9歳のとき、トンヤンシーとして売られました。

養父は早く亡くなったため、養母はわたしを咎め、
わたしに辛く当たり、屏東の酒場にわたしを売りと
ばしました。

23歳になって、店主にお金を払って自由の身になりたいと思い、ちょうどそのころ海外で働く人を募集している人がいたので、何もわからないままついていきました。

わたしのほかに3、40人の娘を乗せた陸軍の軍艦が出航しました。

広東に着いて、仕事というのが「慰安婦」だということを、はじめて知りました。

1人に1部屋があてがわれ、毎日2、30人も押しつけられ、身体は死んだようになって、ただ苦しく、なんの感覚もありません。

身体中が苦痛に苛まれているなかで、ときにはコンドームが破れ、紅薬水で消毒しなければならず、そのときは跳び上がるほどの痛みを覚えました。

逃げたくても逃げるところはなく、見張りは厳しく、親方は非常に乱暴で、ピンタをくわせるのです。

憲兵も外で見張っていて、いつも外へは出られません。

日本軍の将校は、位が高いほど、わたしたちに対して凶暴でした。

いつも短刀を腰に下げ、お酒を飲んだときにはいつでも、わたしたちに大声で怒鳴り、短刀を振りまわして脅します。

とても恐ろしかったです。

どんなことをされても耐え忍ぶしかありませんでした。

故郷の家がなつかしく、こっそりと人に頼んで本当の父親に手紙を書いてもらいました。

父はあらゆる手をつくして、いろいろな関係を通じて領事館と交渉し、非常に重い病気にかかっているという口実で、やっと、あそこから脱出できました。

台湾に帰ってから、34歳で結婚しました。

相手は外省人の兵隊でした。

彼はわたしに厳しく、夫婦のあいだには睦まじい感情はありませんでした。

夫が生きているあいだは、恐ろしくて「慰安婦」にさせられていたことは知らせませんでした。

もし彼が知ったら、きっと、わたしはさんざんな目にあわされたでしょう!

黄呉秀妹さん (1917年生まれ。台湾 桃園 客家出身)

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台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会

23歳で強制的に広東省河南市に連れて行かれた。出発前に軍医に全身裸にされて検査された。