父親はわたしが4歳のときに亡くなり、母を助けるために、13歳で
お座敷で歌を歌いました(注:仔歌という台湾伝統の歌)。

15歳のときに母も亡くなりました。

ひとりぼっちで頼る人もいなくなって、16歳で結婚しましたが、夫婦
の感情はしっくりせず、1年で離婚しました。

17歳のとき、招集通知がきて、基陸から船に乗りました。


船で広東の寒山寺から香港、シンガポールを経て、最後にビルマに
着きました。

わたしの乗った船が潜水艦の爆撃を受けて、そのときの衝撃音で耳が聞こえなくなりました。

ビルマに着くと車に乗せられ、部隊について田舎や山間部を通りすぎました。

そこには朝鮮人、広東人の慰安所もありました。

慰安所は、わたしたちに1ヵ月に半ダースのコンドームしかくれなかったので、とても足りず、わたしたちは川に行って洗いました。

軍医は毎週わたしたちの身体検査をしましたが、妊娠してしまう人もいました。

そんな人たちも、妊娠7、8ヵ月まで休むことができませんでした。

わたしは故郷を思い、家を思い、いつも歌を歌いながら泣いていました。

まるで籠の鳥で、自由はなく、いつになったら故郷に帰れるのでしょう。

戦争が終わって、やっと台湾に帰りました。

 行く前に好きな男性がいました。

彼はわたしにとても好くしてくれ、わたしが帰ってきたら結婚しようといっていました。

けれど、わたしが帰ったとき、その人はすでに別の人と結婚していました。

実際にはわたしの身体はさんざん痛めつけられ、子供も産めなくなって、結婚なんてとてもできませんでした。

 30歳を過ぎたころ、すべてに絶望して、睡眠薬を16錠飲んで自殺をはかりました。

指の甲が黒くなり、道端に横たわっていたわたしは、道行く人にたすけられました。

その後、わたしは35歳まで、あちこちを流浪する生活をしていました。

 41歳のとき、姉の紹介で後妻になりました。

当時のわたしは、運命に見はなされ、とても貧しく、嫁入り道具はなにひとつありません。

後妻にいった先には4人の女の子と5人の男の子がいて、結婚生活は想像していたほどいいものではありませんでした。

集金の手伝いやら子供の世話、炊事などで、ただ忙しいだけの日々を送りました。

海外で「慰安婦」とされた女は、だれにも必要とされないし、人から軽視されると、わたしは思いました。

 心のなかには苦痛がつまっていて、泣いても涙も出ない! 

わたしはほんとうに日本人に腹を立てています。

彼らはいったのです、

お国のために、

国家のために忠節をつくせと。

それならば、わたしたちは誰のためだったのか。

日本人は、日本人には行かせずに、わたしたちばかりを行かせた。

そして、わたしたちをだれも必要としないほどめちゃめちゃにし、人に軽蔑されるようにした。

日本人は、いまでもまだ過ちを認めようとせず、知らないふりをしています。

こんなひどい話はありません! 

わたしは日本政府に正式な謝罪と賠償を要求します!


高宝珠

さん(1921年生まれ。2006年2月18日死去)

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1941年、広東からミャンマーへ連れていかれる。
17歳のとき、「お国のためだ」と召集された。台湾の伝統の歌を歌う仕事をしていたので兵隊さんに歌を歌ったりする奉仕活動だと思っていた。