[投稿]「靖国合祀イヤです訴訟」の現展開とその意義−−その3
「新資料集」をもとに、不可解な合祀基準の謎に迫る!
−−戦死者のふるい分け、差別化の実態が浮き彫りに

 2007年12月18日、靖国イヤです訴訟の第七回口頭弁論が大阪地裁で行なわれました。今回原告側から提出されたのは、「原告第16準備書面(被告国、同靖國神社の共同行為による靖國神社合祀――『新編 靖国神社問題資料集』から明らかになったこと・その1)」(以下「その1」とする)です。
 この裁判には10人の原告が提訴しているわけですが、その戦没親族が亡くなった年月日(戸籍に記載された年月日)と合祀された年月日とは数年〜数十年の隔たりがあるのはなぜかというのが第一の謎です。最も速やかに行われたであろう戦時中に合祀が行なわれた場合で2年、戦後に合祀が行なわれた他の人は6〜12年、さらに死亡から33年たって合祀が行われた人もいます。どうしてこんなことになるのでしょうか。
 「新編 靖国神社問題資料集」(以下「新資料」とする)は、この謎を明らかにしています。そこには、死者を家族や共同体から引き離し、国家の“神”とするための靖国神社の合祀システムが働いていたのです。
 ところで、この「新資料」は、靖国神社の国家護持が問題になったころに出された「靖国神社問題資料集」(旧資料)の続編をなすものとして、小泉政権時代に編纂されたものです。「新資料」は量的にも膨大なので、今回は「その1」として、戦前から大量合祀が開始されるきっかけとなった3025号通達が出される直前までを扱いました。裁判長は、「次に『その2』が出るのですか」、と早く見たくてたまらないようでした。一方被告側の弁護士は、原告側がこの「新資料」の入ったCDを証拠書類として出したことについて、「これはどう扱えばいいのか?こっちでプリントアウトしろということなのか」と難色を示していました。加島弁護士が「こっちで関連する箇所だけをプリントアウトしておきましょうか」と言うと、「そうしていただけるとありがたい」とほっとしていました。労を厭わず膨大な「新資料」を縦横無尽に読みこなしてきたことから来る加島弁護士の余裕と自信が感じられた一場面でした。

戦場での死に方に細かい基準を設け、「恩典」として「合祀」する

 さて、内容の紹介に入りましょう。靖国神社は、敗戦前の合祀基準については、「旧資料」では、「確実なことはわからない。また明文化されたものは無かったようである」と述べていました。ところがこれはまったく事実に反していました。実際には、靖国神社は1948年に、旧陸・海軍省から合祀事務関係資料一式を継承し、保存していたのです。
 小泉政権下、靖国神社はこれまでの姿勢を転換し、それらの資料の閲覧を許可しその一部を「新資料」に掲載しました。それは極めて体系的な基準と詳細な手続きを示したものでした。
 それらの資料によれば、「合祀」は戦死者に対する「恩典」であると位置づけられ、その死に方においても細かい基準が定められていました。同じ戦場での病死でも、戦地での流行病によるものでなければならず、結核や脳溢血等の通常の病気での死亡者では、「私病」とされ、通常は合祀の対象となりませんでした。重大な過失で戦傷死した者や、「其情状合祀を至当と認むる者」以外の自殺者なども、合祀の資格がないものとされていました。また、生存の疑いがあるかどうか、死没の原因が戦争に直接関連があるのかどうかが特に厳しくチェックされました。
 ここから明らかになるように、靖国神社の合祀は徹頭徹尾、国家のため、天皇のために死んだかどうかだけが基準であり、村や家族にとって生前どのような存在であったのかはまったく無関係でした。いや、むしろ、そうした肉親や友人たちがいだく自然な感情を否定するものでした。そのことは、1938年から1945年1月まで靖国神社の宮司を勤めた陸軍大臣鈴木孝雄が1941年に書いた論説に端的に示されています。
 鈴木宮司は、靖国神社が行なう儀式によって「人霊」は始めて「神霊」になるという考えを展開し、そうした考えを受け入れない遺族を批判します。
「何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのですが、人霊も神霊も余り区別しないというような考え方が、色々の精神方面にまちがった現れ方をしてくるのではないかと思うのです。」
「…遺族の心理状態を考えますというと、…どうも自分の一族が神になっておられるんだという頭がある…。そうでなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」
 この靖国神社の根本的な思想が、今も脈々と受け継がれていることは、原告らの合祀取り消しをあくまで認めようとしない態度からも明らかです。

GHQ占領下でも、靖国神社に引き継がれ続けられた合祀事務

 1945年、敗戦後、軍は解体を間近に控え、靖国神社の合祀ができなくなることに危機感を抱き、戦死者の人数や氏名が明らかでないまま、「大合祀祭」を行ないたいと靖国神社側に打診しますが、この時は靖国神社側から、それは「神社祭祀の本質に反する」といったん断られました。その後11月19日〜21日に、降伏文書に調印した9月2日以前のすべてのまだ合祀されていない戦死者について、取り合えず氏名不詳のまま「大招魂祭」を行い、正式の合祀祭は後の事務的な手続きを完了してから行なうこととされました。
 この「大招魂祭」に前後して、11月13日には大本営が廃止され、12月1日には陸・海軍省も廃止され、それぞれ第一復員省、第二復員省と改組されました。(これらは、いくつもの組織改編を経て、現在の厚生労働省社会援護局となっています。組織の名前がいかに変わろうとも、合祀適格者の「氏名等」調査事務を国(旧厚生省)が全面的に担い、得られた成果を靖国神社に提供する体制は、政治情勢に応じて糊塗されたり微調整が加えられることがあっても、一貫して変わることはありませんでした。)
 この年11月24日には軍人恩給停止のGHQ指令が発せられ、これを受けて1946年2月から軍人・軍属、その遺家族への恩給が停止されました。それは半世紀に及んだ海外での戦争遂行を支えてきた経済的支援の廃止を意味しました。この措置によって、占領軍は旧軍人らへのこれまでの優遇措置を許さないという厳しい姿勢を示しました。
 このGHQの姿勢は、靖国神社の合祀に対しても貫かれました。GHQは、1946年の秋の合祀祭を前にして、靖国神社側にその禁止を通告しました。靖国神社はそれに驚き、国と協議した結果、国はとりあえず合祀者の氏名等の調査を中止することにしました。
 しかしながら、結局のところ、中止したのは「合祀事務」という呼び名だけでした。未合祀者を特定する調査は非常な熱意をもって、占領軍の目を盗んで継続されました。というのも、国が公的に靖国神社との関係をもつことができなくなった以上、今後は靖国神社が存続するための基盤を遺族に求めなければならないという認識に立ったからです。
 1948年、国はGHQを恐れて、靖国神社と協議し、それまで収集されてきた合祀者の資料(150万人分)をすべて靖国神社に引渡し、国はいったん合祀事務から手を引くことになりました。それまで国が行なっていた合祀資格の有無の調査を、初めてほぼ全面的に神社内部で行なうようになり、1945年〜1951年の占領期間中には合祀は35万人分しか行なわれませんでした。

靖国神社全面復活への策謀

 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効し、GHQは解体され、占領軍としての連合軍は撤退しました。(ただし米軍は今日に至るまで駐留を続けることになったのですが…。)
 占領の終結とほぼ同時期に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(以下「援護法」という)が成立し、翌年1953年には軍人恩給法が復活しました。
 この時期、国会の質問では保守系議員が靖国神社への合祀促進やそのための予算の要求を、堰を切ったように次々と行いました。政府はこれに対して、いちおう新憲法の政教分離規定を口にしながらも「憲法に違反しない程度にお手伝いする」とか、多額の経費が必要になるのを「うまくやる」ために研究するとか、本音の見え隠れする答弁を行なっています。
 そして、1954年、ついに国が合祀事務の表舞台に戻ってくることになりました。厚生省引揚援護局復員課の文書として、未合祀者の速やかな合祀をはかることを目的に、援護法の年金弔慰金の対象者の中の未合祀者の中で合祀基準に該当する者の名簿を靖国神社に送付するという内容の文書が交付されたのです。
 その2年後、1956年には初めて合祀事務のための予算が計上され、国と靖国神社との間で詳しい打ち合わせが何度も行われました。そして、「上記のような打合わせ、検討、調整を経て、占領終結後の靖国神社合祀の枠組みである3025通達の内容が確定されていく。同通達が出される1956(昭和31年)4月19日まで、あと2ヶ月の時期であった」と、まるで連載小説のような、この続きがどうしても読みたくなるような文章で、この準備書面は締めくくられています。

靖国神社による、「信教の自由」を盾にしたお粗末な反論

 今回は被告靖国神社側からも準備書面が口頭で読み上げられました。これは、前回、原告側から出された山口県自衛官合祀拒否訴訟の最高裁判決に対する批判に対する反批判というものでした。準備書面を読み上げた被告側弁護士の口調はどちらかといえばもの静かな感じでしたが、その内容はけっして穏やかなものではありませんでした。
 その主な趣旨はと言えば、靖国神社にも信教の自由があり、その宗教行為である合祀に対して損害賠償や差し止めを請求することは、靖国神社の信教の自由を否定するものだということでした。原告は「過去の歴史的行為に過度に立脚して政治的主張を行なっており」、憲法はどのような宗教に対しても信教の自由を保障するものであって、「神社神道のみがより多くの制約を受けるべきとする法的根拠はな」い、というのが靖国神社の主張なのです。
 靖国神社は憲法の「信教の自由」をたてにとって、このような主張をしているわけですが、同じ憲法の「政教分離」は意図的に無視しているようです。日本において宗教の名によって人々を戦争に動員させていったのはまさに国家神道であったという歴史的行為を抜きにした「信教の自由」というのは、ほとんど意味がありません。そういう具体的な事実を見たくない、見せたくないために、靖国神社は問題を常に抽象的に立ててくるのです。
 被告側弁護士は最後に、X(合祀された自衛官の妻中谷さん)が、夫の祭祀が「夫の家で仏教でなされるのは認めるが、護国神社は戦争につながるものだから嫌だ」という発言をしたと紹介し、「Xは政治的イデオロギー的主張を信教の自由の名において行っていることが明らかである。」と締めくくりました。
 私は、この話を聞いて、中谷さんが、夫の実家の人たちがその信仰に従って亡くなった方を弔うことについては寛容であることに、その人間性の深さに、むしろあらためて感動を覚えました。
 しかし、靖国神社の発想では、キリスト教徒だから他の宗教をすべて拒絶するというのならわかるが、なぜ仏教はよくて神道はだめなのか、それは、彼女が特定のイデオロギーに凝り固まっているからだということになるらしいのです。

 さて、次回の公判は、皆が続きを待ちかねている新資料編「その2」です。靖国神社みずから国と靖国神社との緊密な協力関係を明らかにしている新資料に基づいて、今度はどんな展開があるのでしょうか。あのA級戦犯合祀の経過もあらためて明らかにされます。
 ますます攻勢を強める靖国合祀イヤです訴訟。2月12日はぜひ大阪地裁へ!

(2008年2月4日 大阪Na)

次回弁論
第8回弁論 2008年2月12日(火)午後11時開廷
午前10時までに大阪地裁正面に集合してください。(今回は裁判後の集会はありません)
参照 http://www.geocities.jp/yasukuni_no/