告別――ブヌン族の勇士・李温紅柿阿媽

                              (文:婦援会 慰安婦担当)

 

2008年、夜8時15分、ブヌン族の李温紅柿阿媽が息をひきとった。

享年87歳。彼女は最初に名乗り出て、日本軍の暴行を訴えた原住民の阿媽である。

静かな深山の原住民の阿媽たちが、台湾のこの土地で被害を受けたことを、彼女の勇敢さが社会に知らせたのだ。彼女の死によって、かつて「慰安婦」にさせられた阿媽たちは、わずか23名が残るだけとなった。

 

純粋、素朴、楽観、自然が、彼女が人に与える印象であった。性格は、彼女の中国名のように、愛さずにはいられないほど純真で、彼女がいるところには、いつも笑い声が満ちていた。

高雄県桃源郷にある阿媽の家は、市井から車で1時間半の、山林に囲まれた家だった。
セメント造りの平屋には、長いこと修理もせず、半ば朽ちかけた雨漏りのする屋根がかぶさっていたが、それでも病床の阿媽は片時も忘れることができず、山の「我が家」へ帰ることを願っていた。

そこには、留守番をしている阿媽の犬「喜楽」がいるし、阿媽が植えたシソ、ショウガ、梅の木が阿媽が手入れを待っている。そして、なによりも、そこには亡き夫との大切な想い出がある。

 

だが、阿媽の最後の願いはかなえられなかった。

2年前に急性の中風で倒れて以来、彼女は立つことができなくなり、家族が手配した台中の清泉医院で治療を受けることになった。
阿媽は強固な意志で、挿管の苦しみを耐えた。
2年あまりも話すことができない状態がつづいたが、頭がはっきりしているときには、アーアーと声を出しながら口の形や手真似で、家に帰りたい意志を示した。
家族は、阿媽の病状が許すならば、家に連れて帰ろうとしたが、実行するのは難しかった。

 

阿媽の身体は今年の春節前に急速に悪化し、何度も咳き込んでは吐血し、電気ショックの救急医療で生命をとりとめていた。家族は苦しみつづける阿媽を見るに忍びず、悲しみをこらえて救急放棄の同意書に署名した。

先週の金曜日は、私が最後に病床の阿媽を見舞った日となった。阿媽は昏睡状態だった。目覚めれば吐血するので、医師が大量の安定剤を投与していた。阿媽は、激しい息づかいをしていた。昏睡状態でも、阿媽の疲労と辛苦が感じとれた。

 

昨夜、阿媽は逝った。阿媽の霊魂は、彼女が朝な夕なに想いつづけていた家に、一足先に帰っているだろう。最後を看取った家族によれば、阿媽は安らかな顔をしていたという。

「阿媽は生前、こう言っていたのです。わたしが死んだときに、みんなが大声で泣くのを見たくない、また、たくさんの花で盛大に送られる必要もない、子や孫が孝行してくれることが最も大切で、ほかのことは必要ない。」

阿媽の家族はこう言って、遺言通りキリスト教の告別式を挙げることにした。これこそが阿媽が切に願っていた簡素で心のこもった告別式だから。


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2006年9月

阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会

ブヌン族の李温紅柿さん逝去(2008年2月20日お亡くなりになりました。享年87歳)