有事法制と歴史
(第1号 2002/05/21)

「民間防衛」とは?「有事下の“国民保護”」とは?
−−あの沖縄戦を見て!
○「軍隊は住民を守らない」が教訓。
○戦争しないことこそが唯一の「国民保護」。

 「討論と報告」シリーズも回を重ねました。少しは有事法制の危険性を提示できたと思います。政府与党の強行採決の日程も明らかになり腹立たしさで一杯。何としても阻止しなければ!今は行動の時です。
 しかし一方で、多くの国民はまだ詳しいことを知らされていません。新しい角度から有事法制の危険を考えるため、新シリーズ「有事法制と歴史」に取り組んでみたいと思います。
 第1回目は、敗戦50周年を問う教職員の会の中條佐和子さんの「沖縄から見た有事法制:その1」です。同会で何年にもわたり「やんばる・ヤマトだより」を発行し沖縄の基地問題に取り組んできた彼女に問題提起をしてもらいます。結論はこうです。「全県民が協力した結果、県民の4分の1、15万人以上が3ヶ月で亡くなった。一般住民の犠牲は日本兵の2倍以上にもなった。有事に軍隊に協力をしたがための犠牲であった。」
 「有事」とは?「有事法制」とは?「民間防衛」とは?「戦時下の国民保護」とは?要するに「軍隊」とは?−−よくよく考えると何も空想をめぐらせる必要はないのです。その答えは「沖縄戦を見よ!」ということではないか。その言葉に尽くしがたい悲劇を経て、多大な犠牲を出して沖縄の人々が得た教訓、そして「本土」の私たちこそが学ばなければならない教訓、それは「軍隊は住民を守らない」「軍隊がいるところに戦争がやってくる」ではないでしょうか。
 小泉政権が今強行しようとしている有事法制のように、どうすれば世界中に好き放題に戦争をやれるアメリカのような国になれるのか、平和憲法の中で戦争を嫌がる体質が身に付いた国民にどうやれば戦争を無理強いすることができるのか、戦争下でどうやって住民が足手まといにならないよう「保護」(その実は隔離と排除)するのか−−そんな戦争をやることしか頭にない小泉首相と与党の考え方そのものが根本的に間違っています。
 本当に国民を守る道、国民を保護する唯一の確実な道は、戦争をやらないことです。戦争準備をしないこと、戦争準備を無理矢理やることで周辺諸国に脅威を与えないこと、平和外交に最大のエネルギーを投入すること、平和国家を創造することです。

2002年5月21日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局





「民間防衛」とは?「有事下の“国民保護”」とは?
−−あの沖縄戦を見て!

  ○「軍隊は住民を守らない」が教訓。
  ○戦争しないことこそが唯一の「国民保護」。
敗戦50周年を問う教職員の会 中條佐和子
(「やんばる・ヤマトだより」No.61より)

 沖縄が「本土の防波堤」として意識されるようになった44年頃から、日本軍は飛行場建設を始めた。日本軍は広大な飛行場用地のために、耕作地や住宅地を強制的に取り上げた。兵舎が必要となれば、学校や民家を接収した。「われわれは沖縄を守りに来た」と言っては、家々に行って食べ物を「徴集」し、豚やヤギを奪った。『土地等又は物資を防衛出動を命ぜられた自衛隊の用に供するため必要な事項(自衛隊法改定案)』は、沖縄戦当時の日本軍の方針である「現地の物資を活用し、一木一草と雖も之を活用すべし」を想定しているのだろうか。
 日本軍は人も「現地自給主義」だった。陣地構築、壕づくり、飛行場づくりに働ける住民を沖縄全域から根こそぎ動員した。そのために農作業ができなくなり、食糧難をますます深刻化させたという。兵力が足らなかった日本軍は、沖縄戦直前に、防衛召集を行い17才から45才までの男子を軍隊にいれた。「気が付いてみると村には男が自分だけになり、仕方がなく軍属として日本軍に入った」と言うほど、実際には、防衛隊に12、13才から70才ぐらいの男子が動員した。その上中学校の生徒を鉄血勤皇隊として、女学校の生徒を学徒看護隊として軍隊組織の中に組み込んだ。『国民は必要な協力をするよう努める(武力攻撃事態法第8条)』ようにと言われ、沖縄県民は自分が持っている全てを供出した。自分自身の命を、大切な家族を、生きていくために必要な食べ物も水も、ありとあらゆる物を日本軍に差し出した。
 『住民の生命、身体を保護するための必要な措置(同上第5条)』とは、住民を避難させることも含まれているだろう。沖縄戦では日本軍の命令で集団疎開が強制された。その結果、学童750人を含む1500人もの人々が亡くなった対馬丸事件のように数多くの疎開船が海の藻屑となったり、強制疎開した住民の4分の1がマラリアで死亡した波照間島民のように八重山、本島北部で“マラリア地獄”が数多く起こった。これらの強制疎開は、日本軍人の延命のために行われた。「我々は戦うのだ、住民は避難しなさい」といいながら、実際は、食糧確保、避難場所確保のために住民たちを追い出したのだった。『住民の生命、身体保護』は念頭になく軍隊の保護が全てであった。
 地上戦の3ヶ月は軍隊の本質が噴出した。地上戦が始まったら、現地徴集の防衛隊員・軍属たちが真っ先に危険な前線に押し出された。伝令、飯炊き、水くみなど米軍に狙われやすい仕事は、防衛隊員・軍属の仕事だった。移動時も危険な弾薬を運ばされた。爆弾を抱えて米軍戦車に突入するのは鉄血勤皇隊など沖縄の中学生であった。重傷者を抱えて逃避行をしたのは学徒看護隊の女学生であった。防衛隊の約6割、学徒隊の約5割が死亡した。(もちろん朝鮮人軍属のことも忘れてはいけない。)
 軍隊は軍隊を守るのであって、住民を守ることはしなかった。日本軍は南部に撤退しながら、壕に避難していた住民を次々に追い出した。「壕を追い出される。それは即、死を意味していた」にもかかわらずだ。日本軍による住民虐殺も沖縄全島で起こった。方言を話したとスパイ嫌疑で虐殺。泣くと米軍にみつかると乳幼児の殺害。壕を出ていかない者、食糧を出さない者に対しての襲撃。前には米軍、後ろには日本軍と2つの軍隊に追われた住民たちは、恐怖と絶望、そして死へと追い込まれていった。そのような極限状態の中で、日本軍の一言から起こった「集団自決」も数多くあった。日本軍は日本兵士をも殺した。重傷者に対して青酸カリを飲ましたり、自決を強いたりした。異常事態の中で軍隊の凶暴性が露骨になっていった。
 沖縄戦という有事に、全県民が協力した結果、県民の4分の1、15万人以上が3ヶ月で亡くなった。一般住民の犠牲は日本兵の2倍以上にもなった。有事に軍隊に協力をしたがための犠牲であった。
 私たちは、日本で唯一の地上戦が起こった沖縄の体験を、繰り返し思い出さなければならない。多大な犠牲を出して沖縄の人々が得た教訓、「軍隊は住民を守らない」「軍隊がいるところに戦争がやってくる」ということを忘れてはならないと思う。沖縄戦を追体験すれば、有事立法を認めることは絶対にできないはずだ。




沖縄から有事法制を考える

  TBS「ニュース23」”沖縄復帰30年スペシャル”より

 TBSのニュース番組「ニュース23」(5月15日)で“復帰30周年特集”が組まれた。「有事法制〜地上戦を経験した沖縄から」というものだ。太平洋戦争で唯一地上戦を経験した沖縄に取材し、「民間人が戦闘への協力を求められるということはどういうことか」。沖縄の人々だからこそ言える有事法制案の危険性を探ろうとするものである。以下番組から抜粋して紹介する。


“有事”の記憶−−

 政府与党は、有事関連法案を成立させようとしていますが、地上戦を唯一経験している沖縄では、大きな危惧の声があがっています。いざ有事となった時に、一般の人たちに一体何が起こったのか、沖縄だからこそ語れる有事法制。沖縄からの警告です。


突然自分の土地に赤い旗が立った。

 比嘉恒健さん(80)は、その日の朝を克明に覚えている。「突然です。朝になったら畑に立っていたのですよ。」1943年の初夏、村はそれまでと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。それまで戦争など遠い国の話だったという。ところが突然、親から譲り受けた土地に、何本も立てられた赤い旗。いったい誰が、何の目的で立てたのか。それは読谷飛行場の建設だった。当時日本軍は南太平洋の戦争に備え沖縄各地で飛行場の建設を進めていた。赤い旗の意味、それは建設用地の境界線を示していた。すぐに軍から命令が下る。“土地を提供せよ。”
 「1980uと1155u。」「約1000坪ぐらいの土地ですよ。」「国家総動員法が施行されているので、住民としては軍隊に文句を言える立場ではなかった。」
 国家総動員法。いわば戦前の有事法制である。それに従い1000坪という財産を提供せざるをえなかった。
 さらに問題はあれから60年近く経っているのに、現在も尾を引いているという。
 実は、当時強制接収された土地は、事実上正当な補償もなく、戦後の混乱期に国有地とされてしまったのだ。その後も再三の要求にかかわらず、今もって本人に返ってこない。こうした地主は664人にものぼる。現在は、在沖米軍の施設となっている。
 「(土地の提供は)誰のためにもなっていない。なんで沖縄だけこんな差別をされるのか。それが沖縄の私たちの怒りだ。」
 比嘉さんは、自分の経験と現在審議されている有事法案の中味とを重ね合わせている。 『自衛隊改正案
  自衛隊の任務遂行上必要があると認める時は、都道県知事は、土地を使用することが  できる。』『必要な限度において家屋の形状を変更することができる。』
 国民の財産権の制限にまで踏み込んでいる。
 「とにかく、国が土地を提供しなさいといっても、それが何のためかと考えて、戦争に加担するようなことは絶対にやってはいけないということを言いたい。」

 唯一の地上戦、そしてアメリカの統治を経験した沖縄。そこに潜む記憶が、有事法案の具体像を浮き彫りにしていく。 


沖縄県が消えた。

 板良敷朝基さん(84)は沖縄県庁知事官房の職員だった。
 いざ有事。1944年、沖縄が標的にされているという情報が伝えられた県庁内は騒然とし始めたという。
 「県の行政というのは、普通の行政を全部やめてしまって、疎開事務とか、全て戦時行政に切り替えていったのです。平常の事務は全部ストップしたのです。」
 “戦時行政”−県民の疎開を助ける事務や、防空壕を掘らせるため民間人の動員ばかりとなった。すべては戦争のために動く県庁。彼は県民のための一般行政がなくなった時、沖縄県は消えたと感じたという。
 「軍人は命がけでやっておるのに、君たちは協力しないのかとなるわけですから、自然に協力せざるをえなくなる。」
 体調を崩した板良敷さんは、戦火の中、北部へと逃れていった。飢えと闘いながら自決を覚悟して遺書まで書いた。「りっぱに死にます。」
 そうした経験を持つ板良敷さんも有事法制が気がかりだという。
 『武力攻撃事態法案
  地方公共団体は、・・・武力攻撃事態への対処に関し、必要な措置を実施する責務を  有する。』
 知事が拒否しても『首相の代執行権』がある。
「(今の県庁職員に)二度と戦時行政をやらせたくないですよね。」「気の毒ですよ。そんな目にあわせるのは。備えなければならないという気持ちになるかもしれませんが、私たち沖縄戦を経験した者にとっては、にわかに賛同しがたいものがあります。」


解雇か戦争協力か。

 「どこかで何かがあると、軍港は一番感じるのでうよね。」
 福嶺さんは、ベトナム戦争が始まった1968年、那覇軍港の関係者として、船長の仕事をしていた。アメリカ軍は民間人である福嶺さんたちに、ベトナム行きのタグボートの乗船を命じた。再び民間人を戦争に巻き込むのかと、当時大きな議論となったが、米軍の度重なる要請は、福嶺さんに苦渋の選択を迫った。“解雇か戦時協力か。”
 「このままではほとんどみんな人員整理をされるかもしれないと、判断をしました。これだけの仲間を路頭に迷わせていいのかと。」
 およそ40人の民間人が南ベトナム行きのタグボートに乗り込んだ。破損した軍用船の曳航が主な任務であった。
 「今度の法律は、民間人に対しても罰則規定がありますよね。ああいうのは、戦時中の強制的な取り上げと同じになってしまう。」
 『自衛隊改正案
  物資の保管命令に違反した者は、6ヶ月以下の懲役、または30万以下の罰金に処す  る。』
 「今度出ているのは、処罰しますという法律ですからね、それが一番怖いですよね。民民間人が自由を失うことになりますから。私はあの項目1つで、もういやですね。」


すでに有事法制の先取りが・・・

 民間の施設が、軍事の目的で使われるというのは、もう過去の話ではありません。この沖縄の小さな離島で、有事法制を先取りにしたかのような動きがすでに現れています。この下地島の民間空港にアメリカ軍海兵隊のヘリコプターが、沖縄県の再三の自粛要請を無視する形で着陸を強行しました。
 この小さな離島にあるパイロット訓練用の民間空港。台湾海峡に近いという地理的な条件から在日アメリカ軍が注目を始めた。有事法制の成立がこうした動きを一層加速させるとも言われている。


 沖縄だからこそ見えてきた有事法制の具体的姿。それは、沖縄だけではなく、この国全体の行く末に待ちかねている姿でもある。



シリーズ 有事法制:討論と報告