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インドネシア・スマトラ島沖大地震

スマトラ沖大地震:タイ緊急救援活動現地レポート(NO.1)

2005年1月2日
報告者:秦

 2004年12月26日午前に発生したマグニチュード9.0のスマトラ沖大地震による津波は、ここタイにも大きな被害をもたらした。タイ南部で被害が及んだ地域は、ラヨーン、パンガー、プーケット、クラビー、トラン、サトゥーンの計6県に及び、特にリゾート地で有名なパンガー県カオラック地区やプーケット島周辺の被害は甚大なものがある。

 第1日目(12月29日)

  SVAは、秦、小林の日本人スタッフ2名の他、タイ人4人(アルニー、ドゥルディー、エー、ポップ)の計6名を12月29日早朝から被災地に派遣し、特にパンガー県タクア・パー郡周辺の被害状況を調査した。スタッフは、被災地に午後3時過ぎに到着し、まずタクア・パー郡役所を訪れ、事前にアポを取っていた同県上院議員のウォンパン・タクアトゥン氏や郡役所関係者らと打ち合わせをし、被害状況などの聞き取りを行なった後、同県内でも最も被害が大きかったと思われるバーンムアン地区ナムケム村周辺を視察した。
タクア・パー郡は、人口約30万人のパンガー県内でも観光リゾート地として最近有名になったカオラック地区があることから徐々に経済発展をしている地域である。郡役所周辺には、寺院や病院などが集中しているが、辺り一面に遺体を焼く臭いや死臭などが漂っており、マスクやハンカチなどで顔を覆っている人々の数が目立った。郡関係者は、開口一番に、「マスクや遺体を扱う手袋、それに棺桶などが今足りないで困っている」と疲れ切った表情で語った。
夕方5時、我々は、ウォンパン氏の案内で、タクア・パーの中心部から約5キロほど離れたナムケム村を訪れた。ナムケム村は漁村であるが、ここでは1,774世帯に約6,000人の地元住民と、ビルマなどからの労働者約5,000人の計約11,000人が生活していたとのこと。今回の津波で村のほぼ80%が崩壊した。村の一帯は、砂や泥に覆われており、船や車、オートバイ、それに家や家財道具一式の残骸があちこちに散らばっており、電信柱なども軒並み倒れている状態であった。しかも、被害から3日間も経っているのに遺体がまだあちこちに埋まったままの状態で、救援ボランティアや重機の姿もほとんど見られなかった。ウォンパン氏によると、この村だけでも3,000人ぐらいは亡くなっているだろうとのことで、我々も見つかったばかりの4体の遺体を目撃した。ナムケム村の向かい側には、コ・カーオ島という島があり、そこも壊滅状態であることから、死者や行方不明者の数は、全く把握できない状況であった。
29日の夜、タクア・パー市の市長に挨拶をし、遺体収集ボランティアの拠点になっている消防署で夕食を取った。

 第2日目(12月30日)

  午前8時に、ウォンパン氏らとパンガー市内を出発し、タクア・パー郡の南に位置するターイムアン郡周辺のイスラム系の漁村(ナイラーイ村)とバーンバーンクリ小学校を訪問。この地域には、海岸線に木が多かったことから、被害が少なく、死者の数は2名に止まったとのこと。しかし、村全体の家屋は全壊または半壊の状態で、復旧作業にはかなり手間がかかりそうであった。食料や飲料水、衣類などの救援物資については、ほぼ行き渡っている状況であったが、学校関係者の話では、1月5日から学校を再開したいが、子どもたちの制服や学用品などが必要になるとの話であった。
 我々は、その後国道4号線を北上し、リゾート地で有名なカオラック地区周辺を視察した。タクア・パー郡カオラック地区は、近年特に欧米からの観光客に人気があるツーリストスポットで、今回もドイツ人や北欧などからのクリスマス休暇の観光客で賑わっていた。地元住民によると、「今年は特に景気がよく、貯金も出来そうだ」と当て込んでいたとのこと。だが、その美しいリゾート地は見るも無残な姿に変貌しており、海岸線から約500〜800メートルの範囲で、車や建物の残骸が転がっていた。かろうじて残った建物の中には、水位の高さを示す波の跡が残っていたが、恐らく5〜10メートルはあったであろう。時速700〜800キロの波は、まさしく水のハンマーであり、海岸から数百メートル離れたところを走っていた大型バスやトラック、乗用車なども、次々と押し流していった。周辺からは次々に遺体がまだ発見されている状態で、我々も膨らんだ欧米人と思われる腐敗した遺体をいくつも目にした。国道も混雑しており、遺体を乗せたピックアップトラックや大型トラックが、その脇を何台も通っていった。
 被災地周辺には、救援物資が山積みにされていたが、配布システムなどは全く確立されていない。特に、観光地でもあることから、地元住民というよりは、欧米からの観光客が被害者のほとんどであったと思われる。ちなみにこの周辺で、プーミポン国王の孫であるプーム・ジェンセン氏や日本大使館関係者なども亡くなっている。
  我々は、さらに北上し、タクア・パー郡内のバーンムアン寺にも立ち寄った。ここには、何百もの棺桶が境内にうずたかく積まれており、収容された遺体が何列にもわたって並べられていた。その数は、ざっと1,000体ほどだろうか。ほとんどが布やビニールなどで包まれているが、中には包みきれないでいる大きな遺体もある。こんなおびただしい数の遺体が並んでいるのを目にするのは、生まれて初めてである。「火葬場が満杯でどうしようもない」と関係者は嘆いており、腐敗も著しいことから、DNA鑑定用に胴体の一部を採集した遺体は、まとめた形で火葬する手段が取られ始めていた。ウォンパン氏によると、「医者や検死官は、一体の遺体検査に平均で30分ぐらいを費やしているが、1日に一人20体としても、数十人しかいない専門家ではさばき切れない状態だ」と嘆いていた。普段なら、寺院や学校などが避難場所になりえるが、今回の場合、仏教寺院は死体の山であり、臭いもものすごいことから、被災地からよほど離れた寺でない限り、避難所にはなりえない。かろうじて、親戚などの家に身を寄せられる被災者はいいが、これから長期化する問題に、どう対応していくのかが、大きな問題だと思われた。
 午後から夕方にかけては、タクア・パー郡バーンムアン地区を訪問し、地区長や村の関係者と協議した。地区長の説明では、地区内で最も被害が大きかったのはナムケム村で約3,000人が死亡又は行方不明になっており、現在村人たちの多くは30キロほど離れたカオソック国立公園付近に避難しているとのことであった。地区長によれば、「救援物資はほぼ行き渡っているが、通信事情などの問題で、救援に関する様々な調整が充分行なわれておらず、今後の中長期的な体制が全く組めないでいる」との話で、今後は被災した住民への生活再建支援や心のケアーなどの健康問題が重要であるとのことであった。

 第3日目(12月31日)

  前日のバーンムアン地区関係者らとの協議を踏まえて、翌朝さらに詳しい支援内容について検討し今後の調整を行なった。その結果、現時点では救援物資が大量に送られてきているが、避難生活が長期化することが予想されるため、物資の格納倉庫を整えたり、テントの増設が不可欠である。今後被災した住民が次々に自分がいた元の場所に帰ってくることが予想されるが、仮設の住宅がないばかりか、永住できる居住環境の復興までには相当の時間がかかる事が予想されることから、まずは避難所設置が不可欠である。ついてはバーンムアン地区で被災した4ヶ村を中心に、学校や公共スペースなどを利用して避難所を設け、テントを張り、電気や水、簡易トイレなどを整備すること、また、1月上旬から再開される学校もあるので子どもたちに制服や学用品、図書などの教材などが必要ではないか、という案が出された。SVAは、これらの話し合いの内容をもとに、早速第二次支援計画案を作成し、年明け早々から支援を進めていくことを地区長に伝えた。
 我々は、その後、被災した地区内のバーンサック小学校や、カオラック周辺を再度視察した後、バーンムアン地区ナムケム村の被災住民約300家族が避難していたカオソック公園付近のナーンパーントゥーラック寺を訪問。約500人分の救援物資を被災者に手渡した。その後、ラノーン県の被災地区を視察した後、帰路についた。