書評
『パレスチナ』
ジョー・サッコ・作/小野耕世・訳
いそっぷ社 ISBN978-4-900963-37-5

 ジョー・サッコ『パレスチナ』読了。とにもかくにもすごい本だった。
 『パレスチナ』は、「コミック・ジャーナリスト」のジョー・サッコの手によって、1991〜92年にイスラエルの占領地区に滞在取材して、描かれたマンガだ。ほぼ10年前の出来事・作品であるにもかかわらず、今日的意義を微塵も失っていない。過去のものになっていないのは、パレスチナの人々のおかれている絶望状況が変わっていないからでもある。このマンガには、その絶望状況が、本当にリアルに描かれている。

 のっけから話はそれるが、マンガという媒体の最大の利点は、作り手の恣意の自由度が大きいということである。画は写真よりも事実を捏造し易く、フキダシは肉声よりもリアルではないが、画と一体化することにより想像の余地を制限しリアルさを増す。実写映画よりも表現が自由で、文学よりもリアル。そこにマンガの利点がある。返して言えば、嘘のつきやすい媒体ということでもある。(だからフィクションに最適だ。)
 ところがこのマンガの作者のジョー・サッコは、マンガ最大の利点を全く生かそうとしない。サッコは、読み手に何の感情も押し付けない。
 ストーリーそのものは、サッコの視点を通して描かれている。サッコの視点――つまり肌の白いアメリカ人で、通りすがりのジャーナリスト。シニカルで正義感に薄く、パレスチナの現実を告発するために命を賭けたりしない。もちろん現実の彼の姿勢がそうだというわけでなく(命を賭けずにパレスチナに行けるものか)、取材者と被取材者、作り手と読み手の距離を、壁を、意識しながら表現しているのだ。
 サッコをもう少し男前に描いて(それにしてもこの自画像のブ男ぶりはひどい)正義感に燃えるジャーナリストとして演出すれば、このマンガはもっと売れるかもしれない。女の子や子どもたちをもっとかわいく描けば(実際あれだけかわいいパレスチナの子どもたちなのに)、もっと読者の共感を得られるだろう。
 でもサッコはそれをしない。マンガ最大の武器を使おうとしない。
 だからこそ読み手は、この地で起こっている理不尽について深く考えさせられるのだ。実際私も、何度か読み返し、そして今でも考えている。
 怒りも悲しみも押しつけられない。何の感情も押しつけられない。まるでコマ割りからこちら側への境界に膜があるかのようだ。その膜は彼の地パレスチナとこの地(日本)に横たわる膜でもあるのだろう。そして膜の向こうには、重たい事実、耐え難い絶望状況だけがそこにあり、私たちはそこに容易に感情移入できないかわりに、沈思黙考を迫られる。


 収容所での拷問の描写は怖ろしかった。日常のすぐ裏側に潜む理不尽がそこにはある。小便臭いズタ袋を被せられ、自由を奪われた不自然な姿のまま放置させられ、不眠不休による幻覚に苦しめられ、すべての感覚を失うまで。それはその地では罪罰の有無に関わらず、日常なのだ。この手に関する書物は他にも読んだことはあるが、どれにもましてリアルだったように思う。痛みではなく、理不尽と絶望が。
 この拷問が、合法的手続きに乗っ取って行われ、イスラエルの平和を支えている。

 ラファフでの、子を失った母の証言も重たかった。難民キャンプでは、負傷して救急車に乗せられても、優先的に治療を受けられるとは限らないようだ。たらい回しにされ、故意に放置され、死に至る。病院も治療器具も薬もあるのに治療されないなんて、そういう絶望はちょっと想像し難い。しかし秀逸なのはその描写ではない。母は席を立とうとするサッコを問い詰める。
 「あなたに話してなんの役に立つか?」「自分たちの土地と人間性を返せ」「わたしたちも人間じゃないか」「でも言葉だけだ。それが何になる? 言葉でどうやって事態が変わるの?」「行動で示せ」
 答えようがない。サッコは急いで去ろうとするが、母は感謝を示しお茶を入れ、そして今度は長男を呼び、息子の頭の傷を見せる。必死の形相で。
 サッコのモノローグ「傷あとだって? さんざん傷は見たよ! かさぶたもね! 次はなんだ? エジプトとの国境か? 家を壊された家族か?」――ふざけているわけでもなく冷淡なわけでもない。ただ事実だけが重い。

 インティファーダで警官に撃たれ、障害を負った少年。杖をつき、精神療法も受ける。サッコは尋ねる。「いま障害を持つ身でどうコミュニティに適応していますか?」だれかが横から呟く、「おまえを尊敬している」と。
 すると少年はサッコの質問に答える――「尊敬されてるよ」と。
 確かにそうだろう。尊敬されているのだろう。しかしこれから生涯続く障害を、誇りだけで支えることができるだろうか。

 ユダヤ人入植者の襲撃にあった家族。窓ガラスから石が投げ込まれる。15分に60個も。「母は怖さのあまりほとんど失神していた。話しかけても答えることができなかった。
 しかし入植地に抗議にいっても、相手にされない。「きみたちのなかにも過激な奴はいるし、こっちにも過激な奴はいる」と、あしらわれる。しかし「きみたち」は告発されても「こっちの過激な奴」は絶対に告発されないのだ。

 最大の収容所・アンサールVに収監された人の証言は、ちょっと興味深い。収容者達は虐げられるばかりでなく、ファタハ、人民戦線、民主戦線、共産党などの政治諸党派(ハマスの名はまだない)に一人残らず組織され、可能な抵抗や啓蒙を試みる。この最低な環境下でどこにその底力があるのかと感心する。しかし証言者たちに勇猛果敢な決意など感じられない。おそらく他に選択肢もなく、他に生き方もないのだろう。


 ああ、書き出せばきりがない。こんな紹介をしだせばキリがない。このマンガに出てくる全てのエピソードが、私の心をとらえて放さないのだ。これは感情移入ではない。私はこのマンガを読んで、一度も泣きはしなかったし、怒りもしなかった。ただただ考える。考えさせられる。
 かかる理不尽がなぜ放置されるのか。パレスチナ問題が、ではない。国際政治でもない。そこに生きる一人一人に降りかかる個々の具体的な理不尽のことだ。難民キャンプの道のぬかるみや冷たい雨に潜む理不尽のことだ。
 何故(私たち日本をも含む)世界は、かかる理不尽を放置し続けていられるのか。なぜこのような理不尽が放置されているのに、世界は崩れ去ってしまわないのか。


 ジョー・サッコの『パレスチナ』は、そういう「重たさ」を迫るマンガだ。普段から膨大にマンガを読む私でも、マンガを読んでこんな気持ちに襲われたことはなかった。おそらくこの作品はマンガの歴史の新境地を開いている。
 ぜひ多くの人に読んで頂きたい。パレスチナ問題を「正しく」「理解」するためでなく、そんなお為ごかしな綺麗事ではなく、ただただ彼らの存在を認めるために。
2007.6.26.
おーたからん