[映画紹介]
映画『蟻の兵隊』と岩波ジュニア新書『私は「蟻の兵隊」だった』
山西省日本軍残留問題:部下を売り渡した旧日本軍上層部の驚くべき戦争犯罪
−−真実を暴き、戦争責任に正面から向き合う元日本兵の記録−−

はじめに

 敗戦後も4年間にわたって中国に残留させられ、中国共産党軍との闘いを強いられた北支那派遣軍第一軍の旧日本兵の証言と中国現地訪問・聞き取り、そして日本政府に対する裁判闘争を描いた映画『蟻の兵隊』が全国で上映され、反響を呼んでいる。映画は、これまで歴史の闇に隠されていた史実を明るみに出す中で、旧日本軍による中国における戦争犯罪を生々しく描いている。

 敗戦61年目の今年の夏は、テレビなどでも、日本の中国侵略などを題材にした番組が幾つか報道された。その中でも9月2日のNHKのETV特集『祖父の戦場を知る』、9月10日のNNNドキュメント『語ってから死ぬことにした』は、「若い世代による戦争・戦場体験の継承」をテーマにした秀作であった。前者は、20年近く続く戦争体験集『孫たちへの証言』の作成の過程で、特に最近、当事者だけでなく孫たちが自分の祖父の証言を聞き取りをするという形で、旧日本兵であった祖父の戦場体験を記録するという取り組みが広がっていることを紹介したものだ。後者は、2004年12月に発足した「戦場体験放映保存の会」の代表世話人、井ノ口金一郎さん(85)の思いとその活動を、この会にボランティアとして参加している一人の女子大学生を通して紹介している。いずれも、「祖父」たちは、これまで誰にも、家族にも語ったことがなかった自らの残虐行為と戦場の惨状を、孫たちの世代に語り始めているのである。

 これまでの戦争体験は、どちらかといえば被爆体験や戦争被害体験が中心で、中国や朝鮮半島、南方戦線での自らの残虐な体験を証言するというのは、ごく限られた「活動家」「語り部」のすることというイメージではなかったかと思う。このような証言が次々と明らかになってくる、しかも孫の世代たちの手によって発掘されてくるというのは、NNNドキュメントの題名にもあるように、戦場を体験した旧日本兵たちが高齢になり、余命も限られているという事情とともに、憲法や教育基本法を変えるまで右傾化した日本の進路が再び戦前の誤った方向へ進んでいるということへの危惧、危機感があることは間違いない。
※NHK・ETV特集『祖父の戦場を知る』http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2006/0902.html
※NNNドキュメント『語ってから死ぬことにした』http://www.ntv.co.jp/document/
※戦場体験放映保存の会のホームページ http://www.notnet.jp/senjyouhozontop.htm

 『蟻の兵隊』は、現在の政治情勢を踏まえるかのように、靖国神社で始まり、靖国神社で終わる。証言者らは口々に「戦場は、一般の人々が犠牲になるところだ」「イラクで同じことが起こっている。靖国参拝で騒がれているが、中国の人々がなぜあんなに怒っているのか・・・日本が中国でやったことをみんなは知らなければならない」と話し、「今しかない、しゃべらなければいけない」と現在の危険な右傾化した政治状況の中で証言を続ける意味を語る。
 映画『蟻の兵隊』の公開と同時に6月に岩波ジュニア新書として出版された『私は「蟻の兵隊」だった』は、8月時点ですでに3刷を数えている。いかに、映画が広く知られ、本が10代や20代の若い世代に読まれているかを示している。映画は、今年いっぱい各地で上映される。まだご覧になっていない方は是非映画を見るよう薦めるとともに、この本を読むことをお薦めする。
※映画「蟻の兵隊」の公式サイト(各地での上映日程も掲載されている)http://www.arinoheitai.com/
※参考文献:『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書 奥村和一 酒井誠共著)

2006年10月2日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




映画「蟻の兵隊」
日本軍現地司令官と現地軍閥との密約で約2,600人の日本軍将兵が残留させられ八路軍と戦い続けた


 映画「蟻の兵隊」(監督:池谷薫 / 配給:蓮ユニバース)は、中国・山西省に軍命によって残留させられたにもかかわらず「現地除隊」「自らの意志による残留」とされた元兵士が、隠蔽された真実を明らかにしようと執念を燃やし、その中で自らの、また日本軍の残虐行為と戦争責任に正面から向き合っていくドキュメンタリーである。
 映画公開と同時に出版された『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書 奥村和一 酒井誠共著)も参考にしながら、この映画が描く史実とそれが今明かされる意味について考えてみたい。

(1)中国山西省日本軍残留問題の真実――A級戦犯容疑からのがれるために配下の将兵を売り渡し軍閥に庇護された日本軍現地司令官

軍命によって残留した将兵たちはひそかに現地除隊とされていた
 北支那派遣軍第一軍、総兵力5万9千人。その司令官、澄田らい四郎中将(「らい」は貝へんに來)は、日本のポツダム宣言受諾を受けて、閻錫山の率いる国民党山西軍に降伏した。閻錫山の山西軍は、表向きは国民党の一部であるが、事実上山西省の軍閥である。戦時中、日本軍は、彼を取り込んで抗日運動を弱めようと考えて接触していた。閻錫山の方は、降伏した日本軍を八路軍との内戦に協力させようとした。A級戦犯の容疑がかけられていた澄田中将は閻錫山の要求を受け入れ、彼の顧問となり、ポツダム宣言に違反して第一軍の一部残留を画策する。

 残留工作は、いったんは発覚して表向き中止させられるが、秘密裏に続けられた。結局約2,600人の将兵たちが軍命によって残留させられ、その後4年間も八路軍(共産党人民解放軍)と戦い続けたのである。残留兵士たちには、共産軍と戦い中国の発展に貢献することで、祖国復興の礎石となるのだと説明された。この残留日本軍は、1949年4月の太原の戦いで敗北して人民解放軍に投降するまで、熾烈な闘いを繰り返し、約550人が戦死した。

 捕虜となり抑留生活を送った元日本軍兵士たちの大半は、1953〜54年にようやく帰国できたが、彼らは、現地除隊し自らの意志で望んで残留したことにされていた。したがって、軍籍も抹消されていて恩給や補償の対象外とされた。

執念の資料集め、異議申し立て、提訴
 このドキュメンタリーの主人公、奥村和一(おくむらわいち、映画製作当時80歳)さんらは、1954年に四百数十人で舞鶴港に帰還したが、現地除隊しており軍籍はもはやないと知らされ、そのまますぐに集団で東京へ抗議に行こうとする。厚生省は、迎えに来た家族に圧力をかけて郷里に帰るように説得させ、帰還兵たちを分散させた。
 その後、奥村さんらは生活に追われ、中共帰りということで特高につきまとわれ、周囲から白眼視された。

 元残留兵たちが再び結束して運動を起こし始めたのは、彼らが退職年齢に達するようになり、再び人生を振り返り始めてからであった。
 1991年、「全国山西省在留団体協議会」結成。97年、国会でとりあげられ問題になる。98年、約100名が異議申し立て。2001年、異議申し立てが却下され、同年5月、提訴。04年4月、一審敗訴。05年3月、二審控訴棄却。同年9月、上告棄却。

戦犯に問われることがなくなった時点で部下を見捨てて逃げ帰った司令官
 残留日本軍は、表向きは国民党軍の一部に編入された形になっていたが、独自の軍隊として行動し、国共内戦の最終段階まで八路軍(人民解放軍)と死闘を繰りひろげた。1949年4月の太原の戦いで敗北してついに投降したが、その最後の決戦を前にして、最高指令官の澄田中将は閻錫山の手引きで、もはや戦犯の追及がほとんど終わろうとしていた日本へ逃げ帰った。
 澄田中将は、訴訟団の一人でこの映画にも登場する金子元中尉に、「おい金子、おれは日本に帰って援軍を連れてくるから、それまでおまえは今村(残留部隊の総隊長)を助けてがんばれ」と言って帰国したのだという。

 1956年に「第25回特別国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で、澄田元第一軍司令官と山岡元参謀長が証言した。それは、自分たちが命令を出して残留させた将兵たちを愚弄するものであった。澄田は、全員帰還の方針を堅持しあらゆる努力をしたつもりであると述べ、山岡は、残留兵たちは規律に従わず勝手に残留したのだと述べたのである。この委員会では、下級将校たちも証言し、残留が軍の命令であったと口々に証言したが、政府は最高位2人の証言を支持し、下級将校たちの証言を黙殺した。

 90年代に入って、ようやく人生の終わりを見据えるような年齢に達した元残留兵士たちが、連絡を取り合って結束して再び運動を開始した。国会への請願や政府への陳情などを行ないながら、執念で事実資料をつきとめ収集していった。小泉厚生相(当時)に陳情に行ったとき異議申立書を出すよう勧められて、約100人が異議申し立てを行なったが却下された。それで、2001年に訴訟に踏み切った。
 裁判は、具体的な要求をしなければならないことから、軍人恩給の支給を求めるという形がとられた。軍人恩給を支給させるためには、残留後も軍籍があったことを認めさせなければならない。国側は、軍籍を認めるということは、終戦後も日本軍が中国で戦闘していたという事実を認めることになる。国側は、それは絶対に認めない。元兵士たちは、真実が明らかになれば必ず自分たちの主張が認められると信じていたと思われる。だが、裁判闘争では、この壁を突き崩すことはできなかった。


(2)元日本軍兵士の戦争責任と正面から向き合う心の旅

初年兵教育と刺突訓練
 この映画の主人公、奥村和一さんは、1924年に新潟県の旧い商家の長男として生まれた。1944年4月に徴兵検査、同年8月に召集、同年11月入隊、すぐに中国・山西省に派遣された。

 山西省に駐屯していたのは、北支那派遣軍第一軍、総勢5万9千人。「上官の命令は天皇の命令」だということが徹底的にたたき込まれ、何事もボヤボヤしているものが悪い、殺す者が悪いのではなく殺される者が悪いのだ、という軍隊の論理をたたき込まれる。そのような初年兵教育を経て、その総仕上げとして「刺突訓練」が行なわれた。それは、この人間は人を殺すことができるようになったかどうかを確認することであった。そのための試験が「肝試し」であった。縛りつけられている捕虜の中国人を銃剣で刺し殺す訓練である。
 奥村さんからこの「刺突訓練」のことを聞いた池谷薫監督が、奥村さんに「そこへ行ってみませんか」とたずね、奥村さんが「行かなければならないところですね」と答えたことで、この映画の作成と現地ロケ3,300キロの旅がはじまった。

 奥村さんは、帰国後、特高につきまとわれ周囲から白眼視されて、郷里にはいたたまれなくなり東京に出て、職を転々として苦労した。やがて日中国交回復運動の一環として1968年ごろから全国で行われるようになった「中国展」活動に加わった。その関係で中国とのかかわりがあったので、異議申し立てや訴訟のための資料を捜し求めて、既にたびたび中国を訪れていた。しかし、公文書館などに足を運ぶだけで、軍隊生活を送った現場には行っていなかった。奥村さんは、現場を訪れる新たな旅で、自らの戦争責任と真正面から向き合うことになった。

日本軍による虐殺のあった町の人たちにとり囲まれる
 奥村さんが最初に配属された町、中隊本部のあったところへ行ったときに、町の人に取り囲まれる。当時を知っている人たちが、口々に「昔の日本軍は残虐だった」「掃討戦があって村中のひとが一網打尽にやられた」などと話し出す。奥村さんは、あのときの恨みを晴らされるかもしれない、殴られるかもしれない、と思って覚悟して町の人たちの話を聞く。しかし、その人たちに、「昔の日本軍を憎んでいるのであって、決していまの日本とか、日本人、あなたを憎んでいるわけではない」と言われて、ほっとする。

直接対峙し合った元解放軍兵士と語り合う
 奥村さんが重傷を負って捕虜になった激戦地に行ったときには、直接対峙した元兵士に会うことができた。当時の状況を二人が思い出しながら克明に語り合う。その元兵士が「おまえよく生きていたな」と喜んでくれたことで、ぎこちない儀礼的な握手ではじまった出会いは、心のこもったものに変わった。
 その元兵士は、どうして日本軍が山西軍に入っていたのか、なぜ閻錫山の傭兵になっていたのかと、長年の疑問を奥村さんに尋ねる。奥村さんは、そうではなくて自分たちは日本の再興のために戦っていたんだと説明する。それで元兵士は、日本軍の徹底抗戦の理由を納得する。
 奥村さんは、お互いに殺し合いをした人間どうしが仲良くなれるということが、最初は信じられなかった。「よく生きていたな」と言われたときの驚きが、町のひとたちに取り囲まれたときの経験とも重なって、次第に奥村さんを変えていく。

「鬼になった」場所=「刺突訓練」が行われた処刑場へ
 旅の途中から奥村さんは、「鬼になった場所へ行くのに、なぜか懐かしいんですよ」と何度ももらす。おそらく、不謹慎だと思う気持ちと、取り戻すことのできない青春時代を過ごした場所だという気持ちとが、ないまぜになった複雑な気持ちなのであろう。
 現場で当時のことを振り返り、線香をあげて祈る。殺してしまった人に心の中でせいいっぱい謝ったのだろう。そのあと、自分たちの「刺突訓練」を目撃していた人がいないか、探すことになる。恐怖でガタガタ震えていた自分は、目の前の狭い範囲のことしか見えていなかったし、無我夢中でよく覚えていないから、目撃した人がいたら、そのときの本当の様子を教えてもらいたいという思いであった。結局目撃者は見つからなかった。
 しかし、その後、思わぬハプニングが起こる。

「刺突訓練」で殺した中国人捕虜のただ一人の生き残りの子と孫に会う
 奥村さんたちの「刺突訓練」の対象となった中国人捕虜たちの中で、一人逃げ出して生きのびた人がいて、その人はもう亡くなっていたが、その人の子と孫に会えることになった。そこで奥村さんは、自分たちが殺した中国人たちは、日本軍が管理していた炭鉱の警備隊員だったことを知る。あるとき八路軍と交戦状態になったが、途中で戦闘をやめてしまったことで、日本軍に処刑されることになったのであった。
 何の罪もない農民を殺してしまったと信じていた奥村さんは、そのことを知って、気が動転してしまう。当時の日本軍の観点、論理、言い分が無意識のうちに口をついて出てきてしまって、相手が当の本人でもないその子と孫であるということも忘れて、当時の詳しい状況を知ろうと詰問しはじめる。
 宿舎にもどって、夜、池谷監督が奥村さんに問う。「奥村さん、ひょっとして、さっきは(中国人捕虜たちは)殺されて当然だと思ったのではないですか」と。それで奥村さんは、はっと気づく。60年も経っているのに自分は日本兵にもどってしまった、と。

劉さんとの出会い
 劉さんは、16歳のとき、村に入ってきた日本軍に拉致され、40日間監禁され、毎日強姦され続けた。日本軍による性暴力被害者として補償を求める訴訟を行なっている彼女は、当時のすさまじい状況を奥村さんに淡々と語る。奥村さんが、中国人捕虜を殺したことを妻にまだ話していないことを知ると、劉さんは「もう話せばいいのに。今のあなたは、決して悪い人には見えない。」と語る。
 奥村さんは、帰国して奥さんに話したところ、奥さんは、とても明るくなり元気になったということである。

残虐行為や戦争責任と向かい合う資料集めをはじめる
 これまで奥村さんは、中国の公文書館で、澄田中将をはじめとする軍上層部が自分たちをだました卑劣な行為を暴く資料を探してきた。しかし、この旅の経験から、日本軍の残虐行為を記録した資料にも強い関心を寄せるようになり、自分たちの部隊がどれほどひどい行いをしてきたかということが分かる資料を発掘して、そのコピーを持ち帰る。帰国後それを訴訟団の金子元中尉や村山元中尉に見せる場面が映画にも出てくる。

 奥村さんは、新たな旅でこのような経験を経て、自分たち自身の戦争責任と、日本軍および日本国家の戦争責任に真正面から向き合おうとするようになったのである。
(H.Y)

※参考文献:『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書)、映画「蟻の兵隊」パンフ
※ 映画では、奥村さんらが帰国してから提訴に至るまでの時期はほとんどでてこない。また、奥村さんらの主張が退けられた理由や、56年当時の国会証言なども、詳しくは語られていない。さらに、60年を経て「日本兵にもどってしまった」ことの理由も少しわかりにくい面もある。それらが『私は「蟻の兵隊」だった』では、よくわかるように書かれている。是非、一緒に読まれたい。