小さいころ家が貧しかったので、学校へは行かず、家で食事の
支度をしたり、弟や妹の世話をしたりしていました。

父親はわたしたちに対して厳格だったので、わたしは20歳になっ
ても、まだ結婚せず、恋愛をしたこともありませんでした。

あるとき、南洋で看護婦の仕事があるという貼り紙を見て、友人に
誘われて申し込みました。

当時は戦争の関係で、田舎には仕事がなく、男でも女でも海外に働きに行きました。

われわれを必要としている仕事があれば、われわれは喜んで行ったのです。6カ月だけ行けばよく、契約をする必要もありませんでした。

一組の日本人の男女がわたしたちを連れて、高雄から船で出発し、マニラに着きました。

そこではじめて、「慰安婦」にさせられるのだということを知り、怒って日本人のところへ行って抗議しましたが、家には帰してくれません。

日本人は、「お国のために軍をねぎらう」という名目で、わたしたちに「慰安婦」になることを強要しました。

最初に犯されたときに出血し、悲しい思いで布で包みました。

家に持って帰って両親に見せたかったのです。

昼間は兵隊に、夜は将校に犯されつづけ、休息をとるひまもありません。

日本兵のなかには、酒を飲むとわたしたちを叩く人もいました。

つらい思いで目をつぶり、歯を食いしばって、日本軍の兵隊の性暴力に耐えました。

一度、逃げようとしたら、憲兵に見つかって兵営に連れもどされました。

恨んでもどうしょうもなく、毎晩泣いていました。

インドネシアでは盲腸炎の手術、爆弾の破片による右目の失明、腹部の負傷による子宮の摘出など、身体の各所を損ない、言い表せないほどの苦しい日々でした。

のちに戦争が拡大したため、3年後にやっと台湾に帰ることができました。

台湾に帰ってからも眠れぬ夜がつづきました。

自分は、もう価値がなくなって結婚もできないと思い、悲しい思いでした。汚れのない娘が、日本人に踏みにじられたのです。

のちにわたしと結婚したいという人が現れましたが、コンプレックスを抱いていたため返事ができませんでした。
いっしょに台湾に帰ってきた友人が、こういいました。

 「歳をとってから、お互いに助けあう伴侶がいることは、すばらしいじゃない。」

わたしは、よく考えて、結婚に同意しました。

現在、わたしは夫と孫といっしょに暮らしています。

わたしは、よく廟に行き、観世音菩薩に許しを乞います。

「慰安婦」になったのは、自分で好き好んでなったのではないけれど、人に騙されたことも、一種の罪悪です。

わたしは拝んで懺悔し、お経を唱え、廟の仕事を手伝ったりしています。

黄阿桃さん(1923年生)


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南洋で看護婦の仕事があるといわれた。でも字がよめないと言ったら「飯炊き」の仕事もあるからとのことだった。しかし、着いたところでは日本軍の性暴力に耐え続けなければならなかった・・・。

1942年〜1945年までインドネシアに、仕事があるといわれて連れて行かれた。