義務を負っていることから導
かれる。

 このように、国家が国際法上の右責任を負っていること
により、国家の一機関である裁判所は、国内法(本件訴訟
においては民法不法行為法、国家賠償法)の解釈・適用を
行うにあたり「加害国家は、被害回復によって責任を解除
すべき国際法上の責任を負う」との国際法規に適合的に判
断すべき義務を負う(国内法解釈における国際法の間接適
用)。

 なお、右不法行為への間接適用は、個人が加害国家に対
し国際法に基づいて直接の賠償請求権を有することは矛盾
しない。前述のとおり、国際法は個人が国際法により認め
られた権利の主体であることを認めており、しかも、前述
のハーグ条約第三条の主要目的は、当初からこの条約の規
程に違反する行為の結果として被害を被った個々人に、被
害に対する損害賠償請求権を与えることにあったものであ
る。

 国家賠償法の責任法に基づく請求

(1)  立法不作為

 日本国憲法一七条は、「何人も、公務員の不法行為によ
り、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国
又は公共団体に、その賠償を求めることができる」と規定
する。それを受けて国家損害賠償法が制定されている。

 同法一条は、「国又は公共団体の公権力の行使に当たる
公務員が、その職務を行うについて故意又は過失によって
違法に他人に損害を加えたとき」と規定する。

 国会議員の立法行為(立法不作為を含む)が国家賠償法
上違法となるかどうかについて、最高裁判所昭和六〇年一
一月二一日判決(民集三九巻七号一五一二頁)は、「国会
議員は、立法に関しては、原則として国民全体に対する関
係で政治責任を負うに止まり、個別の国民の権利に対応し
た関係での法的義務を負うものではないというべきであっ
て、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な
文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法
を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的な
場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違
法の評価を受けないといわなければならない」と判示する。

 しかし、立法不作為に関する限り、これが日本国憲法秩
序の根幹的価値に関わる基本的人権の侵害をもたらしてい
る場合にも、例外的に国家賠償法上の違法ということがで
きるものと解する(山口地方裁判所下関支部平成一〇年四
月二七日判決)。

 原告ら「慰安婦」が受けてきた行為は、これまで述べて
きたように、国際法違反行為によって、国家は、国家責任
解除義務を負っているのであるから、前述したようにその
内容として、立法府として、その賠償立法を行う義務を負
っているのである。

 かかる義務が生じながら、立法をなさないことにより、
国は、国家賠償法上の違反が生じ、それに基づき生じた損
害について、賠償責任を負う。


 ちなみに、前記山口地方裁判所下関支部判決は、「人権
侵害の重大性その救済の高度必要性が認められる場合であ
って、しかも、国会が立法必要性を十分認識し、立法可能
であったにもかかわらず、一定の合理的期間を経過しても
なおこれを放置した等の状況的要件、還元すれば立法課題
としての明確性と合理的是正期間の経過とがある場合にも、
立法不作為による国家賠償を認めることができると解する
のが相当である」と述べている。

 同判決は、さらに、従軍慰安婦の問題については、日本
国政府自体一九九三年八月四日には、内閣外政審議室の「い
わゆる『慰安婦』問題について」と題する調査報告書及び
同日の河野洋平内閣官房長官談話に照らせば、被告が「慰
安婦」問題について、重大な人権侵害であって、救済の高
度の必要性が存することを認識していたことが明らかであ
った。そして、これらの事実に加え、この頃には、第二次
世界大戦中に各国家の行為によって犠牲となった外国人に
対する謝罪・救済立法等に関する先進諸外国の動向が明ら
かになっていた事実等によれば、被害者に対する賠償立法
という方策が認識されていたこともまた明らかである。こ
れにより、国会は明確な立法課題を提起された。よって、
右の時期から立法をなすべき合理的期間を経過してもなお
立法がなされない場合には、当該立法不作為は国賠法上の
違法を構成するのであり、遅くとも平成八年八月末には、
合理的立法期間が経過したと考えられるから、被告は、国
賠法上の損害賠償義務を負うとする。

 しかし、国家責任解除義務が生じている以上、国家の立
法における認識を云々する必要はないものと考える。むし
ろ賠償立法を行う義務は、戦後直ちに行われるべきもので
あり、その後放置されてきたのであるから、一九五〇年一
一月には立法に要すべき合理的立法期間は経過しており、
被告は、国賠法上の損害賠償義務を負うものと考える。

(2)  責任者不処罰

 原告らは「慰安婦」として、日本軍により、性的奴隷状
態におかれてきた。原告らをかかる状態においた軍の責任
者の行為は犯罪として処罰されるべきである。

 すなわちかかる行為は、第一に刑法一七七条、一九一〇
年の醜業条約、強制労働条約に違反する犯罪であり、第二
に、「人道に対する罪」を構成する犯罪であり、且通常戦
争犯罪にも該当し、第三に重大な人権侵害であって、被告
国は処罰の義務を負っている。

 犯罪の被害者である原告らは、その加害者が処罰される
ことにより自己の受けた屈辱と辱めを回復され、その名誉
を尊重されることを内容とする法的保護を求める権利を有
する。

 しかるに、被告国は、現在に至るも、これらの犯罪行為
の責任者に対して何らの処罰もしていない。これにより、
原告らは責任者処罰によって達成される屈辱の除去と名誉
の回復がなされることによって得られる内心の静穏な感情
を害された。

 公権力の作為義務違反によって、人が内心の静穏な感情
を害され、不安感、焦燥感を抱かされるに至った場合に、
全体としてそれが法的利益を侵害した違法なものと認めら
れるときは不法行為が成立する。

 本件において、被告は「慰安婦」制度が違法であり、責
任者処罰がなされるべきであることを認識しながら、責任
者処罰はおろか、その前提となる調査すら行わなかった。
すなわち、戦争末期及び敗戦直後に、慰安所関係の文書の
焼却命令を出して証拠隠滅を図り、その後も何らの調査も
行ってこなかったのである。これらの事情において、責任
者不処罰が、社会的に許容しうる態様・程度を超えており、
不処罰が、被害者たる原告の法的利益を侵害したと評価さ
れるべきである。

 よって、原告らを「慰安婦」として性的奴隷状態におい
た責任者に対する不処罰は不法行為を構成し、原告らは国
家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求を行う。

 二 損害

 原告らは、日本国によって強制的に「従軍慰安婦」とされ、非人
間的扱いを受けたのみならず、敗戦と同時に、安全も生活も保障さ
れないまま遺棄された。そして、戦後も今日まで、何らの名誉回復、
補償措置も講じられないまま放置された。このため、原告らは、「従
軍慰安婦」の過去を背負い、生活してきたのである。
このように、原告らは、傷つけられ生きてきたのである。

 原告らのこのような筆舌を尽くしがたい精神的苦痛を金銭的に換
算することは不可能であるが、損害賠償額としては各自一〇〇〇万
円を下ることはない。

 なお、立法不作為、責任者不処罰に基づく賠償請求における損害
額は、かかる本来の損害額と同視できるのものと考える。

第六 結語

 以上のとおり、原告らは被告に対し、謝罪、金銭補償等原告の被
った損害回復のために必要なあらゆる措置を請求する権利を有する
ものである。

 よって、原告らは請求の趣旨記載の裁判を求める。

証拠方法

 口頭弁論において必要に応じ提出する。

付属書類

一 訴訟委任状  一通

  平成一一年七月一四日

 右原告ら訴訟代理人

 弁 護 士  藍 谷 邦 雄

 弁 護 士  池 田 浴 子

 弁 護 士  小 野 美 奈 子

 弁 護 士  笠 松 未 季

 弁 護 士  清 水 由 規 子

 弁 護 士  鈴 木 啓 文

 弁 護 士  中 吹 瑞 代

 弁 護 士  番   敦 子

 東京地方裁判所 御 中












当事者目録

      原 告 高寶珠

      同   盧滿妹

      同   黄阿桃

      同   鄭陳桃

      同   A

      同   B

      同   C

      同   D

      同   E




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