中村哲医師の講演会「孤立のアフガン」(9/30)について

(坂井貴司さんのメモ)



 9月30日、福岡市中央区薬院の河合塾福岡校において、パキスタン北西部およびアフガニスタンで医療活動をしているNGO「ペシャワール会」http://www1m.mesh.ne.jp/~peshawar/ の中村哲医師の講演会「孤立のアフガン」が開かれました。その講演の内容を記憶をたよりにまとめました。細かい所は間違いがあると思います。
 さて本文を読んで、中村医師は親タリバーンではないかという印象を持たれる方もいらっしゃると思います。しかし、17年間にわたってアフガンを見つめ続けてきた彼の言葉は耳を傾ける価値があると思います。

 なお、感心することがありました。当日約1000人の市民が詰めかけました。教室に入りきれない一般の聴衆を見て学校側は、講演を聴きに来た塾生に、あとで録画したビデオを見せるから退室するように、と告げました。すると塾生たちはさっと退室しました。本来は塾生のための講演会です。まだまだ若者は捨てたものではありません。




中村哲氏の講演会 「孤立のアフガン」

福岡市中央区薬院・河合塾にて 2001年9月30日


1 「報道管制」は不可能

 タリバーンは報道管制を敷いていると欧米や日本のマスコミは言います。しかし、アフガンではこれは不可能なことです。なぜならば、電気が通っていない村が圧倒的に多いからです。つまりテレビがありません。徒歩でしか行くことができない村も多い。3000メートル級の山岳地帯が大部分のアフガンで、そのような統制ができることは考えられません。
 アフガン人の多くはBBC放送のパシュトゥー語ラジオを聞いて、わりと正確に今回の米国における同時多発テロを把握しています。
 なお、このテロ事件のニュースが伝わった際、アフガン人のほとんどはテロリストを強く非難し、犠牲者への哀悼の意を表しました。しかし、テロを指揮したとされるビンラディンが潜伏しているのでアフガンへ報復攻撃をするというアメリカに対して、今までにないけた外れの敵意を抱いています。


2 「女性への抑圧」の実体

 
 タリバーンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけています。これが欧米の人権活動家には女性抑圧の最たるものと映っています。しかし、ブルカ着用は農村部での常識です。農村出身者が多いタリバーンは農村の常識を、都市部で強制しているにすぎません。

3 大変親日的なアフガン人


 どんな山奥の小さな村に行っても、広島・長崎に原爆が投下されたことを知らない人はいません。アフガン人たちは、自分たちの国を侵略したロシア・イギリスと戦った日本に好意を持っています。もっとも、日本についての正確な知識はほとんどありません。真顔で「日本まで歩いてどのくらいかかるのか」と聞かれたことがあります。(笑)それはともかく、アフガン人の間に外国人排斥の動きがあっても、日本人は例外とされてきました。このおかげでペシャワール会の活動がどれほど助けられたかわかりません。
 しかし、今回の米国の報復に日本が協力を表明したことで、アフガン人の親日度が下がることは間違いありません。

4 誇り高いアフガン人

 アフガン人たちは、ロシア・イギリスの度重なる侵略を自力で跳ね返したことに誇りを抱いています。そして、統一国家アフガニスタンを指向する気持ちが根強くあります。そのアフガニスタンは多民族国家です。パシュトゥー人、ウズベク人、タジク人、日本人によく似た顔立ちのハザラ人から成っています。その彼らをまとめ上げているのが、統一国家アフガンへの思いとイスラーム教です。
  ただし、統一国家といっても近代国家のそれではありません。江戸時代の幕藩体制のようなものです。


5 アラブ人への感情


 知っての通り、アフガンのタリバーン政権はアラブ人のオサマ・ビンラディンをかくまっています。これは彼が旧ソビエトと戦ったことと、異国から来た客は丁寧にもてなすアフガンの伝統からです。その客人をアメリカに引き渡すのはとんでもない、と普通のアフガン人は思っています。しかし、だからといってアラブ人に対する感情は良いとはいえません。

6 250円と8円の命


 アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないためにばたばたと人が死んでいきます。しかし、扁桃腺が腫れただけでロンドンやニューヨークへ飛んで診察してもらう金持ちがいます。彼らは日本の小金持ちがびっくりするほどの財産を持っています。
 その一方で一発の銃弾の値段は8円です。8円で人殺しができます。


7 BBCヒーロー

 一九七九年にソビエトがアフガンに侵攻した際、多くの人々が村や家族を守るためにゲリラとなって戦いました。外国のマスコミが取材に殺到しました。報道によってゲリラの中から日本や欧米で有名になった者が出ました。彼らはBBCヒーローと呼ばれています。BBCとはイギリスのテレビ・ラジオ局で日本のNHKにあたります。アフガンにおける外国マスコミの代名詞です。そのいわば作られた英雄の中で、日本でも有名なのが米国同時多発テロの二日前に暗殺されたマスードです。しかし、彼はひどいことをしました。ソビエト軍撤退後の内戦で、タジク人の彼は対立するハザラ人の村に無差別攻撃を行い、多くの人々を虐殺しました。 

8 アフガンは地球温暖化と国連経済制裁の犠牲者


 私がアフガンに来た17年前と比べると、この地を東西に横切るヒンズークシ山脈に降る雪の量が目に見えて減っています。それで雪解け水の量も激減しています。降雨量も同じです。地下水の水位が下がっています。
 昨年アフガンは史上最悪の旱魃に襲われました。雨が一滴も降らなかったのです。川は干上がり、井戸は枯れました。田畑や牧草地は乾き、砂漠になりました。多くの農民や遊牧民は難民となり都市に流れ込みました。廃村が続出しています。この飢餓と水不足でこれまでに約100万人が餓死したと言われています。このことは全くといっていいほど先進国では報道されませんでした。それどころか、米国や国連はアフガンをテロ支援国家に指定して経済封鎖を続けています。そのために被害はひどくなる一方です。その上に米国の報復攻撃です。崩壊寸前の小国を相手に国際社会、すなわち欧米諸国は戦争をしようとしています。一体、米国は何を守るために戦おうとしているのでしょうか。
 

9 難民収容所と化した都市

 先に言いました旱魃によって首都カーブル(カブール)やジャララバード、カンダハルなどの主要都市は町全体が難民収容所になりました。そして今回の米国の報復攻撃を恐れて、お金がある人たちはパキスタン国境に殺到しています。都市に残っているのは、どこにも行く当てがない本当に貧しい元農民や遊牧民ばかりです。
 パキスタン政府は国境を封鎖したと言っておりますけれども、1500キロもある国境線を見張るのは不可能であります。検問所を避けて、徒歩で3000メートル級の山を越えてパキスタンを目指しているのが現状です。その山越えで年寄りや子どもがたくさん死んでいます。


10 今回の事件は「終わりの始まり」


 今回のテロ事件は終わりの始まりだと私は思っています。経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったのです。今、日本は少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなったと私は思います。

11 小泉首相を対米協力について


 小泉首相の支持率は80パーセントだと聞いています。その彼がアメリカの報復行動にできるだけ協力するとブッシュ大統領に約束しました。この事は重く受け止めなければなりません。大多数の日本人が支持した政治家の選択です。これは日本人の選択なのです。

12 私だってテロに走りますよ


 アフガンの人々は、仕事は無い、家も無い、お金も無い、食べ物も無い、飲み水も無い、何もかも無い無いづくしの状況に追い込まれています。助けを求めても、豊かな先進国は手さしのべようとはしませんでした。声を聞こうとさえしなかったのです。徹底的に無視されました。そんな絶望的な状況に追い込まれたら、私だってテロに走りますよ。

13 日本は平和憲法を全面に押し出すべき

 日本は憲法9条を全面に押し出すべきです。「我が国は憲法によって戦争に今回の参加することはできません」とはっきり言えばいいのです。それで日米関係が悪化して経済的に不利益を被って少し貧しくなってもいいと私は思います。アフガンに比べればどうってことはないですよ。

14 むしろ米国や日本の方が報道管制を敷いている


 日本に帰って驚きました。マスコミの報道があまりにも一方的だからです。タリバーン=悪者、北部同盟=よい子、悪の権化ビンラディンをやっつける正義の味方アメリカ、という図式で報道しているからです(笑)。冷静さを失っているようです。
 タリバーンというのは「神学生」という意味です。農村の普通のおっちゃんや兄ちゃんが(笑)がメンバーです。
 ペシャワール会が旱魃対策のため井戸掘りをしていた時です。一緒に井戸を掘っていた村人が、「タリバーンに気をつけろ。武器を持っているからな」と注意してくれました。その人自身もタリバーンのメンバーです(会場大爆笑)。ただ、アフガンの多数民族であるパシュトゥー人が中心であるため、少数民族のハザラ人やタジク人と対立していることは事実です。私もハザラ人と間違えられて、頭に銃を突きつけられたことがあります。


15 復讐法について


 アフガン人にとって法とはイスラム法と復讐法です。野蛮の代名詞とされている復讐法については説明します。
 アフガンはシルクロードの十字路であるため、古代から現在にいたるまで戦争が繰りかえされました。「やられたらやり返せ」をしないと生き残ることができない土地です。
 話が脱線しますけれども、アフガンと同じように戦乱が絶えなかったパレスティナに生まれ育ったイエス・キリストが「汝殺す無かれ」と説いたのはとてつもないことでした。生き残るための復讐を禁じたというのは実に極限状態の決断なのです。
 私も似たようなことがよくあります。無医村へ診察に行きますと、びっくりするほどたくさんの人々が集まります。行列ができます。待ちきれない人々が怒って投石をします。発砲することも珍しくありません。アフガンでは内戦が続いているので多くの人が銃を持っています。ロケット砲を打ち込まれたこともありました。幸いはずれましたけれども。(笑)また、援助団体の派閥抗争に巻き込まれて、謀略にはめられかけたこともあります。そのたびににアフガン人スタッフは怒って、仕返しだ、やりかえせといきり立ちます。そのたびに私は「復讐をしてはならん」と言います。すると彼らは目を丸くして「仕返しをしてはならんですって!ドクターは正気か」と驚きます。私は「復讐をすれば必ずあとで仕返しを受ける。今は我慢だ」となだめます。これを17年間やってきました。
 また脱線しますけれども、アフガンを含むイスラム教圏において、イエス・キリストは、ムハンマド(マホメット)に次ぐ預言者として崇拝されています。なお、私も一応クリスチャンです(笑)。


16 募金の行方

 
 ユニセフなどの援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために使われます。残りの1割しか難民に使われません。それに対して、ペシャワール会へ寄せられる募金の9割が実際の援助に使われます。当会は全くのボランティアで運営されるために、それが可能なのです。

17 「教育の貧困」について

 アフガンの農村においては、イスラム教の指導者(村の長老がなる)が寺子屋を開いて、子どもたちに字の読み書きを教え、クルアーン(コーラン)の暗誦させます。クルアーンには、人が人としてなすべき道徳や、日常生活の決まりが書かれてあります。そして、幼いころから大人と一緒に働いて仕事を覚えます。それがこの国の農村における教育です。
 よく国連のユニセフあたりがこのような状況を見て「なんたる教育の貧困」を嘆き、学校を建設し、教育を施そうとします。しかし、私はそれが良いとは思いません。もし、すべての農村に学校を建設し、子どもたちに先進国なみの教育を施したら、学校を卒業した途端に村を捨て都会へ流れるでしょう。ほとんどの村が過疎で空っぽになることが予想されます。教育を通じて豊かな都会の生活を知るからです。それは日本がすでに経験したことです。


18 なぜタリバーンが政権をとったのか

 
 タリバーンの兵の数は私が見た所、せいぜい2万人ぐらいです。こんなに少ない兵力でなぜ国土の9割を支配しているのかと言いますとそれは、平和を求める民衆の止むに止まれぬ思いからでした。
 1992年4月、ナジブラ社会主義政権が倒れ、ラバニを長とする暫定政権ができました。これがすぐに内紛を起こしたのです。また戦いが起こりました。治安は極度に悪化し、強盗や殺人が横行しました。人々はうんざりしていました。「もう戦争は嫌だ。平和が欲しい!」それが民衆の心からの願いでした。そこへアフガン南部のカンダハルを拠点とするタリバーン勢力が勃興しました。党派争いに疲れ果てていた民衆は、タリバーンが平和を回復してくれると期待しました。その期待を受けて、タリバーンはあっという間に支配地域を広げました。確かに平和が確立されました。イスラーム法に則り犯罪者を厳しく取り締まった結果、治安は見違えるほと良くなりました。
 平和を求める民衆の、積極的とはいえない支持で、タリバーンが政権をとったのです。


19 自力で帰国したアフガン難民

 
 1989年、旧ソビエト軍がアフガンから撤退を開始しました。これによってパキスタンに逃れていたアフガン難民350万人がすぐに帰国するとの観測が流れ、国連は数百億円の予算(その多くを日本が拠出)を使って難民帰還計画を立てました。これに欧米の200を越えるNGOが群がりました。しかし、誰一人帰国する者はいませんでした。実はアフガンの戦闘がさらに激しくなったからです。生き残りを賭けるカーブルの社会主義政権と、戦いに勝って新政府の主導権を握りたいゲリラ各派がぶつかりあいました。そして、数千万個にのぼる未処理の地雷や不発弾もあります。そのような実情を無視して、国連や欧米のNGOは机上の難民帰還計画に熱中し、難民たちを翻弄しました。結局何一つ実現しませんでした。数百億円はどこに消えたのでしょうか。そして、1990年に湾岸戦争が勃発すると危険だという理由で、彼らの多くは難民を見捨てて撤退しました。
 その難民たちは、1992年4月にナジブラ社会主義政権が崩壊し戦闘が下火になると、自主的に帰国を始めました。
 今でもはっきり覚えています。
 彼らは胸を張り、希望に顔を輝かせて家財道具をトラックやラクダ、あるいはロバの背に乗せて、続々と国境を越えて帰還しました。信じられないような光景でした。夢のようでした。誰にも指図されず、誰の手も借りずに、自分たちの力で故郷へ帰っていったのです。一生あの光景を忘れないでしょう。


(ここまで)
(翌日中村医師はアフガンへ向かいました。井戸掘りを続けるためです。)
 
※ 中村哲氏の著作
「ペシャワールにて」・「ダラエ・ヌールへの道」・「医は国境を越えて」(いずれも石風社刊)
 「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)
 「ドクター・サーブ 中村哲の15年」(丸山直樹著 石風社刊)




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