[紹介]ドキュメンタリー映画「未決・沖縄戦」
沖縄戦の捨て石にされたやんばるの戦闘

89分カラー作品 監督:輿石 正 制作:じんぶん企画

 「ひめゆり」に続き沖縄戦のおもしろいドキュメンタリーを見つけました。 タイトルは「未決・沖縄戦」です。「未決」には、沖縄戦はまだ終わっていないという思いが込められています。体験者28人を取材し、9人から取材を拒否されたといいます。撮影をはじめてから、「やっぱり話せない」と拒否されたこともあったようです。体験者にとって沖縄戦は終わっていないことがこのタイトルに込められているのでしょう。
 映画は、昨年の9.29県民大会をきっかけにして作成されました。体験者の思いをもっと掘り起こしたいという思いからでした。 映画が扱ったのは、やんばるでの沖縄戦です。それは、沖縄戦のパターン化に対する制作者のアンチでした。
 私がこのドキュメンタリーに興味を持ったのは、沖縄北部の沖縄戦に焦点を当てているからです。大阪の大正区に沖縄出身者がたくさんおられることはよく知られていますが、西成区にも大正区に次いでたくさんの沖縄出身者がお住まいです。大正区が沖縄各地域から移住してきた人々で構成されているのとは少し違い、西成区は沖縄北部から移住してきた人々がほとんどです。私は14年間西成区に勤め、沖縄北部から移住してきた沖縄出身者から北部の沖縄戦や貧しかった生活について話を聞きました。 大阪に出てきてからの差別や苦労、それだけでなく沖縄の文化を大切にして、明るくおおらかに生きていることを聞きました。
 そこで出会った方で、教室でも自分の体験を語ってくださった方が、その打ち上げの席で、「沖縄戦は南部の悲劇だけではない」とおっしゃっていたことが心に残っていました。

 映画は冒頭で、やんばるでの戦闘は、沖縄本島中南部での戦闘のための捨て石だったと明言します。事実、沖縄北部に駐留した国頭支隊の任務は、
@「本島南部の主作戦を容易にする」
A「極力長く伊江島を保持する」
Bゲリラ戦を展開し、中南部の戦闘に協力する
というものでした。

 沖縄が「本土防衛」の捨て石だったようにやんばるが沖縄中南部の戦闘の捨て石とされたのでした。やんばるでの日本軍の組織的抵抗は、4月16日に終わりましたが、壊滅的になった日本軍が山中に立てこもりゲリラ戦を続けました。避難民も沖縄北部だけでなく中南部からもやんばるに押し寄せました。その中には敗残兵も多数いたということです。なんと、沖縄全人口の70%がやんばるの山奥に潜んだり収容されたりしていたようです。
 そんな中で、やんばるでの戦闘は、沖縄戦終結から4ヶ月、11月まで続きました。まさに、沖縄戦と「米軍占領」と「戦後」が同時に進んだのがやんばるでした。その過程で何が起こったのか。それを証言に基づいて再構成したのがこのドキュメンタリーです。「ひめゆり」とも違う、中部の激戦とも違う、北部の沖縄戦の現実です。
 作品の中では、日本軍にスパイ容疑をかけられ、リンチされ殺された住民についての証言、ひめゆり学徒のように野戦病院で看護助手として働かされた学生たちの証言、住民の死者の多くが餓死とマラリアによる死であったことなどの証言が出てきます。

 特に印象的だったのが、伊江島で24名中22名が強制集団死に追い込まれた壕での生き残りの方の証言です。これまで一度も語ったことのない話を、昨年の9.29県民大会に心を揺り動かされて初めて証言する場面です。証言者の緊張感と決意が画面を通して伝わってきて、強制集団死の証言の重みを改めて感じました。
 北部の沖縄戦で忘れてはならないのが、ハンセン病患者の療養施設「愛楽園」のことです。この映画は、愛楽園のハンセン病患者の証言も丁寧に集めています。この施設が沖縄北部にあったのも偶然ではないと思います。
 1944年以降、ハンセン病患者は「戦闘の邪魔になる」ということで愛楽園に連れて行かれました。1945年には、収容者が1000名(当初400名)にふくれあがり、ギュウギュウ詰めの生活を強いられたということです。毎日、堅い岩盤を掘り進めて壕を作らされたという証言。そのため、手が化膿し、骨まで腐っていったとの証言。
 朝鮮人軍夫・「慰安婦」の存在についても証言者は語ります。過酷な荷役労働や拷問、「慰安婦」の存在まで、遠くで見ていたという、断片的な証言です。しかし、朝鮮人本人からの証言はありません。制作者は、沖縄につれてこられた朝鮮人からの「不在の証言」の意味を、さまざまな沖縄の人の証言の断片からか問い返そうとしていたと感じました。

 映画は、最後に問いかけています。「10年後には、沖縄戦の証言者のほとんどがいなくなると推定される。ねつ造される沖縄戦。ねつ造されているのか、それとも、ねつ造させてしまっているのか。」と。
制作者の答えは、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(いわゆる援護法)に行き着きます。沖縄戦での一般住民の死が援護法の対象となっていく中で、住民の死が、強いられた無念の死からお国のための名誉の死、そして靖国神社へと、まつり上げられていったからです。制作者は、戦後すぐに作り上げられた沖縄戦ねつ造の構造を問い返し、厳しく問題提起しているようでした。

 教育現場で沖縄戦をどう伝えるか、もう一度考えさせられました。

(2008年8月28日 大阪教員 I)