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台湾元「慰安婦」損害賠償請求上告事件

 

上告理由

 

平成16年4月14日

最高裁判    御中

 

上告人高宝珠ら代理人

                           弁 護 士   藍  谷  邦  雄                         

                         弁 護 士   小 野  美 奈 子

                          弁 護 士   笠  松  未  季 

             弁 護 士   清 水  由 規 子

                          弁 護 士   鈴  木  啓  文

                          弁 護 士   中  川  瑞  代

                           弁 護 士   番    敦   子

同復代理人              

    弁 護 士   吉  田 江津       

 

原判決は、以下に述べるとおり憲法に違反する。

 

第1 憲法11条、13条、18条違反

 上告人らは、いわゆる「慰安婦」として、第2次大戦中、日本軍により組織的に性的行為を強制された台湾在住の女性達である。
  ある上告人らは、台湾から南方前線に「お国の為」「看護婦補助」などと偽計甘言を持って連れ出され、帰ることも出来ない状態 で軍管理下の慰安所に監禁された。暴行強迫をもって性行為を強要され続け、いわば「軍用性奴隷」として扱われた。しかも日本の 敗戦後は現地に放置された。
 また、ある申立人は、農業によって細々と暮らしていたところを軍の有給の雑用にと欺かれ連れ出された。そして、日中は雑用に、 夜は、閉じこめられて強姦される状況におかれた。
 被害にあった当時の申立人の年齢は低いものは13〜15才と幼い者も含まれた。
  これらの国の行為が個人の自由、幸福を追求する基本的人権(憲法11条、13条)や奴隷的拘束を受けない権利(憲法18条) を侵害し、両性の平等(憲法14条)を侵害するものであることは明らかである。

 原判決は、これらの事実を無視して、日本軍が「慰安所」を設置し兵士達が「慰安婦」に対して性的行為を強要したことは、国の 権力的作用に該当し、本来的に私法原理の適用が排斥されるという国家無答責の理論を採用し、上告人らの請求を棄却している。
  家無答責が採用される理由として、昭和22年に制定された国家賠償法附則6項の「この法律施行前の行為に基づく損害につい ては、なお従前の例による。」という条文をあげに、明治憲法下では行政裁判所法16条が「行政裁判所ハ損害賠償ノ訴訟ヲ受理セ ス」と規定し、行政裁判所に対して国家賠償請求訴訟を提起する途はなく、また、司法裁判所に対しても国家賠償請求訴訟を提起す ることも否定されていたということをあげている。

 しかしながら、上告人らは、明治憲法下で本件訴訟を提起しているわけではなく、過去に起こった事実について現在の評価、救済を求めているのである。現憲法からみて明らかな基本的人権の侵害が行われているのに、過去において国は責任を負う必要がなかったからという形式的判断しかされないのであれば、およそ上告人らの基本的人権は守られない。

 国家無答責の理論も国の民法上の責任を考える理論に過ぎない以上、現行憲法に違反することはできないはずである。

この点において、原判決は憲法11条、13条、18条に違反している。

 そして、上告人らは、国が戦後も上告人らに対して被害回復の措置を取らないため、今もなお、回復し得ない損害を被り続けている。上告人らの受けた被害はある意味では何をもってしても回復できないほどの深いものであるが、それでも、当事者である国が謝罪し、賠償をすることにより、ある程度緩和されるものである。

しかし、国は、上告人らを放置し、今日まで何らの立法措置もとっていない。

この立法の不作為の状態は明らかに憲法11条、13条、14条、18条に違反している。

この点について、原判決は「国会議員は立法に関しは、原則として国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規程の適用上違法の評価を受けるものではないと」し、「憲法の前文及び各条項において、原告らの主張するような被害者に対する救済立法をなすべき義務が憲法上一義的に定められていると解することはできない」とする第1審判決を維持し、それ以上の何らの判断もしていない。

しかし、これは憲法の解釈を誤った判断である。

 上記に述べたとおり、申立人らは日本軍により組織的かつ制度的に「慰安婦」とされたのであり、これらが申立人らの基本的人権を侵害する行為であることは疑いをいれない。しかもそれは重大な違反であり、放置してはならない問題であることは明らかである。

そして、これらの違反行為を救済する方法は謝罪し、賠償をするしかないのである。原判決は国家責任の解除の方法は多様であるというが申立人らに対して賠償を行わずして、他にいかなる救済の方法があるのか。

これまでに申立人らになんらかの被害の回復策が取られているのであれば、その内容が不十分なものであってもそれは国会の裁量であるという論法も成り立つが、全く何もしていないにもかかわらず国家責任の解除の方法は多様だから被害補償立法をしなくていいというのは明らかに司法の役割を放棄した無責任な結論である。

基本的人権の擁護、国際法の遵守を謳った憲法の趣旨からすれば、「慰安婦」制度の被害者である申立人らに被害の補償立法が行われなければならないのは憲法上一義的に明らかである。

原判決はこの点において憲法の解釈を誤っている。

 

第2 憲法98条違反

 憲法98条は条約に国内法に優越する効力を認めている。日本が締結している条約および国際慣習法は、国内の法律よりも上位の効力があることは判例学説上異論がない。
また、政府の公的見解も同様である。すなわち1981年国際人権規約委員会において、日本政府代表富川政府委員は「日本では条約は通常の国内法に変形されるものではない。しかし、実務において条約はずっと以前から日本の法制の一部を構成すると解されてきており、それに相応する効力を与えられてきた」「換言すると、行政と司法当局は、条約の規定を遵守し、その遵守を主張してきたのである。条約は、国内法より高い地位を占めると解されている。このことは裁判所により条約に適応、合致しないと判断された国内法は無効とされるか、改正されなければならないことを意味する。・・・・・・・政府が条約を侵犯しているということで政府に対して一個人が訴訟を起こした場合、裁判所は通常その場合個人に関係のある一定の国内法を見つけだし、この国内法に基づいて判決を下す。希な場合関係国内法を見いだせないことがある。このような場合は、裁判所は、直接その条約を援用し、条約に基づいて判決を下す。もし、裁判所が、国内法と条約との間の不一致を発見した時は条約が優位する」と答弁している。

 本件において、旧日本軍の行為が国際法に違反した行為であることは明らかである。しかも、それは人間の基本的な権利を侵害する重大で看過し得ない違法である。

国際法上は、このような違法行為に対して国に違法解除義務が生じると一般的に考えられており、国が違法状態を解除するまで国の義務が消滅しないと考えられている。

条約が国内法より優位に立つという原則から行けば、上記のような国際法の解釈にのっとって、民法の解釈が行われるべきであり国家無答責の理論や時効・除斥期間の理論をもって上告人らの規定をもって権利を消滅させ、義務を免れることは許されないはずである。

この点において、原判決は憲法98条に違反している。

 

第3 憲法32条違反

 憲法32条に定める裁判を受ける権利を考察してみるに、それはどんな手続であれただ裁判が行なわれればよいというものではなく、法にのっとった適正な手続により公平な裁判を受ける権利を保障したものである。裁判であれば何でもいいというのであれば、裁判を受ける権利など保障しても無意味であることは明らかである。

そして、裁判とは、事実に対して法を適用し一定の判断を示すものなのであり、法律上も事実認定が行なわれることが前提となっている(民事訴訟法第133条、149条、179条、247条等)。

 これまで再三述べてきたとおり、上告人らは、旧日本軍により、組織的かつ反復継続的に性的行為を強要され、基本的人権を踏みにじられてきた。上告人らは、あまりにも過酷な経験から、日本国家に賠償を求めることはおろか、この経験を口にすることも出来ず、ひたすら心の傷として内に秘めてきた。

 しかしながら、人生の終盤に当たり勇気を振り絞って被害の事実を声に出した上告人らは、平成11年7月の提訴から5年近くこの裁判の行方を真摯に見守り、裁判所が公平な事実認定をしてくれることを心から待ち続けていた。

 それにもかかわらず、原判決は全く事実認定を行なわず、ほとんど第1審の判断をそのまま採用した形式的な判断しかしなかった。

これでは、申立人らの裁判を受ける権利を保障したことにならない。

正しい事実認定をしてこそ、適正な手続による裁判があったといえるが、第1審、2審のいずれも事実認定は全くされておらず、原判決は、憲法第32条に違反している。

 

第4 まとめ

日本国憲法は、基本的人権の尊重を最も重要な事項として定め、最高裁判所は少数者の人権を守る最後の砦とされている。

本件上告人らは、過去において日本文により基本的人権を蹂躙され、そのまま放置され、長い間声をあげることもできなかった、まさに少数者である。

国会にしかるべき措置により上告人らの被害を救済しようという意思がない以上、上告人らの基本的人権を守るのは司法しかない。

最高裁判所においては、本件上告人らに対して、国がいかなる行為を行なったのかという事実に目を向け、上告人らの被害が回復されるような解釈がなされることが望まれている。

国自らが重大な人権侵害を行っておきながら、「法」がないことを理由にその責任を逃れるなどということは、およそ、近代民主主義国家として許されるべき態度ではない。国家責任の一端を担う司法としても、その権限の範囲内で、できる限りのことを行うことが求められているのである。

今裁判所に求められているのは、安易に過去の判例理論や裁量権理論を繰り返すことではない。過去の判例理論の変更をも辞さず、新たな解釈の導入にも取り組む決断求められているのである。

最高裁判所においては、本件事案の構造、被害者に対する深い配慮を忘れず、憲法の基本理念にかなった法解釈がなされるべきである。

以上