【投稿】『講演 世界の戦場とメディアの課題(広河隆一氏)』に参加して−−
メディアが意図的に排除されるとき、そこで必ずに虐殺と戦争犯罪が行われる
(写真展『世界の戦場から』、3/7まで「ピースおおさか」にて)

 1月25日(日)、「ピースおおさか」1階講堂で、フォトジャーナリスト広河隆一氏の講演『世界の戦場とメディアの課題−−イラク、パレスチナ、アフガニスタン』が行われました。これは、1月10日から始まっている「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」(代表広河隆一氏)の写真家たちの『世界の戦場から(写真展)』の一環として行われたものです。
 演題の如く、広河氏は、自らの実体験に基づいて、現在の翼賛化した国内外の大手商業メディアへの鋭い批判と教訓を述べられました。
※この写真展は、3月7日まで森ノ宮の「ピースおおさか」で行われています。(『世界の戦場から(写真展)』)

■自衛隊派兵をめぐる危機感:「戦争への参加が始まっている」
 講演は、「危機感」ということから始まりました。「いったい何なのか、どんな危機感なのか、よくわからない、そういう人が多いのではないでしょうか。」「戦争への参加が始まっているという実感が、多くの人々にないのではないでしょうか?!」「戦争の足音というのは、自分たちが攻撃されるときまで聞こえてこないのではないでしょうか。」
 広河さんは、自衛隊のイラク派兵を「戦争への参加が始まっている」ととらえて、その危機感をもってほしいと参加した人たちに訴えることから講演を始められました。
 以下、私なりに受けとめた広河さんの講演を紹介します。

■ジャーナリズムのもうひとつの役割:結果の報道だけではない、取材することで戦争犯罪を抑止する役割。
 広河さんは、1967年にイスラエルへ渡り、そのとき第3次中東戦争を現地で経験されました。その後、もう一度中東へ戻ろうと思いたって現地へ行ったのが1976年。この年の3月30日は「土地の日」と呼ばれる大闘争が闘われました。イスラエル国内に残ったパレスチナ人からイスラエル政府は土地をどんどん取り上げていきました。そのことに抵抗して闘われた闘争です。その20日後に現地に到着した広河さんは、「何故、もう1ヶ月早く来なかったのか?!」という言葉に迎えられたといいます。「土地の日」の闘いの中で、その人の息子がイスラエル軍に殺されていたのです。「あのとき1人でもジャーナリストがいたら、息子は殺されなかったのに...。」
 広河さんは、このとき、ジャーナリストの役割の別な面を知ったといいます。この話を聞いて、私は、何か体がふるえるのを感じました。ちゃんと説明できませんが...。広河さんにとって大きな転機になったことであったそうです。

 家に帰ってから、『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』(広河隆一、草思社、1998年)を見直して、「土地の日」の記述のところを確かめました。「私がイスラエルを再訪した一九七六年の三月三十日、イスラエル国内のパレスチナ人たちは、政府による土地収奪に抗議してゼネストを呼びかけた。これを「土地の日」の闘争と呼ぶ。そして、六人のパレスチナ人が射殺された。私がイスラエルに着いたのは、この「土地の日」の二十日後だった。」そして、「息子を殺された人が、私に言った。『なぜあのとき、あなたたちジャーナリストが来てくれなかったのか。来てくれれば息子は殺されずにすんだかもしれないのに』。彼の言葉は、長らく私に影響を与えることになった。」とあります。広河さんのこの著書は、言葉にはできないくらいの感銘を受けた書物ですが、この箇所を読み直しながら、涙がとまりませんでした。(この『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で』は、「フォト・ジャーナリストが見た三十年」という副題にもあるとおり、1967年以降の30年にわたる広河さんの活動を凝縮したような渾身の一冊だと私は思います。ぜひ一読してみて下さい。)

 1982年9月のベイルート。2002年4月のジェニン。広河さんは、ジャーナリストを排除したところで行われた大虐殺の現場を、自らの身の危険を賭して取材されました。戦争犯罪や大虐殺が行われるときは、権力者はジャーナリストを排除する。逆に言えば、ジャーナリストを排除しようとしているところでは、戦争犯罪や大虐殺が行われる!少なくとも自国民や全世界に知られてはまずいことが行われる。イラクに派遣される自衛隊についての報道管制も、この見地から評価されねばならないと思います。

 広河さんは、その後、レバノンの首都ベイルートに赴きます。1982年、レバノン戦争の終わりのころです。イスラエルは、PLOをベイルートから追い出そうとしていました。「米軍が、残った人々の安全を保障するからPLOに出て行けと言ったので、PLOは出ていった。多くのジャーナリストは、レバノン戦争は終わったと思い、帰国した。」「自分はとても不安に思った。」と広河さんは言います。ジャーナリストが去り、世界が見向きもしなくなれば何が起こるか、という不安です。現実は、広河さんの予感が的中することになりました。サブラ・シャティーラの大虐殺です。少なくとも3,000人のパレスチナ難民が殺されました。

 広河さんは、恐怖にふるえながら「行かねばならない」、いや「行きたくない」という相反する気持ちに身もだえしながら発熱し、葛藤の中で重い身をひきずるようにして行くことにしたと言います。少数ながら残っていたジャーナリストにいっしょに行こうと呼びかけたが誰も行こうとしないので、しかたなく一人で行ったそうです。一度はイスラエル軍に追い返されたが、入れるところをさがして入ったそうです。すぐに、頭を割られた人の死体。不安と予感が現実に。まだ銃声がしていて、いったん逃げ出す。しかしまた入る。テープレコーダーのスイッチをオンにして。死んだとき自分がどこまで生きていたのかの証拠を残しておきたいという思いで。「死体だけしか撮影できなかった。それが悔しくて、悔しくて、...。」
 広河さんのこの言葉は、以前に写真展の文章で読んだと記憶しています。でも、今日の講演では、その「悔しさ」の意味が、いっそうよくわかりました。−−”虐殺が起こる前にジャーナリストが取材に入っていたら...”という意味も込められていたのだということが。

■死んだ人々だけでなく生き残った人々に目をむけるべき。
 1982年のレバノン、ベイルートは、広河さんにとって、その後の人生を決定づけるような重大な出来事であったように思われます。広河さんは、この虐殺を絶対にうやむやにはさせないという気持ちを持って活動されたようです。その執念から、再度ベイルートに戻って取材されました。しかし、そのときに案内してくれた女性から、「あなたは、何故、死んだ人ばっかりを追跡するんですか。生き残った人々に、何故、目を向けないんですか。」と言われたそうです。それが、また、広河さんにとって大きな転機になったといいます。それから、難民キャンプの子どもたちの支援をはじめられました。

■「ジャーナリストを助けることで自分たちも助かる。そういう人々がたくさんいる。」
 サブラ・シャティーラ難民キャンプでの大虐殺のとき、広河さんは、すぐに、また必ず、このことを世界に知らせねばと思われたそうです。しかし、情報を外に出すことがなかなかできませんでした。BBCの記者が、唯一外とつながっているイスラエル軍の司令所に飛び込んで、そこからエルサレムに電話して第一報を伝えたという逸話と並んで、写真を車の中に隠して持ち出した苦労などを話されました。そして、そのときには自分一人で苦労してやっていたと思っていたが...。

 翌年、再度現地に取材に戻った広河さんは、シリアのダマスカスの病院で驚くべき人と出会ったといいます。1982年のベイルートで広河さんがどこで何をしていたかを克明に言うのでびっくりしたそうです。パレスチナ作家同盟のメンバーで、ジャーナリストを護る使命をおびて、ピストルを隠し持って広河さんを尾行していたということです。

 2002年4月にジェニンの大虐殺を世界に知らせるべく潜入しようとしたとき、イスラエルのメルカバ戦車に追われて逃げて、危うく命を落としそうになったとき、入り込んだ袋小路で手招きをして家に入れてくれた人がいて、かろうじて助かりました。(このことは、広河さんのインターネットサイト「HIROPRESS.net」に当時掲載されて、「平和ボケ」の日本との落差を思いながら読んだのを覚えています。)
 広河さんは言います。「そういう人が現地ではたくさんいるんです。」「ジャーナリストを助けることで自分たちも助かる。そういう人々がたくさんいる。」

■9.11以降の翼賛メディア:攻撃する側、占領する側からのみする報道への怒り。
 その後、スライドを上映しながらの解説になりました。
 まずは、アフガニスタン。パキスタン国境から入ったが、アフガニスタンに入ってすぐに、それ以上誰も進もうとしない。攻撃する側からの報道はするが、攻撃されている側へ行って報道しようとはしない。それで、ひとり、北部の難民キャンプへ行ったそうです。そこで、「ここへ来たジャーナリストは、おまえがはじめてだ。」と言われたといいます。屋根のない家の家族、子どもが死んで涙も涸れ果てたといううつろな表情の母親、飢えと寒さと恐怖でこわばった表情の幼女...。その1〜2キロ離れたところの幹線道路を、米軍も北部同盟軍もジャーナリストたちも往来していたということです。

 パレスチナのスライド。2002年3月から4月にかけてのイスラエル軍によるパレスチナ自治区への侵攻、破壊、虐殺。壁に穴をあけて通路にするというやり方は、皮肉にも、かつてナチスがワルシャワ・ゲットーでの抵抗に対処するためのやり方だったとは! 「自爆攻撃」にはしった青年の具体的な動機や心理なども克明に紹介されました。そして、最近の「壁(Wall)」の紹介。日本のマスメディア報道などではとても感じとることのできない、現地のすさまじい状況のリアルな映像でした。

 さらにイラク。1991年の湾岸戦争の映像からはじめて、今回のイラク戦争の映像。1991年当時の、イラクが油井を爆破したり海を重油で汚染したりしたというジャーナリズムの偽りの報道の紹介。今回のイラク戦争で、被害を受けたイラクの人々の現場についての取材。攻撃する側の立場や論理だけの報道に対する、広河さんの怒りがほとばしり出る口吻に、ただただうなづくばかりでした。

■自衛隊のイラク派兵は戦争への参加。まずはデタラメな「人道復興支援」ではなく「謝罪と賠償」でなければならない。
 スライドの後は質疑応答。
 「今回の自衛隊のイラク派遣についてどう思いますか。」という質問に、広河さんは、9.11のときから前提が崩れているということを指摘されました。そして、対イラク戦争についても、大義であった大量破壊兵器という前提が崩れている、まず自分たちの責任を認めなければならない、日本もそれに加担した、「謝罪と賠償」であって「人道復興支援」というのは言葉としても成り立たない、と厳しく批判されました。
 そして、そういうことをちゃんと報道しないジャーナリズムの問題があることを指摘され、「Days Japan」が必要だと思ったのも、そういうところからだと述べられました。
 そのあとのパレスチナ問題の解決策についての質問にも、対等の対話や交渉の前に、まずは占領をやめることしかない、それをイスラエル人がわかるようになる以外にないということを強調されました。頭の上に足を乗せられている、その足を払いのけようとする手は「テロ」と呼ばれる、まずは頭から足をのけて謝罪することからはじまるのではないか、と。それは、イラクについても同じではないかと指摘されました。

 最後に、「Days Japan」を創刊する意義と、期待する人々の支援の現状と、広河さん自身の並々ならぬ決意と、いっそうの支持・支援のお願いで結ばれました。
※なお、「Days Japan」は、イラク戦争が開始された3月20日に創刊号を出すべく準備されているということです。

(大阪在住、吉岡)