「イラク・ピース・チーム(IPT)」現地リポート

現地リポート抄訳(3月21日〜4月15日)
IPTについて


巡航ミサイルの爆発で脊髄が傷ついた6才の少女
(IPTウェブサイトより)
 イラク現地にとどまってイラクの人々と生活をともにし続けながら、現地の状況をリポートしている「イラク・ピース・チーム(IPT)」という30人あまりのグループがあります。1996年から、対イラク経済制裁と米英の軍事行動の不当性を訴え、現地視察旅行を企画するなどの活動を行なってきた米英ジョイントキャンペーングループ「荒野の叫び(Voices in the Wilderness)」という団体が、その母体となっています。
 マスメディアの報道だけでは知ることのできない現地のリアルな状況を、特にイラクの人々の日常生活の状況も含めて伝えてくれています。すべてを翻訳していくことはできませんので、抄訳で紹介していきます。

2003年3月31日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




「イラク・ピース・チーム(IRAQ PEACE TEAM)」について (IPTウエブサイトより翻訳)
http://iraqpeaceteam.org/index.html

 イラク・ピース・チームのウエブサイトへようこそ

 2002年9月以来、ベテランの非暴力活動家たちがイラクの現地に滞在し続けていて、米国の対イラク攻撃を阻止しようとする米国と全世界の活動家たちと肩を並べて活動しています。「イラク・ピース・チーム」は、「荒野の叫び(Voices in the Wilderness)」のイニシァティヴによって開始されたのですが、次の目的と意図をもって、攻撃下のイラクにとどまります。

・私たちは、引き続く経済制裁も含めてイラクの人々にいかなる攻撃が向けられようとも、その下でイラクの人々とともに生活する。
・私たちは、現地での滞在と非暴力活動でもって、イラクの民間住民の状況を目撃し、理解し、暴露する。そしてまた、日々の生活に死活的に重要な、浄水施設などのような諸施設の重要性に焦点をあてる。
・私たちは、このウエブサイトを通じて、また、私たちを支援してくれるチームや耳を傾けてくれるあらゆる人々を通じて、イラクで私たちが経験したことをリポートする。

 「イラク・ピース・チーム(IPT)」は、「人間の楯」プロジェクトとは提携していません。私たちは、攻撃の下でもイラクにとどまるつもりではありますが、自分たちを「人間の楯」とは考えていません。IPTは、イラクのすべての人々・民族と連帯する立場に立っています。「荒野の叫び」は、IPTメンバーの目撃証言を叙述するに際して、軍事的な言語や思考を含ませることを拒否します。

 どうか、頻繁にチェックして下さい。そして、どんなやり方ででも、あなたにできるやり方で、かかわって下さい。引き続く米国の対イラク攻撃に「No!」をつきつけるためには、あなたの声が必要です。

[訳注:「荒野の叫び(Voices in the Wilderness)」は、イラクの人々に対する経済制裁と軍事的戦闘行為を終わらせるための米英ジョイントキャンペーン。1996年3月以来、「制裁」に公然と違反して60回以上の現地視察旅行を企画。米英の多くの人々にイラクの現実を直接目撃してもらおうと努めてきた。非暴力に徹し、すべての国のあらゆる大量破壊兵器に反対する。米政府は法律違反として懲役刑や罰金で脅しをかけ、2002年11月には、イラク視察旅行について実際に5万ドルの罰金を課してきた。現在、「イラク・ピース・チーム」の現地滞在を支えている。
 なお、a voice in the wilderness は、聖書の「荒れ野で叫ぶ者の声」を出典とし、一般成句として「世に入れられない改革家などの叫び」の意。]




現地リポート


占領日誌:4月11〜15日  キャシー・ブリーン
Occupation Diary : April 11-15  by Cathy Breen, IPT
2003.4.15

 2003.4.11(金)
 今、午前11時ごろです。私は、外のキャンバス画の上に座って、私に近づいてくる米海兵隊員と話をしたりして1時間ほどを過ごして、ちょうど戻ってきたところです。

 IPTの朝鮮人メンバーが、申し分なくすばらしい絵を描いた大きなキャンバスをもってきて、ホテルの外で米軍戦車のすぐそばに広げました。戦車の上には兵士が乗って座っています。その絵は、上部で世界を描き、あらゆる国の子どもたちが中央にかけて列をつくっています。大きな灰色の指がミサイルや爆弾の形をしていて、キャンバスの下の部分全体を占め、子どもたちがつかんでいるミサイルや爆弾とほとんど区別がつかないようになっています。

 水曜日に、私たちは、IPTとしての私たちの計画を議論するために集まりました。私たち9人は、米国主導の軍隊が到着しバグダッドが占領されたので、イラクを離れるべきときが来たと感じていました。事態の不確実性は、私たちにとって初めてのことではありませんでしたが、米国の占領と長期の内戦の可能性を考えると、私たちは大いに熟慮しなければなりませんでした。今や、私たちの声は、故国でこそよりいっそう効果的なのではないだろうか、と。さらに、一群のジャーナリストがその日にヨルダンのアンマンから到着したことで、私たちは、危険があるにもかかわらず道路が通行可能なのだということを知りました。アンマンへ行く車輛の料金は現在 2,000ドルです。私たちは料金がまだまだ急騰していくことを恐れました。

 私たちが散会するかしないかというときに、私たちのチームのカナダ人の一人ロバートが駆け込んできてこう言いました。近くのジュメリア橋が無防備状態になって、人々が橋を渡り、私たちのところから約1マイルか1マイル半のところの商業地区の店の略奪に大挙して加わっている、と。「全くの無秩序状態になっている。」と彼は言いました。いっそうの事態の悪化に備えて、また、ホテルと金を持った外国人が明らかに真っ先に狙われると聞いて、私たちは、すぐにホテルの私たちの部屋の2つの場所にお金を隠すことに決めました。このときは私たちの誰もが、バッグやポケットにもっているお金が自由な略奪の獲物だということを疑わなかったと思います。

(中略)

 午後10時に私たちは、ラムズフェルドがバグダッドでのサダム・フセイン像の引き倒しと歓喜する群衆の「息をのむようなシーン」について話すのを聞きました。この像は、私たちのホテルからほんの2ブロックのところにあります。私たちがラムズフェルドのスピーチで聞くことができなかったことは、このイベントが他の地域から「輸入」された人々でいかにお膳立てされたか、ということです。ホワイトハウスの報道官アリ・フライシャーは言いました、戦争は終わっていないと。まだ有害な武装勢力が存在していると。シリア、北朝鮮、イランへの警戒という言葉が、不意にさしはさまれました。特にシリアに対しては、イラク高官がイラクを脱出するのを手助けしているという報告と、おそらく大量破壊兵器の移動のために国境を開いているのだという報告で。アメリカは、イラクを取るという仕事をまだ終えていません。それでいて、もうシリアを脅しています。米軍がこの地域に集積されているということは、何と都合のいいことでしょう。

 夕刻、キャシー・ケリーは、シカゴの「Voices」のオフィスと交信できました。本部では、IPTのうち何人かは残ることが特に重要だと考えていました。それで私たちは、もう一度ギアを入れ直して、当面もうしばらくとどまることに決めました。翌日の木曜日、雰囲気は、安堵から諦めと深い悲しみに決定的に変化しました。私は、見かけるほとんどすべての人の表情を見て、これを書いています。体制が崩壊して、そのことで安堵し、また、爆撃が大部分の場所で止んだことをうれしく思っています。しかし、彼らの最愛の国が今や占領されているという現実は、灰色の不吉な雲のように彼らの上に覆いかぶさっています。街中で大量略奪が起こっています。政府の病院でさえ例外ではありません。いくつかの地域では、まだ激しい戦闘が続いています。たくさんの数の自爆攻撃がありました。昨夜も1つあって、自爆者と3人の海兵隊員の命を奪いました。街の多くの地域が安全ではない状態です。ともかく警察力が存在しません。そして、占領軍は警察の任務を命じられていないので、周りにいても傍観しています。

(中略)

 そうこうしながら事態は推移していきます。怒り、恐れ、安堵、倦怠、悲しみ、涙。私は、ここ数日とめどなく涙が流れます。今日、私は、このホテルにいる一人の母親と話しました。彼女の目の周りには、深く黒いクマができています。「私たちは、もうとっても疲れました。」と彼女はけだるそうに言いました。「25年も。それで私たちは、とっても疲れました。ここは私たちの国です。私たちは、サダムもブッシュもいりません。もうとっても疲れました。」と。


 2003.4.13(日)
 今日、私たちのグループからさらに6人がアンマンへ向かいました。親愛なるネヴィルは昨日、故国オーストラリアへ向けて旅立っています。私たちは、彼がイースターには帰宅して家族と一緒に過ごしていることを願っていますが、彼がいなくなるのは私たちにとって悲しい日でした。キャシーとシンシアと私は、今しばらくとどまるつもりです。


バグダッドバレー芸術スクールは略奪者によってひどく荒らされた。
 昨日と今日、私は、街中のさまざまな地域を回る冒険をしました。また、カリーマとその家族を訪問しました。私は、ここにいる私たちすべてをひどく悲しませている深い悲しみと絶望を、表現することができません。焼きただれた車、爆撃され焼けた建物、略奪と銃撃。銃は道端で3ドルで買えます。病院も略奪され、道路は封鎖されています。救急車も警察の車も盗まれています。病院はもはや機能していません。病人も死にそうな人々も立ち去りました。もはや統計もとられていません。誕生の記録も、死の記録も、健康の記録も、研究資料も、もはやありません。本は燃えてしまい、学校も大学もありません。店は閉じられ、学校も閉じられています。無法状態と無政府状態。電気もない。このホテルにオフィスがあった「イスラム救済局(the Islamic Relief Agency)」で働いていた一 人は、今日、街の通りの脇に5人の遺体を見たと述べました。私たちのチームの者が、「子ども病院」の前で看護婦が赤ん坊の墓を掘っているのを見ました。共同墓地へもっていくこともできないのです。

 昨日、バグダッドバレー芸術スクールが略奪されました。私たちが多くの時間を楽しく過ごし、とても感激したこの場所を訪問するために、シンシアと私は、今日、重い心で出かけました。2人の指導員が今日、キャシーとシンシアを尋ねてきて、悲しい出来事を語ったのでした。彼らは、米軍兵士に何らかの形で学校を保護をしてくれるように懇願しましたが、無駄でした。確か、ジュネーブ協定によれば、占領軍は占領地の学校や病院を守護する責任があるはずです!

(中略)


私はロビーで誰かがピアノの1つを弾いている音を聞きました。壊されたけれどもまだ弾
くことのできるピアノを! それは指導員で交響楽団のメンバーの一人のマジードでした。
私はすぐそばの部屋からこわれた椅子をとってきて黙って彼の近くにすわりました。彼は
自分自身の深い悲しみを表現する魂のこもった歌を弾きはじめました。彼は弾いて弾いて
弾いて弾き続けました。
 楽器を置いている部屋のひとつで、交響楽団のメンバーの一人であるヒッサームが楽器の破片を拾い集めていました。「私はここで学んだ。私はここで教え、ここで指導した。何故だ? 何故なんだ?」。感極まって、彼はそのあとを続けることができませんでした。教務室と教室のある所の入口に近づくと、解剖学の授業で使われた骸骨に楽器のケースが寄りかかって、ドアのそばに散らかっていました。悲しいことですが、文明と文化の死、という言葉がふさわしい状況でした。

(中略)


 2003.4.15(火)
 今日は、IPT事務所で私物をえり分ける作業をだらだらとしていました。私たちは事務所を昨日閉じたのです。風呂場で、ろうそくの灯りで、しみのついたベビー用の毛布を洗い、バルコニーのプラスチックの椅子に掛けて干しました。そこからは、数えきれないぐらいの武装車輛と兵士が見えます。私たちは、水道が断水し始めていると聞きました。この毛布は、イラク人家族のために米国の「特別な子どもたち」によってつくられた毛布の一つです。私は、ラムジが現れるのを待っています。幸いなことに、彼は昨日アンマンから無事に到着し、私たちに合流したのです。洗濯とシワ延ばしが、私自身の錯綜した感情と思考を鎮め整理するのに役立つということを、今一度、再発見しています。

 私たちの知っている人々が、ゆっくりと再び現れるようになってきています。カマルは、ここでお茶を入れてくれていた最愛の紳士ですが、今朝姿を見せました。キャシーは彼を抱きしめ、二人とも涙を流しました。彼が無事だったという安堵感と、彼の話しを聞いての悲しみとがありました。「私の国は終わりだ。」と彼は言いました。少しして、もう一人の友人が現れて、私たちの保管している毛布を受け取りました。彼の妻は、爆撃の中で赤ちゃんを抱えていたのです。それ自身が一つの物語になるくらいですが、彼女がまさに出産しようというときに、どこも受け入れてくれる病院がなかったのです。彼は、毛布をとても感謝してくれて、こう言いました。これは、新しく生まれてきたこの子を歓迎してくれた最初の贈り物です、と。

 昨日、私たちは、処分する必要のあるIPTの文書類をいくつもの黒いポリ袋に詰めました。街に私たちの知っているゴミ捨て場がありません。それに、私の母は、いつも私に教えました、自分たちの散らかしたものを他人に掃除してもらうようなことはしてはいけません、と。私たちは、兵士たちが毎日たき火をしているのをバルコニーから見てきました。そこで、シンシアと私は、文書類を燃やすのに彼らの火を使わせてもらえるかどうか尋ねてみることにしました。兵士たちは、私たちの要望に喜んで応じてくれました。私は、一つの袋の文書類の山の上に、私たちがイラクとクウェートの国境へ行ったときに発した、兵士たちへ向けた私たちの声明があるのに気づきました。私たちは、遅ればせながら一人二人の兵士に、他の資料ともどもこれを渡すことができました。私たちは、IPTの歴史の一部として翻っていた旗や横断幕も燃やしました。その中に、「査察を継続せよ。我々は国連憲章を支持する。ブリックスを止めさせるな。」というのもありました。

 昨日、一人の若者ラアドがシンシアを訪ねてきて、私も加わりました。民間のエンジニアで大学の教師でもある彼は、NGO「バグダッドへの橋」で働いています。いったいどうして悲劇的な略奪や破壊が起こるのかを必死で理解しようと苦闘しながら、私は彼がどう考えているか尋ねました。彼は、ある程度までイラクの外から来た人々によって引き起こされているということを、割り引いて考えることをしませんでした。また彼は、金持ちと勘定を合わせようとする貧者の問題が第一義的だとも信じてはいませんでした。彼は、それを「倫理的」問題として見ていました。「神は存在するのか?」という疑問に答える際の心に関係する問題としてとらえていました。彼自身、厳格なイスラム教徒です、外見上のきまった服装をして髭をはやした男という伝統的な意味でのイスラム教徒というわけではないのですが。彼はそういうのを「貝」のようだと考えています。

 彼は私たちに、こう言いました。1月の中ごろ、彼は、学生たちを試験に集中するようにさせようとしていた、と。戦争がやってくるだろうとわかっていて、彼は、学生たちに戦闘の中でのボランティア活動を奨励しました。たとえば、水の浄化などで。「知識と倫理の結合がなければなりません。」と彼は述べました。ラアドは「在宅の」天文学者で、停電のとき望遠鏡を取り出して、木星とその惑星の写真を撮りました。「爆撃の合間にね...。私たちは、宇宙を探索し続け楽しみ続けねばなりません。」と彼は言いました。私は、この愛すべき人から私自身が引き出した希望を、あなたがたにうまく叙述することができません。

 私は、もし今日の午後、連れていってくれる人を見つけることができたら、アマルに会いたいと思っています。占領軍は、夜間外出禁止令を出しました。それで、動きまわれる時間が短くなっています。



「最も大切なことは...」  ベテジョ・パサラッカ
“What is most important ...”  by Bettejo Passalaqua
2003.4.15

 軍は、街中にチェックポイントをつくりました。私は、チェックポイントでボディチェックされたとき、とても腹が立ちました。私は、何故これが必要なのかと尋ね続けましたが、その兵士は答えようとはしませんでした。ついに一人の兵士が私に言いました。テロリストが近辺のホテルを脅かす恐れがあるのだと、それでチェックなしでは誰も入ることは許されないのだと。私たちはまた、日没から夜明けまでの外出禁止のもとにおかれています。私たちは、米軍に近づくときには用心して、自爆テロの爆発物と誤解されるかもしれない背負い荷なしで近づくことにしました。事態は、本当にパレスチナのように見えはじめています。

 私は、この間知り合うようになったすばらしいイラク人家族と午前中を過ごしました。というのも、クハレッドと彼の息子ワレードが私たちのところへ車で戻ってきたからです。ワレードは、とても上手な英語を話します。そして私のアラビア語を助けてくれます。彼は、とても知性的で思慮深い人です。一度私たちが美術・工芸プログラムで病院を訪れたとき、彼は私に言いました。子供たちの目には、あなたは彼らに希望を与えるために派遣された天使のように映っています、私はそれを子供たちの目に見ることができます、と。私は、声を上げて泣き出してしまいました。というのは、私が彼らに何の希望も提供できないことがわかっていたからです。今日、彼はこう言いました。あの病院での経験は、自分の人生についての考え方を変えさせてくれました、と。他の人のために自分の時間を捧げる生き方をしたい、と。

 私たちは、たった今起こっている変化について大いに語りました。彼は言いました、ブッシュはイラクの石油が欲しいだけだということを自分は知っている、と。ブッシュに関して言えば、彼は石油を手に入れることができる。でも、大切なのは富でもなければ物質的なものでもない、私たちの心の中にある家族や友人に対する愛だ、と。



戦争犯罪:侵略者が到着  シンシア・バナス
War Crime : The Invaders Arrive  by Cynthia Banas, IPT
2003.4.14

 500万人のこの都市への3週間にわたる無慈悲な爆撃の後に、侵略者たちが、4月9日の水曜、午後4時45分ごろ到着しました。彼らは、アブ・ヌワス通り(有名なイラクの詩人にちなんで名づけられた通り)を高価な最新の戦車に乗ってやって来ました。私たちは、2階のバルコニーに集まっていました。そこには、「戦争は罪のない人々を殺す」「命は神聖なもの」「平和のための勇気を。戦争のためでなく」などと書かれた平和の旗や横断幕がかけられています。私たちが知り合って大好きになったイラクの友人たちの拡大写真もあります。そして、ひもに通した平和の折り鶴があります。それはカリフォルニア州ユーレカの6年生たちから私たちに送られてきたものです。

 私たちのホテル、アル・ファナールは、パレスチナホテルからちょうど通りを渡ったところにあります。パレスチナホテルのバルコニーには、白い布やタオルやいくつものTVの大きなテープ文字がかかっています。国際プレスセンターを含む情報省が爆撃され、それでプレスセンターはパレスチナホテルに移りました。その後、パレスチナホテルが爆撃されて、スペインの通信員とポーランドの通信員が殺され、他に2〜3人負傷しました。それ以来、私は、ジャーナリストたちもあまり安全だとは感じていないのではないかと想像しています。

 暑い日だったので、私たちの中の数人は、若い海兵隊員に水とナツメヤシをもっていってあげました。私たちは、「解放者を歓迎する」というような意味でそんなことをしたのではありません。私たちがそうしたのは、若い人たちが暑くて疲れているように見えたからです。ただ単に人間的な行いでした。イラクの人々は、温かいもてなしをすることでよく知られています。それは、私たちが9月にここに到着して以来、絶えず示されてきたものです。私たちは若い海兵隊員に出身地を尋ねました。すると、彼らの方も私たちのことを尋ねてきました。私は、彼らに次のことを伝えました。あなたがたが無事に到着してよかったということ、しかし、これほどまでに多くのアメリカ、イラク、イギリスの軍人と、イラクの男たち、女たち、子どもたちが殺され、負傷し、不具にされたことを悲しく思うということ。

 私たちは、彼らに説明しました。紛争の平和的解決があるということを私たちは信じているということを。そして、もし人が戦争のために命を危険にさらすのであれば、平和のために命を危険にさらすことこそ必要だということを。

 ニュースで、私たちは、サダム・フセイン像の引き倒しを見ました。それは、パレスチナホテルのすぐ横でありました。アメリカ人兵士が像の引き倒しを手伝ったことが、私には奇妙に見えました。イラクの人々に任せることができなかったのでしょうか? 私は、当然のことながら、モスクワのスターリン像の引き倒しを思い出しました。そこには数千人のロシア人がいて、外国の軍隊からの手助けなど必要なかったのです。テレビで繰り返し繰り返し見せられたその像が、たまたま国際報道機関を収容しているホテルのすぐそばの像だったということもまた、私には奇妙でした...。

 爆撃は、夜中じゅう続きました。

 私の国が今や、かつてのドイツを手本にしたのだということを認めるのは、とても悲しいことでした。自分の国を攻撃してもこなかったしその脅威もなかった国々を侵略したドイツを。

 4月9日は、わが国の恥の日として歴史に記憶されることでしょう。



ホテルの外の、米軍戦車に兵士たちが乗って座っているそのすぐそばに、平和の絵が描かれたキャンバスを広げて IPT メンバーが座っている。


「君たちは危険な場所に座っている。」  キャシー・ケリー
“You're sitting in a dangerous place.” by Kathy Kelley, IPT
2003.4.10

 今朝早く、ウーム・ザイナブは、アル・ファナールホテルのロビーに静かに座って、戦車やAPCや Humbee がアブ・ヌワス通りにそってゆっくりと配置につくのをみつめていました。涙が頬をつたって流れていました。「とても悲しい。こんなことが私の国に起こるなんて、決して思ってもみなかった。今、私は思うの、この悲しみは決して消え去らないだろうと。」と彼女は私に言いました。

 ウーム・ザイナブにしばらく静かな時間を与えてあげたくて、私は、彼女の二人のよちよち歩きの子、ザイナブとミラードを陽光と新鮮な空気をもとめて外へ連れ出しました。数人の兵士が、私と子供たちからさほど離れていないところで、ガードとして立っていました。私は、子供たちを彼らのところへ連れていって、この小さく美しい者たちを彼らに見せたいと思いました。でも、できませんでした。あまりにも危険が多過ぎて。ウーム・ザイナブの苦痛を増やすことにでもなったら、いったいどうするのか、と。

 私たちは、近付かずにじっとしていました。全く文字通りにつづりますがエウン・ハ・ヨーは、私たちのピースチームの朝鮮人の仲間ですが、朝鮮人アーティストによって創作された巨大な作品を取り出して、アル・ファナールのすぐ外の交差点に調子よく広げました。私がこれを書いている今は、ネヴィル・ワトソンとキャシー・ブリーンが、その真ん中に陣取って座る番にあたっています。

 世界地図が上3分の1を占め、深い悲しみに沈む戦争犠牲者たちが真ん中の3分の1を満たし、醜い武器の山が様々な旗を上に立てて下3分の1にあふれ返っている。ネヴィルは、彼の祈りの道具と小さな木の十字架を、自分の座っているところに準備しました。キャシーは、「戦争は答ではない War Is Not The Answer」のTシャツを着ています。

 今日の午後3時に私たちがヴィジル(監視抗議行動)を始めてから、少なくとも十数人の兵士が立ち止まって私たちと話しました。「オーケー、君たちの側の話しを聞かせてくれないか。」と一人の若い兵士が言いました。「少しの間、君たちと一緒にそこに座ってもいいかい。」と、もう一人が言いました。彼らはそれぞれに、自分は誰も殺したいとは思っていないと私たちに言明しました。若い兵士は、大学の勉強とフルタイムの仕事をやり遂げようと悪戦苦闘しながら妻と子どもの面倒を見なければならず、経済的に絶望していたと話しました。彼は、海兵隊に入ることによって、世間でなにがしかの尊敬を得ることもできるし家族を助けることもできると感じたのでした。彼は、南から攻め上ってきた前線の後方に配属されて安堵したといいます。彼の役割は、捕虜を見張ることでした。彼は、誰一人銃撃することはなかったそうですが、3人が乗って近づいてくる民間人の車を米兵が銃撃するのを目撃したそうです。車の中の子どもは生き残ったそうですが、両親は即死だったそうです。「彼らは、タイヤを撃つことだってできたんだ。」と、その兵士は言いました。「人殺しをしたがっているヤツもいるんだ。」と。

 一人の兵士は、私たちのことを熱心に心配してくれました。「君たちは危険な場所に座っている。」と。私たちは微笑みました。「ありがとう、でも、私たちはここ3週間ずっと危険な場所にいました。」と私が言うと、彼は戸惑いました。「何のことを言ってるんだい」と自分の隣に立っている兵士に言いました。「爆撃の3週間ずっとここにいたってことか。」と。

 一人の兵士は、私がイラクに関する米国の修辞と実践の間の大きな矛盾を説明するのを敬意をもって聞いてくれた後に、「君たちは我々の身になってみようとしてくれるのか?」と尋ねました。「ええ、そうよ。」と私は答えました。「私たちは、そうしようとしています。私たちは、ここにいることで、あなたたちと同じリスクを負っています。おそらく、ずっと大きなリスクでしょう、私たちは武装もしていないし防護もしていませんから。実際問題として、今、私たちはあなたがしているようなそんな重装備で苦しい思いをしてなくて幸いですよ。」
 「いやー、全く暑いよ。」と、その兵士は言いました。「あんまり食欲がないんだ。この割当の食糧はただでやるよ。ここの人たちで分けてくれ。」

 靴磨きの少年の一人ハッサンがやってきて私たちに加わり、食糧の小荷物を運びました。彼がそれを開いてみると、りんごジャムやその他めずらしい品物に出くわしました。彼はそれを私たちに寄付すると決めました。もうハエがそれを見つけて飛んできました。

 私たちは、当分の間は「閉じ込め」られているようなものです。イラク人の番人はいなくなり、米兵がいます。彼らは、交差点に有刺鉄線を張りめぐらしています。通りを渡りたいものは誰でも止められて、質問され、身体検査されます。私がこの通信を書きはじめてから、すぐ近くで4回も大きな爆発がありました。ここバグダッドでは、略奪と放火が続いています。私は、戦争にうんざりしています、吐き気をもよおすところまで嫌悪感を感じています。この交差点にいる私たちみんなも、アル・ファナールの住人も、隣のパレスチナホテルのジャーナリストの人たちも、パトロールの兵士たちも、吐き気をもよおすような同じ感覚を感じているのだと、私は思います。「戦争は国家の健康である」という一節は、何であれともかくここでは、全く無意味です。



この戦争に勝者はないだろう  キャシー・ブリーン
There will be No Victors in this War  by Cathy Breen, IPT
2003.4.10

 友人の皆さん、
 何と言えばいいのでしょう、私は、それほど苦悩に満ちた気持ちです。事態は、ある曲がり角を回ったようにみえます。今朝、私たちのグル−プの者が、バルコニ−でBBCを聞いているとき、他の人たちは、ホテルの反対側に陣取って、1マイルか1マイル半ぐらい離れたジュムフリヤ橋を見ていました。この地区の通りは、ときどき通る車をのぞけば全くガラガラになりました。

 私たちが見ていたとき、BBC放送で、米国主導の連合軍の戦車がこの橋を渡っているということを聞きました。私たちは、周りの爆発を見聞きできました。また、その橋の近くで爆発からくる煙と砲火がありました。飛行機が上空を飛び、爆弾がそこら中に落とされました。突然、大きな爆発があって、私たちは、道の向こうのパレスチナホテルの片隅から煙が上がるのが見えました。あの攻撃を受けたホテルです。ここは、バグダッドの報道機関のすべての人々が滞在しているところです。私は、ロイターの人が攻撃されたと、後になって聞きました。

 こういったことのすべての影を薄くするような、深い悲しみがあります。私がイラク人の一人の友人に家族が元気かどうか尋ねたところ、彼は私に、深い悲しみと諦めに満ちた声で答えました。「私の国なのに、私の国なのに!」と。彼は、内戦が起こらないことを望む、と続けました。これは、今ここにいる誰もが恐れていることです。

 このような会話の後、私は、ぎっしり詰まったナツメヤシのパッケージをもっと小さいプラスチックのバッグに分けはじめました。ここの人々がそれを手にして喜ぶだろうと思って。数少ない野菜の店さえ明日から閉まるだろうと聞きました。だから新鮮な野菜を手に入れる可能性もなくなるでしょう。私は、ゆっくりときちょうめんに手作業をして、気持ちを紛らせたかったのです。

 私は、以前よりもいっそう明瞭に理解しました、この戦争に勝者はないということを。勝者などないのです。まさに無意味な死と殺戮、双方ともに。後に残され深い悲しみに沈みながら散乱したものを拾い集める家族。こういったことを思い巡らしていたとき、突然2つの大きな爆発があって、私の考えは中断されました。私は、ナツメヤシを置いて、何が起こったのかを見るために階下へ駆け降りました。

 私が驚いたことには、ミスター・ブッシュがテレビに出ていて、大統領執務室だと思われる所から演説をしていました。アラビア語に翻訳されていたので、彼の言葉をたどるのはとても困難でした。ホテルの大きな発電機が昨日壊れたので、今のところ電気がありません。でも階下に小さな発電機があって、このテレビを見ることはできるのです。私は、イラク人の友人たちと一緒にすわって聞きました。誰も口を開きません。何が語られているのか理解するために四苦八苦した後に、私は、ミスター・ブッシュが「平和のヴィジョン」をもっていることについて語るのを聞いたとき、ついにその場を離れようと立ち上がりました。

 私は、時折会話したことのある年輩で穏やかな口調のイラク人紳士がみえるところに座っていました。彼がしっかり威厳を保っているのを見たとき、私は心がつぶれそうでした。自分たちの誇りに思う国が外国勢力によって今や占領されることを、数えきれないほどのイラク人が甘受させられる、それがいったいどのようなものであるのか、私には想像するしかありません。とりわけ、これほどまでに無慈悲に爆撃し、今でも爆撃し続け、自分たちの誇りに思う国を破壊し続けている外国勢力による占領を、どのように受けとめているのでしょう。今や彼らは、自国の石油と資源が分け取りされるのを目撃するという事態に直面し、そして内戦の危機に直面しています。

 昨夜、私は、次のことを聞きました。米軍は、バグダッドに侵入するときに従軍報道機関(embedded press)を引き連れてきただけでなく、イラク人が「解放されて」いかに歓喜に満ちているかを示すために、通りで浮かれ騒ぐ「従軍ダンサー(embedded dancers)」となるような3000人のイラク人も引き連れてきたということを。万一そんなことが行われるようなことがあれば、私たちは、真実を記録し報道するジャーナリストが数少なくても存在することを願うばかりです。当地での人々の気持ちは、喜びや歓喜に満ちたものなどでは全くありません。

 昨夜、私は日誌にこう書きました。「私たちの国は、一人の人間にこれほどまでに大きな力を与えるようなことが、どうしてできたのだろう?」と。私は、それぞれの国のそれぞれのリーダーを思い浮かべていました。私は、米国には他より大きな責任があると思います。なぜなら民主主義を要求しているのですから。私は、そのような重い心をひきずりながら再度言います、この戦争には勝者はいないだろう、と。悲劇的なことに、合衆国の私たちがイラクの人々にこの戦争を押し付けました。ただ平和を望んでいるだけの人々に。ああ、神よ、合衆国の私たちが今、勝ち誇った態度をとり、自分たちをイラク人に対する勝者であり解放者であると宣言するとすれば、私はどのようにしてこのことに耐えればいいのかわかりません。



生命をもてあそんで  エイプリル・ハーレイ、医師
Toying with Lives  by April Hurley, M.D., IPT
2003.4.8

 私たちのところでは、まだ水道の水が出ます。バグダッドでは、電気がなく、冷蔵庫が使えない所や、汲み水もない所もあります。爆撃の音は大音響で、その炸裂音は何もかも粉々に砕くようで、ますます接近し、ほとんど絶え間なく続いています。ジェット機が低く飛んで、わざと恐怖心を煽り、轟音は耳をつんざくほどです。それは、幼い子供たちに恐ろしい悪夢を見させるに違いありません。多くの人は眠ることができません。空気は埃っぽく煙っています。というのは、この街と周辺一帯の空を石油の燃えた黒い煙が雲のように覆っているからです。電話は「911」コールさえ不可能です。ブッシュは、古い西部劇にあるように「首にかけた投げ縄を締めていって」いるのです。何とぴったりした表現でしょう!

 私たちが予期した恐ろしい虐殺行為が、ここバグダッドで起こっています。カウボーイのパイロットが、人々の生命と暮らしをもてあそんでいます。バスや農家を爆撃しながら。昨夜、政権幹部を狙って、権力会議が行なわれていると諜報機関が判断した場所のあたりにいくつもの爆弾が投下されました。私は、そのクレーターが直径50メートルだと聞きました。何百人もの子供たちが殺され不具にされているに違いありません。この街が子供たちであふれていることを米軍も米政府も知っているのに! ご存知のように、ロシア大使の一行が攻撃され、7〜8人が負傷しました。私たちは、米軍主導連合軍による戦争犯罪嫌疑の資料を送付しようと試みましたが、ロシア大使館に到着したのは、大使が出発した数十分後でした。

 ここからさほど遠くないところに、おそらく半マイルほどのところに、前線があります。主要な病院は、負傷した兵士の収容所になってしまっています。そして負傷兵士はどんどん押し寄せています。病院では安全のために、民間人犠牲者の目撃証言の聴取は、以前ほど歓迎されなくなっています。私たちは、このホテルから遠くまで出歩くことができなくなっていて、今は犠牲者の数を把握できませんが、大虐殺は予想されたように大変なものです。バグダッドにはたくさんの住民がいて外科専門病院がたくさんあるので、おそらく医師は十分いるのでしょう。アラビア語を話し海外で活躍していた多くのイラク人医師も援助のために到着していましたから。私は、バグダッドの病院が民間人犠牲者たちの処置をやりはじめた最初から、医薬品などの物資が不足していたことを知っています。今では病院は、十分な麻酔薬や抗生物質なしで、絶望的な努力をしているに違いありません。かくも大量の苦しみを目の前にして、その絶望的な状態、無力感、そういったものがいったいどのようなものか、私には想像することもできません!

(以下略)



目撃リポート、3/27〜4/3  ウエイド・ハドソン
Eyewitness report, March 27th - April 3rd  by Wade Hudson, IPT
2003.4.3

 4月3日 : 今日、マーチンと私は、エイズ検査に行きます。イラクを出国するためには、エイズ検査を受けたということを証明する証明書を提示しなければなりません。たいていの人は到着してすぐに証明書をとりましたが、私は、米国がバグダッドに責任をもつ(このような攻撃はしない)ことを期待して、今まで自分のは遅らせていました。その直観は、こういうことを予測する私の能力が頼りないものだということを示しています。ずうっと長いこと、私は、ブッシュが引き金を引くとは思っていませんでした。また、もしブッシュがやるとすれば、それは短期の一方的な殺戮になると思っていましたが、それも思っていたとおりだと証明されたわけではありません。私は、もう予測をしないように努めています。そして一日一日、その時その時をもっとしっかり生きようとしています。

 クリニックで、医師は私にこう言いました。「あなたが客としてここに来るのは、いつでも歓迎ですが、侵略者としてなら歓迎できません。」と。車であちこちまわって、私たちは、2つの通信センターがひどく爆撃されたのがわかりました。軍によって通行禁止にされガードされている道もありましたが、たいていの通りは自由に通れました。大部分のドライバーは赤信号を無視します。最近の嵐による砂埃の厚い層が、いたるところに残っています。

 ショッピング地区は、たいてい閉じています。一方で、にぎやかなところもあります。爆撃に慣れてきてからは、必需品を売る店は活発な営業を行なっています。棚はどちらかというと空いているほうが多いのですが、おそらくは、ありうる略奪を予期してのことなのでしょう。私たちは、短波ラジオをもとめて買い物に行きましたが、15ドルのを2つ見つけました。ある程度の食糧とホットプレートとティー用品とフレッシュ野菜をつくるための品物なども買いました。私たちが言葉をかわした多くの人々は、とても親しみやすく友好的です。私たちに敵意を示す人はいません。私たちは見た目にも明らかなアメリカ人なのですが。一人の高齢の女性が私に近づいてきて、アラビア語でブッシュについて大声で怒りの言葉を言いました。私は同意してうなづきました。


アル・キンディ病院訪問、4月1日

 エイプリル・ハーレイ医師を含むIPTメンバーは、アル・キンディ病院の院長オサマ・サーレー医師を訪ねました。サーレー医師は、3月31日に彼の病院は45人の死傷者を受け入れたと報告しました。そのうち7人は到着した時には死んでいました。2か所の爆撃による犠牲者でした。1つはアル・アメーン地区、もう1つはアル・ダーリィエー地区。どちらもバグダッド周辺です。

 スタッフは、3月30日朝6時ごろザーフラニィエー地区で起こった出来事の写真を見せてくれました。そこでは、4つの家に暮らしていた親戚の2家族が爆撃されたと伝えられました。古いディアラ橋の近くのシュルタ家でした。この事件の唯一の生存者がいました。アリ・イスマヤル12歳。死んだ16人のうち15人は次の人々です。サバーフ・ゲダン・カルベート(Sabah Gedan Karbeet)42歳男性、フシャーム・サバーフ・エアダ ン(Husham Sabah Eadan)10歳男児、マレク・サバーフ・エアダン(Malek Sabah Eadan)7歳男児、アリ・サバーフ・エアダン(Ali Sabah Eadan)4歳男児、マデーハ・アブドゥ・カセム(Mdeeha Abd Kathem)48歳女性、サベーハ・アワッド・メルダス(Sabeha Awad Merdas)58歳女性、ファテマ・ザボーン・マクトーフ(Fatema Zaboon Maktoof)27歳女性、ノーラ・サバーフ・ガダン(Nora Sabah Gadan)14歳女児、エスマエール・アバス・ハムザ(Esmaeel Abbas Hamza)49歳男性、ムハメド・タハー・アッバス (Muhammed Taha Abbas)12歳男児、アベール・タハー・アッバス(Abeer Taha Abbas )9歳女児、ムナー・タハー・アッバス(Muna Taha Abbas)23歳女性、アッバス・エ スマエール・アッバス(Abbas Esmaeel Abbas)7歳男児、アザール・アリ・タヘール(Azhar Ali Taher)33歳女性、カメーラ・アブドゥ・カセム(Kameela Abd Kathem)49歳女性。

 アリのおばジャメラ・アッバスは、爆撃のときその家にいなかったことで唯一生き残った親戚ですが、病院のスタッフからの次のような報告を確認しました。アリは全身の35%をやけどした第3等級の火傷を負い、肩の近くからの腕の切断が必要だということ。また、煙の吸入から肺にも傷害を負ったこと。広範囲の皮膚移植と複合的な形成外科手術が必要だろうということ。彼女の住所は、Zaafraniyeh, District 50, Street 23, House 8です。


アル・アメーン訪問、4月1日

 IPTはまた、一昨日爆撃された場所、バグダッドの東アル・アメーンも訪れました。ここは、質素な住宅地域です。IPTメンバーは、近隣の人々に話しかけました。また、死んだ3人の子どもの叔父と父親ハエデン・アブドゥール・モハメドにも。彼によれば、亡くなったのは、モハメッド13歳、モハメード18歳、アクメード・アブドゥール・フセイン7歳です。子供たちの一人は、おじさんの家へ歩いて行く途中の路上で殺されました。もう一人は自分の家のすぐ外で。あと一人は中庭で。彼らは、自分たちも多く負傷したとIPTに語りました。

 私たちは、アリ・ナサール・アブリド13歳と話をしました。この子は、爆撃を受けた家の2階で寝ていて血まみれになって目を覚ましました。彼は、アル・キンディ病院へ運ばれましたが、そこで上唇の長く深い切り傷を縫いました。私たちはまた、ムスタファ・アブドゥール・フセイン5歳が腹部の負傷でアル・キンディ病院に運ばれてきたことを聞きました。

 4家族が住んでいたひとつの家で、私たちは、2人の従兄弟、アリ3歳とアラ3歳半に会いました。私たちチームは、彼らが割れたガラスで負傷したと聞きました。彼らは爆撃の時、家族と一緒に食事をして座っていました。彼らの報告によれば、3月31日の午後2時半ごろ、1発の爆弾またはミサイルが空中で爆発し飛び散り、多くの住居、全部で7つの家を襲いました。私たちは、一つの家の屋根の壁の損傷や他の家の壁の損傷、また別の家のテラスの屋根の損傷などを見ました。家を囲んでいる壁も家屋そのものも、あばた状の穴がいっぱいありました。兵器の金属片と思われるものがいたるところに散らかっていました。

 私たちチームは、兵器の様々な部品を手にとって見ることができ、また写真に撮ることができました。兵器は空中で爆発して飛び散ったかもしれないのですが、テラスの屋根のひとつに、深さがほんの2〜3インチで直径が約 1.5フィートの衝撃の跡がありました。そこに砲弾が爆発する前に当たったのかもしれません。この浅い穴から4フィートほど離れたところの金属ドラムには、貫通物によるたくさんの穴や細長い傷がありました。穴をあけた物体はどこにあるのか尋ねると、民間防衛隊(Civil Defense)が回収していっ たと教えられました。壁の比較的深い弾痕に埋まっていたに違いない砲弾の破片も回収していったということでした。私たちは次のようなものを見つけました。アルミニウムのねじれた鋭利な破片、もっと重い金属の合金か鉛の破片、回路板の一部と思われる破片、外装の一部、気泡絶縁体、ワイア、重い円筒状の破片、重いレンガ状のもの。

 一つの部品には、JX2N8902, MADE IN USA, 8642 と刻まれていました。

 午後の暑いさなか、私は、ジューニードの短波ラジオを借りて、ほぼ1時間BBC放送を聞きました。最も興味深かったのは、米国がイラク人の心をつかんでいるかどうか、という長い放送でした。そこで指摘されていたことの一つは次のようなことでした。店が最近また開かれるようになった時、もっともよく売れたものはテレビアンテナだったということです。イラクのテレビは娯楽が全くなく、政府によって制作された戦争動員番組だけしかないのですが。そのリポートは、こう結論づけていました。人々を爆撃することは、人々のこころをつかむのには絶対に役立たない、と。


アル・ナセル市場、3月28日

 3月28日の午後6時ごろ、米国の爆撃が始まって以来最大のイラク民間人虐殺が起こりました。とても混雑する青空市場に爆弾が落とされました。貧困地区であるバグダッド北部のアル・ショーレーのシーテ地区にある市場です。IPTメンバーが翌日アル・ナセル市場を訪れ、着弾地点を観察し、付近の目撃者と話をしました。現場は、金属製の屋台の並びとテントの並びの間のアスファルトの路地でした。アスファルトにあいたクレーターは、深さ約1メーター、直径約3メーターぐらいでした。死者は57人にのぼりました。負傷者のうち2人がアル・ヌール病院に到着してから死亡しました。イブラヒム・サイード・アーメド医師によれば、病院に運ばれた残る48人のうち、22人が特別治療室に移されたということです。IPTメンバーが話した負傷者のたいていは、腕、脚、腹部に榴散弾破片による負傷をしていました。アル・カーダミア病院へ移された負傷者もいました。砲弾の金属片を手に入れました。そこで拾い集めていた子供たちの一人がポケットから出してくれたものです。それは外装の一部のように見えました。3か所で、死んだ人々の血(そばに立っていた人によれば)がまだ地面に残っていました。

 負傷者には、次の人がいました。ザイナ・カーデア14歳の少年、脚に負傷、片腕骨折、頭に負傷。イクラース・フェスグ26歳女性。ライゾン・ザイト・モハメド55歳、脚と腕骨折。


3月27日:

 アル・キンディ病院へのショッキングな訪問の後、エイプリルは、こうコメントしています。国連制裁委員会はここ2年でイラクにたった100台の救急車しか認めなかった。多くの病院を訪れて、彼女は、CATスキャンもMRIも全く見かけていない。研究室の仕事もほとんど見かけないし、X線技師もいない。にもかかわらず、オサマ・サーレー医師を訪れた時、彼はこう言った。「私たちは、物資が不足していますが、何とかやっていくことができます。私たちは、医師が必要なのではありません。医薬品が必要なのでもありません。誰か戦争をとめる人が必要なのです。」と。

 サーレー医師は、私たちチームに、病院のスタッフが撮った最近の犠牲者の写真が入ったディスクをくれました。これらの写真は、ぞっとするようなショッキングなもので、私たちのチームのたいていは心をかき乱されました。しかしながら、私たちが独自に確証できることについての写真だけは、添付しようと決めました。



再び訪れた嵐に耐えながら  キャシー・ケリー
Enduring Storm Revisited by Kathy Kelly, IPT
2003.3.31

 キャシー・ブリーンと私は、友達の家に身を寄せているアマルを訪れました。彼女の家は、引き続く爆撃でさらに破壊されたと聞いていました。彼女は、私たちを川に面した彼女の家へ連れていってくれました。花が咲き乱れている庭がきれいな家でした。入口の散乱したガラスを踏まないように進んで、私たちは、かつてはバグダッドでも最も設備の整った家の一つであった彼女の家へ入りました。部屋は乱雑に散らかっていました。壁にはいくつものひび割れがあり、窓はすべて割れていて、あらわになった家具や本やカーペットや床に、埃と煤の厚い層がつもっていました。

 「ばかげた気持ちだったわ。」とアマルが割り切ったような口調で言いました。「こんなことは起こらないだろうって。だから私は、何も動かさなかったの。」彼女は、ここ2日の間に近隣の人たちが何もかも持ち去ることだってできたのだということを、何度も強調しました。「家は開いている。この地域の人はみんなそれを知っている。でも誰も何ももっていかなかった。」アマルは、窓が割れてドアが吹き飛ばされたとき、家にはいませんでした。「たまたまあの夜、私は鍵を忘れたの。それで友達のところに泊まったの。」私たちが彼女の家に着いた10分後、米軍の爆撃がまた始まりました。「また始めている。」とアマルはため息をつきました。「すぐに立ち去らなきゃ。」

 私たちは、アマルの友達の姉妹と再会しました。アマルと同じように、おませで、学者風で、しっかりしていて、そして気性が激しい姉妹です。私は、彼女たちと2002年の夏に初めて会いました。そのときは、彼女たちが20〜30人のイラク人の友達を集めて、私の見聞きしてきたことを語るように招いてくれたのでした。2002年4月の、西岸地区ジェニン難民キャンプ内の、イスラエル軍が圧倒的な軍事力を使って数百の民家を破壊した後のことです。私がジェニン難民キャンプの瓦礫にされた家々の拡大写真を見せたとき、アマルと彼女の友達は深く憤りました。彼女たちは言いました。占領のもとで苦しんでいるパレスチナの人々にいつも強い悲しみを感じてきたと。そのときには、1年もたたないうちにアマル自身がホームレスになって占領下の生活に直面するとは、考えることもできませんでした。

 「とっても不公正よ。」とアマルは言いました。「最も質素な人々から最も高潔な人々まで、みんな苦しんでいる。」その夜遅く、私たちは、ラジオのヴォイス・オブ・アメリカが次のことを確認したと知りました。一人のイラク軍士官が、降伏したいと思っているタクシー運転手を装い、米軍のチェックポイントに接近した。その運転手は、車の中の爆発物を爆発させて自分自身と4人の米兵を殺した、と。

 アマルは、米国がイラクに大規模な攻撃をするかどうかについて、間違った推測をして高価な代償を払いました。彼女は、価値ある美術作品や本やその他の持ち物の印象深いコレクションをわざわざ守ることをしませんでした。彼女と彼女の友達は、今はもう間違った推測はしていません。彼女たちは、米国の戦争遂行者たちが死をもってする代償、ぞっとするほど恐ろしい代償を払ってでも、イラクを乗っ取り占領するだろうということを疑っていません。「私たちは、戦争に負けるでしょう。でも、アメリカは勝者じゃない。」と彼女はきっぱり言いました。「子供たちは、モンスターがやってくることについて話してる。私たちは、モンスターを撃退するの。私たちのこの手で。」



「私が彼の母親です。」  ジョウ・ウィルディング
“I am his mother.” by Jo Wilding, Electronic Iraq
2003.3.29

 1基のミサイルが、今日の午後4時15分、パレスチナ通りのオマール・アル・ファロウク寺院の外の通りの真ん中に着弾しました。ちょうど人々が、祈りの後、家へ帰ろうとしていたときでした。アフメドは、友人のウマールの後を歩いていました。そのとき彼は爆発音を聞き、友人が倒れるのを見ました。ウマールは、ラフィダイン大学の学生でした。彼は、3センチほどの榴散弾破片を受け、肝臓や腹部からそれらを取り出す手術を受けました。彼の下の方の肋骨は骨折し、左腕も榴散弾の破片で負傷しました。彼の祖父フアッド・タヘーアは、ブッシュとブレアが告訴され法廷へ連れ出されることを要求しました。

 もう1基のミサイルが3分後に近くに着弾しました。病院にいる友達や親戚の話では、それが道路の向こう側に着弾したのか建物に当たったのかはっきりしませんでしたが、すぐ近くだったということです。

 アカエル・ズハイールは、モスクの向かい側の彼の家の前に立っていました。彼を負傷させたミサイルが最初のものか2番目のものか、私にははっきりしませんが、彼は今、病院で危険な状態にあります。榴散弾の破片による、左の肩、左胸、右の前腕の負傷、そして、脳の前頭葉にとどまっていると思われる小片のために。医師たちは、突き刺さった小片が浅いか深いか、頭蓋のX線写真を待っているところでした。彼は20歳です。

 私たちがそこにいる間に、彼は意識を取り戻しはじめました。そして、手足をもがいてのたうち回るのを、家族と友人たちが、じっとさせて静めようとしました。そのとき、彼の母親の目から涙があふれ出ました。彼女は、「私がこの子の母親です」と小さな声で言いました。それ以上は何も言葉になりませんでした。私は、かける言葉もなく彼女を抱きしめました。

 彼の父親は、通りでの爆発音を聞きました。そして、子供たちが走って家に入ってきてアカエルがやられたと言ったそうです。彼はこう言いました、「私たちを助けてくれ。私たちは、家でも、通りでも、市場でも攻撃されている。私たちは、絞り出される物のような存在ではないはずだ。私たちは、全世界の人々に感謝している。特にアメリカとイギリスの人々に。イギリスの百万人以上の人々が戦争にNOと言っている。人々の間に問題はない。問題は政府の間にあるのだ。」と。

(以下略)




爆撃に続いて  ダグ・ジョンソン
Following the Bombs by Doug Johnson
2003.3.27

 私は、うちひしがれ疲れています。もう3日間、負傷した民間人を病院に訪問することと爆撃された場所を見に行くことに集中しています。

 今朝、私は、エイプリルに伴ってアル・キンディ病院へ行き、そこで、バグダッドの市街の外にある農場で6つの家に25人で一緒に暮らしていた大家族にインタヴューしました。昨日午後6時に、複数の B-52が彼らの農場にクラスター爆弾を落とし、6つの家を全部破壊して、4人を殺し、他の多くをひどく負傷させました。農場の家畜まで殺されました。私たちは、次のように聞かされました。黄色い円筒が庭に降ってきて、彼らや家畜が何なのか調べようと這うように近づいたときに爆弾が破裂した、と。これらの家族の中の一つの小家族の父親サアエド・シャリッシュ36歳、農夫は、2人の息子を失ったが、まだそのことを告げられていません。医師たちは私に、彼が危機的な状態にあると言いました。

 私は、また、8歳のアリ・ジャセムに会いました。彼の農家はミサイルで破壊され、お父さんは頭を吹き飛ばされて死にました。アリは、頭から榴散弾の破片を取り出す手術を受けました。

 その後、エイプリルと私は、イシュメル・シャキーア・カリーム60歳に会いました。彼は、低所得の日雇い労働者で、ひっくり返された車に乗っていました。バグダッドのアル・シャアブ地区のシャラール市場を通りかかっていたのです。爆撃は、昨日午後1時30分に起こりました。私は、ちょうどその爆撃された場所から戻ってきたところでした。この場所は、家々と小さなお店の貧困地区で、いかなる軍事目標からもはるかに隔たったところにあります。爆弾は、大通りの真ん中に落ちて、付近の通り沿いの窓という窓を壊し、今にも崩れそうな自動車修理ショップを破壊し燃やし、小さな簡易食堂の内部を全焼させ、その上のアパートを破壊しました。通りの真ん中の、爆弾によるクレーターの近くに、何台もの車が放置されています。つぶされ、壊され、焦げた車の残骸は、爆弾の無差別破壊を証拠づけています。病院で、エイプリルと私は、5人の人がその攻撃で死んだと聞かされました。しかしながら、そこの通りの人々は、死者は15人か16人に達していると主張しています。

 私は、また、ハーセム・ハミッド・シャキーア26歳に会いました。彼は、アル・シャアブの同じ地区での別な爆撃で負傷したのです。車を運転していたとき、車体を貫通してきたクォーターサイズの榴散弾の破片で左足を負傷しました。彼はその負傷に耐えていました。彼は、一家全員が車の中で焼け死んだのを目撃したと証言しました。学校が爆弾で損壊したとも言いました。今日私は、その場所を見てきて、ハーセムの話が本当であることを確かめました。見たところ、爆弾は学校の隣の人家の上で爆発して、榴散弾でその家の上階をズタズタにし、学校の窓の大部分を壊しました。米国のメディアは、イラクが米国を陥れるために自国民を爆撃していると主張しているそうですが、私はそれを真に受けはしません。爆弾は、私がこれを書いているときにも、バグダッドに落とされています。私は、それがイラクの爆弾ではないと請け合います。現実を直視しましょう。米国は、今イラクに対して戦争を行なっています。そしてこの12年半の間ずっと行なってきました。米国の爆弾は、いたるところに落とされています。私の泊まっているホテルの窓も壊されました。これらの爆弾は、「スマート」などではありません。

(以下略)



アマル、親愛なる友...   キャシー・ブリーン
Amal, Dear Friend... by Cathy Breen, IPT
2003.3.27

 アマル、親愛なる友。私は、今日、かつてのあなたの家、愛すべきホームを訪れました。あなたの心は、どれほど重いことでしょう。私には、あなたの絶望と深い悲しみがわかります。でも私は、あなたを慰めるには、あまりにも無力です。ガラスがいたるところに散乱し、飛び散っていました。窓もドアも、穴があいて大きく口を開き、荒れ狂う風と砂が入り放題。

 もしそれが自然の力によるものであったとしたら、耐えることは、ずっとたやすいことでしょう。でも、この破壊は、残忍で無意味です。いや、もっと悪いことに、それは、前もって計画された、意図的なものでした。その名は、ウオー(戦争)。

 いかに苦いものであったことでしょう、アマル、あれほど多くの人にあれほど多くのものを与えたあなたにとっては。いかに厳しく、残酷であったことでしょう、美しいものを大切にし、あらゆる人がそれを楽しめるように護ろうとしたあなたにとっては。

 ガラスの破片の上を歩くと、あらゆるものが砂に覆われて、暗澹たるもののように見えます。カーテンは引き裂かれてずたずたになり、愛用の品々は、もはやあるべきところにはない。もはや、あるべきように存在しているものは何もない。部屋から部屋をめぐり、川に沿った庭をまわるときに、聞こえてくる不愉快な爆撃のとどろきは、破壊が終わってはいないことを告げている。

 ああ、アマル、希望を意味するその名。私は、あなたに、諦めないことをこいねがう。固く希望をもち続けることをこいねがう。




あるがままにリポートする   ネヴィル・ワトソン
Report It as It Is by Neville Watson
2003.3.27

 夜中の激しい爆撃の合間に約4時間半のほどよい睡眠をとった後、午前2時に起きました。私のメモ帳では、私たちがこれまで遭遇した中で最も危険な爆撃でした。というのは、荒れ狂う砂嵐の中をついて作戦が行なわれ続けたからです。爆弾はどこに着弾してもおかしくなかったし、おそらく実際あちこちあらぬところに着弾したと思います。

(中略)

 私たちは、グループの一人が訪れた病院から、農家の爆撃について知りました。その病院へいった私たちの目的は、すばやい写真を撮ってわずかな詳細を知ることではありませんでした。私たちの目的は、慰問することであり、私たちの攻撃的な社会の内部にいる思いやり深い人々を代表しておわびすることでした。ある子どもの父親は、私たちにこう抗議しました。「民主主義の名において、あんたたちは私たちの子ども殺し傷つけている!」と。私たちには、「ごめんなさい」としか言えませんでした。そして、どうか和解できますようにという希望を目で表明することしかできませんでした。救急病棟で、私たちのチームの女医がたくさんの死体を観察したとき、そこのスタッフが彼女に怒りをぶちまけたのですが、それももっともなことだと思いました。「あなたたちの国が私たちの人々にしていることをよく見なさい!」と。何回かの訪問を通じて、私たちは、バグダッド郊外の農家で3家族の人たちが死傷したということを知りました。2家族(その1家族は新婚7日でした)は、アジミ・アブドゥラ・アーメドさんの世帯に安全を求めてバグダッドを離れたのでした。結婚8日目に、新婦は他の2人とともに死にました。8人が重傷を負いました。昨日、私たちは破壊された家を見に行きました。牧歌的な農場の中に、それはありました。私は、身の毛もよだつほどの現場の写真を撮りました。

(以下略)



あらゆるところにいる友人へ   マーチン・エドワード
To friends everywhere by Martin Edwards, IPT
2003.3.26

 友人の皆さん、いま午後10時です。私は、どこにいるのでもありません、ここバグダッドにいます。爆弾が、私たちの周りで、「安全な」距離に落ちています。私は耳栓をしています。そして、私のユーモアのセンスと展望は、まだあまり損なわれないでいます。この場所にいる私たち9人は、現在私たちが置かれている状況を議論する夕食後の長いグループミーティングを、ちょうど終えたところです。夕食は、玄米ライス(カリフォルニア米)、オリーブ(現地物)、キムチと海苔(朝鮮人のチームメンバーが寄付してくれたもの)、現地のパン、バナナ(チキータ)などでした。私たちは、3人が韓国人、一人がカナダ在住のアルジェリア人女性、もう一人がカナダ人、4人がアメリカ人です。

 「衝撃と恐怖」は、今では「自由作戦」とレッテルが貼り替えられて、アメリカのテレビでは感動的なのかもしれませんが、ここ現地ではその作戦のさなかで、実際のところ感動的どころではありません。(いったいどんなひねくれた道徳的原理によって、私たちの国は、主権国家を「自由に」侵略して力ずくで指導部をかえてもいいと思うようになったのでしょうか?)。私は、この戦争マシーンにとり込まれた双方の兵士たちのことを悲しく思います。自分たちの命も善良で名誉ある意図も無駄にして、そして他人の生命をも無駄にしているからです。

(中略)

 私は祈ります。この戦闘についての世界の経験が、経済力と軍事力に基づく外交政策の終わりの始まりとなることを。そして、モラルの力に基づく外交政策と世界新秩序の始まりとなることを。大量破壊兵器のない世界を。家族内の争いから私たちが今巻き込まれているメチャクチャな国家間の紛争まで、あらゆるレベルでの紛争の解決を非暴力に基づいて行なう持続的な世界平和を。



戦争の破壊についての印象   ウエイド・ハドソン
Impressions on the Destruction of War by Wade Hudson
2003.3.26

 3月26日の午後3時に、キャシー・ケリーとイタリア人ジャーナリスト、ジュリアナが、バグダッド北部の地区へ車で向かいました。というのは、ジュリアナが(ロイターのリポートによって)、貿易省のショッピングセンター付近で市場が爆撃されたということを知ったからです。ショッピングセンターから3ブロックほど離れたところで、二人は、2階建ての建物が道の両側に2ブロックほど続いていて、それが黒こげになって損壊しているのが見えました。しかし、ある特定の建物を目標とした爆弾によって直撃されたという証拠は何も見当たりませんでした。二人は、完全に破壊された車を数えてみると、13台ありました。交差点の両側に2つの浅いクレーターがありました。一人のジャーナリストが、この爆弾は地上兵士殺傷用の砲弾だったかもしれない、と推察しました。爆弾は今日の午後1時ごろに着弾しました。

(中略)

 3月25日に、数人のIPTメンバー、ジューニード・ジーロバーカムその他が、バグダッドの北東に位置するディヤラ橋の近くにあるナラワーン地区の農家を訪れました。その農家は、米国のイラク侵略と爆撃の第5日目である月曜の午後4時5分ごろに、爆撃されました。3人がその場で死にました。一人はファティーハ・ガズィという名の8歳の少女、もう一人は16歳の新婚の花嫁ナーダ・アブダラー、そして20歳の女性でこの農家の主婦の妹。

 8人が負傷し、割れたガラスや榴散弾の破片や飛んできた瓦礫で傷つきました。IPTのエイプリル・ハーレイ医師によれば、彼らは、頭や腕、脚、胸、わき腹などのひどい裂傷で苦しんでいます。彼らがバグダッドのアル・キンディ病院に運び込まれたとき、ハーレイ医師は、そこの救急病棟にいたのです。彼女は、この爆撃の犠牲者たちを訪問して彼らに関する諸事実を収集するために、翌火曜日にこの病院を再訪したのです。「20代後半の新郎は、泣き止むことができませんでした。自分のケガのためではなく、新婦を失ったために。」とハーレイ医師は言いました。「アメルという幼い少年が負傷者の中にいますが、彼は危機を脱するでしょう。」と付け加えました。

(以下略)



「爆弾は依然として炸裂し続けている...」   ベテジョ・パサラッカ,IPT
2003.3.25

 昨夜、激しい爆撃がありました。信じられないことですが、私は、その最中ほとんど眠っていました。

 今日は私は、大半ホテルにいて書き仕事をしていました。出かけたといえば、コーヒーを求めて出かけたぐらいです。開いている店はほとんどなく、また遠くて、ずいぶん歩いて6軒目にようやくコーヒーを手に入れることができました。私がこんなことを述べるのは、生活はやはり営まれているのだということに注目したかったからです。数は少なくなっていますが、それでも通りには車が走り、人々が歩きまわり、物を売ったり買ったりし、友達同士で熱いティーを飲んだりしています。すべては爆弾が遠くに近くに炸裂している中で行なわれています。

(中略)

 昨夜、私たちのチームの数人のメンバーが、この近くの病院のトラウマセンターへ行きました。そのメンバーたちがそこにいたときに、ある家族が運び込まれました。この家族は、バグダッドを逃れて市街地の外の農場にいました。そこの方が安全だと思ったのです。しかし、その農場が爆撃されました。家族のうち数人が重傷を負い、8歳のファティーハは死にました。家族の人たちが病院に運び込まれたとき、彼女の死体はまだ家の瓦礫の下に埋もれていました。ファティーハが来年になって学校で英語を習う可能性も、ディーマがやるような言葉遊びをする機会もなくなりました。彼女の存在そのものが、この戦争で奪われました。

 ホテルのフロントドアのガラスが、ちょうど今、爆風で壊れました。爆弾は、依然として炸裂し続けています。私は、これからディーマのところへ行って言葉遊びの相手をするつもりです。



暗い日々と輝く靴   シェイン・クレイボーン
Dark Days and Shiny Shoes by Shane Claiborne
2003.3.25

 私は、「靴磨きの少年」の一人と特に親しくなりました。ムセフという名のホームレスの少年(10歳ぐらい)です。彼に出会った最初の日、彼は私に、食べ物を買うためのお金をねだりました。私の財布への彼のしつこい試みに、私が頑固に「ノー」と言ったとき、彼は立ち去りながら「ちくしょう、ばかたれ」とつぶやきました。彼が走り去ったとき、私はショックで頭をムチ打たれたようでした。まったくひどい第一印象でした。しだいしだいに私たちは、お互い心ひかれるようになりました。私たちは、一緒に散歩し、とんぼ返りをし、飛行機に向かって「サラーム(平和!!!)」と叫んだりします。今では、毎日私が出かけると彼がフルスピードで走ってきて、私の腕に跳びついて私にキスをします。そして私の靴は、バグダッドで一番輝いています。
 ある日、ムセフは、私たちのグループに参加して、戦争と経済制裁で苦しんでいるイラクの子供たちや家族の写真を掲げて、町の中心部まで歩きました。私たちがバグダッドの交通量の多い交差点のひとつに立っていると、報道機関やジャーナリストが写真を撮り、私たちに話しかけてきました。そして、ムセフは、これまでに起こってきたことが何なのかということを、内面化し自分のものとして理解しはじめました。彼の輝いていた顔は、暗澹たるものに変わりました。私がどんなにしても、彼を微笑ませることができませんでした。グループのみんなは家へ帰り、カメラが去っても、私たちは座り続けていました。彼は、爆弾の投下を手で表現して、爆発音をまねながら、目から涙があふれ出ました。突然、彼は振り向いて私の首にしがみつきました。泣きはじめた彼の体は、空気を吸い込んであえぐたびに揺れました。私たちは、平和運動家と犠牲者としてではなく、友人として兄弟として、いっしょに泣きました。

(中略)

 私は、この戦争の最初の攻撃目標のひとつを訪れる機会をもちました。その女の子は4歳でした。ミサイルの破片が背中に当たって今は麻痺状態にある幼い少女、ドーハを医師が私に紹介したのは、まさにこんな風にでした。「これが、米国の戦争の最初の攻撃目標です。」その医師は目に涙を浮かべながら、そう言いました。彼の説明によれば、最初の爆撃から10分もたたないうちに、ドーハと彼女の7人の家族がその病院に到着しました。米国のミサイルが彼らの家を爆破したからです。

 私たちは、毎日4つの病院を訪れています。先週、それらの病院は、部屋を清掃して戦争で負傷する民間人のための場所を確保しはじめました。常連の患者たちの多くは家へ帰されました。そして彼らのうちの多くが死ぬでしょう。一人の医師がこう説明しました。「過去12年にわたる制裁のために、私たちには、痛みを止める薬も癌に対処する薬も全くありません。」そう言いながら、彼は、病院全体の300人の患者に対する全医薬品を入れた10フィート四方の小さな物置を見せてくれました。彼は、こう続けました。「患者の多くは、自分の家で家族と一緒に死ぬほうがむしろいいと思っています。また、彼らの多くは、この病院がまた爆撃されることを恐れています。」(1991年に爆撃されたように。)
 数日たつうちに、ベッドの多くは爆撃を受けた家族たちでうまりました。一人の医師が私たちにこう語りました。この病院だけで3時間のうちに108人が運び込まれ、彼はここ2日眠っていない、と。数百人の人々が傷つき殺されています、それもたった3日だけで。病院は、家を爆撃された家族でいっぱいです。私は、世界の人々が彼らの顔を見ることができれば、と思います。大きな微笑みをもった17歳のある少年は、弟と道で遊んでいて爆撃されました。ある8歳の幼い子は、家から逃げ出そうとしましたが、壁が彼女の上に崩れてきました。1歳の赤ちゃんが昨日死にました。63歳の男性が家族のための買い物をしているとき、ミサイルの破片が飛んできて胸に当たりました。彼は、うめき続けています。「神よ、この侵略攻撃から私たちをお救い下さい。神よ、私たちをお救い下さい。神よ、私たちをお救い下さい。」

 一人の母親が娘のそばに座って泣いていました。その娘の体は、爆弾のためにひどく傷つけられ腫れ上がっていました。その娘は叫びました。「なぜ彼らは私たちを殺すの? 私たちが何をしたというの?」母親は、妹が爆弾のために死んだということを娘に言うことができないと小声でささやいて、激しくすすり泣きました。ある父親は、息子のからだのX線写真を掲げました。体に金属片がたくさん入っているのが見えました。そして、息子の手をとりながら私たちにこう言いました。「私は、世界の人々に私の息子を見てほしい。アメリカに彼の顔を直視してもらいたい。たぶん、そうすれば、彼らはこの狂気をやめるだろうから。どんな罪を彼が犯したというのだろう。私たちは米国を攻撃していないのに、なぜ彼らは私たちの子供たちを攻撃するのか。」私は、もう一人の父親の絶望した様子を忘れることができません。彼は、私の目をのぞき込んで嘆願するようにこう言ったのです。「これが解放なのか?これが民主主義なのか? 私たちはアメリカの人々と兄弟姉妹だ。彼らになぜ私たちの子供たちを殺すのか訪ねてくれ。これは民主主義じゃない、侵略だと彼らに言ってくれ。もしこれが解放だというなら、彼らに言ってくれ、私たちはそれを望んでいないと。」

(以下略)



バグダッドにおける憤激 エイプリル・ハーレイ、MD
Outrage in Baghdad by April Hurley, MD
2003.3.24

 アメリカには次のような警告が発せられている。「もしあなたが憤激を感じないなら、あなたは注意を払っていないのだ。」と。

 バグダッドのアル・キンディ救急病院で、ファティマ・アブドゥーラは憤激しながら叫びました。「なぜ、おまえたちは私たちにこんなことをするのか??!」と。


爆弾の破片で傷ついた Muhammed Adman 君 (IPTウェブサイトより)
 彼女の8歳の子どもファティハは死んで、あと2人の娘はミサイルで負傷して担架の上にいます。バグダッド郊外のディアラ橋の近くの、彼女らが滞在していた叔父の家を、そのミサイルが破壊しました。農業を営む大家族として、彼らは、制裁と経済の荒廃に苦しみ、彼らの家畜は1頭の牛と1頭のヤギとそこそこの鶏とに縮小しました。彼らは、自分たちが食べていくのが精一杯でした。

 彼女の腕の中で泣いていた4歳のムハメドは、榴散弾と瓦礫の破片で、顔と頭の右側を十文字に切り裂かれて負傷し、まぶたが腫れあがって目をとざしていました。

 13歳で女学校の生徒であるナーダ・アドナンは、「神がブッシュをお召しになりますようにと思います。なぜ彼は私たちに、また私に、こんなことをするのですか?」と訴えました。彼女は、右の頭蓋に長く深い傷を負い、その下は骨折しています。そして左の太ももに榴散弾によると思われる大きく深い傷を負っています。彼女は、麻酔もないので、太ももの傷にガーゼを当てるときに叫びます。9歳のラーナ・アドナンは、胸を切り裂かれて肺を挫傷し、酸素吸入が必要です。脳震盪、頭部裂傷、それに左腕に榴散弾を受けています。

(以下略)



心がうち震えつつ、それでも思いとどまることのない  ペギー・ギッシュ
Shaken but Undettered by Peggy Gish
2003.3.24

 これまで、私たちのチームの皆が無事です。私たちは心がうち震えました、そして、引き続くバグダッドの爆撃に多くの悲しみを感じています。爆撃は、たいてい夜に行なわれていますが、昼間にも散発的な爆撃があります。たいていの方向で地平線に、火の手が上がった建物から黒煙の立ち上るのが見えます。昨日、燃える石油から立ち上る大量の黒煙がありました。それは、私には物理的にきつかったのですが、今日は、さほど悪くはありません。

 私たちは、ホテルの e-メールサーバーからメッセージを発信しようとしましたが、発信できたかどうか定かではありませんでした。私たちはまた、3日間メッセージをぜんぜん受け取ることができませんでした。私たちのチームのメンバーが、何人かのジャーナリストにアクセスしました。それで、私たちのメッセージを外へ伝えることができるかもしれません。たった今、私がこれを書いているとき、背後で2つの爆撃がありました。

(中略)

 私は、いま起こっていることへの、恐怖と怒りと、しかし大部分は悲しみとが、ごた混ぜになったものを経験しています。この社会とこれらの無辜の人々へのこの攻撃には、正当な理由が全くありません。私は、彼らの強さと勇気と、彼らに対して爆撃している国から来ている私たちに対する変わらぬ開いた心と慈愛深さに、感銘を受けています。私たちは、まだこの人々と一緒にいることができる、それが可能であり続けることを願いつつ、いま起こりつつあることをリポートします。

(以下略)



愛と生活の力の証明 キャシー・ブリーン
A Testimony to the Power of Love and Life by Cathy Breen
2003.3.23

 まだ時間がある間に、あなたがたに何らかの言葉を発信したい、という気持ちにかられています。いま書いているときでさえ、爆弾の破裂があって、私の部屋のドアや窓ガラスを吹き飛ばす恐れがあります。私は、爆撃が恐ろしくなくなってきてはいませんが、少し慣れてきているようには思います。あるいは、私の動作がゆっくりしたものになってきているのは、全般的な睡眠不足が原因かもしれません。昨夜は自分の部屋で、ベテジョが私の隣のベッドにいて、いっしょに眠りました。夜中じゅう断続的な爆発があって建物を強く揺すぶりましたが、私たちが1階により近い下の階に逃げ出したのは、実際1回だけでした。この、攻撃されるのを待っているというのは、とても恐ろしいことです。でも、この戦争自体が、叙述するのも身の毛がよだつほど恐ろしいものです。

 私は、イェルミューク病院を訪れて戻ってきたところです。そこで、私たちの中の数人が負傷者と会うことができました。ベッドを一つ一つまわって、この無意味な大虐殺の犠牲者を目撃したときの、悲しい光景。この病院は、金曜の晩の3時間の間に108人を受け入れ、昨夜(日曜)にはさらに40人受け入れました。ラジャブ・カリム医師は、土曜の夜にひどい負傷で運び込まれた26歳の母親の場合を話してくれました。彼女はただちに手術を受け、現在集中治療中です。しかしながら、彼女の2歳の子どもは、ロケットが家のドアを突き抜けて直撃したとき即死しました。

 私は、8歳の幼い少年アリのベッドの横で、無力感にとらわれながら立ちつくしました。彼の頭と腹部は完全にガーゼでくるまれていました。昨日彼の家が破壊されたとき、お父さんを含めて家族の3人が死にました。10歳の少女ファティーマは、爆撃の中を家から逃げようとしましたが、逃げ遅れました。壁が彼女の上に崩れてきました。彼女は左足を何か所も骨折しました。市街地区の外で暮らしていて、電話も輸送手段もなくて、翌日になってやっと運ばれてきたのです。X線写真で骨折の様子を見せてもらって、私は、彼女が経験したに違いない痛みを想像することしかできませんでした。

(中略)

 昨日、私たちは、カリーマの娘で13歳になったアマルのささやかな誕生パーティーを催しました。あなたがたは、もう彼女のことをよく知っているでしょう、私がもう何度も彼女と彼女の家族のことを書きましたから。彼女は、私のアラビア語の先生です。彼女と彼女の家族、そしてIPTの私たち、ホテルのスタッフ、タクシードライバー、他の友人たちの一群は、通りを横切って草地(バグダッドでは見出すのがたやすくはないのですが)へと出かけました。ケーキをもって行き、風船でバレーボールをして、逆境にもかかわらず生きていることを祝福する楽しいときを過ごしました。これは、いかなる政府も権力も、人間の友情の絆を断ち切ることはできないという宣言です! アマルのパーティーはすばらしいものでした。

(以下略)



春の朝:「衝撃と恐怖」の後の キャシー・ケリー
Spring Morning : After“Shock & Awe" by Kathy Kelly
2003.3.22

 チグリス川沿いのここバグダッドでは、穏やかな夜明けと鳥たちのさわやかなさえずりは、激烈な爆撃の恐ろしい夜のあとで、かつてなく貴重なものでした。穏やかな朝とともに、ホテルで働いている友人の家族が「だいじょうぶ」ということがわかって、安堵感が訪れました。シャレードの達人アブ・ハッサンは、彼の家で起こったことをパントマイムで表現しました。彼は、私の部屋の窓を指さして、5本の指をあげ、床に触れ、そして「おしまい」と表現しました。5つの窓が壊れてしまったのです。それから彼は、天井のファンを真似るために大きく腕を回し、また「おしまい」−−それは、床に落ちて壊れてしまったということです。次いで彼は、子供たちがしたことを示すために、手を頭にやってしゃがみ込みました。リヤッドはそのとき私に言いました、彼の兄さんとお父さんが1991年の湾岸戦争で「おしまい」になったと−−眠るジェスチャーをしながら。それは、2人ともその戦争で死んでしまったという意味です。それから彼は、涙をぬぐう真似をして、お母さんが一晩中泣いていたことを説明しました。過去の怒りを想い出し、現在の怒りに身を震わせながら。アブ・ハッサンとリヤッドは、バグダッドの貧困な地区サダムシティで暮らしています。

 昨晩午後8時に、私は、ホテルの2階のバルコニーに座って、夜空の照明弾の閃光を見つめていました。爆撃の第1ラウンドは、離れたところのようでした。そして後に続く静寂の中で、ネヴィールが、たぶん明日の夜が本番だろうと推測しました。私たちは、爆撃は自分が仮眠するために横になった後45分後に始まるだろうというネヴィールの予測について冗談を言いましたが、全く正確にその通りになりました。「ネヴィール、起きていないといけませんよ。」とエドが言いました。私たちの場違いな陽気さは、ホテルを繰り返し揺すぶった雷鳴のような爆発音によって破られました。

 私は、自分の部屋へすっ飛んで行き、すばやくコーヒーを1杯いれて、綿棒をひとつかみポケットに入れ、雑誌と2〜3冊の本をひっつかんで、階段を2段飛ばしで急いで、1階の「ティールーム」に集まった他のホテルの住人やスタッフと一緒になりました。

 私には、12歳のマルワンと彼の9歳の妹ディーマが、大人たちの顔をうかがっているのがわかりました。ありがたいことに、私たちはみんな、何とか冷静さを保っていて、マルワンとディーマも大人たちにならって冷静にしていました。一人のクリスチャンの婦人が十字を切り、ムスリムの男性が祈りのマットを広げました。(彼はホテルのオーナーで、信心深いイスラム教徒ですが、キリスト教徒の隣人たちを一緒にとどまるように招いたのです。)

 私たちは、棍棒で何度も打ちつけるような攻撃のバグダッドの長い夜を、落ち着いて耐えました。綿棒は、棒拾いゲームをしたり、3目並べゲームの枠を作ったりするのに便利でした。キャシー・ブリーンが粘土のかたまりをいくつか作り、私たちはそれをマーカーにしました。親しみやすいタクシードライバーのモハメドは、小さなピンク色のかたまりをつまみあげて、ポイと口に入れました。お菓子のガムドロップだと思ったのです。彼は、わざとそうしたのでしょうか。ともかく、それは、子供たちを爆笑させた見事な気晴らしでした。

 明日、私たちは、13歳になるアマルの誕生パーティーするつもりです。昨夜は、母の日の祝いでティールームにケーキがあらわれました。幼いザイーナとマラッドは、ホテルのナイトマネージャーの娘たちですが、私を元気づけてくれて、そして、両親が彼女たちを寝かしつけるのを私が手伝うのを許してくれました。こんなふうに時がすぎていきます。「イラク解放作戦」の嵐が吹き荒れつづける中で、私たちは、私たちの間の自然な絆を断ち切ろうとするいかなる政府の努力からも、自分たちを解放するでしょう。

 私がこれを書いているときにも、遠くで爆発音が聞こえます。煙の雲が、うねりながらあらゆる方向にふくらんでいきます。昨夜の犠牲者は負傷者207人、うち4人が病院で亡くなった、と聞きました。ニュースによれば、昨夜 1,000発以上の巡航ミサイルが発射され、今夜はもっと多くを撃ち込むことを米国は計画しているかもしれないといいます。美しい春の日に、地獄へようこそ。



私たちはこの戦争のこれまでのところ最も激しい爆撃を経験しています... ウエイド・ハドソン
We've Been Through the Heaviest Bombardment of the War So Far ... by Wade Hudson
2003.3.21

 (「衝撃と恐怖」作戦のこの日に、ビタ・モストフィは、バグダッド中心部のアンドゥルスホテルにいるイラク・ピース・チームのウエイド・ハドソンと電話がつながった。)

 午前2時の少し前です。ここ2〜3時間、爆撃はなかった。私は、日付さえ定かではなくなっています、時計を身につけていないので。22日だと思います。私たちは、これまでで一番激しい爆撃を経験しています。

 ここの私たちのホテルは、爆弾とミサイルによって−−おそらく20〜30回−−揺すぶられた後に、エレベーターのそばの壁のタイルがはがれました。すぐそばのアル・ファナールホテルは、ひとつの窓がなくなりました。アル・ダールホテルはみんな無事です。私たちは、携帯電話で折にふれて交信し続けています。みんな意気軒昂のようにみえます。

(以下略)



春の第1日に ベテジョ・パサラッカ
First Day of Spring by Bettejo Passalaqua
2003.3.21

 私は、この春の第1日に、誰もが健やかでありますようにと願う。当地では今日はすばらしい日です。空は晴れて、太陽が輝き、空気は暖かい。「物語」は戦争についての神の怒りであるのに、私が当地のすばらしい天候について書くのは奇妙に思えるかもしれませんが、私には、戦争のさなかでさえ存在し続けていてすたれることのない美を想起することは大切なことのように感じられます。この真実は、私がここイラクで知り合うようになった人々にも、とてもよく当てはまります。彼らは、とても長い間、戦争のただ中で暮らしてきました。そして、その恐ろしい諸結果に苦しんできました。それでも彼らは、私たちIPTのみんなにとって、美の輝きであり続けています。

 昨夜、私は、私たちの地下シェルターに滞在している家族の中の二人と親しくなることができました。デーヴァ(8歳)とファディ(14歳)の家族は大家族で、おじいさんおばあさん、両親、数人のおじさんおばさんと一緒に暮らしています。また、2歳と3歳の幼い娘を抱えた、別の若い母親がいます。昨夜爆撃が始まったとき、私は、病院にある美術道具を取り出してきて、子供たちを誘って絵を描くように求めたり、紙の鎖を作ったりなどしました。それが子供たちと私自身の気を紛らすことに役立つだろうと思ったのです。でも、私たちの世界がこの子供たちに提供できるものが、せいぜい間に合わせのシェルターの中での紙の鎖だけだというのは、とても恥ずべきことです。

(以下略)