米軍がファルージャで市民を虐殺している。
Americans Slaughtering Civilians in Falluja
Dahr Jamail, The NewStandard, 12 April 2004
http://electroniciraq.net/news/1452.shtml


米狙撃兵に首を撃たれたイラク女性

私は、ファルージャにはほとんど報道がない事を知っていた。そして街全体が封鎖され、この数日間、水も電力もないといった集団懲罰に苦しんでいた。私が読んだり聞いたりしていた記事を出していた、現地にいるたった二人のジャーナリストと共に、私は確かに行われている残虐行為を目撃しに行くことに引き付けられるのを感じた。

数人の友人の助けを得て、私たちは国際的な小さなグループに加わり、人道援助物資の荷を運ぶ大型バスに乗った。彼らはまた、今にも始まろうとしていた米軍の次の猛攻撃の前に負傷者の一部を運び出すという希望を持っていた。

現在、バグダットを出発することさえ危険であった。軍はバグダッドとヨルダン間の主要な高速道路を封鎖している。高速道路は、バグダッドのすぐ外でさえ、荒れ果て、破壊されたタンクローリーが転がり、高速道路にくすぶった破片を散らかしている。私たちは陸橋の下でまだ燃えさかっている巨大なM−1戦車の横を進んだ。その戦車はレジスタンスにたった今、攻撃されたところだった。

最初の米軍の検問所で、兵士たちはそこで連続30時間も詰めていると言っていた。検問後、でこぼこの埃だらけの道を進み続けた。アブ・グレイブの一角を通って迂回し、確実にしかしゆっくりと包囲されたファルージャへ向かって進んだ。私たちがアブ・グレイブの小さな家々の一つを通り過ぎる間、一人の子供がバスに向かって叫んでいた。「僕たちは、死ぬまでムジャヒディーンだ!」と。

私たちはゆっくり高速道路に戻った。煙を上げるタンクローリーや破壊された戦車や装甲兵員輸送車、そして攻撃された大型トラックが散らばっていた。その大型トラックは今や近隣の村によって強奪され、人々が物資を運んで高速道路を走って行き来していたものである。それはまさに荒廃した情景であり、その道路を辛うじて数台の別の車が走っていた。

米軍がかろうじて維持していた高速道路を一旦降りると、ムジャヒディーンの統制下の地域に入るにつれて、米軍の存在はまったく見られなかった。そして私たちが人々の横を通り過ぎる時はいつでも、彼らは叫んだ。「神よ。ファルージャへ行く者たちをお助け下さい!」と。通り過ぎた人は皆、私たちにVサインを見せ、手を振り、親指を立てる動作をした。

ファルージャに近づくにつれ、道の両端には、水とパンをファルージャに入る人々に配る子供たちのグループがあった。彼らは文字通り山のように大量の平たいパンをバスに投げ込み始めた。その友情と地域共同体意識は信じられないほど素晴らしいものだった。誰もが私達に叫び声援を送っていた。数グループが道路にそって点在していた。

私たちがファルージャに近づいていた時、大きな米軍の爆弾によって引き起こされた巨大なキノコ雲が街がら立ち登った。休戦などそんなものだ。

街に近づくにつれ、より多くのムジャヒディーンの検問所を私たちは通過した。その一つで、ケフィール(kefir)で顔を覆いカラシニコフ・ライフル銃を持った男たちが、闘いへの熱意を示して銃を空へ向けて発砲し始めた。

その街は、通りのすべての角に立つムジャヒディーンのグループを別にすれば、実質的には無人だった。それは戦争下の街だった。私たちはある小さなクリニックへ向かった。そこへ私たちはイタリアのNGOである、"INTERSOS"からの医療物資を配送する予定になっていた。その小さなクリニックは、マキ・アルナザル氏によって運営されている。彼はちょうど4日前に雇われた。彼は医者ではない。

彼はよく眠っていなかった。その小さなクリニックの医者全員と同様に。そのクリニックはたった3人の医者で始められた。しかし米軍が病院の一つを爆撃し、そしてまさに今、主要な病院に出入りしようとする人たちを狙撃しているので、事実上、2つの小さなクリニックだけがファルージャ全域を取り扱っていた。もう一軒のクリニックは、車庫に設置されていた。

私がそこにいた時、米軍に狙撃された女性と子供たちの途切れることのない流れが、大急ぎでその汚いクリニックに運び込まれてきた。嘆き悲しんでいる家族は、彼らを載せてきた車で正面の囲いを急いで通過した。

ある女性と小さな子供は首を打ち抜かれた。その女性は息の漏れるようなごぼごぼという音をたてていた。音を殺したようなうめきの中で医者たちが必死に彼女を治療した。

小さな子供は、医者たちが彼の命を救うために大急ぎだった時、目をどんよりさせ、空間をじっと見つめながら、吐き続けていた。

30分後、そのどちらも、もう生き延びられないだろうと思われた。

またひとしきり米軍の攻撃の犠牲者が病院に運び込まれた。彼らのほとんど全員が女性と子供だった。

この光景は断続的に、狙撃が続く夜間になっても続いた。夕方が近づくにつれ、付近のモスクの拡声器は、ムジャヒディーンたちが米軍車両を完全に破壊したことを伝えた。怒鳴り声に加えて、通りでは銃撃が繰り広げられた。モスクで高らかな祈りが始まるとともにこの地区の決意と確信は、肌で感じられようになった。

ケフィールで顔を覆い、身丈と同じ大きさのカラシニコフ銃を持った11歳の小柄な少年は病院地区を警備しており、彼らが安全であることを確信していた。彼は自信に溢れており、闘いたがっていた。11歳の子供と戦闘することについて米兵はどのように思うのだろうか。翌日、ファルージャから出る道の途中で、私はムジャヒディーンとして闘っている少年のグループを幾度となく目撃した。

ファルージャの市内の救急車は、米軍の狙撃兵によって狙われた。


米狙撃兵に撃たれたファルージャの救急車

私たちが支援物資を配給した後、友人三人が負傷者を収容するためにまだ使える救急車に乗り出すことで一致した。救急車には、米軍が狙撃した運転席の前面の窓を貫通した三つの穴が残されていたが、西洋人が乗車していることによって兵士がより多くの負傷したイラク人の収容を認めるだろうということを唯一の希望にしていた。かっての運転手は負傷した。狙撃兵の射撃によって銃弾が頭部をかすめたのである。

街全体には、散発的な銃撃とともに、時々爆弾の爆発があった。

暗闇が迫り、残虐行為を記録していた地元の一人とともに夜間を過ごすことをあきらめた。彼は死んだ赤ん坊の映像を私たちに見せた。彼によると赤ん坊は、海兵隊によって母親の腕から引き剥がされたという。その他の恐るべきイラク人殺害の記録が、私たちに紹介された。

ファルージャにおける私のすべての時間は、戦闘音をともなう間断なく続く混乱であった。私たちが寝泊まりしている家屋に向かって人の気配のない通りを歩いていると、一機の戦闘機が頭上を飛び、フレアを投下した。私たちは、壁際に向かいしゃがみ込んだ。クラスター爆弾が投下されたのではないかと恐れた。このこと(クラスター爆弾の使用事実)は報告されていたのである。クリニックに担ぎ込まれた最後の犠牲者となった二人は、地元の人々の報告によるとクラスター爆弾に当たったのだという。遺体はひどく焼けこげ、ずたずたに切り裂かれていた。

浄水されていない水を飲んだことによる病気の苦しみと侵攻が開始されることへの絶えることのない心配の中におかれた長い夜であった。私は眠れなかった。眠りに入るや戦闘機が飛び交い、大規模な空爆が開始されるのではないかと心配した。その一方で、ファルージャ全域には、単調な音(銃声)が鳴り響いた。

翌朝クリニックに引き返した。この地域のムジャヒディーンたちは、常に迫り来る侵攻に、非常に神経質になっていた。彼らは戦闘態勢を取っていた。二人の遺体を別の救急車で収容した私の友人の一人は、遭遇した海兵隊員に立ち去るよう言われたという。軍部が「街の掃討(クリーン)」を開始するための航空機による支援を、まさに実施するというのである。クリニックに搬送した遺体の一つは、家の外で狙撃された老人であった。狙撃された時、老人の妻と子供は(そのシーンを目撃し)家の中で座り込み、嘆き悲しんでいたという。

家族は遺体に近寄ることが出来なかった。米軍兵士に狙撃される危険性があったからである。硬直した遺体は、飛び交うハエとともにクリニックに搬送された。

狂気の事態は悪化し続けており、クリニックからの負傷者が私たちのバスに乗り出発できるようになった時には、誰もが侵攻が近くにまで迫ってきていることを感じた。米軍の爆弾は、私たちからそれ程離れていない所へ投下され続けた。そして散発的な銃撃が続いた。戦闘機は街の郊外を旋回している。

道路沿いのムジャヒディーンたちが集まる場所を通り過ぎ、私たちは出発した。家族を乗せた乗用車の長い列の中で、私たちはゆっくりと戦闘の無い街へと進み始めた。途中の街の郊外では、軍事車両を抜き去った。ある地点で間違えて曲がり、異なるムジャヒディーンたちが支配する道に沿って下ろうとした時、私たちは、撃鉄に指を掛け、銃口を向けた男たちに取り囲まれた。車の中の医師と患者は、私たちがファルージャからやって来て、人道支援活動中であることを説明した。そこで彼らは行くことを許した。

バグダッドに戻る行程はゆっくりとしたものであったが、比較的平穏であった。自由の戦士たちによって破壊され煙の立ちのぼる乗用車を通り過ぎた。さらに破壊された、燃料輸送車、軍用車両があった。


このサッカー場には、125人もの遺体が埋葬されている。ファルージャでは、600人以上の人々が殺害された。

私がファルージャから報告できる事は以下のことである。停戦はない、また明らかに一切存在しなかった。イラク人の女性と子供は、米軍狙撃兵に狙われている。600人以上のイラク人が米軍の侵攻によって殺され、住民は、二つのフットボール場を集団墓地にしなければならなかった。救急車は米軍によって狙撃された。そして今、街への全面侵攻の準備がなされている。

これらすべてが、ブラックウォーター・セキュリティ社の要員4人を殺害し、橋桁に2人の遺体をつり下げた人々を拘束するという装いの下に行われているのである。




    ファルージャの大虐殺を今すぐ中止せよ!