[紹介]
民衆の鼓動
韓国美術のリアリズム 1945-2005

「歴史の主体は民衆である」
80年代の民主化運動に呼応して、
政治と文化の結合を図ったリアリズム美術運動を俯瞰する


 意欲的な展覧会である。兵庫県西宮市内にある大谷記念美術館で、解放後の韓国の現代美術の全体像を見る展覧会――「民衆の鼓動―韓国美術のリアリズム1945-2005」展、5月24日(土)〜6月29日(日)――が開かれている。
 「民衆美術」とは、韓国の長く続いた軍事独裁政権および1970年代以降の急速な産業化・社会構造の変化によって顕在化した政治的抑圧と社会的矛盾を、「歴史の主体は民衆である」という立場から表現しようとしたリアリズム美術運動である。特に80年代に民主化運動と呼応する芸術運動として多数の美術集団が生まれ、政治闘争と文化運動の結合を図り、稀有な美術的成果を残した。
 これまでの韓国の現代美術は、日本で体系だって紹介されたのは多くなく、それも70年代の「モノクローム絵画」といわれる抽象的な絵画(これらは社会と切り離されたところでの「純粋芸術」を志向したもの)が中心であって、80年代の「民衆美術」は、日本の美術界において見事なまでに無視されてきた。この展覧会は、その「民衆美術」に焦点を当て、1945年から2005年までの韓国美術におけるリアリズム志向を初めて体系的に紹介する展覧会である。

 展覧会の展示構成は、次の四部構成である。
1、民族美術の建設に向けて ― 韓国現代美術のもうひとつの流れ
2、民衆美術の黎明期 ― 「現実と発言」とその周辺
3、民衆美術運動の成熟と移り変わり ― 小集団運動と政治運動化
4、民衆美術・その後 ― 現代に息づくリアリズム美術

光復直後の強い民族の意志――「解放」

 韓国では、日本の植民地から解放後、1948年済州島4・3事件、李承晩と金日成による南北分断統治、続く1950年の朝鮮戦争を通じての東西冷戦の狭間において確立された国家保安法体制と反共イデオロギー統制がこの国を覆い尽くし、すべての思想・表現自由が封鎖され、また極度の低賃金と強搾取が民衆を抑圧・支配していた。共産主義寄り、北寄りという理由だけでリアリズムも弾圧の対象であり、これに相容れない画家の多くは北朝鮮に渡っていったという。
 第1部のコーナーには、光復直後の1947年に制作されたブロンズ像「解放」が展示されている。金萬述(キム・マンスル)の作だが、その表象としての新社会建設に向かう力強い労働者の姿は、人体を縛る縄を切って解放を得た人間の、これまでの筆舌に尽くしがたい忍耐と解放の溢れる感動と意志を表現している。まさに記念碑的作品である。

美術の新しい役割「意思疎通のための言語」

 しかし1980年5月「光州抗争」に対する流血の武力鎮圧は、軍事独裁政権によって数十年の間、押さえ込まれていた民衆の民主主義の渇望・熱望が社会全般に燃え広がるという劇的な契機となった。これに先立つ1979年の朴正煕暗殺と翌年の全斗煥大統領着任は、これまで地下に流れていた民衆のマグマを地表ぎりぎり近くまで押し上げる加圧器となった。
 このとき美術家たちは、自分たちの生きる社会や人々の暮らしを見つめ、韓国独自の、民衆による民衆のための美術を作り出そうとし、巨大な政治運動と密接に結びついた政治・社会の問題を一般民衆に伝え、民主化運動のために機能する美術活動を実践したのである。
 「現実と発言」、「壬戌年」、「トゥロン(あぜみち)」などのリアリズム作家の団体が次々と結成され、またこれらの団体を連帯する民族美術協議会の結成へとその血脈は絶え間なく継承され、政治闘争と文化運動の結合を図った。
 中でも1980年、閔晶基(ミン・ジョンギ)、呉潤(オ・ユン)、林玉相(イム・オクサン)らが立ち上げた「現実と発言」同人は従来の美術は唯美主義的で形式的であると批判し、美術を社会や政治、そして都市文明と関連させ、農村都市間の階層的矛盾や大量消費社会、環境破壊などの社会問題を、赤裸々な現実的描写を用いて描いた。


版画で時代と民衆を削り込む――呉潤

 展覧会のチラシの右下にもある木版画は呉潤による「父」である。抱きとめた息子とともに遠くを見つめる父親の瞬間を刻み込んである。「意思疎通のための言語」を美術による表現様式に付与する運動としての「現実と発言」は、作品を展覧会場で見るという枠を取り払い、すなわち一部の上流層にのみ享受される美術ではなく、一般庶民こそが享受しなければならないと考えた。その際にきわめて重要な媒体として用いられたのが版画であった。大量複製が可能な版画は、運動の中にあっても経済的にも画材的にも無理なく制作することが可能だったからだ。中でも、民衆美術の版画作品の典型を作り出したのが、呉潤であった。彼の版画はこの展覧会にも多数展示されているが、そのいずれもが時代の鼓動の中で生きる「民衆」の顔、「民衆」の踊りを図像化し、それを剛胆な彫刻刀の痕跡と削った跡の鋭利な線で緊張感溢れる画面を作り出したものである。

民族自主・統一運動の渇望を表現する洪成潭

 版画をはじめ多くの絵画を通して社会を抉り出したもう一人の画家をここで触れなければならない。洪成潭(ホン・ソンダム)である。彼は光州民主化運動の重要な場面を「5・18連作―夜明け」(これも展示されている)として、1983年から1989年の投獄される直前まで50点にも及ぶ版画を削りだした。「たいまつ行進」「血涙」「銃、わたしのいのち」「返さねばならぬ仇」「武器回収拒否」、これらの題からも窺い知れるように歴史的なリアリティーをありありと伝えているものである。
 もう少し洪成潭歴を知ってもらいたい。
 洪は80年「光州民主化抗争」を契機に光州市民軍の文化宣伝隊として活躍、「光州抗争・5月版画」と題する作品によって閉ざされた光州の惨劇を人々に知らしめ、市民美術学校を各地に開設するなど、民衆美術運動の先駆的な実践者となった美術家である。自らが共同議長をつとめた民族民衆美術運動全国連合の仲間たちと大型のコルゲ・クリム(掛け絵)「民族解放運動史」を共同制作したが、国家保安法スパイ罪容疑で89年より約3年間獄中生活を余儀なくされた。出獄後は拷問の後遺症に悩まされながらも、その体験を作品にすることで克服、光州ビエンナーレ他、国内外で広く注目を集めている人物である。
 展覧会にも、彼の作品「浴槽――母さん、故郷の青い海が見えます」がある。彼が1989年に南山安全企画地下取調室の拷問室で水槽に頭をつっこまれて、肺胞に水があふれ、胸がひき裂かれるような苦痛と窒息で意識を失い、現世と冥界の狭間で垣間見たものは、青い故郷の海であったという、凄まじい実体験を告発する一枚である。そのせいで肺結核を病んでしまったことを思うとき、その美しい青さに心が嫌と言うほど締め付けられる。
 洪画伯の民主主義への渇望の背景には、生まれ育った故郷と解放直後の歴史がある。彼は1955年に全羅南道新安(シナン)郡荷衣島(ハウィド)で生まれた。この小さな島が、韓国ではじめての反米・土地闘争がたたかわれた地であったことを知識として知ったとき、金大中(キム・デジュン)元大統領もこの島出身であったことは驚きであるだけでなく納得してしまったのだった。
 解放後、日本の植民地支配から土地を取りもどした農民たちにとって、旧日本資産を接収するという1946年の米軍政の施策は青天の霹靂であった。植民地支配のくびきから解かれた「解放の民」が、なぜアメリカ人に小作料を納めねばならないのか。その不条理に抗う農民たちを米軍は無慈悲に弾圧した(「荷衣島7・7抗争」)。完全武装した70数名の米軍政庁警察が島をおそい、200余名を逮捕・殴打し、首謀者と目される90余名を60数キロ離れた木浦(モクポ)へ連行した。彼の祖父もまたこの闘いで白人警察の銃撃で下肢を失い、一生の「恨(ハン)」を抱いて死んでいるのだが、彼は幼少期に、膝から下を奪い取られた祖父のその膝の上で抱かれていたという。この分断朝鮮における最初の反米闘争は語り伝えられ、洪画伯の幼いころの記憶に深く刻みこまれ、生涯をかけた彼の民族自主・統一運動の原点となったのは間違いない。
 彼は現在も芸術活動に忙しい。韓国民衆芸術がもつ楽天性、「シンミョン」に目覚めた彼は、美術にとどまらず、歌、踊り、祈りなど、朝鮮の綿々とした歴史のなかでの民衆のよろこびと悲しみ、そのものと一体化したものへと生み出す作品は変貌していった。洪画伯は私に『光州事件は悲劇として認識されている。だけど、光州コンミューンの日々は、人々が助け合い信じあう、喜びに満ちたシンミョンがわきあがる日々であった』と語っている。
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 軍事独裁政権は打倒され民主化がすすむ韓国だが、新自由主義的経済政策の下で民衆の生活は疲弊し、新たな「民衆美術」を模索する作品も展示されている。庶民への暖かい眼差しや、社会の現実・歴史に誠実に向き合うリアリズムの精神は、若い韓国作家にも継承されていることを確信することができる。「韓流」ブームが一段落した今、より深く韓国を知り、その豊かな文化の鉱脈を見つけるために見逃せない展覧会である。 
 (2008.6.20.MK)