平成11年(ワ)第15638号 損害賠償請求事件
最 終 準 備 書 面
原 告 高寶珠 外8名 被 告 国
平成14年3月26日
東京地方裁判所民事第26部合議部 御中
原告ら訴訟代理人 弁 護 士 藍 谷 邦 雄
弁 護 士 池 田 利 子
弁 護 士 小 野 美 奈 子
弁 護 士 笠 松 未 季
弁 護 士 清 水 由 規 子
弁 護 士 鈴 木 啓 文
弁 護 士 中 川 瑞 代
弁 護 士 番 敦 子
目次 第1 はじめに
第2 原告らの被害の実情
1 「慰安婦」制度等
2 台湾の事情の特殊性
3 原告らに対する侵害行為
4 各原告の被害
第3 国際法違反の効果
第4 法的責任
第5 まとめ
第1 はじめに
1 原告らはいわゆる「慰安婦」として、第2次大戦中に、日本軍の内部又は軍管理下に
おいて将兵の性的処理の為に置かれた台湾在住の女性達である。
原告らは「慰安婦」という言葉からは想像もつかないほど、人間の尊厳を踏みにじられ、
日本軍の性的道具として、原告らの意に反した性行為を制度的に連続 的に強要されたので
ある。
日本軍、日本の男性が有していた、女性の人格人権を無視し男が性的欲求を達成する性的
放縦、女性蔑視の思想(旧刑法の姦通罪・旧民法の戸主制において原 則長男を戸主とする
家督相続・妻の無能力の規程等がそれを徴表している)は個人の尊厳、男女平等の人権思
想に反し、女性にその人格を否定し苦渋を与えるこ とを本件原告の前に再確認しなければ
ならない。
性は愛する人との間で人を大切に思う心の具現である。従って意に反し強制される性行
為は、身体的苦痛のみならず、心に深い傷を負わせる行為であること は、原告らの苦渋に
満ちた証言が示しており、又女性の多くが知っていることである。
2 その上原告らに対するその行為は、国家、軍によって制度的に推進された性差別であ
るばかりでなく、本件原告らに対しては植民地支配の一環として行われたのである。
ある原告は、台湾から南方前線に「お国の為」「看護婦補助」などと偽計甘言を持って
連れ出され、帰ることも出来ない状態で軍管理下の慰安所に監禁され た。暴行強迫をもっ
て性行為を強要され続けいわば「軍用性奴隷」として扱われた。しかも日本の敗戦後は現
地に放置されたのである。
原告らの仲間の多くが、連行、監禁のひとかけらも人間扱いされない状況下で命を落と
したり故郷に帰還出来なかったりした中で、原告らは、かろうじて生き 残り台湾に帰った
人々である。
他方国は、台湾人の徴兵制により山地先住民の男らをほとんど強制的に「高砂義勇隊」
「軍夫」として戦地に追い立てた。
山地先住民の子女である原告らは農業によって細々と暮らしていたところを、働き手の
男を戦争にとられて、生活に困っていた。この状況につけ込み警察力で 軍の有給の雑用に
と欺き駆り出し、日中は雑用に追い使った。更に夜は、閉じこめられて強姦される状況に
おかれたのである。
日本の南方進出政策の兵站基地である台湾日本軍の性奴隷とされた。しかもこの蛮行は
少女であった原告らの居住地のすぐ近くの軍駐屯地で行われた。
いわゆる「従軍慰安婦」ではないが、原告らの証言のとおりこの事例は一箇ではなく、
異なる部隊で、異なる女性を被害者として何件もあるところから、台湾 駐屯の日本軍が特
有のやり方で集団で強姦をしたことが明白であり、軍ひいては国は慰安所設置と同様の責
任を負うものである。 被害にあった当時の原告の年齢は低いものは13〜15才と幼い
者も含まれ、その後の人生を含めそれは原告らの証言をもってするに悲惨というほか無い。
これら先住民の少女は植民地民として女性として、更に先住民族として2重3重の差別を
受け、その人格を全く省みられなかったのである。
3 原告らは、あまりにも過酷な経験から、日本国家に賠償を求めることはおろか、この
経験を口にすることも出来ず、ひたすら心の傷として内に秘めてきた。
原告らの戦後は経済的に困窮し、過去の経験に地域社会の中、人間関係において隠然と
圧迫される困難で苦渋に満ちたものであったがその生活に耐えてきた。
人生の終盤に当たり、勇気を振り絞って被害の事実を声に出した9人の原告は平成11
年7月の提訴から3年余この裁判の行方を真摯に見守り、日本政府の誠 意ある補償を心か
ら待ち続けている。
原告らの被害時からおよそ60年近く経過しようとしている。当時10代20代だった
原告も今は老いて、健康を害し裁判の結果を待ちきれない状況も生じて いる。
消そうとしても決して消し去ることも忘れることもできない悲惨な被害事実の記憶に
何十年も苦しみ後遺症や生活の困窮にさらされた長い人生を取り戻すこと はできない。
しかし、屈辱の過去を勇気を持って話した原告らにせめて命ある内に、日本政府の誠意
ある償いを与えるべきである。
4 本件原告らは、戦時下、日本の植民地であった台湾の人びとである。
被告政府は、アジア諸国との間で戦争賠償について条約、協定を締結してきており、政
府は戦争で被害を受けた個人に対する賠償を国家間の平和条約によって 処理されるとの
見解を示すが、日本と台湾との間では戦争と植民地被害についての賠償はそのレベルでさ
え為されていない。
即ち日本と台湾との間では1952年日華平和条約が締結されて戦争と植民地被害の
処理がされるかであったが、しかし、1972年日中共同声明によってこ の日華条約は遡
求的に無効になった。従って日本と台湾の間では平和条約による法的戦争処理さえ為され
ていないのである。
台湾の原告らはこの裁判でしか救済されないことを忘れてはならない。
5 被告政府は、目下も国外に自衛隊を派遣している。戦争は絶える事なき国際状況にあ
り、その戦時下で、女性は今も虐げられ続けていることが間断なく報道 されている。
現時、原告の被った様な被害が生じないという保証は全くない。
戦時下女性に対して侵した過ちを二度と繰り返さない為には、原告らの被った被害事実
から目をそらすことなく国家の関わった国際法に違反する不法行為であり、戦争犯罪であ
る事実を認め、国家として公式に謝罪し、彼女らの名誉を回復し正当な補償をすることこ
そ必須である。 民法723条の趣旨を汲み裁判所は損害賠償とともに原告らの名誉を回
復するために国に公式の謝罪を命ずるべきである。
かって被告政府は、被害事実「慰安婦」の存在を隠蔽し続けていたが、この過誤を繰り
返さない為に、あとに続く国民、即ち我々の子・孫らに教科書等で語り 継ぐことが必要で
ある。
そのためにも本裁判で原告らの請求を認容しなければならない。
原告らへ名誉回復、被告政府の公的謝罪及び賠償の実現こそ、恒久の平和を念願し、専
制と隷従、圧迫と偏狭を地上から除去しようと努める国際社会において 我が国が名誉ある
地位を占める真の民主国家となることに他ならない。
第2 原告らの被害の実状
1 「慰安婦」制度等
「慰安婦」とは、日本軍が管理・統制した戦地の「慰安所」で、日本軍人の「性的慰安」
つまり性交の相手をさせられた女性を言う。
日本軍による「慰安婦」政策は、1932年の第一次上海事変の時から1945年8月
の日本の敗戦まで続いた。中国、香港、インドシナ、フィリピン、ビル マ、タイ、沖縄そ
の他日中戦争以降、日本部隊が派遣された主要な地域には、例外なく「慰安所」が設置さ
れた。
女性たちは、強制あるいは虚偽の理由によって連行され、「慰安所」に集められ、長期間
にわたり「慰安婦」として、日本軍人との性行為を強要された。「慰 安婦」は、日本軍が
組織的に行った強姦行為であり、「慰安婦」とされた被害女性らは、組織的な性暴力被害者
であり「性的奴隷」であった。
軍「慰安所」の形態は以下にように分類しうる。
@ 軍直営の軍人・軍属専用の「慰安所」
A 形式上民間業者が経営するが、軍が管理・統制する軍人・軍属用の「慰安所」
B 軍が指定した慰安所で、一般人も利用するが、軍が特別の便宜を求める「慰安所」 設置場所は、大都市等にあって、駐屯部隊だけではなく、通過部隊が利用する場合や、前線基地に設置され、特定の部隊に専属する「慰安所」もあった。
「慰安婦」制度は、軍関係者には公知の事実であったが、日本政府は軍の関与を公式には否定していた。その後、1992年1月に軍の関与を文書の存在 が指摘されたことによって日本政府も軍の関与を認めたが、強制徴集については、責任回避の姿勢を継続した。その後、1995年7月、「お詫びと反省を表す 措置」として「女性のためのアジア平和友好基金」を創設したが、それは日本政府が法的責任を公式に認めた措置とは言い難く、逆に、被害女性の名誉を毀損するという反発を受けた。被害女性らにとっての被害の回復はまったくなされていない。
2 台湾の事情の特殊性
台湾は、1875年の日清講和条約締結以来、日本の植民地として日本によって支配された。
台湾の先住民族について、日本政府は「高砂族」と呼称して、理蕃事業としてその居住地を制限し、「撫蕃政策」の名の下、日本語教育を強制し、天皇崇拝等 の思想を押しつけた。そして、太平洋戦争においては「高砂義勇兵」 として駆り出したが、日本政府の台湾先住民族に対する対応は、彼らを「蕃人」とするものであり、未開・野蛮な民族という差別意識を強く有していた。
太平洋戦争期、植民地であった台湾は、南進を企てる日本軍の重要な基地であった。高雄港、基隆港は海軍の重要な港であり、軍艦や陸海軍徴用船の寄港地と なっていた。台湾自体が直接の戦場とはならなかったが、日本軍の重要な兵站として台北に台湾軍司令部が置かれ、重要拠点には部隊が配置された。これに伴 い、台湾内に「慰安所」も設置された。また、高雄や基隆という港から、台湾の多くの女性が南方に「慰安婦」として船で連行された。本件原告らの受けた侵害 行為によって明らかとなったように、南方戦線は前線基地であり、前線部隊のために設置された「慰安所」も、危険かつ劣悪な環境であった。また、船で激戦地 に連行された被害女性らは、実質的に逃げ出すこともできず、日本の敗戦による解放後の帰還も容易ではなかったのである。
敗戦後、台湾は日本の植民地支配からは解放されたが、中国内の紛争を経て現在の状態に至っており、台湾と日本とは、戦後問題において、直接の解決はなさ れていない。
3 原告らに対する侵害行為
本件原告らは、日本の南進政策に伴い、台湾内から南方のまさしく「慰安所」に連行されたもの(原告高、原告廬、原告黄、原告鄭、原告楊李)と、台湾の 先住民族で、居住地近くに駐屯する日本軍部隊に洗濯等の雑用のために雇われ、その部隊の軍人から組織的に強姦されたもの(原告曾、原告林、原告蔡、原告 鐘)とがいる。
南方の「慰安所」での被害 @ 徴集態様 原告らのうち、自ら志願して「慰安婦」となったものはいない。皆、虚偽の誘い文句等によって、「慰安婦」となることを知らずに、南方に渡ったものである。
例えば、南方で看護婦や給仕を求めているという募集に応募して徴集されたもの(原告廬、原告黄、原告楊李)や役所からの徴集を受けた者(原告高)、人身 売買されて連行されたもの(原告鄭)とがいる。皆、目的地につくまで「慰安婦」として働くとは考えてもいなかった。
これら原告に共通して言えることは、当時、年齢が若く(17歳から22歳)、貧しかったということである。また、原告鄭以外は、水商売の経験すらなかった。また、原告らは、南方の戦況についての知識はなく、前線地帯に行くという認識すら乏しかった。
徴集については、直接軍が行ったものではなく、日本人の民間人(原告黄、原告楊李)あるいは台湾人(原告廬、原告鄭、原告楊李)が行っており、こうした 事実も、原告らが通常の仕事の募集と思った一因でもあった。
原告らは、基隆(原告高)、あるいは高雄(原告廬、原告黄、原告鄭、原告楊李)から軍艦あるいは日本の徴用船で南方の「慰安所」に連行された。
@「慰安所」の設置等
原告らが連行された「慰安所」は、原告らを徴集した日本人や台湾人らが管理していたが、南方の「慰安所」は前線基地に置かれていることから、利用は日本 軍人に限られていた。さらに、日本軍医による性病等の検査が行われており、日本軍の関与は明らかである。 原告らが連行された後、「慰安所」が作られた場合もある(原告廬、原告黄)。
A 「慰安所」での状況
原告らは、1日に何十人もの日本軍人を相手に性的行為を強要されていた。
原告廬及び原告楊李は妊娠した。また、前線基地に送り込まれたことから、空襲や爆撃の被害もあり、原告黄は途中の爆撃で片目を失明し、原告高は爆音で片 耳の聴力を喪失している。
原告らは、船で連行されたものであり、航海そのものが危険を伴い、さらに到着後、前線基地に設置された「慰安所」での生活を強要された。原告らは、監禁 状態に置かれ、勝手に「慰安所」を出ることは許されなかったが、たとえ、「慰安所」を逃げ、台湾に帰ろうとしても、船の手配をしなければ帰れず、激戦の島 からの帰還は実際に不可能であった。
B 帰還
また、原告らは、日本の敗戦後、「慰安所」から解放されても、台湾に帰ることにも苦労した。日本軍は、原告らを性的処理の道具として酷使した が、敗戦後は自軍の撤退が最優先で、彼女らを帰還させることに積極的努力をせず、放置すらしている。連行の際は、言葉巧みに徴集し、軍の徴用船等に乗せ連 行したにもかかわらず、帰還についての配慮はほとんど皆無であった。
原告黄は、敗戦後、完全に放置された。原告鄭は、日本人兵隊の個人の努力によって赤十字の病院船に乗船することができた。また、原告高は日本の憲兵から 通行許可書等をもらったが、そのため、日本人と疑われ抑留されそうになった。また、原告廬は妊娠8か月のためようやく帰郷が許されたが、船賃はチップを貯 めた自費で払った。原告楊李はスラバヤまで船で行ったが、その後は自力で台湾まで帰らざるを得なかった。
4 先住民族女性の被害
@ 徴集態様
原告らのうち、先住民族である4名の原告らは、被害態様は極めて似通っている。
先住民族に対しては、居住地の日本の警察の派出所が支配を及ぼしており、住民全員を管理していた。派出所の日本人警官は先住民族の住民を掌握しており、 住民にとっては怖い存在であった。部族内に協力者を置いていた場合もある。
原告らは、皆、居住地の派出所の日本人警官から、駐屯する部隊の雑用の仕事に行くよう指示されている。原告らは、その警官の名を「コバヤ」(原告曾)、 「タケムラ」(原告林)、「ツバキ」(原告蔡)、「カワハダ」(原告鐘)と記憶している。原告らは当時若く(13歳から19歳)、働き手である男性は日本 軍に徴用されている等で貧しかった。こうした情報を、駐在所の日本人警官はすべて把握した上で、原告らに部隊で報酬を得る仕事をするよう誘ったのである。 当時の日本人警官からの誘いは、原告らにとっては命令と同じであった。
そして、原告らは、各駐屯部隊に仕事をしに行くこととなったが、その部隊は、紅葉村の「シマヤ部隊」(原告曾)、榕樹の「倉庫部隊」(原告林)、水源部 落の「倉庫部隊(大山部隊)」(原告蔡)、清泉の「ダキ部隊」(原告鐘)とそれぞれ異なる。
A 被害の実態
先住民族の原告らは、「慰安所」という形式ではなく、皆、日中は部隊の雑用をし、夜間は輪姦されるという性被害を蒙った。
被害場所は、部隊内の洞窟(原告林、原告蔡)というまさに部隊駐屯地内の場合か、仕事場の休憩場所(原告曾)、部隊そばの労働者寮(原告鐘)という、ほとんど部隊内と言うべき場所である。原告蔡をのぞく3名の原告らは、部隊内に住み込みで働いていた。まさしく日本軍部隊によって直接に監禁されていた性奴 隷状態であった。
さらに、通常の「慰安所」と異なり、避妊具等の利用がまれであったため、妊娠したものが多く(原告曾、原告林、原告蔡、原告鐘)、出産に至ったものもいる(原告鐘)。
B 軍の関与の直接性
4名の原告らは、部隊内で人間の尊厳を徹底的に蹂躙されたものと言えるが、このような軍による直接的な性被害が生じたのは、先住民族に対する日本軍あるいは日本人一般の偏見、差別によるものである。日本軍は、先住民族は「蕃人」であることから、何を行っても構わないと考えていたのである。
要するに、4名の原告らは、女性に対する差別、植民地住民に対する差別のみならず、先住民族に対する民族的差別を重層的に受けたものと言える。日本が台 湾を植民地とし、その先住民族に対する支配政策を徹底し、派出所の日本人警官が各部族を完全に掌握していたという社会構造そのものが、この性被害をもたらした背景である。
C 軍の関与の組織性
上記のとおり、日本軍は、先住民族の女性に対して、直接的に性奴隷としたのであるが、これは、各部隊が個別に行ったとは考えられない。
原告らは、別の場所に居住しており、被害を受けた部隊も異なるにもかかわらず、その徴集の経緯、被害実態は酷似している。台湾に駐屯する部隊のうち、先 住民族の居住地域近くの駐屯部隊が、任意に秘密裏に行った行為ではなく、台湾に駐屯する日本軍が、組織的に行ったものである。
その方法は、当初は徴集の際に話したとおりの雑用の仕事のみをさせ、給料を支払い、しばらく後に、ある夜、働いていた先住民族の女性数人すべてを強姦 し、以後、性的行為を強要し続けるというもので、4名の原告らに皆共通している。
台湾支配における軍と警察の密接な関係を根底とし、組織的に緊密に連携した上で、先住民族に対する日本人警官の威圧的な影響力を用い、若い女性を徴集し たと考えられる。徴集にあたった日本人警官は、当然、事前に事の次第を知った上で、軍に協力して先住民族の若い女性を送り込んだのである。
各部族を掌握している日本人警官から徴集されたということは、被害女性にとっては部隊を抜けだし家に戻ることは許されないことであり、また、先住民族の 部族は、女性に対する貞操意識が厳格であり、被害女性らが、被害事実を家族に話せないであろうことも、日本人警官は十分認識していた。軍は、こうした情報 を警察を通じて収集した上、若い原告らをまるで性的玩具とすることについて、先住民族との衝突を避けられると判断したものと思われる。問題の発生を避ける ため、しばらくは被害女性らを安心させるために何も行わず、落ちついたころに強姦行為を始めたという事実も、極めて巧妙な策略を示すものである。 以上のとおり、先住民族の原告らに対する日本軍の野蛮かつ愚劣な行為は、一部の駐屯部隊において突発的に起こったものではなく、周到かつ組織的になされ たものであって、軍そのもの深い関与は明らかである。
4 各原告の被害(個別の侵害事実)
原告高宝珠(甲26号証)
@ 徴集、連行
原告高は、1938年、17歳のとき、役所からの招集通知によって、広東に行って日本軍のために働くように言われそれに従い、他にも招集された18名 の女性と共に基隆から広東に渡った。そしてトラックで向かった金山寺で「慰安所」という看板を見て、初めて自分が「慰安婦」として連れてこられたことを 知った。
原告高は、金山寺から軍隊の移動に伴い香港から陸軍の船でシンガポールを経て、ビルマに連れて行かれた。途中、原告高の乗った陸軍の船が潜水艦の攻撃を 受け、原告高は、その轟音によって、右耳の聴力を失った。「慰安婦」として、軍隊と共に前線を移動していたことから、このような被害に遭ったものである。
A 「慰安所」で状況と移動
タツ部隊が駐屯するビルマの山奥に2棟の「慰安所」があり、台湾からの18名の女性以外にも、朝鮮から連行された女性たちも加わって、日本軍人相手に性 的行為を強要された。原告高は、山奥の前線に連れてこられ、食事も軍隊から渡された野菜や米で被害女性たちが自分たちで作るという閉鎖された監禁状態で あったが、実際にも安全な帰路はなく、帰りたくても帰れなかった。
その後、日本軍の撤退に伴い、女性たちもいくつかのグループに分けられ、タツ部隊と共にさらに山奥に連行された女性たちもいたが、原告高は、ラングーン に連れて行かれ、そこに設置された新しい「慰安所」で日本軍人の性的相手をさせられた。 B 帰還 日本敗戦後、原告高は、憲兵の指示によってベトナムに移動して船を待ち、結局、1947年に台湾に帰還した。帰還にあたっては、日本の通行許可書をも らったが、これを持っていたことから、日本人と疑われ、抑留されそうになったり、金品を巻き上げられたりし、苦労した。なお、原告高と共に、台湾から広 東、ビルマに渡った女性のうち、帰還したのは原告高を含め4名だけであった。
原告高は、日本軍と共に激戦地を移動し、性的行為を強要され、心身共に傷害を負った。 原告高の心の苦しみは癒えず、家庭的にも苦労をした。
原告 廬 滿妹(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告廬は、1943年、17歳の時に、南方で看護婦の仕事をしないかと誘われ、字
の読めなかった原告廬は躊躇したが、お茶運びや厨房の仕事もあるからと言 われ、これに応じた。
原告廬は、高雄から30名くらいの女性たちと共に軍艦に乗って、海南島の楡林港に着き、そこからトラックで紅砂に行った。紅砂にはまだ何も建物はなく、 原告廬らが到着した後、ひと月ほどして板で作った20数個の部屋に分かれた平屋の建物が建ち、女性たちひとりひとりに1部屋ずつ与えられた。3日目には日 本軍人がやってきて、性的行為を強要された。原告廬はこのとき初めて、日本軍人の性的な相手をするために連れてこられたということを知った。原告廬の住む 建物は、「ケイナンソウ慰安所」と呼ばれた。原告廬は、逃げたくても、逃げようもなかった。
A「慰安所」での状況
原告廬らがいた「ケイナンソウ慰安所」の近くには、朝鮮人女性が連行されていた「慰安所」もあった。日本軍人は、海口や三亜から来ると原告廬は聞いていた。
原告廬は、「マサコ」という日本名をつけられ、朝の8時か9時ころから夜の12時まで1日15人から20人の日本軍人の性的行為の相手をさせられた。隊 長とか連隊長とかは、泊まっていくこともあった。
A 妊娠、帰還
軍人には、避妊具が渡され、それを使用していたが、それでも原告廬は妊娠した。そして、妊娠中、マラリアにも罹患し、医師の証明書を得て、チップを貯めた金で船賃を払い、ようやく帰還することになったが、マラリアのために乗船予定の船に乗り遅れ、その後の船で帰った。ところで、原告廬が乗船を予定していた船は、途中で沈没したと聞いている。 原告は妊娠8か月で、何とか台湾に帰還できたが、生まれた子供は生後38日で亡くなった。原告廬は、亡くなった子どもと同じ日に生まれた子どもを引き取 り、育てた。
Bその後 原告廬は、子どもを育てながらさとうきび畑などで働いていたが、38歳で結婚した。結婚して5年間はうまくいったが、夫が原告廬が「慰安婦」だったこと を知り、離婚はしなかったものの夫の心は離れてしまった。夫はすでに亡くなっているが、夫との間に小児麻痺の男の子がひとりいる。
原告廬は、夫の愛情がなくなったことで、辛い結婚生活を送らなければならなかった。騙されて海南島に連れていかれ、日本軍人によって「慰安婦」とされたことに、現在でも苦しみを感じている。
原告 黄 阿桃(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
家が貧しかった原告黄は、18歳から台北に出て飯炊きの仕事をしていたが、1943年、20歳のとき、南洋で看護婦を募集していることを知り、看護婦で なくても炊事の仕事もあると聞いて友人と応募した。原告黄をはじめ23名の若い女性が集められ、日本人の男女に連れられて、高雄から海軍の徴用船「浅間 丸」(甲第25号証)に乗って、マカッサルに到着した。1週間後、マカッサルから次の船(青島丸)に乗って、バリクパパン(ボルネオ)に連行された。
バリクパパンでは毎日空襲があり、原告黄と一緒に連行された女性のうち3名が死亡し、原告黄も腹部と目に怪我をした。原告黄はバリクパパンの軍人病院で 治療を受けたが、腹部に爆撃の破片がささって、子宮をとり、左目は失明した。
A「慰安所」での状況
バリクパパンは空襲ですべて建物が壊れたため、原告黄らはマカッサルに戻り、マカッサルの山の上に移動した。空軍基地のそばにやしの葉で建てた建物があり、中は1部屋、1部屋区切れていて、原告ら女性たちは、ひとり1部屋あてがわれた。1週間ほどの間に切符売り場となる別の家が建てられ、「慰安所」という看板が立てられ、原告黄らは、何をするために連れてこられたかがわかった。この「慰安所」は「松乃家慰安所」と言った。
原告黄らは騙されて連れてこられたことを知り、高雄から自分たちを連れてきた日本人男女に抗議をしたが、彼らは原告黄らが決して帰ることができないこと を知っていることから、「お国のため」と言って、あきらめるように説得した。
原告黄は、「セツコ」という日本名をつけられ、毎日20数人の日本軍人の性的相手をさせられた。昼間は兵隊、夜は士官の相手をした。利用していたのは、 日本軍人だけだった。逃げたくても、外には軍人の見張りがおり、不可能であった。
原告黄らは、月に1回は軍隊内の病院で検査を受けていたが、病院内で、近くの「慰安所」に連行されていた朝鮮や日本人女性と会った。「慰安所」は、原告黄 らがいた「松乃家」のほか、朝鮮人女性のいる「はな乃家」と日本人女性のいる「月乃家」があった。
原告黄は、マラリアの罹患したこともあった。
B 帰還
1945年の敗戦後、日本軍は敗退し、原告黄らは放置された。原告黄らは、インドネシア現地の人に日本人と疑われ捕まったが、台湾同郷会の人に助けら れ、スラバヤで台湾への船を待ち、帰還した。
原告黄の両親は、原告がすでに死亡したものと思っていた。原告黄は、南洋で「慰安婦」にされた話を、両親には一言も言わなかった。バリクパパンでの空襲 による怪我で、子宮を取ってしまった原告黄は、子どもが産めなかったので、姉の子どものひとりを養子とし育てた。原告黄は、子どもも産めないし、精神的な 苦痛からも立ち直れなかったので結婚をしなかったが、友人に勧められ、38歳のときには結婚した。
C その後
原告黄は、連行途中の爆撃によって、子宮を摘出され、左目失明という被害を受けた。そして、それ以上に、騙されて南洋の最前線に連行され、「慰安婦」と されたことは、生涯消えがたい傷として残っている。原告黄は、このことについて、両親にはまったく話をすることができず、ひとりで苦しんでいた。
原告 鄭 陳桃(甲第27号証)
@ 連行
原告鄭は、実の両親が早く亡くなり、16歳のときに継母と叔父から第三者に売られた。そして、酒場を経営する者に売られ、女給として働かされた。原告鄭は、酒の相手はするが、客と性行為をさせられるというようなことは一切なかった。
1942年、原告鄭が19歳のとき、原告鄭は、さらに高雄の者に売られ、看護婦助手としてアンダマン(インド洋上の島)に行くよう命じられた。2年間ということであった。 原告鄭をはじめ21名の女性が高雄から日本の貨物船で、アンダマンに連行された。
A「慰安所」での状況
アンダマンには日本軍が海岸線にそって駐留しており、石川部隊という部隊の基地内の建物のひとつが女性たちに割り当てられ、女性ひとりに1部屋ずつ割り当 てられた。
原告鄭らは、上陸後すぐ、その場所が「慰安所」であることを知らされ、諦めるよう諭された。実際に、何と言っても離島であり、自分たちだけでは帰ること もできなかった。 原告鄭は、「モモコ」という日本名をつけられ、日本軍人の性的相手をさせられた。
原告鄭らは、1943年秋、ジョホールに移され、日本軍管理地域の倉庫建物に入れられ、この間チップを貯めた金もなくなり途方に暮れた。そこで、原告鄭 らは、生きるために致し方なく、倉庫の世話をしていた兵隊の世話で、日本軍管理地域内の「慰安所」である「見晴荘」において、「慰安婦」として入った。 ジョホールのその地域で、原告鄭らが生きるためには、「慰安婦」となるしか、方法がなかったのである。
A 帰還
1945年7月、原告鄭らは、日本軍の病院に所属するらしい者の世話で偽造の疾病証明書を作成してもらい、赤十字の病院船で高雄に帰還し、台北に戻った。 原告鄭の継母や叔父は、彼らが原告鄭を売ったことから、原告鄭がこのように数奇で悲惨な運命をたどったにもかかわらず、原告鄭が「慰安婦」であったことを 軽蔑した。原告鄭は、彼らを恨み、台北をすぐに出て働いて暮らした。28歳のとき結婚したが、子どもができなかったため離婚され、その後放浪して、45歳 で再婚した。2度目の夫はすでに亡くなったが、原告鄭は、夫には過去のことは話せなかった。
原告鄭は、未だにアンダマンやジョホールでの生活を思いだし、苦しんでいる。その後の人生の不幸もすべて、「慰安婦」とされたことに起因していると考えている。
原告 曾 雪妹(甲第28号証)
@ 徴集、連行
原告曾は、台湾先住民族のタロコ族で、この部族は、日本軍によって、原告曾が12歳のとき、花蓮県天祥の山地のシラク部落から、瑞穂郷紅葉村に移された。 原告曾が19歳か20歳の1943年か1944年ころ、幼なじみの友人と共に村の派出所の日本人「コバヤ」に呼ばれ、軍人が利用する警察の下のそばやで働くように指示された。
A 強姦行為
当初、仕事は朝10時から夜遅くまで続いた。原告曾を含め3人のタロコ女性が住み込みで働いていた。そばやを利用していたのは憲兵隊の「シマヤ部隊」で あった。
原告曾らが働き初めて2,3月経った夜10時ころ、原告曾らを管理していた憲兵の「ミズグチ」が、他のふたりを外に連れ出し、原告曾だけを休憩部屋に残し、部屋にいた4人の軍人たちとともに原告曾を押さえつけ、代わる代わる強姦した。その後、他の女性2人も同じように強姦された。
それ以来毎日、原告曾らは、そば屋の仕事が終わった後、夜10時から12時ころまで日本軍人に強姦された。原告曾らは「ミズグチ」らに管理されており、 1946年3月に部隊が撤退するまで続いた。 軍人らは、避妊具を用意することもなく、原告曾は3回妊娠して、3回流産した。家族に言うこともできなかった。
B その後
4回目の妊娠をしているとき、日本軍が撤退したが、原告曾は妊娠していたので父が恐く家にも帰れず、山の畑の小屋で子どもを生んだが、その子は生後3日で 亡くなった。 原告曾には婚約者がいたが、このような辛い体験をしたため結婚できず、その後結婚してもうまくいかなかった。原告曾にとっては忘れられない忌まわしい過去であり、この体験のせいか子宮にも問題があり、その後子どもにも恵まれなかった。
原告 林 沈中(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告林は、花蓮県の榕樹の山の上に住むタロコ族に生まれた。後に部族は山の上から平坦な土地に移動させられ、原告林は、「尾崎信子」という日本名で、小学 校で日本語教育等を受けた。
1944年の12月、原告林が14歳のころ、派出所の竹村部長に榕樹の倉庫部隊に働きに行くよう言われ、他の3人の女性と一緒に雑用等の仕事を通いでする ようになった。その後、他の部族からも2人の女性が働きにきて、女性は6人となった。
A 強姦
しばらくは、当初言われたような掃除、洗濯、ボタン付け等の仕事であったが、3か月くらい経ったころ、倉庫部隊の「ナリタ」班長から、住み込みにするよう 言われ、部隊内の建物で住み込むようになった。何週間か後、夜9時ころ、原告林は、「ナリタ」班長に連れ出され、部隊内にある洞窟(トンネル)に連れて行 かれた。洞窟内には兵隊が居て、原告林は、その兵隊に強姦された。原告林だけではなく、その他5人の女性も、代わる代わる洞窟に連れて行かれ、同様に強姦 された。 原告林は、辛くてどうしていいかわからず、布団に入ってひとりで泣いた。 原告林は、3回生理が遅れたが、そのことを軍医に話すと、薬をくれて、それで流した。 一緒に働いていた女性のうちひとりは妊娠して出産した。 原告林らが、倉庫部隊の軍人から強姦される生活は、1945年8月まで続いた。
B その後
部隊撤退後も、原告林らは、部隊内で受けた体験を家族にも話すことはできなかった。原告林らは、一緒に働きに言って被害を受けた友人たちと会い、自分たち の不幸を嘆いた。 原告林はその後結婚したが、原告林の過去の噂で、夫との夫婦仲はうまくいかず、結婚、離婚を繰り返した。 原告林は、この過去を忘れることができず、また、体の不調も続いている。現在、原告林は、当時倉庫部隊が駐屯していた駐屯地の近くに住んでいるが、強姦された洞窟を見ると、50年以上も忘れることのできない過去を鮮烈に思い出す(甲23)。
原告 蔡 芳美(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告蔡は、霧社春陽部落のタロコ族に生まれた。父は、霧社事件に参与し、日本人に殺された。その後、母も亡くなり、原告蔡は、叔母に引き取られ、銅門の榕 樹部落で暮らすようになった。
1944年、原告蔡が13歳のとき、銅門派出所の「ツバキ」という日本人警官に、西村部長の大山倉庫部隊に雑用の仕事をしにいくよう命じられた。原告蔡 以外にタロコ族の4名の女性が集められた。皆、若い女性であったが、原告蔡以外の4人は既婚者で、その夫たちは日本軍に徴兵等され、不在だった。
A 強姦行為 原告蔡らは、当初は、部隊内の掃除、洗濯物畳み、お茶運び等の仕事をし
ていた。通いで、朝8時から午後5時までであった。 1945年4月、西村軍曹が、原告らを休憩室に連れて行き、以後午後5時には帰らせないこと、午後10時まで留まることを命じた。そして、その夜、原告蔡 は、西村に洞窟に連れて行かれ、中にいた兵隊に強姦された。入口には警備の兵隊が立っており、逃げようにも逃げられなかった。原告蔡は、何をされるのかも わからなかったが、抵抗することもできず、ただ泣いていた。 原告蔡だけではなく、他の4名の女性も代わる代わる洞窟に連れて行かれ、同じように強姦された。 その日以来、部隊が撤退するまで毎日、原告蔡は、日中の仕事が終わった後、洞窟に連れて行かれ日本軍人の性行為の相手をさせられた。 原告蔡は、3回妊娠して流産した。友人に頼んで婦人科の医者の診察も受けた。
B その後 原告蔡は、1947年に結婚したが、部隊内での辛い体験を、夫にも話せず、
ひとり苦しんでいた。1992年に夫が亡くなる直前に、原告蔡はようやくこの事 実を夫に伝えた。原告蔡は、被害事実を1日も忘れたことはなく、現在は、信仰にすがって生きる毎日である。原告蔡が被害を受けた洞窟は、今も残っている (甲24)。
原告 鐘 榮妹
@ 徴集、連行
原告鐘は、苗栗県梅園村のタイヤル族に生まれた。1944年、原告鐘が15歳ころ、
派出所の日本人警官「カワハダ」が、原告鐘を含む3人に、清泉区に駐屯 する日本軍部隊の雑用の仕事をしに行くよう命じた。原告鐘はすでに婚約していたが、婚約者は日本軍に徴兵されていたことから、日本軍部隊に働きにいけば、 婚約者の消息がわかるかもしれない、とも期待し、その命令に従った。 原告鐘らは、途中まで「カワハダ」に連れられ、途中から迎えに来た3人の軍人(「スズキ」「キムラ」ほか)に連れられて、清泉区の「ダキ」部隊に行った。 そこで、住み込みで洗濯、お茶くみ、裁縫などの仕事するようになった。「ダキ」部隊は、清泉温泉区のすぐ横に駐屯しており、原告鐘らがいる労働者寮もその すぐ横にあった。
A 強姦
原告鐘らが働き初めてひと月くらい経った夜8時ころ、原告鐘は、キムラ班長から別の部屋に連れて行かれ、強姦された。原告鐘は抵抗し、大声をあげて逃げようとすると、キムラ班長に口をふさがれ暴力で押さえつけられた。そして、その夜、原告鐘は、6人の日本兵に強姦された。原告鐘以外の2人も、同様に強姦さ れた。 それ以来、昼間は洗濯等の仕事をし、夜は複数の日本兵に強姦されるという毎日が続いた。原告鐘らは、寮の敷地から外には出られず、監禁状態であった。原告 鐘は、1年くらい、清泉区にいなければならなかった。
日本兵たちは、避妊具を付けず、原告鐘は妊娠し、他のひとりも妊娠した。
B その後
解放されたとき、妊娠8か月となっていたもうひとりの女性は、解放後、人
知れず山中で出産したが、子どもはすぐ死んだ。原告鐘も妊娠していたことから、原 告鐘の母は、婚約者との結婚を急がせ、結婚後、原告鐘は日本軍人との子どもを産んだ。しかし、夫には子どものことも部隊内で受けていた被害についても、原 告鐘は、長い間話せなかった。 原告鐘の夫は、日本軍に徴兵され、南洋で辛酸をなめた。1996年、原告鐘が、このようにひどい行為を受けたことを初めて知った夫は、愕然とした。 原告鐘は、当時、日本軍人から受けた暴行が原因で、腰痛等に苦しみ、精神的な苦痛も続いた。
原告 楊李玉串(甲第29号証)
@ 連行、徴集
原告楊は、台北で生まれたが、生後すぐ養女に出され、幼いころから生計を助けるため、働きに出ていた。 1943年、原告楊が22歳のとき、幼なじみの女性に一緒に海外で働くことを誘われ、貧しかったために海外に行くことを決心した。原告楊らは、どんな仕事かははっきり聞いていなかったが、食堂での仕事もあると言われていた。事前に「慰安婦」になることは聞いていなかった。原告楊と友人は、台湾人男性の引率で、高雄から「カマクラ丸」で出発したが、他にも32名ほどの若い女性が一緒だった。 原告楊らは、ボルネオ島のパリクパパンに上陸し、そこからサンマリンラに移動した。原告楊らは、到着後、初めて「慰安所」で働くことを聞かされ、騙された ことを知った。
A「慰安所」での状況
原告楊は、当初、性行為の相手をすることを強く拒絶したが、強要されて応じざるを得なかった。 原告楊らは、サンマリンラ、サンガサン、ロアクルの3ヶ所の「慰安所」を交替で回り、性的行為を強要された。サンガサンには日本軍の司令部があった。ロア クルは、石炭採掘をする日本人及び現地人の性的相手もさせられた。 原告楊は、1日に何人もの客をとらされたため、たびたび子宮に炎症を起こした。原告楊は、約2年間「慰安所」で働いた。また、原告楊は1度妊娠し、流産した。
A 帰還
原告楊は、日本の敗戦後スラバヤに送られ、1年後、自費でようやく台湾に帰郷した。
B その後
台湾に帰った後、原告楊は、結婚の約束をしていた男性から、「慰安婦」をし
ていたことを理由に、結婚を断られ、実家も貧しかったことから、経済的にも苦しい生活を強いられた。その後、結婚もしたが、夫と の幸せな期間は少なかった。 原告楊は、南洋の2年間の「「慰安婦」としての生活を思いだし、以後も精神的に苦しい日々を過ごした。
5 損害
原告らは、上記の侵害行為及び戦後の体験によって、以下に述べる損害を蒙った。
「慰安婦」あるいは「性奴隷」状態に置かれたことによる精神的損害
@ PTSDあるいは抑うつ状態
原告らは、騙されて「慰安婦」あるいは「性奴隷」にされ、抵抗を抑圧された状況において、継続的に性被害を受け続けた。 まだ若かった原告らが、人間としての尊厳をふみにじられる性被害を受け、その後の人生は、一様に苦渋に満ちたものとなった。 心的外傷体験による心の後遺症である心的外傷後ストレス障害(以下「PTSD」と言う)が、現在ではよく知られているが、原告らになされた侵害行為は、か かる精神的被害をもたらした。 PTSDは、犯罪や災害による心理的外傷(トラウマ)によって、さまざまな精神的苦痛や適応障害を生じ(外傷性ストレス反応)、それが容易に克服されない 状態となり、病的な症状が長期間継続して、専門的治療を必要とするような高度のものを言う。
性被害の被害者は、ストレス反応を起こしやすく、PTSDあるいは抑うつ障害の克服には長期間を要すると言われる。恐怖感、自責感を強く感じ、うつ的に なり特に自殺企図をする、自己評価が低くなり、不安が増幅するというような精神面での大きな後遺症を残す。
原告らは、騙されて性奴隷状態に陥ったにもかかわらず、自責の念にとらわれ、幸せな家庭生活を自ら避けるなどの傾向が見られる。皆、被害を家族にも話せ なかったことから、自分で苦しみを抱え込んだため、何年たっても精神的回復はなされなかったのである。原告らが、被害事実を公表するまでに50年という時 の経過を必要としてことが、原告らの被害が、いかに精神的に深く、トラウマが強いかを表している。
A 二次被害
性被害に関しては、二次被害が起こりやすいということは、よく知られている。性被害という一次被害に加え、その