やんばる・ヤマトだより
敗戦50周年を問う教職員の会 中條佐和子


2002年5月25日 NO.63

元気に怒る! 沖縄の女性たち

 5月15日、たまたまなのですが「復帰」30周年の日に沖縄の方に電話をしました。「集会などいろいろあったのでしょうね」と電話をしたとたん、「今テレビを観ているところなのだけれど、もう腹が立って、腹が立って、消そうかと思っているところなの。そっちでもしているでしょう。NHKに抗議しようかしら。普天間移設を『受け入れた』かのように、それを前提に話が進んでいるのよ」とお怒りのお声。(その時はテレビ番組を見落としていたので観ませんでしたが、翌日のNHKクローズアップ現代を観て、30周年と「普天間問題」に対するNHKの姿勢のひどさがわかり宜野湾の方の怒りはもっともだと思いました。)さらに有事法制反対署名に対する人々の反応についても、「いったい若者は何を思っているのでしょうね。自分の問題なのにね」と互いにひとしきり話をしました。「最近、普天間飛行場、嘉手納飛行場周辺での事故も多いですね。」「そうそう、それに対して抗議をしようと思っているのよ。ペンチを持ってね。」わあー、ペンチでフェンスを切るパフォーマンスをするんだあ、すごいですね。「そうそう、電話してごらん。きっと話したいことがいっぱいあるはずよ。」
 南部の方に電話をしたら、「自衛隊基地の中に花園を造ったのよ」とはずんだお声。「?」と思っていたら説明をしてくださいました。自衛隊基地内に土地を持っていたのが、長年の要求がかなって、返還されたそうです。そこに花園を造ろう呼びかけて、250人以上の人が花を植えました。ゲートから入った所に、自衛隊基地の中にポンと花園が出現したのです。よくよくお話を聞いて、このイベントには大きな意味があることがわかりました(すみません、すぐにピンと来ないところがまだまだ「沖縄問題」をわかっていない証拠ですね)。米軍基地は特措法があるため、使用期限がすぎても問答無用の強制収用をされてしまうのですが、自衛隊基地は特措法ではなく民法のみの適用なので条件が整えば返還されるそうです。同じ沖縄県内で、一方では強制収用の手続きがどんどんなされ、他方では返還される。今回のイベントは、米軍基地と自衛隊基地の違いを大きく浮き彫りにさせました。米軍基地がいかに日本政府によって保護されているか、特措法による強制収用がいかに理不尽であるかを訴えるものになりました。「ただ、有事立法ができてしまうと、また取り上げると言われるだろうから、今から手を打っておかないといけないなあと考えているところなの」と言われます。ここでも有事立法は大きな影を落とすことになりそうです。
 「いろいろなことを考えてされるのですね、すごいなあ」と言うと、「いえいえ、しようと思ってしているのではなく向こうからやってくるのですよ」とのお返事。でも「向こうからやってくる」事について、「今回はパス」ということを絶対にされず、一つひとつ必ず迎えて撃つところがさすがだなあと思いました。“花園”も“ペンチ”も、明るく楽しく、でも、確実に多くの人に大切な問題を訴えています。
 この日は名護の方ともお話をしました。「みんな元気ですよ、安心してね。」うん、うん、みなさん本当に元気。元気に怒って、明るく楽しく行動されています。(でも、その分、人には見せませんが多大なご苦労をされていることと思います。)元気に怒ると、ますます元気になれるし、怒る声も明るく大きくなれそうです。沖縄の方々とお話をしてエネルギーをいただき、私も、元気に明るく楽しく怒ろうと思いました。自衛隊基地内の「花園」出現で、沖縄に行く楽しみがまた増えました。


紹介 沖縄からの声

自衛隊基地内に『平和の花園』が出現した5月15日!
すべての武器を楽器に!ピースメーカーズネットワーク
共同代表   高江洲朝男さん

 防衛庁との借地契約を強いられた母親が他界し、地代の受領拒否を開始して12年。20年契約の更新を拒否した結果、2002年4月7日に、陸上自衛隊那覇駐屯地内「私有地」が返還された。米軍用地は借地契約を拒否しても、〈米軍特措法〉が適用され強制収容されるが、自衛隊用地は民法に基づく借地契約になっているため、土地所有者が防衛施設局に〈NON〉という契約拒否の意思表示をすれば土地は返還されるのである。
 沖縄の自衛隊基地は、戦後米軍が強制収用し、復帰後、自衛隊が引き継いで30年間使用してきたものである。かつて、米軍はアジアの国々との戦争に沖縄の基地から爆撃機や戦艦を出撃させ、逃げまどう民衆に爆弾を投下した。
 戦後沖縄の絶望と貧困の中からの復興は、土地闘争、反基地闘争に矛盾するように基地経済への依存から出発した。地主は、アジア民衆の戦争犠牲者の上に築かれた〈経済の安定〉と〈豊かさ〉に安住したことに気づき、土地の平和的利用と経済的自立とを考える時期である。先祖から引き継いだ大地を、これ以上〈基地と戦争〉に提供するのではなく、『市民共有の財産』として活かし、『平和と共生と生産の場』にすることが、未来に対する地主の責任と思う。そのことが私の借地契約拒否の理由である。そして、復帰30年目の節目5月15日に、自衛隊基地に『平和の花園』が出現したのである。
 ピースメーカーズネットワークは、市民が楽しく夢と希望を持って参加できる平和運動を創造するために、畑を耕し、花の種をまき、苗を植え、「基地を花園に変えよう」と呼びかけた。県内及び全国からの参加者は、250人以上に及び、「ひまわり」や「ベコニア」など500鉢以上の花の苗を植え平和の種をまいた。広島からはサクラの木が届き、沖縄の広島を結ぶ平和の木として植樹した。さらに、奄美からは「ゆり」、沖縄各地から「あかぎ」や「ふくぎ」などさまざまな苗木が届けられた。今後は果樹、穀物、野菜を栽培し、収穫祭を基地の中で行うことを実現したい。
 基地に花園を創造する運動は、基地の中から平和を発信する運動であり、1坪1坪の花園の拡張は、基地の縮小に直結する。花を育てるのは、心に愛と慈悲の種を植え平和の花を育み、大地の環境と恵みに理解を深めることであると私は受け止めている。 21世紀の地球を守るための私たちの運動は、平和運動と環境保護運動が合体した新たな運動である。それは運動の合流ではなく、運動自体に内在する普遍性と統一性の発見である。未来のために大地の環境を回復させ『平和の種』をまき、「武器を楽器に、基地を花園に、地雷より花を」と訴える平和運動をグローバルに展開していきたい。
 米国におけるテロと報復戦争が、日本政府の有事法制化を加速させ、自衛隊法の改悪や沖縄における〈海上ヘリ基地〉〈軍港〉建設などの戦争準備体制を押し進めようとしている。自衛隊法が改悪されたら、基地内『花園』は〈陣地構築〉と〈自衛隊員の訓練〉の目的で強制収用される可能性は極めて高い。ピースメーカーズネットワークでは、基地内解放地に『平和のモニュメント』を建設し、同時に1人1鉢『花園運動』を展開し、知恵と想像力で国民的参加でこの地を守りたいと考えている。




2002年5月21日 NO.62

沖縄からみた有事法制 その2

 福田官房長官は、20日の有事法特別委員会で、「米軍基地がたくさんある」沖縄では「米軍基地が基地として活動するのであれば、その分負担は追加的にある」と、有事による沖縄の負担増加を認めました。有事だ!負担はあるぞ!文句言うな!有事法制ができあがってしまえば、こんな横暴がまかり通るようになるということなのでしょう。沖縄に米軍基地が集中していることが問題なのに、基地による負担があることが問題なのに、有事の際はもっと負担が増えますよと、当然のように言い切る傲慢さと無神経さにあきれてしまいます。「有事の沖縄」を知らないから簡単に言えるのでしょうか。沖縄県民よりも米軍が大切だから言えるのでしょうか。いずれにしても、今後、沖縄の人々に対してさらなる負担を強いようという官房長官の発言を許すことはできません。

ずうっと有事の沖縄。

 キィーンと耳をつんざくような爆音がしたと思ったら、視野の中に戦闘機2機が突っ込んでくる。そして目の前で2機が急旋回して分かれ、あっという間に視野から消えていく。ドドドドとお腹に響くような音をさせながらヘリの編隊が、住宅地すれすれを飛ぶ。これが沖縄の日常である。この光景をビデオで観た子どもたちは、「戦争をしているの?!」と驚きの声をあげる。子どもたちの言うとおり沖縄の日常は「戦争」なのだ。沖縄はずうっと「有事」なのだ。
 「第二次世界大戦以後、アメリカが有事でない時はありませんでした。常に戦争を起こし続けるアメリカ。その米軍基地が集中する沖縄も常に有事です。」世界のどこかで米軍が戦争を起こせば在沖米軍基地が騒がしくなり、沖縄は様々な影響を受けている。9・11のテロ事件後、沖縄全体が厳戒態勢に包まれ有事そのものだった。今年に入ってからは、米軍がフィリピンで「演習」という名の軍事介入を行っているため爆音も、事故も異様なほど増加している。2月の嘉手納での騒音発生回数は1日400回、1月の4倍にもなっている。米軍機事故は4月で4件も起こっている。復帰後の航空機事故は164件、わずか半月で4件もたて続けに起こっているのは異常事態といえる。民間空港への強行着陸も増えている。
 ずうっと有事の沖縄では、住民保護よりも軍事が優先され続けている。事件・事故、爆音については、再三抗議をしても、日本政府も、米軍も対策を講じない。原潜寄港については、アメリカのテロ事件以降、寄港情報を自治体に知らせない。緊急車両の基地内通行も9・11以降、実質不可能になっている。米軍基地内での新施設建設については、近隣の住民に対して説明をしない。米軍用地については、長年の返還要求を特措法によって握りつぶして強制収用を続行している。例を挙げればきりがないほど、あらゆることが米軍の都合が優先されている。
 このまま放っておけば、今後、沖縄の負担はますます大きくなりそうだ。在沖米軍は、テロ対策用の軍事演習を開始している。軍事作戦の8割が夜に実施されるため、夜間訓練が増えている。MC130特殊作戦機(高度150mで飛びながら「敵地」に乗り込むという)は、嘉手納基地を夜の8時に出発し奄美まで行って帰ってくる。夜の爆音が増えるわけだ。テロ訓練施設での演習も頻繁に行われる。フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール情勢を注視しながらの合同軍事演習も増えている。“テロ特措法”によって自衛隊の共同行動も実施され、自衛隊機の嘉手納基地乗り入れが日常的に行われるようになった。有事法制ができあがると、基地の共同使用がさらに増えるだろう。有事3法案が成立すれば、首長の協力が義務となり、事件・事故に対する抗議、土地取り上げに対する協力拒否ができなくなる。基地による被害を実質黙認、容認することとなり、米軍の好き放題、やりたい放題を野放しにすることになるだろう。
 有事法制によって米軍は沖縄とその周辺を自由に使用し続けることができるようになる。福田官房長官が認めてしまったように、在日米軍の75%が集中している沖縄の負担が増大するのは確実だ。
 もともとアメリカは日本の「全土基地化」を目論んでいた。50年代の「本土」の政治状況から日米両政府は「本土」の基地を沖縄に移設し、米軍基地を沖縄に押し込めた。それから約50年後の現在、有事法制は日本を「全土基地化」しようとしている。「基地の島沖縄」の今の姿は、程度の差はあれ有事法制成立後の「本土」の姿になるのではないだろうか。沖縄をずうっと有事にしてきた日米両政府の責任追及をしながら、有事法制に異議を唱えたい。




2002年5月10日 NO.61

沖縄からみた有事法制 その1

 「沖縄からみた」と、沖縄に住んでいない私が書くのは何かおこがましいようですが、あえて記したいと思います。
 沖縄の過去と現在から有事法制をみると、有事法制の恐さが具体的に表れてくるような気がします。過去、日本で唯一地上戦が行われた沖縄。まさに有事でした。沖縄戦に突入するまでに有事法案に書かれていることが一つひとつ実施されました。「この法案は、沖縄戦の時とそっくり」「今が戦前ではないとどうして言えるだろうか」と体験者の方は言われます。有事法制に対する体験者のこの実感が危険性の多くを語っているよう思えます。
現在。米軍基地を抱えている沖縄は、アメリカの有事と無関係でいられません。有事の米軍を支える「基地の島沖縄」は、有事法成立後の「本土」の姿なのではないかと思います。
 沖縄からの視点で、有事法制についてしっかり考えたいと思います。みなさん、ご意見をください。お待ちしております。

有事・沖縄戦で起こったこと。

 沖縄が「本土の防波堤」として意識されるようになった44年頃から、日本軍は飛行場建設を始めた。日本軍は広大な飛行場用地のために、耕作地や住宅地を強制的に取り上げた。兵舎が必要となれば、学校や民家を接収した。「われわれは沖縄を守りに来た」と言っては、家々に行って食べ物を「徴集」し、豚やヤギを奪った。『土地等又は物資を防衛出動を命ぜられた自衛隊の用に供するため必要な事項(自衛隊法改定案)』は、沖縄戦当時の日本軍の方針である「現地の物資を活用し、一木一草と雖も之を活用すべし」を想定しているのだろうか。
 日本軍は人も「現地自給主義」だった。陣地構築、壕づくり、飛行場づくりに働ける住民を沖縄全域から根こそぎ動員した。そのために農作業ができなくなり、食糧難をますます深刻化させたという。兵力が足らなかった日本軍は、沖縄戦直前に、防衛召集を行い17才から45才までの男子を軍隊にいれた。「気が付いてみると村には男が自分だけになり、仕方がなく軍属として日本軍に入った」と言うほど、実際には、防衛隊に12、13才から70才ぐらいの男子が動員した。その上中学校の生徒を鉄血勤皇隊として、女学校の生徒を学徒看護隊として軍隊組織の中に組み込んだ。『国民は必要な協力をするよう努める(武力攻撃事態法第8条)』ようにと言われ、沖縄県民は自分が持っている全てを供出した。自分自身の命を、大切な家族を、生きていくために必要な食べ物も水も、ありとあらゆる物を日本軍に差し出した。
 『住民の生命、身体を保護するための必要な措置(同上第5条)』とは、住民を避難させることも含まれているだろう。沖縄戦では日本軍の命令で集団疎開が強制された。その結果、学童750人を含む1500人もの人々が亡くなった対馬丸事件のように数多くの疎開船が海の藻屑となったり、強制疎開した住民の4分の1がマラリアで死亡した波照間島民のように八重山、本島北部で“マラリア地獄”が数多く起こった。これらの強制疎開は、日本軍人の延命のために行われた。「我々は戦うのだ、住民は避難しなさい」といいながら、実際は、食糧確保、避難場所確保のために住民たちを追い出したのだった。『住民の生命、身体保護』は念頭になく軍隊の保護が全てであった。
 地上戦の3ヶ月は軍隊の本質が噴出した。地上戦が始まったら、現地徴集の防衛隊員・軍属たちが真っ先に危険な前線に押し出された。伝令、飯炊き、水くみなど米軍に狙われやすい仕事は、防衛隊員・軍属の仕事だった。移動時も危険な弾薬を運ばされた。爆弾を抱えて米軍戦車に突入するのは鉄血勤皇隊など沖縄の中学生であった。重傷者を抱えて逃避行をしたのは学徒看護隊の女学生であった。防衛隊の約6割、学徒隊の約5割が死亡した。(もちろん朝鮮人軍属のことも忘れてはいけない。)
 軍隊は軍隊を守るのであって、住民を守ることはしなかった。日本軍は南部に撤退しながら、壕に避難していた住民を次々に追い出した。「壕を追い出される。それは即、死を意味していた」にもかかわらずだ。日本軍による住民虐殺も沖縄全島で起こった。方言を話したとスパイ嫌疑で虐殺。泣くと米軍にみつかると乳幼児の殺害。壕を出ていかない者、食糧を出さない者に対しての襲撃。前には米軍、後ろには日本軍と2つの軍隊に追われた住民たちは、恐怖と絶望、そして死へと追い込まれていった。そのような極限状態の中で、日本軍の一言から起こった「集団自決」も数多くあった。日本軍は日本兵士をも殺した。重傷者に対して青酸カリを飲ましたり、自決を強いたりした。異常事態の中で軍隊の凶暴性が露骨になっていった。
 沖縄戦という有事に、全県民が協力した結果、県民の4分の1、15万人以上が3ヶ月で亡くなった。一般住民の犠牲は日本兵の2倍以上にもなった。有事に軍隊に協力をしたがための犠牲であった。
 私たちは、日本で唯一の地上戦が起こった沖縄の体験を、繰り返し思い出さなければならない。多大な犠牲を出して沖縄の人々が得た教訓、「軍隊は住民を守らない」「軍隊がいるところに戦争がやってくる」ということを忘れてはならないと思う。沖縄戦を追体験すれば、有事立法を認めることは絶対にできないはずだ。




2002年5月6日 NO.60

 事故・事故・事故。米軍による事故が連続して起こっている。住民軽視も甚だしい。危険にさらされている沖縄の人々のことを真剣に考えてもらいたい。
 4/7宜野座の民間地に水陸両用車が進入。4/8嘉手納基地でF15が照明弾を落下。(4/15青森でF15墜落。)4/17普天間で大型ヘリが燃料タンクを落下。4/24嘉手納基地所属のF15が防風ガラスを落下。4/26C2輸送機が嘉手納基地周辺で燃料漏れ、緊急着陸。5/1嘉手納滑走路上で輸送機パンク・白煙。その他、一般道での米軍車両による事故、演習による原野火災なども起こっている。燃料タンクには当然燃料が入っているし、燃料漏れは発火する可能性が高いわけだから、住民を巻き込んだ大事故にならなかった方が不思議なぐらいだ。
 なぜこれだけ事故が頻発しているのだろうか。軍事専門家ではないので、はっきりしたことは言えないが、沖縄周辺で実施している演習やフィリピンでの軍事介入が大きく関係しているように思える。3月末には米韓軍事演習(在沖米軍も参加する)、4月上旬には海兵隊の特殊作戦訓練、4月中旬にはミサイル訓練、日米共同の空軍訓練、4月下旬には沖縄近海で海自も含めた多国籍軍演習と続いている。軍事介入と演習で米軍の作戦行動が過密状態のように思える。そのような中で事故が多発するのではないだろうか。
 梅香里の基地問題に詳しい方がおっしゃていたことがある。梅香里の演習場を米軍が手放さないのはそこに人が住んでいるからだ。沖縄も同じでそこに住宅があり、住民がいることが格好の演習材料となるのだと。低空で、住宅の屋根すれすれを飛ぶ米軍機。平気で燃料タンクなどを落下させる米軍。沖縄の空も海もそこに住む人々さえも「我がもの」と思っているのだろうか。あまりにも傲慢で許せない。




2002年4月28日 NO.59

日米安保・サンフランシスコ講和条約発効50周年を迎えて

 今日、4月28日は、日米安保、サンフランシスコ講和条約発効50周年の日である。沖縄にとっては「屈辱の日」50周年である。日本が、沖縄を切り捨て、日米安保とその軍事的根幹である基地を押しつけて50年が経った。50周年を迎えて基地はなくなるどころか、統合・機能強化は着々と進んでいるようにしか見えず、演習も沖縄を中心にアジア全域に広がり「基地の島・沖縄」の役目はますます増しているように思える。そして今、私たちは有事立法という新たな日米安保の強化を目前にしている。今度こそ、50年前にはできなかったこと、沖縄の人々と共に新たな「日米安保の発効」に反対すること、をしていきたい。

1,講和条約と日米安保
 サンフランシスコ講和条約は「平和条約」とも言われるが、決して「平和」のためのものではない。アメリカが「新しい戦争を準備するための条約(51.8.15周恩来)」であった。
 49年10月中国の誕生、50年1月ベトナム民主共和国の成立、50年6月朝鮮戦争勃発と、東アジアでの民族解放運動と共産主義勢力の発展に対抗するために、アメリカはアジアと太平洋に集団防衛体系を構築し始めた。その中心に日本を組み入れることがアメリカの重要な目標であり、その手段が講和条約であった。
 講和条約締結前後に、アメリカは、フィリピン、韓国、台湾、オーストラリア・ニュージーランドと軍事条約を結んだ。この軍事同盟の要が日米安保であり、沖縄の基地であった。

2,講和条約第3条下の沖縄
 アメリカ、特に軍部は、沖縄の排他的統治を狙った。日本も含めて他国から干渉されずに軍事占領できることを目指した。そして講和条約第3条によって、沖縄をアメリカの施政権下に置いた。
 アメリカの占領下におかれた沖縄は、全てに軍事が優先した。米軍がここに基地を造ると決めれば銃剣とブルドーザーで家や田畑をつぶして基地をつくることができた。基地は自由に使用でき、戦闘行動の自由も核兵器等危険な兵器の持ち込みも保障された。爆音も、基地から派生する環境汚染も、米兵による凶悪犯罪もやりたい放題であった。異議を唱える住民は逮捕、拘束で弾圧し、言論活動を制約し住民の抵抗を抑えた。住民の自治は「軍事上の必要の許す範囲」であって、人々の日常生活には様々な制約が伴った。沖縄は軍事基地の島となった。日米安保があっても一応独立国日本ではできないことが、講和条約第3条下にある沖縄では、米軍は好き勝手にできたのだった。
 現在でも沖縄島の20%が米軍基地に占拠され、基地による被害が後を絶たないのは、講和条約第3条によって米の軍事占領下に置かれたことからはじまっている。

3,「本土」の運動からも「忘れられた島」沖縄
 沖縄の人々は4・28を「屈辱の日」と呼ぶ。日本が沖縄を切り捨て、自らは独立してしまったからだ。私は「屈辱」の意味をもう一つ付け加えたい。沖縄を「捨て石」にしたのは日本政府やアメリカだけではなく、「本土」の運動もまた沖縄は切り捨てたとことである。それが故意にではなかったとしても「忘れられた島」にしてしまったは事実なのではないだろうか。
 1950年から51年、まさに講和条約の締結が問題になっている時、沖縄の切り離しが問題になっている時に、「本土」から沖縄返還を求める声はなかったという。アメリカは沖縄問題を放置していたら日本で民族統一運動が起こる可能性が高いと危険視していたにもかかわらず、「本土では返還を求める大衆運動はみられず、首相、外相からも返還要求はなかった」と当時赴任した駐日大使が驚くほど、沖縄は「忘れられた島」であった。沖縄では、軍事占領下だったにもかかわらず、全有権者の70%が日本復帰を求める署名をしていた。
 1950年半ば沖縄では島ぐるみ闘争が起こり、「本土」ではいくつかの基地闘争や米軍犯罪問題もあって、連帯行動がみられた。しかしここでも「沖縄の現状を打破するにはどうしたいいかという問題意識は皆無に近かった。」
 「本土」で沸き上がった反米意識は60年の安保改定へと巧みに流されていった。「本土」での反米意識を沈静化させるために安保改定と基地の撤去をアメリカは行った。「本土」からの基地の撤去は沖縄での基地新設であった。60年前後に沖縄の基地は2倍に増え、現在ある基地の半分以上を占める海兵隊基地が造られた。基地が「本土」から沖縄に移設される時、「沖縄移設反対」という声は本土ではまったくおこらなかったというのも驚きである。60年安保改定時、「本土」では安保を語って沖縄を語らなかったと聞く。
 情報が少ないこと、交流が限られていたことなど、今とは違って様々な制約があったことは想像できる。それでも重要な時に、基地を押しつけられている沖縄を「本土」が問題にしてこなかった、できなかったことが不思議で仕方がない。沖縄と「本土」の連帯を阻んできたものはなんだったのだろうか。そして、それはすでに解決されたとは言い難い問題であるように思う。
 50年間、「屈辱」を与えて続けてきた「本土」の一人として、少なくともこれからは「屈辱」をまずは共有できるようになりたいと思う。

4,沖縄の人々と共に取り組むこと
 50年間、日本は沖縄に基地と米軍と日米安保とそれらに伴うあらゆる被害を押しつけ、押し込めてきた。50年経った今、「本土」も有事法制という形で基地と軍隊が押しつけられそうだ。基地と軍隊は沖縄独自の問題ではなく私たちの身近な問題になってくる。在日米軍の75%を抱える沖縄は、有事法制は真っ先に適用されるであろうし、基地と周辺地域の「自由使用」がますます露骨に行われるだろう。今度こそ、沖縄の人々と共に、沖縄の基地問題と有事法制を絡み合わせながら取り組んでいきたいと思う。




2002年4月27日 NO.58

米によるフィリピンへの軍事介入反対!
アメリカは沖縄を支援基地にするな。

 アメリカは「演習」という名で、フィリピンのイスラム原理主義者・アブサヤフに対する「新たな戦争」を本格的に開始しました。米軍650〜1000人、フィリピン国軍1200人が参加する大規模な米比合同軍事演習“バリカタン02”です。フィリピン国軍の「支援」とか「合同演習」とかいうものではなく、作戦立案も指揮権もフィリピンに「強く要請」したあげく米軍が握り、実質的に米軍主導の軍事作戦になっています。「我々は戦争に来たのだ」と一米兵が言うように、米の直接的軍事介入が行われているのです。
 アメリカは、在沖米軍基地から嘉手納基地の第一特殊航空作戦部隊や電子偵察機を早々に投入しました。4月に入ってさらに在沖工兵大隊350人をアブサヤフの拠点であるバシラン島に増派しました。沖縄の米軍基地がフィリピンでの戦争の後方支援基地になっているのは明らかです。
 在沖工兵大隊は、@米艦船が入港するための港湾や周辺道路整備、A仮設滑走路の建設、A飲料水確保のための井戸掘りなど、占拠した地域のインフラ整備を行い長期駐留に備えます。これでは、なし崩し的に米軍基地をフィリピンに造っているようなものです。いえいえ、アメリカは軍事介入をしながら、一度は市民の力強い闘いによって追い出されたフィリピンに再度基地を確保することを狙っているのです。沖縄戦から始まり米軍占領下に次々と基地が造られていった沖縄とまるで同じです。許し難いことです。
 アメリカによるフィリピンでの戦争が始まったとたん、沖縄はますます騒々しくなりました。下地島空港には、県や市町村が拒否したにもかかわらず、米軍ヘリが強行着陸をしました。普天間飛行場からフィリピンに行くための途中給油が目的だと言いますが、民間空港である下地島空港をなし崩し的に軍事基地にしようとしているのです。艦船も入港し、物資の運び出しが頻繁に行われるようになりました。そのためか、米軍車両による事故も増えました。アメリカの戦争は、沖縄に直結し、沖縄の人々の生活を脅かします。沖縄はまさに「有事」なのです。
 フィリピン国内ではアメリカの軍事介入に反対する運動が起こっています。私たちも沖縄からの米軍出撃に反対したいと思います。

米軍、嘉手納基地にクラスター爆弾配備!!

 アフガニスタンで、コソボで使われた無差別大量殺戮兵器であるクラスター爆弾が沖縄に配備されていることがわかった。
 クラスター爆弾は、1つの爆弾の中に子爆弾が数百個詰め込められていて、投下と共に子爆弾が四方八方に飛散する。そして、戦車や装甲車を破壊したり、兵士を爆風で吹き飛ばしたりする。広範囲にわたって殺傷できる力があり住民にも多大な被害を与える。また、クラスター爆弾の不発率は10〜30%にも上り、クラスター爆弾投下は、大量の地雷をばらまくことになる。非人道的兵器なこの爆弾の使用については国際的非難が高く、国連人権小委員会で製造・使用の禁止が決議されている。
 そのクラスター爆弾が嘉手納基地に配備されている。「通常兵器で配備されていても不思議はない」と言っても、アフガニスタンで殺傷能力を実証済みのこの兵器が配備されている事実は、周辺諸国に大きな恐怖心、疑念を抱かせるものになると思う。どこに向けての配備なのか。いつ、どのように使うつもりなのか。万が一嘉手納で事故が起こったらどうなるのか。クラスター爆弾の撤去を求めたい。

琉球弧の方よりメールをいただきました。叱咤激励されました。
再びがんばらなくてはと思いました。 ありがとうございました。

 権力者たちは、組み合いつぶしをしてきた歴史が「育ち合う」学びの場を破壊していることを知らないでいるのです。
 金八先生ではないけれど、傲慢な教育論を持つ人たちがいじくりこねた現在の教育システムは限界にきているように感じます。そんな状況を感ずるからこそ、YES、NOを真実や歴史に照らしてはっきりと行動で示すこと、語れることが大切ではないかと思います。一人でも意志を貫きとうすことはしんどいです。私も、信念を貫くことができなくなったときは教壇を去るときだと、自分に言い聞かせるように友人や組合員に語っているこのごろです。
 入学式では、新入生担任5人のうち1人が組合員ですが、全員「立たない、歌わない、礼をしない(日の丸に)」を貫いていました。管理職と並んだ位置で孤立させてはならないと私たちもすぐ後ろの席に位置していました。在校生の大半も自分の意思で立たない、歌わないでいました。(体育会系の教頭だけが声を出して歌っていました。管理職になるまで組合員であって、組合に理解的な人なのに、この点だけは信念で歌っているように思えます。)
 このような様子が、何かを子どもたちの心に刻まれていって、自分の真価が問われるような歴史的判断を迫られたときに思い出してくれるのではないかと信じて語りつづけ、行動しつづけていきましょう。




2002年3月28日 NO.56

 阿波根昌鴻さんが亡くなられた。101歳。沖縄戦、米軍占領、土地接収、日米による基地の押しつけに対して生涯闘い続けた人だった。沖縄闘争の土台となった人であり、沖縄の闘いの精神的支柱となった人であった。阿波根さんの闘いは、「闘いのための闘い」ではなく、生活の糧を産み出す大地にしっかりと根付いた闘いだった。その生き方は、激しい時代の中においてあまりにも豊かで大きすぎる。若輩者が阿波根さんの死についてとやかく言うことはできないように思うが、少しだけ感じたことを記したい。

 阿波根さんの訃報に接したとき、一つの時代の区切りを感じないわけにはいかなかった。同時に阿波根さんの意志を引き継いで、どのような時代を私たちは創れるのだろうかと考え込んでしまった。
 13年前、初めて沖縄に行く直前、阿波根さんの『米軍と農民』を読んだ。この日本にこんなすごい人が今現在いるのかと感動した。
 阿波根さんに初めてお会いした時、若い2人だけを相手にでも、ゆっくり丁寧に沖縄のこと、阿波根さん自身の生き方について語ってくださったことに感激した。
 そして「死ねば戦争屋を喜ばす」と“戦争屋”に対する闘いを死を迎えるまでやめなかった生き方に感銘した。
 阿波根さんの闘いと生き方は、沖縄はもちろん、日本で反戦平和のために日々努力している人々を勇気づけてきた。そればかりか、日米両政府や平和に敵対する人々をに脅威を与え続けてきた。
 ちょうど阿波根さんがお亡くなりになった日に沖縄に行き、反戦地主の方から亡くなられたことを伺った。「お見送りの邪魔をしてしまいましたね」と詫びると、「いやいやここで話をすることが自分のすべきこと」とおっしゃってくださった。もちろんお見送りをされる人も多数いたが、「私たちが今ここでがんばっていることの方が阿波根さんは喜ぶはず」と集会をする方もいた。亡くなった時から阿波根さんの意志を受け継いでいこうとされる人に触れ、阿波根さんの生き方が広く根付いていることを実感した。
 全てをなげうって半世紀以上闘い続けた阿波根さん。「戦争屋を喜ばす行動と生活は絶対にしない」という阿波根さんの意志を受け継ぎ生かしていかなければならない。阿波根さんの生き方に一瞬でもふれた人間の努めだと思う。 

「生活が第一で、闘いが二番目。
同時に生活を守るためにも闘いが一番目。」
−−−伊江島闘争のあしあと−−−

 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効によって、米軍は沖縄に好き放題基地を造り、基地の自由使用が可能となった。講和条約によって独立し、「法治国家」となった日本「本土」での軍用地収用は、一定の法的手続きが必要であった。しかし米軍政下におかれた沖縄では布令・布告で米軍が一方的に宣言さえすれば、あとは“銃剣とブルドーザー”で土地をいくらでも強奪することができた。それは、単独講和を行った日本政府やイギリス、フランスなど米同盟諸国の了解の上でのこととなった。
 講和条約発効1年後の53年4月、米民政府は土地収用令を出し、強権的な土地取り上げを始めた。真和志村安謝、銘刈(53年4月〜)、小禄村具志(53年12月〜)、伊江村真謝(54年6月〜)、宜野湾村伊佐浜(55年7月〜)などで武装兵による暴力的取り上げが次々に行われた。各地の農民たちは体ひとつで激しく抵抗した。が、単発的な孤立した闘いにならざるを得なかった。米軍政下の「暗黒の時代」、恐怖心と疲弊から農民たちを支える運動が組織されにくかったからだ。
 伊江島では54年6月4件の強制立ち退きから土地強奪問題が始まった。続けて真謝区150万坪の接収と152戸の立ち退きが通告された。即、区民あげての運動が始まり、演習地の半分を海上に押しやり、立ち退きを13戸に縮小させた。さらに13戸の立ち退きも農民全ての命にかかわると区民全体で反対した。55年3月、武装兵300人が真謝区に突入、家や畑を打ち壊し、人々を次々と縛り上げ排除した。飢餓寸前のテント生活を強いられながらも、真謝の人々は、生きるために食べるために「農民以外の方は立ち入りを遠慮してください」という立て札を「米軍以外立ち入り禁止」の横に立て、演習地内での耕作を続けた。米兵に追われても追われても畑仕事をした。闇夜に紛れて演習地を囲う金網を撤去した。琉球政府や立法院、米軍に「自分の土地に米軍は入るな」「演習をすぐにやめてくれ」「農耕をさせてくれ」と訴え続けた。そして土地を奪われた人々は自ら「乞食」となって沖縄全島をめぐって米軍の非道を訴えた。「生活が第一で闘いが二番目、同時に生活を守るために闘いが一番目」であった。
 この伊江島闘争が56年の島ぐるみ闘争の導火線となった。乞食行進は米軍による土地強奪の非道と惨状を全島に知らせた。このころ、基地の長期使用と新たな土地接収を柱とするプライス勧告に対する闘争(「勧告粉砕」、「土地を守る4原則貫徹」運動)が始まり、これと伊江島などの土地闘争が合流し、「爆発的な」島ぐるみ闘争が起こった。この時の島ぐるみ闘争は、米軍に操作された立法院が「地料の一括払い」を認め、「土地4原則貫徹」の闘いは「惨めな結果」となって終わったが、米軍による土地強奪のひどさは全県民の知るところとなった。
 島ぐるみ闘争が終息しても伊江島の闘いは終わることがなかった。「黙認耕作ではない、軍に黙認使用させているのだ」と演習内での畑仕事をやめなかった。演習による爆死、傷害、畑や家屋の被害について一つひとつ米軍を追及し続けた。ミサイル・ホークの撤去、メースB基地建設の阻止などなど闘いは続いた。「一歩の譲歩が百歩の譲歩になる」と一歩も退かない闘いであった。
 「伊江島の闘いでは自発性が八分、指導というよりも意見を引き出して示唆を与えることが二分であった。みな心の中には軍の横暴に対する燃えるような憎しみと、徹底的にやってやれというものを持っていたので、やってしまおうとだれかが言うと、ではやろうということになった。」「伊江島・真謝の闘いで一貫していたのは『土地を守る』という点については一歩も妥協をせず強い姿勢を貫いたこと。その反面闘い方については柔軟な姿勢を保ち、敵の弱い所を突くと共に見方をできるだけ拡げるやり方を続けたことである。」そんな伊江島の闘いのあしあとを追うと、沖縄闘争の原型のようなものがみえてくる。程度の差はあるかもしれないが、沖縄全島で大小様々な「伊江島の闘い」があったし、今もあると思う。反戦地主、一坪反戦地主をはじめ、様々な地域で、いろいろな人々が「伊江島の闘い」を引き継いできている。運動の形態は違ってくるだろうが、「伊江島の闘い」の精神は「本土」でも学び、受け継いでいきたいものだ。

───────────────────

沖縄をめぐる動き (2002年2月2日〜2月14日)

2月2日(土)
日出生台で在沖海兵隊がりゅう弾砲の実弾射撃演習を開始。

2月3日(日)
名護市長選、不在者投票過去最多の7704人(18.76%)
米韓、環境汚染事故で基地立ち入りを合意。米韓共同で調査可能。
浄化責任、原状回復の責任問題についても明文化しようとしたが米側の反対でできず、基地を抱える地元から反発の声があがっている。

2月4日(月)
岸本現職が9208票差で再選。
岸本20356票、宮城11148票、投票率過去最低の77.66%。岸本市長「普天間問題は知事と共同歩調を取りながら7つの条件を実現できる方向で受け入れを認めていく形になる。9000票差は圧勝だと思う。相当の信任を得た。」宮城さん「市民が基地移設を容認したことにならないのは確信している。」尾身沖縄担当相「移設問題は進めていける基盤が整った。」
岸本市長「市民は移設容認」の認識を示す。
市民は「7条件を付した上での移設容認もやむなしの以降を示した」と今回の当選が移設容認につながるとの認識を示した。市民投票や前回の市長選と比べ「受け入れの条件はなかった。住民も4年間で変わってきている。」
福田官房長官「沖縄政策が理解された。」

2月5日(火)
尾身沖縄担当相、次回代替協で工法結論。
名護市長に岸本現職再選〔タイムス社説〕
「今回の選挙のキーワードは『不況』と『基地疲れ』。この二つが勝敗を左右した。『基地』で圧勝したのではなく『経済』で圧勝した。」
2米兵、車横転の暴行容疑で逮捕。
米国防予算、過去20年最大増。
総額3790億ドル、前年度より480億ドル増、前年比約15%増でレーガン政権時代以降の過去20年間で最大の伸び。アメリカが軍拡路線に走っていることが数字でも裏付けされた。

2月8日(金)
対イラク船舶検査で豪海軍が日本に艦船への燃料補給を要請。政府慎重に検討。
キャンプ端慶覧内に330戸の住宅を新たに建設。SACOの住宅統合実施へ。
米比「演習」で作戦立案に米軍が対等に参加することを比政府が認めた。
北谷町米軍射撃場跡地で発見された廃油入りドラム缶は135本になる。
北谷町が撤去作業を進めている。ドラム缶を埋めたのは米軍と特定し、国に撤去を求める。

2月9日(土)
環境庁、ジュゴン調査から名護東海岸をはずす。
今回の調査は代替施設に伴う環境影響評価とは別とし、本当北部の北西沖のみ調査。「的はずれ」と批判の声があがる。

2月11日(月)
防衛施設庁長官、岸本市長と「普天間」協議続行を確認。
労組組織率、9年連続の最低14%。

2月12日(火)
日米地位協定、超党派で改定素案をまとめる。次期通常国会での議員立法を目指す。
外務省、議員立法化は難しいとの見解。

2月13日(水)
北谷町議会、廃油入りドラム缶問題で意見書を可決。
県や国に対して原状回復と地位協定の抜本的見直しを求める。副議長らは米軍が廃棄した可能性は高く「組織的犯罪」と憤りをあらわにしている。国に対しても早期対応を求めている。

2月14日(木)
在日米軍、沖縄近海でミサイル発射訓練実施
2/4から8まで“ミサイレックス”訓練を実施。横須賀基地所属のミサイルフリゲート艦、イージス艦、アフガニスタンでトマホークを発射した駆逐艦、佐世保基地の強襲揚陸艦など9隻が参加。フィリピン海域で毎年実施されている訓練だが、沖縄周辺で行った例はこれまでにない。
シュワブ上空でヘリが夜間旋回、騒音被害。
北谷町の廃油缶の撤去終了。143本、汚染土300トン。
米比合同軍事演習“バリカタン02−1”の現場指揮権は両軍独立。
国連環境計画がジュゴン保護区設定を求める報告書を発表。