シリーズ<安倍の教基法改悪と反動的「教育改革」>
対北朝鮮戦争挑発反対と教育基本法改悪反対を結合して闘おう


シリーズ開始にあたって

 教育基本法改悪法案と共謀罪法案が衆院委員会、衆院本会議で立て続けに強行採択される危険性が出てきました。安倍政権が、「北朝鮮危機」を煽ることによって、ここぞとばかりに反動法案もろとも一気に成立へと向かわせようとしているのです。私たちは今こそ、教育基本法改悪反対の声を集中していかなければなりません。対北朝鮮戦争挑発策動を教育基本法改悪はじめ反動諸法案強行採決のテコとさせてはなりません。

 安倍首相は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の核実験実施表明と国連制裁決議を受けて、経済・金融制裁のエスカレーションとともに、極めて危険な戦争挑発である米軍による臨検に協力しようとしています。安倍政権が成立直後から打ち出している日米同盟の強化と「血の同盟」、「主張する外交」、集団自衛権の解釈変更等々の強硬政策が、一触即発の危機・軍事的衝突の危機を生み出しかねない臨検への直接的加担という形で早くも現実化しようとしているのです。私たちはこの危険な軍事・外交政策を絶対にやめさせなければなりまません。

 一方、安倍政権が政策の中心として打ち出している教育基本法改悪、憲法改悪の方針は、一言で言えば「戦争できる国をつくるための国家・社会改造」です。世界中で、そしてアジアで、アメリカが引き起こす可能性のある侵略戦争に日本が加担するという泥沼に国と国民を引きずり込んでいくための法体系の根本的な転換です。その意味で、今まさに差し迫っている北朝鮮に対する戦争挑発と教育基本法改悪の強硬採決姿勢は深く結びついています。
 すでに10月18日、安倍が肝いりで作った教育再生会議の第一回会合が開かれ、道徳心教育の強化や教員免許制など教員に対する締め付けと恫喝、公教育への競争原理の導入など、教育のあり方を根本的に変える「教育再生」=公教育の破壊についての議論が開始されています。

 私たちは、安倍政権の危険な戦争政策をストップさせるために、北朝鮮に対する戦争挑発に反対する声を上げ、「戦争するための国づくり」である教育基本法改悪法案の阻止の声を上げていかなければなりません。私たちはそのような関心から、シリーズ<安倍の教基法改悪と反動的「教育改革」>を開始します。これから正念場を迎える臨時国会の闘いに役立ててもらえれば幸いです。
 なお、本シリーズは、大阪在住の教職員と保護者から寄せられた記事や投稿をもとに、署名事務局の責任で取りまとめたものです。

2006年10月20日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局





シリーズ<安倍の教基法改悪と反動的「教育改革」>その1
教育基本法改悪の狙いは何か?
○「戦争ができる国」=「好戦的な国民」づくり。
○「グローバル独占資本に都合のいい人材」づくり。
○社会的統合の手段としての「公共の精神」の強制。



はじめに−−嘘とデマで塗り固められた教基法「改正」の理由

 シリーズ第一回目は、教育基本法改悪の狙いである。安倍や右翼勢力は、今、教育基本法を「改正」すべき根拠として、子どもの道徳心・公共心の低下、家庭の教育力の低下、少年犯罪の凶悪化などを挙げている。彼らは、子どもと若者をめぐる状況に不安を抱く人々の心情に付け込み、嘘とデマとで自分たちの思う方向に進めようとしている。しかし、これらの諸問題と教育基本法との間には、どんな具体的な因果関係もない。真の狙いがあまりにも醜悪で露骨なための、ごまかしと争点外しに過ぎない。
 まずもって、彼らが挙げている事実そのものに嘘がある。一例を挙げれば、少年による凶悪犯罪は戦後ずっと減少傾向をたどってきている。安倍の世代が少年であった1950〜60年代の方が、現在よりもはるかに少年の凶悪事件は多かったのである。少年犯罪の凶悪化そのものが事実に反しているにもかかわらず、個々の事件をセンセーショナルに取り上げ、毎日のようにマスメディアにのせて人々の不安をあおり、さらにそれを戦後教育や教育基本法と結び付けるという嘘に嘘を塗り重ねる手法を駆使しているのである。
※少年犯罪の年次傾向については以下を参照
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm(少年犯罪データベース)
http://kogoroy.tripod.com/hanzai.html (少年犯罪は急増しているか)

 もちろん、少年犯罪の劇的な量的減少だけを対置するのは間違いである。最近の少年犯罪の異常さに今日的特徴はあるだろう。しかし、それは個々の事件を社会学的・教育学的に具体的に分析すべきことである。
 いずれにしても、子どもの道徳心・公共心の低下、学力の低下、校内暴力や学級崩壊、家庭の教育力の低下等々を教育基本法とを結びつけることは的外れこの上ないことである。子どもは“社会矛盾の鏡”なのだ。子どもたちが歪んでいるとすれば、それは社会全体の歪みの反映としてである。子どもを受験地獄に追い詰めてきたのは誰なのか。子どもから遊びを奪い、テレビゲーム漬けにしたのは誰なのか。老人・病人・障害者など社会的弱者を切り捨て、人間に冷酷な社会を作り出してきたのは誰なのか。「社会的格差」「教育格差」を拡大するような「構造改革」を推進しているのは誰なのか。労働者、勤労人民を生活ができないほどの低賃金・長時間労働に追いやり、家庭崩壊を拡大している張本人は誰なのか。若者たちを雇用せず、正規雇用を減らし非正規雇用を増大させ、若者たちから夢も希望も奪っているのは誰なのか。−−これら全てが、子どもたちの荒れの原因となり、子どもたちから学ぶ条件を奪っているのである。

 安倍らが教育基本法を敵視するのは、この法律が権力拘束規範であり、国家からの教育の自由を守る戦後の教職員組合運動の拠り所でもあるがゆえである。ここでも安倍をはじめ森派に巣くう右翼勢力は嘘とデマを繰り返す。彼らの究極の目的の一つは、教職員組合運動潰しである。教職員組合運動は「マルクス・レーニン主義者に牛耳られ」ている、「損得を価値基準とする」教育を押し付けてきた、教基法は「損得を価値基準とした」法律だと非難するのである。しかし、当然のことながら、教基法にはそのような文言は一言も書いていない。そればかりか「損得」とは最も遠いところにある「個人の尊厳」「個人の価値」という基本理念に基づいているのである。
※教育基本法に関する特別委員会2006年5月24日の町村発言「一部の組合幹部は依然としてマルクス・レーニン主義から脱し切れない。そういう人たちがまだまだリーダーにいるということは、教育改革論議を建設的に前向きに進める際にまことにまずい。」第164回国会 教育基本法改正案の国会審議【教職員関係】 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/015816420060524003.htm



[1]教育基本法改悪の3つの狙い−−自民党=公明党政権と財界=グローバル企業に尽くし仕える従順な国民づくり

(1)教基法改悪の狙いは、「戦争ができる国づくり」「グローバル企業のための人材づくり」

 それでは教育基本法改悪の真の目的は何か。私たちは、それは国家体制の軍国主義的・反動的再編であり、教育による国民の思想改造であると考える。当然、洗脳や強制力なしには実現し得ない。安倍新政権は、小泉政権以上に強権的な国家権力を打ち立てようとするだろう。以下に挙げた3つの狙いが浮かび上がっている。どれもこれも政府与党がその本音を語れないことばかりだ。
a)「戦争ができる国」=「好戦的な国民」づくり。
b)「グローバル独占資本に都合のいい人材」づくり。
c)社会的統合の手段としての「公共の精神」の強制。

 もちろん、全てが安倍らの思惑通りになるわけではない。しかし、万事が彼ら支配層の思惑通りにいったとすればどうなるのか。国家に従順なロボットか、あるいは戦前の“天皇の赤子”のように国家の命令を命がけで実行するような国民か。まさに彼らの“理想郷”=「美しい国」であろう。恐ろしい、の一語に尽きる。

 日本の支配層は、1990年代半ばから、経団連や経済同友会に名を連ねるようなグローバル企業の競争力強化のための「人材育成」、対米協力のための「グローバル安全保障」を本格的に実現するよう政府に圧力を加え始めた。新たな「国家再生戦略」の柱を憲法と教基法の改悪に据えたのである。グローバル企業の競争力強化と世界市場制覇のための国造り、グローバル企業の安全保障のための国造りのテコとしての憲法改悪と教基法改憲である。
<シリーズ憲法改悪と教育基本法改悪 その1>“小泉改憲”の加速と諸矛盾。長期の構えで地道な反撃を組織しよう! (2005.5.1.)私たちはこの中で、憲法改悪と教育基本法改悪の狙いが、「戦争ができる国造り」であるとともに、「グローバル企業のための国造り」であることを明確にした。

a)「戦争ができる国」=「好戦的な国民」づくり。
 今日の日本における「戦争ができる国」づくりとは単純な戦前回帰ではない。徴兵制がない今日の日本においてそれはどんな形を取るのか。米軍と一体となってグローバルな海外派兵を行う侵略国家への変貌を全面的に推進し礼賛する好戦的国民づくりとはどんなものか。
 これに対応して、安倍らの言う「愛国心」も、復古主義的民族主義的な「愛国心」に加えて帝国主義的排外主義的な「愛国心」とが結びついたものとなる。具体的にイメージしてみよう。
−−朝鮮民主主義人民共和国に対する強硬措置、経済制裁・軍事制裁を必要と認め、米軍とともに朝鮮半島で参戦することをいとわない国民。
−−中東で米軍が侵略戦争を始めた時には、イラクでイギリス軍がやったように、侵略そのものに参戦することを支持する国民。集団的自衛権行使を必要と考えそれを歓迎する国民。
−−軍拡と軍事費増を歓迎し、医療・福祉・教育など民生予算が切り捨てられても我慢し、大衆増税を課せられてもそれを甘受する国民。
−−自衛隊を侵略軍に変身させることを国際平和への貢献と考え誇りとする国民。
−−米軍の指揮下で自衛隊が他民族の領土を平気で蹂躙し、住民を虐殺してもそれを容認し、自衛隊員の戦死をも「名誉の戦死」「お国のため」として靖国神社に祀られることを喜んで受け入れる国民。
−−最終的には、自ら進んで自衛隊や海外派兵、侵略行為、虐殺行為に志願する若者を育成することを当然視する国民。
 結局、このような好戦的国民づくりに決定的役割を果たすのは、学校教育と教員である。教員と教育現場が、「愛国心」で凝り固まった国策に従順なロボットのような子どもたちを、「戦死者の予備軍」を率先して増産するのである。

b)「グローバル独占資本に都合のいい人材」づくり。
 グローバル企業が支配する新しい日本帝国主義の再生・復活にあたって必要不可欠なのは、多様な人材育成システム、すなわち差別選別・能力主義教育の巨大なピラミッド−−ごく少数の支配エリート育成を頂点とし、底辺では圧倒的多数の「落ちこぼれの実直な精神の大衆」に至るまでの−−である。そこでは以下のような人材が育成されようとしている。
−−義務教育段階から「勝ち組」と「負け組」に差別選別され、有名私学や中高一貫校のエリート層と圧倒的多数の公立校、さらに公立校の中での格差付け、そのヒエラルヒーを甘受する国民。
−−正規雇用労働者と非正規雇用労働者。派遣・契約・パート労働者で我慢する人間の育成。そのそれぞれ内部のヒエラルヒー構造を甘受する労働者。
−−「チャンスは平等だ、がんばらないお前が悪い」と国家から切り捨てられても自己責任とあきらめる労働者。
−−低賃金・成果主義賃金、超長時間労働、濃密な労働密度と労働強化、過労死を黙って受認する労働者。
 要するにグローバル独占資本がどれだけ暴利をむさぼろうと、どれだけ搾取と収奪を行おうと、どれだけ労働者を酷使し切り捨てようと、文句を言わずただ黙って黙々と働く人材、ましてや労働組合に加入して闘ったり、内部告発をしたりしない従順な労働者の育成が目的なのである。
<シリーズ憲法改悪と教育基本法改悪 その4>日本経済のグローバル化と日本のグローバル企業のポジション

c)社会的イデオロギー的統合の道具としての「愛国心」「公共の精神」の強制。
 この側面は、支配層の“治安維持”本能を衝動力とするものである。1990年代から始まった新自由主義的「構造改革」、それを引き継いだ小泉改革は、大量の中間層を没落させ、労働者階級と勤労人民大衆の窮乏化や社会的格差を著しく推し進めた。年功序列=終身雇用制度の縮小・廃止によって、大量の中高年労働者が企業から叩き出された。新卒や若年労働者においても、高失業率の中で就職の扉が閉じられ、一生、正規にはい上がれない大量の非正規雇用労働者の大群が生み出されている。
 このような中で確実に積み上げられる社会的不満の爆発を発散させるイデオロギー的支配の道具が不可欠となる。それこそが「愛国心」であり、「公共心」である。
 人民の組織的闘争はかなりの程度、買収し鎮圧し分裂させ後退させてきた。しかし、逆に分散的反抗や暴動やサボタージュ、さらには犯罪という別の形態での反抗など、非組織的抵抗は今後ますます拡大していくだろう。そこで威力を発揮するのが、一方では、「勝ち組・負け組」、「自己責任」というイデオロギー的・思想的な武装解除、マスコミなどを総動員した大衆操作・大衆洗脳であり、他方では、子どもの頃からの「道徳教育」「しつけ」による「愛国心」「公共心」、「秩序迎合心」「体制順応心」の植え付けである。


(2)邪魔になった教基法とその基本理念−−教育における戦前の反省、軍国主義教育・天皇制教育の否定。

 政府支配層にとって、上述したような「戦争ができる国」をつくろうとすれば、それは、平和と民主主義を基本目的とする教育基本法の理念と全面的にぶつからざるを得ない。安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」とは、敗戦帝国主義が背負わされた帝国主義的・軍国主義的な再生・復活に対する窮屈なカセを全面的に取っ払おうとするものである。
 安倍らにとって現行の教基法は邪魔で邪魔で仕方がない。平和教育、民主主義教育を積極的に展開することを弾圧したり規制したりすることができない。アジア・太平洋戦争という侵略戦争と植民地支配を否定し、教育勅語を否定し、軍国主義教育・天皇制教育を否定する教基法体制は彼らにとって許せないことなのだ。
 また、「人格の形成」を目的にしているがゆえに、国策に従順な国民づくりを教育の目的にすることができない。支配層にとって、「平和国家」の主権者を育成し、「個人の尊厳」、「個人の価値」を基礎とする人格形成教育、男女共学、男女が相互に尊重し協力し合うジェンダーフリー教育は、憎悪の対象なのである。
 
 そもそも教育基本法は、戦前の教育が「天皇のために死ぬ」ことを恐れない国民を作り出すための洗脳機関となっていたことの反省から生まれたものであって、国家の教育への介入に対して異議申し立てをする法的根拠として機能してきた。敗戦により喪失した教育に対する国家の支配権を奪還し、愛国心=徳目教育や差別・選別教育など、現行の教基法の理念と根本的に対立する国家主義的教育を行おうとしているのである。



[2]政府与党の教基法改悪法案の4つの仕掛け−−条文解説を交えて

 教基法改悪法案には、上述した国家体制の軍国主義的・反動的再編、国民の思想改造を実現するために、4つの仕掛けが組み込まれている。
−−第一に、国家による教育支配権の奪回、教育の主権者(主体)から教育権を剥奪し、国家権力が強権的に教育を行う体制づくりである。
−−第二に、政府支配層に一切逆らわない従順な国民づくりである。「戦争ができる国」づくり、「グローバル独占資本に都合のいい人材」づくりを礼賛するよう国民を思想改造することである。
−−第三に、所得・経済格差により教育格差を助長する教育であり、階級・階層を固定化し加速する差別・選別教育、能力主義教育である。
−−第四に、教員に対する国家統制の強化である。


こうして教基法は、右翼勢力と財界=グローバル独占資本による、これまでとは比較にならない国家戦略・人民支配の道具に変質させられるのである。子どもの独立した人格形成、内発的で自主的な発達を援助するという教育本来の使命は投げ捨てられる。
※教基法改悪法案の中身については署名事務局の以下の記事を参照
書籍紹介:『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』−教基法改悪反対の闘いは、私たちが教育の主権者であり続けるための闘い
署名事務局主催「憲法改悪、教育基本法改悪に反対する連続講座」第4回報告 大内裕和さん 「“愛国心”と“能力”で子どもを切り捨て・序列化」


(1)国家か国民か−−誰が教育の主体か、誰が教育の主権者か。教育の目標と主体が転覆させられた時の恐さ。

 誰が教育の主体か、誰が教育の主権者か。国民のための教育か、国家のための教育か。戦後教育をめぐる平和・民主主義勢力と保守反動勢力との対決の中心点は、この教育の主権者(主体)をめぐる闘いにあった。
 国家権力が教育を全面的に牛耳るといったいどうなるか。安倍や政府与党は、この教基法改悪の“突破口”さえ突破すれば、何でもできると踏んでいる。これは、教基法を、権力拘束規範から国民行為拘束規範へ法体系そのものを根本的に転換することを意味する。その決定的意義を再確認しなければならない。

現行法 第十条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
二 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

改悪法案 第十六条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互協力の下、公正かつ適正に行なわれなければならない。

 現行法第十条は、教育内容に対して、教育行政が介入することは「不当な支配」であり、教育行政は教育の目的を遂行するための「諸条件の整備」を行なうこととし、教育行政からの教育内容の自由を定めると同時に、教育行政の役割を明確に限定している。戦前の教育が政府・行政など国家権力によって強固に支配されていたことに対する強い反省に基づき、このような内容が盛り込まれた。
 一方、改悪案では、確かに「教育は、不当な支配に服することなく」という冒頭の文言が残され、一見内容が変わったようには見えない。ところが、その後の「国民全体に対し、直接に責任を負って行なわれる」という文言が省かれ、その代わりに、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれる」という、法律で決めさえすれば、どんな教育内容でも可能となる文言が入れられた。さらに、文の途中で「教育行政は」という第二の主語が登場することで、教育=教育行政と捉えられることになる。
 これによって、「教育」の主権者は、国民から国家・教育行政へと180度転換してしまう。そうなれば、法に基づく行政の介入が合法と判断され、教職員組合や市民団体の運動こそが教育に対する「不当な支配」と捉えられてしまうのである。

 さらに、改悪法案では、十六条の後に、2、3、4項が新設され、そこでは、全国的には「国」が、そして地域においては「地方公共団体」が「教育に関する施策」を「策定し、実施しなければならない」とされている。完全に教育の主体は行政へと転化してしまっている。しかも、4項では「国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。」とある。予算措置を伴うことによって、政府・教育行政が教育内容へ介入し、誘導することは一層容易になる。

 このことは、現行法案にはない「教育振興基本計画」という項目でよりいっそう具現化されている。

(教育振興基本計画)〔改悪法案に新設〕
第十七条 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。
2 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。

 「教育振興計画」を策定するのは、国の機関の中でも「政府」であり、国会へは報告しさえすればよく、国会審議を経ることなしに教育内容を定めることができるのである。

 教育行政による「不当な支配」は、現行の教基法の下でも、すでに常態化している。日の丸・君が代の強制、管理強化・行政研修の義務化等々、文部科学省・教委・校長を通じた学校に対する専制支配により現場は荒廃し、子どもの自主性は失われ、教員は疲弊しきっている。この「不当支配」を合法化し、より徹底しようというのである。空恐ろしいではないか。


(2)子どもたちに軍国主義・反動思想をたたき込み、「公共心」に満ちた国家・国策に従順な隷属的人格づくりを追求するグロテスクな“洗脳装置”−−愛国心・徳目教育の全面化。

 現行教基法「教育の方針」が改悪法案「教育の目標」へ。−−改悪教基法には、政府支配層や教育行政に一切逆らわず、国策に従順に従う、独立した人格を持たない精神的奴隷のような国民づくりのための仕掛けが組み込まれている。国家が守らなければならない国家を縛る規範・原則としての「教育の方針」から、国民の義務として個人が達成しなければならない徳育=「教育の目標」へと大転換された(2条)。この「教育の目標」というのは、「人格の完成」の具体的中身を国家が定め、強制することである。ここでは「個人の価値」は個人の自由な人格の発展の結果ではなく、国家にとって有用な「個人の価値」、国家にとって必要な「国民の資質」へ変容させられ、「公共の精神に基づき・・・その発展に寄与する態度」「我が国と郷土を愛する・・・態度」(いわゆる「愛国心」)など、5項目の「徳目」を叩き込まれることになる。いわば現代版「教育勅語」であり、学習指導要領の「道徳」の法定化、「心のノート」の法定化である。

 そもそも「愛国心」教育そのものが根底から批判されねばならない。戦前の侵略戦争と植民地支配の反省、天皇制教育の誤りと教育における戦争責任が、甚大な犠牲を出して教えてくれた教訓である。それは一方では、侵略戦争や派兵を礼賛する好戦的で民族排外主義的なイデオロギーであり、他方では、人民の苦しい生活、国内の社会階級矛盾を外へそらせる階級協調的なイデオロギーである。「愛国心」は時の支配層にとって、人民大衆を支配する格好のイデオロギー装置なのである。

 しかし政府支配層が教基法改悪で目論んでいることは、「愛国心」をテストや点数の対象にすることであり、もっと露骨なものである。人々が呆れかえる「究極の強制」=「愛国心通知表」がその典型だ。今年4月に教基法改悪法案が国会に上程されるや否や、「我が国と郷土を愛する…態度を養うこと」=「愛国心」が「通知表」の評価に盛り込まれること、しかもそれがすでに全国各地で先行していることが報道され、がぜん教基法に対して注目が集まった。
 ところが、「郷土愛は自然なこと」「愛国心は当然なこと」という大衆の心理に付け込んで決められようとしていることが、そんなに生やさしいものでないことが判明した。「愛国心」が個人の自発的な思いや感情としてではなく、国家によってその内実や度合いまでもが、こと細かく厳格に評価され、数量化されてしまう。それを持つか持たないかだけではなく、持ち方や持ち方の度合い、態度への表し方まで、恣意的に国家権力・教育行政によって決められてしまう。人々は一様にうさんくささを感じるようになった。政府支配層の真の狙いがバレてしまったのだ。
※「愛国心」評価は無限に広がる危険性を内包している。国家権力は国策に逆らう内容をもった者を「愛国心」に欠けた者と考えるだろう。例えば、日本国憲法に忠実であろうとして、首相の靖国神社への参拝に異議を申し立てたり、自衛隊の海外派兵に反対したりすること、日本の自然を守るために原発や核施設に反対すること等々。

 現在、東京都をはじめ全国各地で、「日の丸・君が代」をまるで「踏み絵」のように使って教職員の思想・信条を調べ上げ、その態度いかんで懲罰を加えるということが横行している。校長が職務命令を出し、それに従わない公務員を職務命令違反という理由づけで処分するという形をとっている。もちろん、それは、憲法十九条で定められた思想・良心の自由への侵害であり、教育基本法第十条に違反するものとして粘り強い闘いが行われている。また、現在のところ、生徒や保護者に、特定の態度を強制する法的な根拠は存在しない。
※2006年9月21日東京地裁において、日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強制する東京都教育委員会の通達の違法性を問う訴訟で、原告全面勝訴の判決が出た。この判決の法的根拠がまさに憲法十九条と教育基本法第十条なのである。この判決ほど、教育基本法の持つ意義と、支配階級がそれを憎悪してきた理由を明確にするものはない。
署名事務局声明「日の丸・君が代強制は憲法違反 東京地裁で画期的判決!」

 しかしながら、教基法が改悪された場合、国家権力にとっては、職務命令や通達といったまどろっこしい手立てをとることもなく、教職員への思想・信条に基づく処分が完全に合法的なものとして行われることが可能となる。しかも、教職員はそれに対抗する法的手段を奪われてしまうのである。さらには、生徒や保護者に対しても法で定められた「教育の目的」であるとしてそれを強制することが可能となる。「愛国心通知表」のようなものが全国的規模で実施され、教員が生徒の「愛国心」の度合いや形態までを厳密に評価するというおぞましい事態が日常化する。


(3)教育の機会均等の破壊、社会格差・階層格差を固定化し拡大する差別・選別教育の徹底。

 改悪法案には、差別選別教育につながる仕掛けがしっかり組み込まれている。「能力に応ずる」から「能力に応じた」教育へ。「能力に応ずる」は「能力の発達に応ずる教育」、つまり個々人の能力に差異があることを前提に教育の機会均等を保証するという意味である。しかしそれが、能力の違いによって教育の機会配分を変えるという意味に改悪される。明らかに能力主義教育の強化拡大だ。

現行法 第三条(教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。

改悪法案 第四条 教育の機会均等
すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。

 このような教育政策は、現状においても教育現場で進んでいる教育格差を一層拡大するものであり、公教育そのものからの、労働者・勤労者の子どもたちを排除することである。


(4)子どもを従順にするには、まず教員を従順にしなければならない−−教職員組合運動への最後的な破壊攻撃。教員の自主性の剥奪と国家による教員統制の徹底へ。

 今回の教基法改悪のもう一つの狙い目は、更なる教職員への国家統制の強化である。子どもを従順にするには、まず教員を従順にしなければならない。行政による教員研修、不適格教員の切り捨て。「使命と職責」の評価による人事考課制度の強化、降格・処分等々。初任者養成の段階から免許更新まで、随所に思想チェックが入り、文部科学省や教委や校長に抵抗する者、もっと言えば、支配層の教育政策に異論を唱えたり反対する者を簡単に解雇し、徹底的に排除する制度を整備し、教員を根本から造り替えようというのである。
 1990年代に始まった日の丸・君が代攻撃、広島県での「教育正常化」攻撃、石原都知事就任後の東京の反動教育は、教員統制攻撃の先取りであった。すでに現場の教職員は徹底的に弾圧され、後退させられ、疲弊しきっている。このような状況の下で、教基法が改悪され、法的強制力でもって、行政のロボットのような教員だけになればいったいどうなるのか。



[3]教基法改悪阻止は教職員や学校現場だけの問題ではない。全人民的課題である

(1)安倍の教育基本法改悪と反動的「教育改革」は、自民党文教族と財界の総路線

 教育基本法改悪、安倍のやろうとしている「教育再生」、自民党文教族がめざしている「教育改革」、そしてグローバル資本が要求する「義務教育改革の提言」などは、細部においての違いはあるものの、それぞれが基本的には一致している。つまり、私たちがここまで展開してきた「教育基本法改悪の狙い」は、基本的なところでは、決して安倍だけが持っている右翼的・極右的な信条に基づく特異な考えではなく、今日では広く政府・支配層が共通して持っている反動的「教育改革」の基本方向だということである。

 日本の財界が初めて本格的な労働力政策の転換を提言したのが1995年5月の日経連報告であった。日経連「新時代の『日本的経営』−挑戦すべき方向とその具体策」において、「長期蓄積能力活用型グループ」、「高度専門能力活用型グループ」、「雇用柔軟型グループ」という労働者の3つのグループ分けが明らかにされたことはよく知られている。非正規雇用労働の異常な増大はこの時期から始まる。これ以降、財界から矢継ぎ早に、グローバル競争と「総人件費」引き下げのための労働力政策、それと連動させる形での教育政策の能力主義=差別選別主義への転換、教基法改悪がワンセットで打ち出され始めたのである。
 最近の2006年4月の日本経団連「義務教育改革についての提言」では、全国学力調査の結果の学校ごとの公表、小・中学校の「学校選択制の全国的導入」、学校の運営交付金のテスト結果に基づく分配等々が提言されるまでになっている。安倍が主張する全国学力テストや学校間競争、子どもの差別選別・切り捨ては、財界の総意なのである。

 自民党の教育政策も、財界の教育政策と全く同じである。全国の学校に競争原理を導入し、教員と子どもを能力主義で差別選別しようというのである。今年6月18日に発表された『国家戦略としての教育改革〜学校現場の裁量の拡大と、国の明確な責任に基づく教育〜』は「自由民主党 政務調査会」「文教制度調査会」「文部科学部会」「学校教育特別委員会」のまとめであり、まさに自民党文教族の巣窟の手になるものである。これを読むと安倍の教育政策は決して彼個人に固有のものでなく、文教族や財界の要求が自民党全体の政策に高まったものであることが分かる。
※この自民党の教育政策は4つの部分から成る。
 @全国的な教育水準の到達目標の設定を学校教育法、学習指導要領を通じて法定化すること。換言すれば教育目標の設定や学習指導要領が法律となることや、「能力・業績に見合ったメリハリのある教員給与システムの構築」「指導力不足教員への厳格な対応」すなわち、「努力する者には報い、資質に欠ける者は教壇から排除」さらには「教員免許更新制の導入(現職適用を含む)と厳格な適用」「教員養成・採用の見直し」といった、教員の養成・採用・給与・身分といった教員へのトータルな管理・統制といった内容が含まれる。
 A「教員人事権を市町村へ移譲」「校長の予算・人事権の拡充」とか一見現場や市町村へ大幅な「自由」「裁量権」を与えること。これらは、地方に責任を転嫁し、教育の中央統制を現場の校長や、市町村に下請けさせる制度を作らすものでしかない。結局末端の現場では「校長、教頭、主幹等による新たな管理職制度の構築」によって管理・統制が強まるだけである。
 B「国の調査・指導権限の強化」「全国学力調査の全校実施」。文字通りイギリスの制度の「直輸入」である。イギリスのように「全国学力調査」の実施とその公表をテコに、国が「各学校や各自治体における教育の状況を評価し」「改善のための指導・支援を行う」というのである。その前提として「全ての学校に自己評価の実施と結果公表を義務付ける。さらに外部評価も義務付ける」としている。これは「学校運営協議会や学校評議会を外部評価に活用する」というもので、イギリスのように独立の査察官が学校を監査するといった発想では当面無いようである。しかし、日本の場合はこの「学校運営協議会」や「学校評議会」に右翼的な地域ボス、地元企業、警察・自衛隊関係者などが入り込んで学校教育に圧力を加えることなどいくらでも起こり得ることである。
 C国による改善措置が「法的権限」を「付与」される。最悪の場合、国によってイギリスのように学校を「廃校」とすることが法定化される。のみならず、教育内容、教員の処遇とりわけ「免職」も含め、すべて「国による改善措置」が合法化されるということである。

 安倍の「教育再生」も、この自民党文教族の戦略も、サッチャーが始めたイギリスの「教育改革」を参考に、「国の調査・指導権限の強化」「全国学力調査の全校実施」などで、教育の国家統制と競争原理の導入を目指そうというものである。まさに、イギリスですでに破綻した「サッチャー教育改革」を取り入れようとしているのである。
※イギリスの「教育改革」批判については、本シリーズ(その2)で詳しく紹介することにしたい。


(2)教職員だけの問題ではない。世代丸ごとの思想改造は政治と社会全体の軍国主義的・反動的再編につながる危険性。

 ここ5〜10年、教育問題は、人民大衆の関心事であった。凶悪な少年犯罪も、一部の教員の犯罪も、日の丸・君が代強制も、ゆとり教育や学力低下も、全てが現場教員と教職員組合運動の責任に一方的に転嫁されてきた。人民大衆は、保護者を含めて、すでに述べた政府支配層の教基法改悪の狙い目を知らされず、政府支配層やマスコミの世論誘導に惑わされ踊らされ、教員攻撃に拍手喝采してきた。挙げ句の果てが、それらの総決算としての今回の教基法改悪である。

 教基法改悪の危険な影響は、何も学校現場だけに限られない。そこに今回の改悪の隠された“治安維持”的な危険性がある。改悪案では、これまでにはなかった、「大学」(第七条)、「私立学校」(第八条)どころか、「生涯学習の理念」(第三条)や「家庭教育」(第十条)、「幼児期の教育」(第十一条)から、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連帯協力」(第十三条)といった、これまでにない新たな項目が設けられている。
 これらによって、大学や私学はもちろん、保護者や地域全体、社会全域に、政府の目論む内容での「国や郷土を愛する態度」を一律に強制することが可能となるのである。すでに一部の学校の卒業式、入学式で、参列した保護者の、日の丸・君が代に対する態度までをも、監視に来た教委が「調査」する事態にまでエスカレートしている。
 そもそも子どもたちを「愛国心」「公共心」など徳目で洗脳することは、戦前の教育勅語体制が証明したように、世代丸ごと国策に従順な国民に思想改造しようということである。本質的に、教育とは日本の国民全体、人民大衆全体の問題なのである。
(2006年10月20日 N)