番組紹介・NHK 2003/8/16
「さまよえる戦争画――従軍画家と遺族たちの証言」
自らの戦争責任に真摯に向き合う元従軍画家・小川原脩
―「群れに囲まれながらも自分であるためには・・・・」を問い続けて―


□今こそ問われるべき“民衆の戦争責任”□□□
 自衛隊が海外に派兵される一方で国内の治安弾圧体制が整えられ、戦後民主主義の根幹である憲法と教育基本法の改悪の動きなど一連の軍国主義的反動化が強まっている今ほど、「昭和10年代の過ちを繰り返さぬように」という問いかけが重みを増してきている時はない。

 ブッシュに追随しイラク侵略に加担し自衛隊派兵を強行する小泉政権を支持しているのは、国民である。アフガン侵略支持、テロ対策特措法、有事法制、イラク特措法、北朝鮮戦争挑発、自衛隊派兵−−小泉首相の就任後、彼がやってきたのは戦争加担と戦争準備だけと言っても過言ではない。「改革」「自民党をぶっ潰す」などの絶叫はことごとくウソとデマであった。ここまでズタズタに憲法の平和条項を引き裂き踏みにじり、憲法違反の派兵法を成立させ、「大量破壊兵器はいずれ見つかるでしょ」と臆面もなく言い、世論が間違っていると「いずれ私が正しいことが分かる」と開き直る。このような人物を昨秋の衆院選で支持したのは国民である。世論の支持もまだ4〜5割もあるという。右翼論壇や右翼メディアは大はしゃぎし、左翼勢力は退潮しつつある。

 「過去の忌まわしい悲劇を繰り返すな。」こう言うとき、天皇制支配層、軍部の独走と横暴といった「支配層の戦争責任」だけでなく、「民衆の戦争責任」も問われなければならない。問われるべきものは教え子を直接戦場に送るのに関わった教員はもちろん、文学者、作家、知識人一般、その中には画家も入るはずである。

 この問題に切り込んだNHK・BSのETV特集「さまよえる戦争画――従軍画家と遺族たちの証言――」と題したドキュメンタリーが昨年8月16日に放送された。藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎ら数多い著名な画家たちが軍に協力して戦争画を次々に描いた。描いた画家だけでなく残された遺族の思いも今もなお複雑に揺れている。その中で一昨年8月に亡くなった小川原脩に焦点を当てたこの番組は、自らの戦争責任にいかに向かい合うのかを生前のインタビューを交えて取り上げたものであった。昭和初期の過ちを再び繰り返さないためにこの番組は広く伝えられるべきものである。


□今も残る戦争画とは?どの様な目的でどの様に描かれたのか□□□
 日本画・洋画あわせて70余画家の手による153点の戦争画が、東京国立近代美術館に保管されている。社会生活の全側面を戦争が覆い尽くした時代は、膨大な戦争賛美の記録画を生み出した。敗戦後それらの多くは画家自らが焼却あるいは組織的に処分された。GHQによって賠償目的に没収されアメリカ本国に送られたこれらの絵画だけが処分の手を免れ、その後返還交渉を経て、1970年に「無期限貸与」として日本に戻ってきたという特異な経緯をもっている。しかしその後当美術館に幽閉されたままで、その全体像の公開はこれまで一度もない。

 日中戦争の勃発(1937年)は、戦争画の誕生を決定付けた。従軍画家が急激に増加し、翌年には大日本陸軍従軍画家協会が結成され、若い画家が自発的に中国戦線に飛び出していった。そして1938年からは軍部が組織的に戦争画制作のための従軍を画家たちに要請し、1939年には従軍画家は200名を超えていた。

 この時期、すでに報道における絵画の地位は、速報性においてはラジオに、記録性においては写真に遅れをとる時代遅れのメディアであることは明白であった。しかしあえて軍部が従軍画家を任命したのには特別の意味があった。それは絵画のもつ抽出性・創作性、すなわち史実の断片を切り取る抽出性であり、それを最大限利用して“事変”を“聖戦”に作り変えていくプロパガンダの有効な宣伝媒体として、軍部が絵画をとらえていたからに他ならない。戦争画の総元締め・陸軍報道部は従軍画家に対して「国民の士気を鼓舞するために迫力のある大画面で誰でもわかる写実的な絵を描くこと」と命令を下していた。――日本軍によるシンガポール占領を英国軍に迫る中将山下を描き戦争画の最高傑作と言われた「山下・パーシバル両司令官会見図」(宮本三郎作1942年)、これに実際存在しなかった英国旗と白旗が軍の命令で背景に描き加えられたのはその一例である――。

 この従軍画家の「写実画」が戦争美術展として日本全国を駆け回ったのである。日中戦争開始から敗戦までの間に、陸軍美術協会は陸軍美術展を3回と聖戦美術展を2回、さらに大日本海洋美術協会は国民総力決戦美術展を6回、大日本航空美術協会は航空美術展を3回、これら3団体は他に大東亜戦争美術展を2回共催した。文字通り戦争画が日本中を席巻した時代であった。

 事実、真珠湾一周年を期して開かれた第一回大東亜戦争美術展の様子を、夏目漱石や与謝野鉄幹などと交わった洋画家、石井柏亭は次のように語っている。「藤田(嗣治)氏の画を前にして、私は観客の一人が感謝の頭を下げて居るのを見て、戦争美術展の公衆に対する特殊な意義のあることを思わざるを得なかった。」また太平洋戦争における最初の日本軍玉砕として大々的に報じられたアッツ島守備隊の全滅を描き国民総力決戦美術展に出品された藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は、193×259pの大カンヴァスに陰惨な死闘の情景が描かれたものであるが、その絵の前には賽銭箱が備えられていたということからもわかる。

 しかも日本の破滅的な戦況の中にあっても敗戦の四ヶ月前まで美術雑誌が出版され、美術展覧会が一ヶ月前まで開かれていた特殊な戦時下における美術のこうした存在は、1940年の国家による国民の生活・文化統制(奢侈品等製造販売制限規則1940年)から美術品が除外されたときから運命付けられていたのであった。


□従軍画家としての小川原脩□□□
 この番組は、最初と最後に小川原脩氏のインタビューなどで構成されている。小川原脩−−1911年北海道生まれ。1935年東京美術学校卒業。1944年に陸軍作戦記録画《成都爆撃》の制作を委嘱され、報道班員として中国へ従軍。戦後は故郷の北海道に戻る。2002年に没(91歳)。私たちはこのぼくとつとした人物に否が応でも引き込まれていく。

 先に述べた戦争画誕生の時期は小川原が大学を卒業して間もない制作意欲の旺盛な時期と重なっていた。41年召集そして満州へ、翌年病気で除隊。その直後大学の先輩でもある陸軍の山内一郎大尉から「陸軍に協力する絵を描くか」と持ちかけられ、当時「藤田嗣治もいい絵を残しており、彼(山内)の皇国観がじわじわと自分の中に浸透していった」(NHK),「正式に命令されたわけではないが、正直にいえばお国のために軍に協力しようという、そういう考えも自分の中にあった」(「美術評論」1995,8)とインタビューで小川原は当時の自分を振り返っている。そうして小川原は《バタン上空に於ける小川部隊の記録》(1943)、《アッツ島爆撃》(1944)、《成都爆撃》(1945)の3点を描いた。それらすべて航空機をモチーフにしたものばかりであった。


□戦争画をめぐる責任論争。様々な色合いの責任回避□□□
 敗戦の年の10月、画家たちの間で戦争画をめぐる激しい責任論争が起きた。それはおおよそ次の3つの主張に分けられた。
 第1は、従軍画家でなかった富田重雄に代表される個人の徹底的責任追及の主張である。富田は、「良心あらばしばらくは筆を折って謹慎すべきである。孤塁を守って戦争画を描かなかった人たちを非国民呼ばわりした人たちはいったい誰であったか。うまい汁を吸った茶坊主画家は誰だったのか。その連中が幕引きに飛び出してきている。その娼婦的行動は美術家全体の面汚しだ。」と個人的攻撃の先鋒をきった。
 それは、「戦争協力の走狗」「戦争の殺戮を賛美する手代」などと個人個人を暴き出し切り捨てていく批判である。侵略戦争と植民地支配を礼賛したその個人責任を問うのは当然である。だが他方で、白か黒かを一刀両断で迫るにとどまれば、その責任追及が個人の社会的責任を当時の社会体制の中に置かれたそれとして批判するものでなくなれば、限界も出てこざるを得ない。

 第2は、一億総懺悔論、従軍画家の重鎮だった藤田嗣治らの主張である。「一億国民はことごとく戦争に協力し、画家の多数のものも国民的義務を遂行したに過ぎない。」「百万人なんて数は問題じゃないよ。いい戦争画を後世に残してみたまえ。何億、何十億という人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一生懸命に、まじめに仕事をしなけりゃならないんだ。」
 ここには戦争は罪悪であるというような心理的葛藤は一切含まれてていなかった。居直りと厚顔だけであった。しかしその藤田も心の中には何か引っかかるものがあったのだろうか、論争のさなかに逃げるようにして昭和24年パリに去り、二度と日本には戻ってこなかった。

 第3は、この論争にもう一人加わった従軍画家の伊原宇三郎である。彼は議論そのものを否定し、極めて不真面目な態度を示した。「戦争画を描いたものを軍国主義者と見るのはあたらない。戦争画を描かなかったものだけが純粋芸術派だとは言い切れない。今はわずかな問題の利害や相違ににかかずらわっているときではない。これこそアメリカ人の淡白に学ばねばならないことではあるが、戦争画問題など早くきれいすっぱりゲームセットといきたいものである。」伊原は戦後いち早く自らの足跡を消し去ろうとして、デッサン、下絵など全部を庭で焼いたと言われる人物である。

 これらの論争は、戦争国家と芸術、政治と芸術、権力と芸術家の問題、また戦争画の果たした“礼拝的価値”、侵略戦争を補強する“殉教”と“正義”、こうした戦争加担のからくり、一人の画家では超えられない政治の枠組みの問題、これら全体とかかわる個人の戦争責任論議を深めるものではなかった。そのためか、戦争画の存在とともにいつの間にか忘れ去られいったのである。

 この戦後の中央画壇における責任論争とその収束のされ方は、戦争責任の所在のなさを端的に示している。しかしこれは何も画家に限った問題ではない。こうした無責任極まりない戦争責任のとり方の問題は、天皇を筆頭に戦後日本の政府、政党、軍、メディアなど、戦争を推進した政治主体の全てに共通している。そしてもちろん、この無責任な権力に利用された民衆もまた完全に無辜の民であることはないのであるが。


□今も生き続けている戦争画――公開をめぐり様々に揺れ動く遺族の心□□□
 実は今に残る153点の戦争画は、戦後一度だけ一括公開される計画があった。修復の終わった1977年のことだ。画家と遺族の承諾のあった絵を一括公開する企画が立てられたが、政府と一部遺家族の反対圧力により公開予定の前日になって突然官庁の判断で中止が決定された。その理由は、日本軍国主義が銃剣と土足で踏みにじったアジア太平洋諸国からの予想される批判を回避するためであった。その日、展示予定だった一人の有名な画家・小磯良平は次のようなコメントを新聞に寄せている。「展示するがどうかと打診があってから、嫌だなあと思っていたが、公開が取りやめになったのなら私としてはうれしい。」

 この小磯の発言にもあるように戦争画の存在は、戦争賛美のプロパガンダか芸術作品なのかの評価をめぐる問題だけでなく、アジア太平洋戦争に対する自己の戦争責任について画家とその遺族に態度選択を迫り続けている。
 番組の中では、戦争画を描いた画家とその遺族の心の内がいくつか紹介された。
 小磯良平自身、帝国芸術院賞を受賞した《娘子関を征く》をはじめとして5点が近代美術館に収められているが、1988年85歳で亡くなるまで戦争画を自分の画集に載せることを拒み、展覧会にも出そうとしなかったのである。自分の負の過去を隠せるものなら隠したままにしておきたかったに他ならない。「自分の中で決着をつけられなかったのでしょう」と小磯の次女・嘉納邦子は振り返る。
 また画家としての記録一切を燃やしてしまった従軍画家伊原宇三郎、その次男であり画家である伊原乙彰は、「戦争画の全面公開は年月を経て戦争画が芸術作品として観られる時期まで待つべき。50年、100年封印しておいていい。そのときに初めて戦争画は絵として観てもらえる」と語り、戦争画の果たしたプロパガンダの役割をオミットしてもらいたいと言う。

 一方番組は、画家本人とは別の立場から戦争画に向き合う遺族も紹介する。
 戦死した息子を追うように亡くなった戦争画家清水登之の娘・中野冨美子は、「隠しておくべきものではない。後世に伝えなくてはいけない」と語る。また戦後石川県に引きこもり、GHQによる責任追及を恐れて怯えた日々を送った宮本三郎であるが、その孫・宮本陽一郎(筑波大)も「戦争画を隠すことはできない」と語る。「戦時中の軍国主義の犯罪として追及されずに、単に忘れ去られたりして戦後に生き延びていく。なぜ戦前、戦中、戦後の三つの時代において一人の画家が画壇で成功を収めてしまったのか、非常に問題を残している。戦争を切り離して普通の絵としてみるのは、歴史の意味を曖昧にしたまま繁栄し続ける私たちの社会とあまりにも似ている。それに対してどういう態度をとるのかが問われている」と大学で学生と語り合う。
 このように戦争画の存在は、今もなお遺族の心情に対して極めてセンシティブな問題であり、この意味で戦争画は波紋を広げ生き続けているのであり、すなわち現在の問題であり続けている。


□戦後の小川原――自らの戦争責任から逃げない真摯な姿勢□□□
 開き直り、隠蔽、逃避、不正直、醜さ、嫌らしさ−−番組は、天皇制軍部に加担した従軍画家の様々な色合いの責任回避、遺族の戦争画をめぐる曖昧さを含んだ責任問題の姿勢をはさみながら、こうした対応の対極にある人間として、最後に小川原脩に思いの丈を存分に語らせる。しかしあくまでも静かに。
 戦争画を描いた責任を感じた小川原は、戦後すぐに故郷の北海道倶知安町に引きこもり、土着の画家となった。そこで2002年に亡くなるまでずっと中央画壇と接触することなく孤独の中で創作を続けた。

 北海道に戻った小川原にまず届いたものは、彼が所属していた「美術文化協会」からの突然の除名通知であった。後になってこのときの思いを美術雑誌のインタビューに次のように語っている。「戦時中、僕一人がうまい汁を吸ったと見られたんでしょうかね。たしかに陸軍大臣賞をもらったり、報道班員として従軍したり、当時の僕は目立っていたと思う。その意味では自責の念もある。だから、東京のほうを向かずに、何十年も北海道でひとりでやってきたんです」(「芸術新潮」1995,8)。実際北海道に在住し続けた彼の生き方やこの言葉から、自らの戦争責任をうやむやにせず、自ら処する生き方の一端を窺うことができる。

 戦後倶知安町で小川原自身が描き続けてきたものは人間ではなく動物、自然、風景であった。政治的な絵は描かなかった。確かに戦後、戦争に抵抗する絵を描くことで、責任を取るという生き方もあるだろうが、そう簡単に言えないのではないだろうか。自分自身の戦争責任に対する彼の一連の発言と作品にはそれを通り越した重みと真摯さが伝わってくるからである。

 彼の代表作のひとつ《群化社会B》(1974)――その絵は、群れとなった犬たちがもつれ合い、いがみ合う姿を描いている。かつて日本全体が群れをなして戦争に突き進んだ状態がそれに重なる。それだけではない。戦後、中央に背を向ける自分自身の姿をオーバーラップさせているに違いない。
 「群れと個」、これが小川原の制作の基軸である。彼はこう話す。「群れに取り囲まれながらも自分であるためには、群れが押し付けてくる様々なものを消しゴムで一つひとつ消し去っていかなけばならない。私は本来の自分を見つけ出すためにある消去法を用いてきた。」その代表作は《群れ》(1997)。この一匹の寂しそうで孤独な犬をさして、小川原は言う。「やっぱりそれは僕かなあ。あまり僕は群れに対して尻尾を振ったことがないからか。やるならやれ。俺は俺の道を行くよということかもしれない。」と。

 右傾化し反動化する現在社会に対する批判の切り口も鋭い。「今の社会を見ていて似ていますね。何か盲目的だ。現代の日本人の中にその体質は残っているんじゃないかなあ。何か強くて大きいものに転がり込んですがりつくような性質。弱いもののもつ精神的な動き方が。」この社会を見つめる視点が絵を描くモチベーションとなっていたことに容易に想像がつく。

 また自分の描いた2点の戦争画が今も東京近代美術館に残っていることが、しこりのように重く圧しかかっていた小川原だったが、番組の中でこれについてもきっぱりと言い切っているのが印象に残る。

   「みんなおっかない物に触らないようにしている。しかし戦争画はある。今実在している。その実在の責任は自分にある。それに尽きる。戦争画の問題はこれからもずっと継承としてつながっていく。責任を私がもたないと一体誰がもつのかという気持ちです」。

 先述の戦争画をめぐる責任論争で述べたような厚顔にも居直りを決め込んだり、頬かむりして見て見ぬ振りをしたりするのではなく、一人であっても逃げない、しかも自分に対して正直でありたいという姿勢が感じられ観るものの心底に響く。
 この小川原脩の生き方は、軍国主義と反動の足音がひたひたと近づくような今日の時代に生きる私たちに多くのことを考えさせる。彼の描いた戦争画と戦後作品を対比させながら、ぜひ見てもらいたいドキュメント番組である。

※小川原脩記念美術館が北海道・倶知安町の東側、羊蹄山を望む丘の上にある。ここで問題にした「群れと個」をテーマにした氏の絵を含めて、その全足跡をぜひこの目で確かめたいと思う。
http://www.tokeidai.co.jp/ogawara-museum/

(M.K)