戦前の国定「修身」教科書復活につながる=文科省「心のノート」
政府・文科省による画一的・宗教的「徳目」による「心の支配」に反対する!
「心のノート」の子どもたちへの配布と使用の強制を許さない世論の拡大を!

「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン事務局 井前弘幸
2002.9.6



【1】学校現場で今大変なことが起ころうとしています。

(1)文科省による修身教科書の復活・現代版=「心のノート」押しつけ
 文部科学省は、今年4月、全国の小中学校すべてに「道徳」の副読本として「心のノート」を一方的に無償で配布しました。「心のノート」は、小学校低学年用・中学年用・高学年用・中学生用の4種類で、出版社も著者も表記されない、編集・発行ともに文科省という「国定」です。「道徳」には、指導要領の上でも「教科」としての位置づけはなく、教科書はありません。「心のノート」の使用を義務付ける法的根拠はどこにもありません。しかし、この単なる副読本であるはずのものが、その牙をむき始めました。このアピールは、「心のノート」の真の狙いと5年・10年先の学校の姿を予測したときの恐ろしさを、教職員だけではなく保護者や市民の方々にも知っていただき、事態への警戒と強制反対の共同行動を呼びかけるための第一歩として発信したものです。

小学校低学年・中学年・高学年・中学校用の4冊の「心のノート」表紙
 現役の教員や若い保護者たちが「心のノート」の全面的な批判は難しいと二の足を踏んだり、軽く扱かおうとしている一方で、戦前の「国民学校」世代の元教員は口を揃えて「直感した」と言います。「これはまるで修身教科書だ。」「これはあぶない。」「しかも極めて巧みで悪質だ。」軍国少女・少年に育て上げられた自分自身の経験から、即座に発せられた重みのある言葉です。私たちは、今一度、「少国民」世代の経験から国定教科書の怖さを深く学びとらなければなりません。現に修身教科書の内容をたたき込まれてきた世代が、「心のノートは修身教科書の復活・現代版だ」と語っている事実に真剣に向き合い、現代に即してその危険性を明らかにすることは私たち戦後世代の重大な責任です。

(2)「心のノート」が牙をむき始めた
 文科省は、公的な場では「使用の義務づけはしない」と発言しています。しかし、それは真っ赤なウソです。「日の丸・君が代」を強制したのと同じように、「心のノート」の使用とその内容に即した「道徳」教育をすべての学校と教員に強制しようとしています。
 遠山文科相は、7月12日の全国市町村教育委員会教育長会議で挨拶し、「心のノートの積極的活用」を呼びかけました。同日付けで、文科省初等中等教育局は都道府県教育委員会宛に以下のような通知を発出しています。「・・・『心のノート』の児童生徒への配布状況について調査を実施することにしましたので、平成14年8月19日までに当職回答願います。なお、今後、『心のノート』の活用状況(学校における具体的な活用の仕方、児童生徒や保護者の意見など)について、調査を実施する予定(10月頃)であることを申し添えます。」つまり、言葉を替えれば「ちゃんと配布したかどうかすぐに回答せよ」、「配布できていなければ次の調査までに配布・使用し、使用状況から児童生徒・保護者の反応まで具体的に報告せよ」ということです。(「日の丸・君が代」強制も、この「全国悉皆調査」が手始めでした。)
 「教職研修」という学校管理職及び管理職を目指す教員を対象にした雑誌の8月号で、柴原弘志文部科学省教科調査官(「心のノート」作成及び活用担当者・前京都市教委指導主事)は、(心のノートの)趣旨・内容を盛り込んだパンフレットを作成し、全国に各戸配布すること、この夏中に「心のノート」そのもののを市販することを明らかにしています。パンフレットの配布は、すでに始まっているようです。柴原調査官は、パンフレットの全家庭配布の意義について、次のような「期待」を明らかにしています。@「子どもたちが学校でも、家庭でも、友達の家でも、地域のどこかでも、ノートを開いて学習できる環境づくり」、A「教師のかかわり方に関して、・・・道徳の時間の1時間1時間が『本来のねらい』に即して行われていくこと」。@はすべての家庭、すべての公共施設に「心のノート」を置けということ、Aは文字通り文科省の指示する内容通りに「道徳」教育を行えということです。そのために「すべての学校で年に1回くらいは、保護者や地域の人々の参加・協力による道徳の時間を期待しています」として、教委や校長を通じて直接教員や子どもたちに強制するだけでなく、保護者や「地域住民」を巻き込んで、地域の右翼勢力が学校に介入しやすい形態での授業実施まで提唱しています。また、同誌上で柴原氏らと対談した押谷由夫昭和女子大教授は、「『心のノート』の家庭・地域での活用」「毎朝のミニ読書タイムのある曜日を『心のノート』を開ける日に」「どの学校でも1回は校長先生に道徳の授業をしていただく」など踏み込んだ提起を行っています。「心のノート」に基づく「道徳」教育を何が何でも子どもたちに押しつけようというのです。

(3)「心のノート」批判は今からでも遅くない
 政府・文科省や右翼勢力が「心のノート」の配布と使用を強制する動きを強めている一方で、多くの学校では内容の検討や強い批判もないまま、すでに子どもたちに配布されてしまっている現実があります。「愛国心の強調や権利の抑制と義務を重視した内容等に問題はあるが、使える部分だけ使おう」という形で、現に「教材」として使用されている例も少なくないようです。しかし、このような形で子どもたちに「心のノート」を手渡し、「教材」として使用することは極めて危険ではないのでしょうか。「心のノート」や指導要領「道徳」の内容が、戦前の「教育勅語」や「修身」から露骨な「忠君愛国」を表向き削除し、耳障りのよい言葉と美しい装丁、書き込み式という使いやすさの中に、「道徳」教育を推進してきた者たちの意図を巧みに包み込んでいるからです。産経新聞や右翼勢力は、「日の丸・君が代」強制と同じやり方で特定地域をやり玉に挙げ、攻撃するよう文科省への働きかけを始めています。(「小中生向け道徳副教材、宝塚市など配らず 文科省、全国調査に乗り出す」−−「日本の伝統文化の大切さや国を愛する心の育成についても記述があり、中学生向けのノートには『私たちが暮らすこの国を愛し、その発展を願う気持ちは、ごく自然なこと』とし、日本のよさを自由に書き込ませる欄も設けている。・・しかし、・・学校によっては生徒に配布されずに放置されている−との指摘もある。文科省では・・全国調査の結果を踏まえ、指導に乗り出す方針だ。」産経新聞 8月7日付)
 「心のノート」の配布や使用を強制する根拠は、どこにもありません。国会でも、町村文科相(当時)は次のように答弁しています。「道徳は国語とか算数等のような教科ではございません。・・この『心のノート』はそういう意味で教科書ではございません。したがって、その使用を強制するという性格ではないと私は思っております。」(2001年3月22日 第151国会文教科学委員会のおける本岡昭次氏の質問に対する答弁)また、昨年末、文科省は「心のノート」試作本を全国の教育委員会に送付し、「心のノート」の使用実践を含めたモニタリングを行っています。その際、学校現場や教育委員会などから、「子どもたちの内心に入り込む」など多くの批判があげられていました。そうです。文科省は、全国配布と使用を強制する根拠の希薄さと試作本に対する批判の実在の中で、恐る恐る「心のノート」を配布したのです。「教材」として使用するかどうかは、学校や現場教員の判断の問題です。しかし、批判が弱ければ、産経新聞のような右翼勢力によるかさにかかった攻撃と文科省による上からの強制を許すことになります。
 批判は、今からでも遅くありません。今ならまだ間に合います。配布・使用しない地域や学校への不当な攻撃に反対し、「心のノート」の内容に対する批判を呼びかけていきましょう。


【2】国家が一律の道徳教育を強制し「心を支配する」のは戦後始めての事態。戦前の修身教科書の復活。


小学校中学年用の心のノート1ページ/国定「修身」教科書と同じ内容と挿絵
(1)「心のノート」は国定教科書の復活
 4月当初の、単なる副読本として一方的に配布された時点と、それが上からの点検と報告、強制と義務化を伴って襲いかかってきた今現在とは、その性格が全く違っています。まず「配布・活用状況の調査」を行い、「活用状況の悪い」教育委員会・校長を攻撃する。卒業式・入学式に「日の丸・君が代」を強制したのと、同じやり方で。ここまでやれば、ほとんどの教育委員会や校長は「上からの指示に従って」あたふたと動き始めざるを得なくなります。文科省や右翼からの攻撃を避けるために、教育委員会と校長は、何が何でも文科省の指示通りに動くよう教員に強制しようとします。このような最悪のシナリオが単なる杞憂にとどまらないのが、「上からの押しつけ」が全面化しつつある現在の学校現場の実態です。
 すべての子どもたちに、国家が作成した一律の教科書を義務づけることは、争う余地なく「国定教科書」の復活に他なりません。内容も教材も指定した形で、「道徳」教育を上から強制するのは戦後始めてのことです。「心のノート」の内容に基づく「道徳」教育の強制が、政府・文科省の攻撃の次の新しい中心点です。「第二の日の丸・君が代攻撃」「第二の教科書攻撃」として対応しなければなりません。

(2)「心のノート」は国家に忠実な「日本人」を作る

「心のノート」とよく似た挿絵と話/国定第3期修身 巻の一
 「心のノート」は、自由や権利の主張や行使を自ら抑制し、「がまん」して「義務」を果たす「国民」になるように教え込みます。子どもにはどのような権利があり、権利行使がいかに大切であるかに全く触れることなく、「自由は自分勝手と違う」(5・6年用)や、「社会の秩序や規律を高めるために」「権利の正しい主張」=「義務を果たすこと」(中学生用)を教え込もうとしています。押しつけがましい「徳目」の反復と、「はい」と素直に答えられない自分への「反省」の促し。空欄に「あなたの気持ち」の記入を強要し、個人の内心に土足で踏み込んでいきます。しかしその手法は巧みで、最初「自分らしく心を育てかがやかせよう」の呼びかけで始まる内容が、「集団のため」と言う言葉に置き換わり、いつの間にか「社会の役に立とうとする心」につながっていきます。中学生用では「社会生活の秩序と規律」という言葉が繰り返され、最終的には現在の国家への忠誠と服従を求めていきます。
 「いま、しっかりと日本を知り、優れた伝統や文化に対する認識を新たにしよう。この国のすばらしさが見え、そのよさを受け継いでいこうとするとき、国際社会の一員として、地球人の一人として、日本を愛することが、狭くて排他的な自国讃美であってはならない。この国を愛することが、世界を愛することにつながっていく。」(中学生用)これが、9年間の義務教育の締めくくりの部分です。最後は、やはり露骨な「愛国心」の強要です。

(3)「心のノート」は差別・選別教育徹底のための道具
 新指導要領の下敷きになった教育課程審議会の98年答申。その最高責任者であった三浦朱門・同審議会会長(当時)は、斉藤貴男氏の取材に対して以下のように答えています。「学力低下は・・・覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。・・・100人に1人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(「機会不平等」斉藤貴男著・文芸春秋社)また、経済界は「雇用ポートフォリオ」なる人材分類に基づく雇用戦略を呼びかけ、従業員を3通り(@長期蓄積能力活用型、A高度専門能力活用型、B雇用柔軟型)に分けることを提言しています。(「新時代の『日本的経営』」日経連・1995年)雇用柔軟型従業員とは、決められたマニュアル通りに動く大部分の従業員を指すのだそうです。文科省の基本政策に大きな影響力を持つ「ブレイン」たちは、新しい教育政策の基本的発想が「2本柱」であることを露骨に明らかにしているのです。一方で「できる者」への徹底的な能力主義格差別教育・超エリート教育、他方で「出来ない者」への「道徳」=修身教育、批判精神を一切持ってはならない国家に忠実な「公民」=権利のないただ義務だけを強いられた奴隷的存在になるための教育。
 「心のノート」は、この三浦朱門氏を会長とする教育課程審議会の答申に基づく新指導要領の「道徳」を、そっくりそのまま子どもたちに押しつけようとするものです。


【3】「心のノート」はじわじわと子どもたちを絡め取る−−−恐いのは慣らされてしまうこと

(1)「心のノート」=国定「修身」復活ということの本当の意味

国定第4期修身教科書 巻の三 の「もくろく」/心のノート「徳目」と酷似
 各ページに大書されている「徳目」は、「建国神話」や天皇への忠義の項を除けば、戦前の国定3期・4期「修身」とほとんど同じ内容です。その「徳目」を漫画、イラスト、写真等を使って、現代の子どもたちのイメージにあうように再構成しています。一方で、古めかしい挿絵や訓話も登場します。戦前の教育を受けてきた世代が、「修身」でたたき込まれた「徳目」を子どもたちに直接語りやすいようにするためです。国定教科書世代にはそれとわかるように、巧妙に編集されているといいます。しかし、単に「修身に酷似」では、今の教員にも、保護者にも、何が危険なのか極めてわかりにくいのです。ここがもっとも「心のノート」の巧妙なところです。「きまりを守ろう」や「思いやりを大切に」がなぜいけないのか。−−−「少国民」に仕立て上げられた世代にしか、「徳目」の羅列と押しつけの積み上げの本当の怖さはわからないのかもしれません。
 「思いやり」「感謝」「公正・公平」「命の尊さ」など一般的な「徳目」を並べ立てることによって消し去られているのは、障害者差別、性差別、民族差別、部落差別や環境破壊、貧困、戦争などの現実の諸矛盾です。これらの問題は、すべて抽象的な個人の心の問題に解消されています。一方で「自分で考え、判断し、実行する」人間になることを勧めながら、社会矛盾に目を向け、社会や国家に対する批判的精神を育てることを学校から排除することを狙っています。これまで「道徳」の時間等を使って現場の教員たちが取り組んできた課題こそ、子どもの発達段階に応じて具体的な社会の現実に向き合い、ともに考え、矛盾の原因とその解決の方向について自ら答えを見いだし行動していく主体的な人間に育成ではなかったでしょうか。「差別はいけない」も「命の尊さ」も、差別する現実、命を粗末にする現実に学ぶことからしか、「自分の頭で考える」ことはできないはずです。戦後の民主教育は、憲法と教育基本法に基づきながら、現実にただ慣らされることを否定し、創造的主体的に答えを見いだそうと挑戦する子どもたちを育成しようと模索してきたはずです。「心のノート」は、このような実践を根底から破壊しようしているのです。その意味でこそ、「心のノート」と文科省が推進しようとしている「道徳」教育は、考えさせず教え込んだ「修身」教育そのものなのです。

国定第5期修身教科書/全員が同じ姿勢で教師に正対して着席

(2)「心のノート」批判抜きの部分利用は「教育勅語にもいいところはあった」につながる
 たしかに「自分らしさを発揮しよう」、「自由を大切に」、「命の尊さを感じて」や「法やきまりを大切に」など、一つ一つの項目だけを取り出した時、さしあたり何も問題は生じないのかもしれません。しかし、前記のように「心のノート」にも戦前の「修身」教科書にも全体を貫く「道徳観」があり、意図があります。全体を貫く思想や道徳観を問題にしなければなりません。

「心のノート」小学校低学年用/教師に正対して、みんないっしょ
 たとえば、第5期の国定「修身」教科書は、それまでの「修身」から教え込みの徳目主義を廃して、教科書の物語から自発的に教訓を引き出していく形に変わっています。この点に関して、作家の入江曜子さんは、岩波新書「日本が『神の国』だった時代」で次のように語っています。「いわば『一旦緩急アレバ義勇公に奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ』以外の徳目を必要としなかったために徳目主義を廃したともいえる。」と述べています。徹底した国家統制と弾圧の中で「思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期を過ごし」、「横並びの価値観の中に自己を埋没させる快感−−判断停止のラクさを知ってしまった」(同上書)子どもたちが、いかに巧妙に「皇国のために死ぬ」ことを唯一最高の価値観として押しつけられていったのかを問題にしないで、今また国家が押しつけようとしている「道徳」教科書を配布・使用することは危険です。「天皇を中心とする『神の国』」と発言した森前首相は、一貫して「教育勅語の『いいところ』を活かせ」と語ってきました。「心のノート」を推進したのは、森内閣であり小泉内閣です。「使えるところは使おう」は、極めて危険な発想ではないでしょうか。

(3)「善意」を装った人権否定の積み重ねから子どもたちを守るために

中学校用「心のノート」の1ページ/国定修身教科書と区別がつかない
 教科書は毎年新しくなるのに、「心のノート」はずっと一緒。しかも全国どこでも同じ教科書。特別のもの。一方、音楽・国語等−−「つくる会」批判で社会科に目がいっているが−−全教科を通じて、同じ価値観への統一が始まっています。子どもたちは全員、教師に正対して一列に着席。めがねをかけた子どもはほとんどいない。障害を持つ子どもは登場しない。国家の「役に立つ」人間の戦前の国定教科書イメージ。人を見下した「思いやりの心」。「善意」を装った人権否定の積み重ねから生み出される「家族愛」「友情」「奉仕」「愛国心」=他を他民族を他国を見下す国家的民族的「優越感」・・・。「よい子ども」の根元にある差別的なイメージを、自分の見つけた正義の「答え」であるかのように思いこませ、じわじわと子どもたちに植え付けていく過ちを二度と許すわけにはいかないのです。
 文科省は今の中学生や小学校高学年の生徒が「心のノート」で洗脳できるなどと単純には考えていません。小学校低学年の子どもたちが少し食いついてくれれば御の字で、数年先の小学校新入生からが本当のねらい目なのです。−−−教員がこのノート徹底して批判できないままに、「ならされて」あるいは「批判さえ許されない徹底統制が早いか」されてしまう状況で、この教員も保護者も子どもたちもこの「ノート」に慣らされてしまった後が恐ろしいのです。
 「心のノート」に対する「部分批判」も「部分利用」も文科省の想定内のことです。現に、文科省はそれでいいと言っています。教育現場に「心のノート」を文科省に突き返すほどの力が存在しないとしても、「心のノート」と「修身」、戦後の解放・平和・人権教育の教材を並べて検討批判することはできます。その成果を子どもたちに提示することができます。その準備過程で「心のノート」に対する批判も、第3・4期修身教科書の巧妙さに対する批判も確固たる内容の深さを獲得できるのではないでしょうか。


【4】教員への管理統制強化や「奉仕活動」の義務化と一体となった修身教育。息苦しい、物言えぬ学校作り。

(1)教職員をがんじがらめの統制下に置く物言えぬ学校づくり
 新しい「教員評価制度」(校長が教員の「目標」達成度や授業内容を評価し、将来的に給与や人事に反映させるシステム。「目標」決定や評価の権限は校長が握る。)、「指導力不足等教員」(校長・教委が「指導力不足」と一方的に「認定」した教員を「研修所送り」、他職種への配置換え、免職などによって学校から排除する制度。)、「研修権の剥奪」(勤務場所を離れて行う研修の計画書・報告書の義務づけと「校長承認」権の濫用による自主研修の排除、官製研修の押しつけ。)、「職務命令と処分」(「日の丸・君が代」強制における不起立のみを理由とした処分など。)、「週案の提出」(1週間毎の授業内容の校長への提出を強要し、授業内容まで校長が細かく管理し強制する。)など教員の行動全体を校長の全面的な支配の下に置き、10年前には考えられなかったような全般的な管理統制強化が、一挙に現場の教員に重くのし掛かっています。子どもたちに真実を語り、伝えることを「計画」「命令」「評価」という暴力によって「制限」し、それでも真実を語ろうとする者に「危ない人」というレッテルを貼り付ける。さらに抵抗する者は「処罰」し、やがてどんな卑劣な手を使ってでも「排除」する。まさに物言えぬ学校づくりです。

(2)「奉仕活動」の具体化を答申した中教審−−義務化と強制こそが目的
 中教審は、7月29日、「奉仕活動」を強制し義務化する答申を文科省に提出しました。答申は、「教育活動に位置づけて実施する必要がある」として、授業や課外活動の中に取り込んで実施することを提言しています。その上で、文科省が実施状況を地域や学校毎に全国調査して、その調査結果を公開することまで提案しています。(「日の丸・君が代」や「心のノート」の全国調査と同じ強制の手法です。)また、高校では「奉仕活動」を単位として認め、高校や大学入試でも「奉仕活動」を積極評価するとして、子どもたちにも「内申書」や入試への反映を通じて「自ら」参加せざるをえないように強制しています。「強制ではないか」と危惧する意見に対して、まず「自発性よりも活動の広がりを優先する」(既成事実化)と開き直る強硬姿勢で、制度としての導入を急いでいます。文科省は、答申通りに実施する方向を明らかにしています。
 答申は18歳以上の青年に対する実施も提案し、大学での正規科目化や休学制度、公務員には「研修」名目で強制する制度、企業には「採用」で優遇する制度などで強制することを呼びかけています。(大学生、企業や行政の新人職員の教育や小中高校の「総合学習」や「奉仕活動」の受け入れをもっとも熱心にアピールしているのは、自衛隊です。)
 「奉仕活動」の目的は、強制にこそあります。「新しい歴史教科書をつくる会」や「新しい教育基本法を求める会」を主導してきた西尾幹二氏は、「『国民すべてに適用する』という義務制であることが決定的に新しく重要な要素なのであって、もしこれを志望制に・・するという方向にトーンダウンするするのだとしたら、提案の本来の趣旨はまったく活かされない」と、「義務化」(強制)以外は意味をなさないと強調しています。(「すべての18歳に『奉仕義務』を」西尾幹二編著・小学館文庫)「奉仕」の目的が、「国家への忠誠」を一人ひとりに強制する「道徳」教育のためのものだからです。最初に「奉仕義務」を提言した曾野綾子氏は、「日本人へ」(同上書所収)の「奉仕の志」の項で、以下のように呼びかけています。「誰があなたに炊きたてのご飯を食べられるようにしてくれたか。誰があなた達に冷えたビールを飲める体制を作ってくれたか。そして何よりも、誰が安らかな眠りや、週末の旅行を可能なものにしてくれたか。私たちは誰もが、そのことに感謝を忘れないことだ。」すなわち、「国家への感謝」を行動で示すことが「奉仕」であって、国民全体に教え込まれるべき「道徳」に他ならないからです。

(3)「物言えぬ学校づくり」、「奉仕義務」、「新修身教育の復活」−−−教育基本法の否定
 同時並行的に教育基本法そのものの改悪が、一挙に進められようとしています。7月29日に開かれた第23回中教審総会は、「委員から『いつも初回のようだ』『同じ議論の繰り返し』という声が出るくらいだ」(8月14日朝日新聞社説)という状況にもかかわらず、教育基本法の前文と全条文の「見直しの視点」を示した「教育基本法の関する委員の意見の概要」(基本問題部会・鳥居部会長のまとめ)を提出し、秋にも教育基本法改悪の中間報告を行うこと、年内に答申を提出することを確認しました。鳥居部会長は、「憲法を変えない限り基本法は変えないと言う考え方はとらない」(第9回基本問題部会まとめ)として、憲法を否定する「新教育基本法」にも躊躇しない姿勢であることを明らかにしています。
 「物言えぬ学校づくり」、「奉仕義務」、「新修身教育の復活」の3つが一挙に進行すれば、実際上教育基本法は否定され掘り崩されていきます。当たり障りがなさそうで、「間違っている」と言いにくい「徳目」や「義務」の羅列と行動強制の中で、「はい」と答えられるように「自分の頭で」考えさせ、子どもたちと教員を徐々に上記の結論に行き着くようにし向ける考え抜かれた巧みな強制と誘導。反対する教員は、排除するか黙らせる。文部科学省や教育基本法の改悪を狙う勢力は、「心のノート」や「奉仕義務」が子どもたちに「愛国心」と国家への忠誠を浸透させる強力な武器として機能する万全の体制を敷こうとしているのです。「心のノート」の展開を受け入れることは、「奉仕義務」や「日の丸・君が代」、「愛国心」や「滅私奉公」、「教育基本法改悪」や「憲法改悪」を空気のように受け入れる第一歩に他なりません。


【5】文科省の「心の教育」強制は、右翼の活性化と学校教育への介入を促す
   −−「日の丸・君が代」、教組・教員攻撃の次は「道徳」教育の強制


(1)右翼の活性化と学校への介入方針
 「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」などの右翼勢力は、文科省が率先して新修身教育の復活、「奉仕活動」義務化、教員統制の全面化や教育基本法改悪など教育の全面的な反動化と軍国主義化の流れを作り出そうとする下で、その活動をこれまで以上に活性化させる方針を打ち出しています。
 「つくる会」は、分裂したとはいえ、3年後の教科書採択に向けて対文科省方針(教科書採択制度のさらなる改悪)、対教委方針(首長プラス3人の教育委員を味方につける戦略)、特定地域での「局地戦」方針(東京・国立、広島・廿日市、神奈川・鎌倉、千葉・船橋、愛媛など「局地戦を本部が全力をあげて取り組む」)と「統一行動」方針(「必要に応じて多くの会員や支持者が特定の時間と場所を決めて結集する『統一行動』。反対派の『人間の鎖』を『日本人の鎖』で包囲する集団的行動。・・サラリーマンなら年休を取るという覚悟を求めたい。」)など昨年の教科書採択における介入を上回る介入方針を確認しています。(7月13日「新しい歴史教科書をつくる会第5回定期総会)
 また、日本会議大阪は、6月23日の「教育シンポジューム」(日本会議大阪主催)の中で、「公正・中立でない教育には、私たちが監視の目を光らせ、現場に足を運んでひとつひとつ、ただしていかなければならない」と呼びかけました。以下の茨木市立小学校に行ったような学校や授業内容への介入を大阪府下の各地で行おうと呼びかけたものです。(※今年6月、茨木市のある小学校に対して、地域住民をかたる右翼が「君が代を教える音楽授業」の参観を要求しました。彼らは、まず学年毎の年間学習指導計画の公開を請求し、「君が代」授業の計画されている時期をねらって「授業参観」を要求。当該校の校長はこの介入を拒否しましたが、すぐさま、産経新聞を使ってこの校長を非難。昨年、堺市でも、「大阪の教育を正す府民の会」=日本会議などと繋がる右翼団体が小学校の授業で「君が代」が歌えるように教えられているかどうかの保護者向けアンケート。授業で「君が代」を教えられたかどうかだけではなく、担任や音楽教員の名前まで記載を求める。)地域住民を名乗る「草の根」右翼による組織的な学校教育への介入と監視、議員による教委への圧力、産経新聞を使った「批判」と宣伝。これは国立や広島でも、民主的教育を破壊してきた彼らのいつものやり口ですが、それをより拡大しようとしています。

(2)文科省による全国調査とその公表は、右翼による「特定地域」攻撃を促す
 儀礼・家族の重視、社会の秩序と規律の維持、伝統の尊重と愛国心などをしっかり組み込む「心のノート」は、道徳教育の推進を訴える日本会議や「つくる会」、そして教育基本法改悪を目指す「新しい教育基本法を求める会」などの提言に沿った内容です。
 文科省は、各都道府県教委への通知の中で道徳教育の全体計画の作成と教職員への共通理解、各教科と道徳との関連の明確化を「指示」するのとあわせて、前述のように実施状況の調査報告とその公表を明らかにしています。文科省は、この調査指示によって、「実施状況の悪い」学校や地域への攻撃や介入を右翼勢力が行うことを百も承知です。文科省と日本会議等は、手段を選ばず「心のノート」を学校教育全体へ浸透させ、現場レベルでの教育基本法改悪の実質化をねらっているのです。


【6】右翼的な知事や市長が先頭に立って新修身教育をはじめた
     −−東京都「心の東京革命」、京都市「道徳教育1万人アンケート」

(1)京都市「道徳教育1万人アンケート」
 今年6月、京都市道徳教育振興市民会議(座長:小寺 正一 事務局:京都市教育委員会学校指導課内)が、「道徳教育1万人市民アンケート」を小学校5年生以上の子どもと大人に対して行うという依頼文を市立学校長及びPTA会長に送りつけました。
 子どもたちに対して、
●あなたは、近所の人にあいさつすることについて、どう思いますか。
●あなたは、人に親切にされた時、感謝の言葉を言うことについて、どう思いますか。
●あなたは、学校や社会のルールを守ることについて、どう思いますか。
●あなたは、自分の国を愛することについて、どう思いますか。
 保護者に対して、
●あなたは、子どもに髪の毛を染めさせないようにしていますか。
●あなたは、子どもに喫煙させないようにしていますか。
などの質問項目に答えさせる内容です。
 この「1万人アンケート」に抗議して、林功三・京都大名誉教授ら「心の教育はいらない市民会議」が、京都市教委に申し入れを行っています。その際に市教委担当者は、以下のようなとんでもない回答を行いました。「河合隼雄先生の言う『カタくはないが決しておれない』道徳教育のために、押しつけ、自発双方の良さを引き出す『しなやかな』道徳教育が必要だ。」「個人の価値観が多様化した結果、子どもたちは何をやってもいいと思っているようだ。最近は教師が『A』と教えても『B』という子が多い。それは親や周囲の大人が過『B』と教えているからだ。私たちは『A』と教えたら、『A』という子がいいと思う。それには、道徳の大切さを学校だけでなく、広く市民にも考えてもらう必要がある。」子どもには、「『A』という『徳目』には『A』と答えよ」、保護者には「『A』と答えるように子どもを躾よ」と押しつけています。

(2)東京都「心の東京革命」
 一方、石原都知事の下で、「指導力不足等教員」「人事考課制度」「主幹制度」など教員統制の徹底と、「道徳教育」の徹底や「つくる会」教科書の支持をはかっている東京都では、「『心の東京革命』教育推進プラン」を策定し、学校だけではなく一般家庭にも徹底する「道徳」教育の強化を行おうとしています。「心の東京革命」の実施に際して、石原都知事は「いま魂の教育」(光文社2001年3月)を出版し、若い保護者に子どもへの「徳目」の徹底を迫っています。内容はこうです。第1章「目に見えぬ力を敬う心を育てよう」、第2章「自然を畏れる心を育てよう」、第3章「他人を愛する心を育てよう」、第4章「自分を尊ぶ心を育てよう」、第5章「創造を喜ぶ心を育てよう」と「国を愛する」を露骨に言わない点を除いて「心のノート」の展開とほとんど同じです。
 なぜ、ここまで共通するのかは明らかです。「心の教育」が、「日本人はたった一度だけ戦争に負け、原爆を落とされた方なのに・・・加害者のようなバカげた碑を建て・・土下座し、国の防衛から子弟の教育まで占領者に任せてしまった。・・忠義とか孝行というものが、人間にとって時代をいくら経ても変わらない美徳である。」(同上書第1章)などと考える侵略戦争賛美派による修身教育=教育勅語の価値観復活要求の共通スローガンだからです。


【7】「心のノート」は小泉政権による全般的な軍国主義化・反動化の一環

(1)教育現場で「戦争国家」体制づくり
 「心のノート」の強制と現在審議中の有事法制が結びつけばたいへんなことになります。政府・与党が臨時国会・通常国会に向けて準備するとしている「国民保護法」では、「民間防衛組織」=「隣組」の復活と「有事」発動前訓練・演習の既成事実化などを進めようとしています。これらと「奉仕活動」の義務化、「心のノート」強制を介した子どもたちと保護者への修身教育の強制が絡み合えば、いったいどうなるのでしょう。「日本を愛すること」「ルールに従うこと」という価値観を無批判に受け入れることを強制された未来の青年や大人たちは「国会で決められた」法律に逆らってまで、戦争に反対したり、「自分勝手に協力を拒否する」行動はできないばかりか、新たに法制化された「民間防衛組織」への「奉仕」義務に逆らうことができません。地域や学校を拠点に、子どもたち・教員・保護者を動員した軍事演習が、学校教育や社会教育を口実に義務化されることも単なる「不安」にとどまらなくなってきます。「戦争国家」作りが、教育現場ではこのように準備されていくことになります。

(2)教育反動攻撃は小泉軍国主義化政策の重要な一環
 小泉政権の下で一斉に軍国主義法案、反動法案が出てきたのは偶然ではありません。自民党・教育改革実施本部(本部長:森山真弓元文相・当時)の教育基本法研究グループ(主査河村建夫衆院議員)が最近になって教育基本法の本格的な見直し着手を決定したのは、1999年8月です。「周辺事態法」、「国旗・国歌法」、「盗聴法」等の反動法案を矢継ぎ早に成立させた、あの第145国会の渦中でした。自民党は、「平成の教育勅語を念頭に議論する」(河村議員)として、「国を愛する心、日本の歴史・伝統の尊重、国民としての義務、道徳心」を「新しい教育基本法」に盛り込むことを要求しています。有事3法案のひとつである「武力攻撃事態法案」には、次のような条文があります。「第4条 国は、・・・・組織及び機能のすべてを挙げて、武力攻撃事態に対処するとともに、国全体として万全の措置が講じられるようにする責務を有する。」「第8条 国民は、国及び国民の安全を確保することの重要性にかんがみ、指定行政機関、地方公共団体または指定公共機関が対処措置を実施する際は、必要な努力をするよう努めるものとする。」小泉政権は、軍国主義化を周辺事態法から「テロ対策特措法」、「有事法制」へ拡大し、一方でマスコミ規制法、住基ネット法など市民への統制・監視体制を一挙に強化する体制を整えようとしています。教育の軍国主義化・反動化は、このような流れの一環に他なりません。


【8】幅広い保護者・市民と教職員運動の連帯で新修身教育の復活にSTOPを!

 「心のノート」強制問題は、単に教職員運動の課題にとどまりません。「日の丸・君が代」強制、「つくる会」教科書問題等と同様にこの国の未来を左右する教育問題であり政治問題です。保護者や市民の方々の協力を得なければならない大問題です。一方、教職員は全般的ながんじがらめの教職員統制の中で呻吟しています。「物言わぬ教員」が増加するだけではなく、これまで発言し続けてきた教員が「物言えぬ」状態に追い込まれようとしています。
 教職員は隠然公然と行われる強制に対して、その内容と強制性及び強制がもたらす結果について、学校の外に向かって発信していかなければなりません。抵抗や批判が弱ければ、彼らの意図が貫徹していくのは明らかです。様々な地域や教育現場で「心のノート」の内容批判を行い、その危険性を広げていくことが今重要です。昨年の「つくる会」教科書不採択運動は、市民運動と現場教職員の運動の力が結びついて大きな力とエネルギーが爆発しました。政府・文科省や右翼がもっとも恐れているのが、この市民運動のエネルギーです。だからこそ政府は、教育基本法改悪を密室で行い内容を全面的に公表せず、「心のノート」や「奉仕活動」を強制と明言せずに文科省−教委−校長という上下組織を使って水面下で強制していきます。
 幅広い保護者・市民と教職員運動の連帯を!連帯した市民の力で新修身教育の流れにストップをかけましょう。



資料1
京都の「道徳教育1万人アンケート」と東京の「『心の東京革命』教育推進プラン」

(1)今年6月、京都市道徳教育振興市民会議(座長:小寺 正一 事務局:京都市教育委員会学校指導課内)が、「道徳教育1万人市民アンケート」を小学校5年生以上の子どもと大人に対して行うという依頼文を市立学校長及びPTA会長に送りつけました。その内容の一部は以下です。子どもに対しては、「かならずそうするべきだと思う」「そうするべきだと思う」「あまりそうしなくてもよいと思う」「まったくそうしなくてもよいと思う」のうち最もよくあてはまるものをひとつ選び、大人に対しては「いつもそうしている」「どちらかと言えばそうしている」「どちらかと言えばそうしていない」「まったくしていない」の4つから選べというものです。
(子ども用)
●あなたは、近所の人にあいさつすることについて、どう思いますか。
●あなたは、人に親切にされた時、感謝の言葉を言うことについて、どう思いますか。
●あなたは、学校や社会のルールを守ることについて、どう思いますか。
●あなたは、自分の国を愛することについて、どう思いますか。
●あなたは、傷ついて飛べない小鳥の命を助けることについて、どう思いますか。
●あなたは、自分の夢を実現するために努力や辛抱をすることについて、どう思いますか。
●あなたは、地域の行事や会合に参加することについて、どう思いますか。
●あなたは、伝統行事などに参加することについて、どう思いますか。
●あなたは、ボランティア活動に積極的に参加することについて、どう思いますか。
●あなたは、先祖のお墓参りをすることについて、どう思いますか。
●あなたは、家族と過ごす時間を大切にすることについて、どう思いますか。
(大人用)
●あなたは、子どもに髪の毛を染めさせないようにしていますか。
●あなたは、子どもに喫煙させないようにしていますか。
●あなたは、子どもに家事の役割分担(お手伝い)をさせていますか。
●あなたは、子どもに自然と触れ合う体験の機会を与えていますか。
●あなたは、日常の親子の会話を、積極的にするようにしていますか。
●あなたのご家庭では、子育てに関して父親も積極的に役割を果たしていますか。

 この「1万人アンケート」に抗議して、林功三・京都大名誉教授ら「心の教育はいらない市民会議」が、京都市教委に申し入れを行っています。その際に市教委担当者は、「河合隼雄先生の言う『カタくはないが決しておれない』道徳教育のために、押しつけ、自発双方の良さを引き出す『しなやかな』道徳教育が必要だ。」、「個人の価値観が多様化した結果、子どもたちは何をやってもいいと思っているようだ。最近は教師が『A』と教えても『B』という子が多い。それは親や周囲の大人が過『B』と教えているからだ。私たちは『A』と教えたら、『A』という子がいいと思う。それには、道徳の大切さを学校だけでなく、広く市民にも考えてもらう必要がある。」等で、「必ずそうしようと思う」と答えるように「徳目」を子どもたちに押しつけようとしているです。

(2)一方、石原都知事の下で、「指導力不足等教員」「人事考課制度」「主幹制度」など教員統制の徹底と、「道徳教育」の徹底や「つくる会」教科書の支持をはかっている東京都では、「『心の東京革命』教育推進プラン」を策定し、学校だけではなく一般家庭にも徹底する「道徳」教育の強化を行おうとしています。その中で、「心の東京革命キャンペーン」の標語として、「毎日きちんとあいさつをさせよう」、「子どもに手伝いをさせよう」、「体験の中で子どもをきたえよう」などの7つをあげ、「トライ&チャレンジふれあい月間」「トライ&チャレンジキャンペーン」「とうきょう親子ふれあいキャンペーン」「若い親の学習講座」の実施」「まちの子育成事業」「青少年教育国際シンポジウム」「教育の日(仮称)の設定」という耳に心地よく親や子どもたちに受け入れやすい施策を通じて、「道徳教育」の徹底、「道徳授業地区公開講座」(都内全公立小・中学校で都民が授業を参観し、「心の教育」についてともに話し合う道徳授業地区公開講座)の実施、「世界の中の日本人としてのアイデンティティ教育」(国際社会で自らの考え方等を積極的に主張できる人材の育成を図るため、我が国の文化・伝統に誇りを育む教育、国際理解・国際協調を基盤としてビジネスに関する教育や外国語教育など国際社会に生きる人材を育成する教育)の実施、「トライ&チャレンジキャンペーン」(都内の小・中学生を中心に、職場体験や奉仕活動、地域活動などの様々な体験活動)の実施等先行させています。
 「心の東京革命」の実施に際して、石原都知事は「いま魂の教育」(光文社2001年3月)を出版し、若い保護者に子どもへの「徳目」の徹底を迫っています。内容はこうです。第1章「目に見えぬ力を敬う心を育てよう」、第2章「自然を畏れる心を育てよう」、第3章「他人を愛する心を育てよう」、第4章「自分を尊ぶ心を育てよう」、第5章「創造を喜ぶ心を育てよう」と「国を愛する」を露骨に言わない点を除いて「心のノート」の展開とよく似ています。受け入れやすいのです。しかし、第1章では、「時代を超えて変わらぬ価値があることを教えよう」の項で、「日本人はたった一度だけ戦争に負け、原爆を落とされた方なのに・・・加害者のようなバカげた碑を建て・・土下座し、国の防衛から子弟の教育まで占領者に任せてしまった。・・忠義とか孝行というものが、人間にとって時代をいくら経ても変わらない美徳である。」と忠義・孝行を美徳とすることを第一に挙げているのです。


資料2
「心のノート」=「道徳」教育の強制は、「教育勅語」復活を望む勢力の念願

 なぜ、文科省は「心のノート」に基づく「道徳」を学校に押しつけようとしているのでしょうか。「心のノート」の内容に入る前に、戦後においてどのような目的で「道徳」が学校教育に持ち込まれたのかを検討しておく必要があります。

(1)再軍備・日米安保条約と「愛国心教育」
 1957年7月、当時の松永文相は「道徳教科特設」の意向を示し、教育課程審議会の答申を受けて、翌58年、小中学校に「道徳の時間」の特設が強行されました。その背景には、日本の再軍備と日米安保体制の確立に向けた政治の大きな動きが絡んでいます。49年の中華人民共和国成立、50年の朝鮮戦争を国際的な背景とし、同年の警察予備隊創設を起点とする再軍備開始、51年のサンフランシスコ講話と日米安保条約締結へと向かいつつある過程で、吉田茂首相(当時)は「愛国心」の再興を文教政策の筆頭に掲げました(50年10月)。また同年、天野文相(当時)が「『文化の日』その他国民の祝日の学校行事において『国旗』を掲揚し、『国歌』を斉唱する」ことを促す「大臣談話」(10月)を発表し、教育勅語に代わる道徳規準の制定と戦前の「修身科」に代わる新たな道徳教科の検討を示唆する道徳教育振興発言(11月、全国都道府県教育長会議)を行います。これらを受けて文部省は、「道徳教育振興方策」と「道徳教育手引き書要綱」(51年)を作成し、教育勅語に代わる道徳規準としての「国民実践要領」制定に乗り出そうとします。「国民実践要領」は、激しい反対世論の前に白紙撤回を余儀なくされましたが(51年11月)、天野文相は後にこれを一私人として公表しています。「愛国心教育」を目的とした「道徳」教育設定の政治的背景に関する証拠は、53年の池田・ロバートソン会談における申し合わせについての新聞報道で明らかとなります。「日本政府は、教育及び広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を持つものである。」(朝日新聞 53年10月25日)

(2)新安保条約と経済成長の中の「期待される人間像」
 1960年6月の新安保条約締結による日本を対アジア基地とする日米軍事同盟化と自衛隊の軍備拡大を背景に、防衛庁は文部省に「学校教育に関する要望」(62年4月)を提出します。内容は、「・・・青少年に正しい国民的自覚を促し、国の防衛について積極的関心を助長するような、教科内容の実現を強く要望する」と、露骨な「軍事教育」の要請です。また、経済成長期における国際競争力の拡大を求める財界の教育要求に応えて出された「後期中等教育の拡充について」の別記として答申された「期待される人間像」(1966年10月、中教審)に注目しておかなければなりません。「人間像」の起草担当主査は、高坂正顕東京学芸大学長(戦時中の言論報国会理事・戦後公職追放)。答申は、「第二部 日本人にとくに期待されるもの」で、@「個人として」、A「家庭人として」、B「社会人として」、C「国民として」の章を立て、それぞれに@「自由であること」、A「家庭を愛の場とすること」、B「仕事に打ち込むこと」(すべての職業は、国家・社会に寄与し、自己と自家の家計を営むものとしていずれも尊い。・・自己の素質・能力にふさわしい職業を選ぶべき・・)、C「正しい愛国心を持つこと」「象徴に敬愛の念を持つこと」「日本の歴史と伝統によって培われた国民性を伸ばすこと」等の徳目を並べています。しかし、これらの提言が強い世論の反発と日教組を中心とする民主主義と平和主義の教育実践の中で、その機能を果たさなかったことは言うまでもありません。

(3)中曽根「日本列島不沈空母」論と戦後政治の総決算−−「教育臨調」と「道徳教育」
 70年代末に始まる新たな教育への攻撃が始まります。いわゆる中曽根(82年首相就任)「教育臨調」です。日本教師会(管理職を中心に組織された右翼的教職員団体)による「教育基本法改正案」(79年)は、教育基本法前文に「祖国と伝統を尊ぶ国民の育成」、第1条に「祖国の伝統を尊重」を追加し、前文の「人間の育成」を「国民の育成」に変更することや、第1条教育の目的に「愛国心」を追加することを要求しています。翌80年には、神社庁や生長の家、日本青年協議会などが、「伝統の尊重」と「愛国心の育成」を教育基本法に盛り込むことを要求する岐阜県議会決議を採択させました。これらを契機に右翼勢力の大同団結が始まります。翌81年には、神社本庁、日本教師会、世界平和教授アカデミー、生長の家、日本文化財団、モラロジー研究所や皇學館大學の教授などが結集し、「教育基本法と教育勅語の精神を現代に活かす教育維新」を唱える「日本教育憲章」(9月)を発表し、同年10月、「日本を守る国民会議」(現在の「日本会議」の前身)が「@日本は日本人の手で守ろう、A教育を日本の伝統の上に打ち立てよう、B憲法問題を大胆に検討しよう」をスローガンに旗揚げします。財界もまた、「わが国安全保障に関する研究会報国」(日本経済調査協議会80年4月)なる報告を政府に提出し、「愛国心に立脚した国家への献身」「滅私奉公の心の形成」「物質の時代から精神と宗教を問題にする時代」を目指す教育の政策化を要望しています。教科書への全面攻撃もこのときに始まります。「憂うべき教科書の問題」(自民党調査局 80年11月)、「疑問だらけの中学教科書」(世界平和教授アカデミーを中心に編集 81年2月)などから、原書房「新編日本史」高校教科書へと繋がっていきます。これが、現在の「つくる会」扶桑社教科書や明成社版高校日本史教科書の端緒になったものです。
 臨教審とその「心の教育」提言の特徴であるもう一つの側面を見ておく必要があります。@「日本の歴史・文化・社会の個性」=「日本(人)のアイデンティティー」に注目し、「伝統文化を継承し、日本人としての自覚に立つ」という「教育目標」を掲げ、「日本の歴史・文化・社会の個性」誇りと思う若者を育て、「国際国家日本」に寄与させる。A外国に対しては、「国益」にかなう主張を自信を持って行わせ、内向きには「和の原理と中庸の理念」で、「個人の国家の関係」「労使関係、義務と責任の関係」などの「成熟した」態度をとり、「超越的なるものへの畏怖」で国民統合を行い、「国家の権威」を養護し、有事(戦争)になれば、「逆境」に耐える「日本人」を育成する。(「新国家主義批判」86年 森田俊夫著)−−−これは、「教育勅語」の思想をより巧妙に補強するものです。この「日本の歴史・文化・社会の個性」論に立つ「心の教育」を補強しているのは、梅原猛氏(国際日本文化研究センター初代所長・現顧問/京都市/設立1989年)ら京都に「日本研究所」の設立を政府に働きかけていた人たちです。梅原氏は、「文明論から見た日本の教育に関する12章」(「臨教審便り5号」85年2月)で、「日本の伝統文明」=「縄文の文化」と「弥生・律令国家の文化」(天皇制)を基にした「新しい心の教育」を提唱し、「広大な宇宙や神秘への畏敬、そこから生まれる生命(動植物を含む)を愛おしむ心、『和』の原理を基にした道徳を教えること」、「そういう心が必然的に、家庭への思いやりや国家を愛する心を育む」と主張しています。「つくる会」歴史教科書が、「縄文文化」を世界4大文明に並ぶ「縄文文明」として過大評価など、「日本文化のすばらしさ」を強調しようとした意図がよくわかります。

(4)周辺事態法・テロ特措法・有事法制と全面的な教育国家統制・教育基本法改悪
 有事3法案のひとつである「武力攻撃事態法案」には、次のような条文があります。「第4条 国は、・・・・組織及び機能のすべてを挙げて、武力攻撃事態に対処するとともに、国全体として万全の措置が講じられるようにする責務を有する。」「第8条 国民は、国及び国民の安全を確保することの重要性にかんがみ、指定行政機関、地方公共団体または指定公共機関が対処措置を実施する際は、必要な努力をするよう努めるものとする。」これと、扶桑社版「公民」教科書における「国防教育」論と「公」への忠誠の具体化要求は明らかに繋がっています。
 政府は、教科書や「日の丸・君が代」に続き、さらに道徳教育等を通じて教育の「内的事項」への介入を強化しようとしています。文科省は、「21世紀教育新生プラン」(2001年1月25日 町村文相・当時)に基づいて、「道徳」教育に関わって@教育の原点は家庭であることを自覚する(「家庭教育手帳」の配布や地域的社会的教育への国家的介入等)、A学校は道徳を教えることをためらわない(「心のノート」配布、「心の先生(道徳専門の教員配置)」等)、B奉仕活動を全員が行うようにする(全員への「奉仕」活動の義務づけ等)C問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない(「問題行動」を起こす子どもの出席停止等)を次々と実施に移しています。
 自民党・教育改革実施本部(本部長:森山真弓元文相・当時)の教育基本法研究グループ(主査河村建夫衆院議員)は、教育基本法の本格的な見直し着手を決定(1999.8)し、「平成の教育勅語を念頭に議論する」(河村議員)として、「国を愛する心、日本の歴史・伝統の尊重、国民としての義務、道徳心」を「新しい教育基本法」に盛り込むことを要求しています。また、「新しい教育基本法を求める会」(会長:西沢潤一 代表委員:石川忠雄、稲葉興作、石井公一郎、亀井正夫、川島廣守、坂本多加雄、西尾幹二、長谷川三千子、三浦朱門、渡部昇一ら 事務局長:高橋史郎)は、「新しい教育基本法を求める要望書」(2000年9月18日)を政府に提出し、@伝統の尊重と愛国心の育成A家庭教育の重視B宗教的情操の涵養と道徳教育の強化C国家と地域社会への奉仕D文明の危機に対処するための国際協力E教育における行政責任の明確化を要求しています。
 これらの主張と「心のノート」を重ね合わせたとき、一つ一つの項目が見事に繋がっていくことを確認せざるをえません。



『日の丸・君が代による人権侵害』市民オンブズパーソン」のHPからの転載です。関係資料がオンブズパーソンのHPに掲載されています。