三度目の正直なるか!韓国死刑廃止への挑戦

韓国・竜仁大学教授 朴 秉植(ぱく びゅんしゅく)


最近の韓国では

 皆さんご承知の通り、韓国で死刑廃止法案が上程されました。これまでと違って形だけでも審議ができました。これからどうなるかと私も関心を持っているわけです。隣の国でのケンカということで少し関心を持ってほしい、隣の家で離婚するとか結婚するとか大騒ぎになると、影響を受けるんではなかろうか、いい影響を受ければいいけれど、悪い影響になるんではと、少し怖いです。
 死刑廃止法案通過を近づけるために、いろんなことをやっております。つい最近、日本にもシスター・ヘレンがいらっしゃったいうことですが、韓国であったときに「日本にも行くよ」といわれていました。シスターに被害者のことについて教えていただきました。そういう動きを含めて、韓国の動きを報告します。いつものことですけれど一般論ではありません、私の個人的な考え方だと理解してください。
 皆さんにお配りしたフォーラムニュース(前号)を元にして、少し加える形で最近の動きを紹介します。
 韓国ではずっと前には「死刑廃止」を言うと大騒ぎになっていました、「バカヤロウ、おまえ殺しちゃう」と脅されました。例えば私がテレビの深夜討論に出たあとには、インターネットで「おまえの子ども大丈夫かい?」と挨拶が来るんです。なぜ私の子ども心配をするのかわからないけれど、脅しが激しかったんです。最近は慣れというものがありまして、「廃止」ということについては国民も慣れてしまった。最近は死刑廃止を主張しても、受けないことは昔からそうですけれど、反対はそれほど激しくなくなった。
 韓国では刑事司法関係の高い地位の人、最高裁判所の長・判事、あるいは検察総長・警察庁長官などを任命するときは必ず国会で聴聞会をやるんです。資格があるかどうか。昔こういうつまらない判決を下しただろうそれについて今反省しているか。この財産はどこでどうやって儲けたんだ、給料からは決して出来ないはずなのにとか。聴聞会をやったあとに投票で決めるんです。最高裁の判事だとか検察長官を任命するときの質問に必ず入っているのが「死刑廃止についてどう思うか?」。これは昔はなかったことです。ところが質問る人間は廃止論者ではなくって存置論者が質問をする、これは非常に大きな変化です。昔は廃止論者がケンカを売らなければ全く反応がないわけですから、問題を掘り起こすために質問したんです。最近は逆に存置論者の方が、廃止しろという主張があるけれどどう思うかという形でぶつける。
 そして最高裁判事もそうだったんですけれど、はっきりと死刑廃止の意見を述べるようになった。「個人的には廃止するべきだと思う」と、最高裁の判事まではっきり述べるようになったのが最近の韓国の流れです。もちろん検察総長あたりは職業病あるいは自分が検事らを引っ張るリーダーとしての立場から、「まだ早い」と言ってるんです。でも彼らに対して廃止論者の国会議員が強く反発すると「まあどっちでもいいでしょう」と退くようになりました。
 世論は廃止論の方がだんだん高くなって存置論が落ちる、均衡がとれるかなと思ったら、とんでもない連続殺人事件が起こってしまいまた元に戻った。私は一般国民の世論とはどういうものなんだろうと、疑問を持っているんです。連続殺人事件は今回初めてではない。昔、お巡りさんがカービン銃を持ち出してたくさんの人を撃って殺してしまった事件もあった。多くの人を犠牲にした事件は今回初めてではないわけです。そのあとすぐ忘れてしまう。今回の事件について学生たちに聞くわけです。そうすると、名前・・忘れた、何人殺したかということも覚えていない、あやふやな答えしか返ってこない。私が勤めているのは「警察官」を育てる学校なんだけども、将来「警察官」になる予定の人間でさえ正確に答えられない。
 一般国民はどうなんだろう。普段は全く関心がない、ところが調査機関が「スイマセンよろしくお願いします、答えてください」というと、「じゃあ、・・答えるならちゃんと読んで」。それではじめて「やあこれは大変な事件だ・・、死刑にしろ」と答えたのではという気がするわけです。
 2003年に国家人権委委員会というところが、政府機関としてはじめて、死刑存廃についてちゃんと調査しました。委員会から声をかけられて、質問をどう作ろうかと調査機関の人間たちと話し合ったんですけれど、調査結果は良くなかったわけです。国家人権委員会は死刑廃止という結果が出るという狙いがあったんですけれど、ふたをあけてみたら存置論が多かった。2003年の10月から12月、3ヶ月間かけて調査したのになかなか報告書が出ない。結論を出すために研究者たちのシンポジュウムをやりましょうとなった。私も出たんだけれども、廃止派と存置派を対立させる形で討論をやりました。「死刑制度の争点検討」という、製本もしていない資料をもらって、誰もいないところでケンカした。それが2004年の3月23日です。この時期まではアンケート調査の結果を公表していませんでした。その後、このシンポを前提に「死刑制度改善のための聴聞会」という正式な聴聞会をやった。2004年の4月28日でした。中身は前回と余り変わらない、しかしマスコミを呼んで形を作る。正式にやったんです。ところがそのあともなかなか報告書が出てこない。「どうするつもりなんだと」いうと、最初の「死刑廃止を前提にしてやります」と言う答えが曖昧になり、「最初から死刑廃止と言ったことはない」という。「変わったのか、やっぱり世論に押される形で変わったのか」と、少し心配しました。いきなり「死刑制度に対する国家人権委員会の意見」というもので表明され、死刑は廃止すべきということを正々堂々と打ち出しました。
 この中で世論をどうしたかというと、世論を一応引用はするのだけれども、委員の中の誰かが言っ「一部の人間の意見を国民という抽象的な集団の意見として決めてしまうのは、これははたしていいのだろうか」という言葉でうまく逃げたわけです。この原稿(前号フォーラムニュース)も前の月に書いてと依頼だったけれど書けなかった。一ヶ月延ばしてもらい書こうとしたら国家人権委員会の意見が出都合が良くなったんです。
 先の連続殺人犯が何人を殺したかというと25人です。報道されているのは最初21人でした。ところが彼は、早く俺を死刑にしろといいながらも、1人だけは絶対やってはいないと言う。21人で起訴されたんだけれど、その1人は殺していないと言い続けたんです。結局裁判では勝ってしまう、裁判の認定は20人になった。ところが「自分は25人殺した」と言うんです。検察は証拠不足を恐れる、立証しようとしたら証拠を揃えなければならない。もう忙しいのに何を言いだすのか。さらに「人肉を食べましたと」と言うのです。それも証拠が全くない、人肉を食べたってDNAが変わるというものではないからです。その犯人は検察をもてあそぶわけです。
 彼を担当した、皆さんご存じのチャー弁護士、車さんが、戦略・戦術というものを分けるのです。早く国民の脳裏から忘れさせようと全部認めちゃう。欠席裁判でもいい。結局彼は死刑判決を受けるんですけれど、チャーさんのねらい通りそれを気にする人はほとんどいなくなった。

法案提出は「ユ インテ」議員

 「ユ インテ」議員が頑張って175人の署名を得て国会に提出した死刑廃止法案の審議がついに法制司法委員会、日本で言えば法務委員会に上程され審議されました。「ユ」さんは法務委員会のメンバーじゃない。ですから彼が法務委員会に出て質問を受けて発言をするのはあくまで参考人としての出席です。彼がそこへ出、はじめて死刑廃止問題が相手にされたという歴史的なことが起こったわけです。その「ユ」さんには皆さんお会いしたことはないと思うのですけれど、顔かたちがお百姓さんみたいで、あんまり洗練されてはいない。都市の人間とはちょっとかけ離れていて、いばるような方じゃなく、簡単に接することが出来る気さくな感じの人です。感情は豊かです。話しは、考えたことをそのまます〜っと口にしてしまう。一緒にご飯食べると面白いです。冗談もよく言う。
 感情が豊かな人ですから発言している間に涙ぐんでしまったりする。昔のことを思い出してしまうんでしょうね。存置派の議員から質問を受けて「最後の拠り所は誤判、誤判の可能性である」そこにこだわるんです。誤判ということで、彼は私にも言ったんですけれど、彼が刑務所に収容されていたとき、処刑場に向かう先輩の後ろ姿を忘れられない。言いながら涙ぐんでしまう。その写真が新聞に出て話題になったわけです。
 犯罪被害者ということについては彼も気にしているわけです。存置派の人間が被害者感情ということを言ってしまうから、そのへんを何とかしてくれないかということを頼んでくる。犯罪被害者支援について少し説明をします。日本に「犯罪被害者支援法」という法律がありますよね、その中心になっている機関は日本では警察ですね、ところが同じことを向こう(韓国)では検察がやるわけです。検察の力で地域社会で有名な人たちを集める。みんな「罪」を持っているわけですから、検察が「よろしく」というと「よろしく」じゃなく強制です。「おまえわかるだろう」と集めてしまう。援助だと言いながら実際は援助じゃないものを、検察が主導した「犯罪被害者支援団体」というものが作られる。それをきっかけに「法務部長官」が「犯罪被害者・殺人被害者」のことについてうるさく言い出すようになったのです。「ユ」議員もそのへんが気になった。このままだと「犯罪被害者」でつぶれちゃうんじゃないだろうかと。何とかしなければいうことで、じゃ我々の方が「犯罪被害者支援」に乗り出せばどうだろうということで取り組みました。
 カソリックの団体が真っ先に動きました。司教会議という司教たちの全国の集まりがあり、そこに死刑廃止委員会というものがあります。会議した結果、予算が残っているものを殺人被害者家族のために使おう。犯罪被害者のために何が出来るのかという考えるきっかけになればいいい。冒頭に言いました、デッドマン・ウォーキングのシスター・ヘレンを呼んだのです。これがそのポスターなんです。「シスター・ヘレンの特別講演」、「21世紀の死刑廃止、加害者と被害者の和解と許し」。というテーマでやりました。聴衆は少なかったです。日本ではどうかわかりませんけど、韓国ではデッドマンウォーキングという映画を見た人が少なかった。少なくとも若者たちはビデオだけでも見ているんじゃなかろうかと思ったら、そうではない。聴衆が少なくて、あとで学生たちに聞いてみたら、80人のうち2人しか見たことがない。だからヘレンシスターを知っているわけがない。最初狙ったのは「デッドマンウォーキングわかるでしょう、あのヘレンシスターが来ますよ」ということで宣伝するつもりだったのが、あんまりにも反響が少なかった。
 一方で4月20日に「死刑廃止のための宗教連合」が「死刑廃止立法化促進大会」をやりました。これは「ユ」さんを励ます動きだったんです。これは大盛況でした。  誤判についてです。私は「誤判の可能性」といっている意味が分からない、今韓国で再審請求している事件があります。真相究明調査委員会というものもできあがっている。韓国人誰もが冤罪だと言うことを否定する人間はいない。誤判の存在は証明されているわけです。ところがいまだに「誤判の可能性」という。これはとんでもない誤りです。反省こそすべきであって、誤判があるのかどうかを論議する方向に向けるべきではない。テレビで僕はこう主張しました。「検察はなぜ反省しない、人間を殺して反省しない特別機関・刑事司法機関ははたして必要なのか」と、「少なくとも検察は国民に対して、『私はわかっていながら殺しました、申し訳ない』と言うことくらいは言ってほしい、それをしないで偉そうなことをしゃべる、許せない」。
 国会での審議中に面白いことが起こるわけです。存置派が逃げるかたちで問題をすり替えるわけです。日本でもそういう動きがあると思うのですけれど、「死刑相当犯罪が多いことは認める、それを減らせばいいだろう」。と言いだした。これは完全な問題のすり替えです。いままで存置しか言ってなかった連中が、廃止派が強くなることで、次第に(相当刑を)減らせばいいんでしょうと言いだす。韓国には84の死刑相当犯罪がある。死刑存置を主張する裁判官はこう言う「最近の判例は一人を殺しても死刑にはならない、公安事件・政治犯に対しては死刑判決は下さないからいいじゃないか。運用の問題であって理論の問題じゃない」と。それが韓国では通用する。「それでいい、凶悪犯だけ殺せばいいし実際死刑制度あっても97年12月以降執行していないんだから、象徴的に残していいんじゃないか」と。しかし文化遺産でもないしすばらしい遺跡でもない、そんなもの残してどうするのか。
 政治犯に対する死刑判決について、それは誤判じゃなくて政治的な力関係によって判決を出したのだから、その問題と死刑存廃とは無関係じゃないかと言うんです。しかし私は反論する、反論したいわけです。もしそのときに死刑制度がなかったのならば、あれほど乱暴な朴大統領でさえも、彼らを殺せなかっただろう。テロみたいに殺すことはあり得ても正式に捕まえて裁判にかけて死刑判決を下す手続きはとれなかったはずだ。
 終身刑について皆さんはどう考えるかよくわかりません。私は年報(死刑廃止年報)で絶対的終身刑・相対的終身刑ということばをはじめて目にしました。韓国の運動の展開で、この二つの終身刑をどう持ち込んで展開するのかということ。どう改良すればいいかということを考えたのです。向こう(韓国)ではそういう難しい概念は国民は嫌うんです。じゃあ簡単に考えましょう。終身刑はなんなのか?。一生刑務所から出られない、それこそ絶対的終身刑を国民は終身刑だと考える。ならばこれで行こう。定義付けしないで持っていこう。これは韓国の国民感情それから激しさを考えると、これしかないと思ったんです。ところが意外と、死刑廃止運動をやっているキリスト教の、新教の方の牧師さんから大反発をくってしまいました。これは主の教えとは違うんじゃないか。結局負けたんです。しかし今の無期懲役で代替することが通じるかといえば通じる分けないんです。やっぱり時間が必要かなと思いました。
 「ユ」さんも終身刑を提案するとき、その牧師さんが一番怖かったのです、存置派の人間より廃止派の方が怖いという展開になったんです。牧師さんが反発すればどうしようと考えました。行事をやっていくときに彼を主役に持ち上げたのです。「なにか祝辞を述べてください」「いや俺は立場も違うし」「いや牧師先生しかいませんよ」自分の考え方と違うんだけれどもやらざるを得ない、というように持ち込んだのです。彼は最近終身刑に対して反対らしい反対はいわなくなった。「死刑をなくしたあとに終身刑の問題性について話し合いましょう、約束しますから牧師さんね。一緒にやりましょうよ」、周りがみんな彼を励ますわけです。存置論者を何とか説得しなければいけない事態なのに、逆に廃止論者の中の一人の人物を説得せざるを得ない。変な形なんですけれど。

国家人権委員会の意見

 皆さんにお配りした廃止法案、私が訳したものですけれど、ものすごく簡単だということがわかるでしょう。日本の廃止法案は死刑相当犯罪が韓国に比べて少ないということもあるでしょう、いちいち〇〇法第何条に定められている死刑を〇〇に代えるという、そういう作業をされている。韓国はそんな作業をしたら何十ページにも及んでしまう。実際やりました。しかしそういう形で法案を出したならば、癒しつつある問題をかえって血だらけにしてしまう、逆反応をおこしかねない。だから単純に行こうと思った。会議のあともう一人の弁護士さんと一緒にやりました。というふうにしたんだけれど、こちらが正解だったんですね、自分なりに。
 ところが存置を主張する議員さんはそれを問題にし始めた。いろんな個別法に定められている死刑を、特別法一つで全部終身刑に代えますという、その一つではたしていいいいのと文句を言い出した。私はこれで充分だと思う。韓国の国民性に合わせた廃止法案というものは、複雑にすれば嫌うんです。死刑廃止はいろいろ議論はあるんだけれど、こんなに簡単に出来ますよと印象づける。
こういうことのあとに意外や国家人権委員会というところが意見表明をするわけです。法律的に意見表明と勧告と、あといくつかあるんですが、勧告は強制を伴う。国家人権委員会が死刑廃止を勧告したと仮定しますと必ず代えなければならない。意見表明は強制力がないんです。一応の参考なんです。現在国会で審議中であること、その時期にこういう国家機関がこう言いだしたのは、影響力は少なくない。韓国の司法システムは日本と違い、日本は違憲かどうかという判断は最高裁が全部やるのですけれど、韓国には憲法裁判所という司法機関が別にある。憲法裁判所は死刑制度は合憲だということをいったいたわけです。ところが政府機関である国家人権委員会が司法機関の憲法裁判所に対し、「判断はおかしいぞ」と言ってしまったわけですね。法律が憲法に違反するかどうか、合憲か違憲かという判断は、普段は司法府が行政府を牽制して、憲法違反だと言っていたのに、逆の形になった。行政が司法に対してお前たちの判断は間違っているぞと言ってた。憲法裁判所のメンツはまるでつぶれてしまった。
 行政機関の国家人権委員会がなぜそこまでいえるかというと、委員はあらゆる分野の代表者を選んで推薦し大統領が任命する形だから。国家人権委員会が死刑廃止意見書を出すことが出来たことには二つの理由がある。一つは国家人権委員会をどこに置くべきかと議論した際に、法務省の下に置くべきだという意見があったんです。けれど国民の反発により独立機関にしたこと。独立機関になって法務省を攻撃し、今、囚人の人権などは、日本が韓国に追いつくためには50年はかかるだろうと、全部変わりました。昔はこういう(腕を振って足をあげて)形で行進したものが、今はそれも強制できない。逆に刑務官に対してこう(肩をたたくしぐさ)です。「はっきりしろ」、囚人が刑務官に対しそういう事態になった。手紙の検閲も禁止された。行刑法が改正されている途中です。
 国家人権委員会の力。成果があらわれているわけですね。それが一つと、二つ目は行政の中に市民の感覚を入れたこと。NGOや市民団体の代表たちが国家人権委員に加わったんです。会議は今までとはまるっきり違い、ものすごく斬新。人権を真っ先に考える、そういうことからこういう意見表明が出来たと思うんです。小委員会、全員委員会で少しはもめたんですけれど結論を出そうと言うことになった。11人のうち2人が海外出張中で9人、9人の中で8人が死刑廃止。1人だけ死刑存置でした。これ(意見書)日本で訳されているんですか?、やっていない?、そうですか。この文章見ますと、憲法裁判所の合憲判決を気にしながら、それに反論する形で展開しています。機会があれば憲法裁判所の合憲判決と国家人権委員会の死刑廃止意見とを対比する形で見ていけば言えば面白いと思います。はっきりと違憲だと言うのです、憲法違反だと。いままで、存置理論・廃止理論となっているものを全部廃止の方に傾けて結論を出してしまう。ある面では乱暴なんですけれど全部やるわけ。死刑は残虐・残酷であると明言している。

6月中に成立か!!

  これからどうなるだろうかと言うこと、全くわかりません。韓国は先行きが見えないおもしろ国です、良い意味でも悪い意味でも。予測可能性のない国柄なんです。来る直前に「ユ」議員に電話し聞いてみた。激しくぶつかり合う法律案だと、公聴会をやるんです。「ユ」さんは公聴会はやりたくない。それが正解だと思うんです。いま存置理論・廃止理論全部そろっています。わからないところが一つもない。研究者はみんな論文出しているし、政府機関の国家人権委員会は廃止、憲法裁判所は存置と出しているわけだから、全部そろっている。そこで公聴会をやれば「いやあ、まっぷたつにわかれていますね、次にしましょう」ということになってしまう。
 175人もそろっているし、法務委員会も死刑廃止の方が多数だということがわかっている。だから投票に持ち込んで本会議に上程、そこで175人の力で勝とう。私も同意しました。日程は今月(6月)の28・29・30が本会議。今、臨時国会の最中です、臨時国会で本会議で成立させようとうことなんです。韓国は与党と野党がものすごくぶつかっている、法律の面では国家保安法というとんでもない法律がある。その改正あるいは廃止をめぐってもめている。うまいことに死刑廃止法案はもめていな。ひょっとしたらいい方向に結びつくのではなかろうかという期待を持っています。
 2番目は、初当選した議員さんがたくさんいる。少なければ親父みたいな議員に、「はいはいわかりました」と従うんですけれど、初当選の議員が一番多くなった。彼らには多選がどういうことなの、意味ないのではと。その分自由なんです。昔なら党の決定・方針を決め、それに従わなければ除名だとかうるさいんですけれど、そういうことがなくなった。野党のハンナラ党は死刑存置の方が多いんですけれど、でもひょっとしたら、ひょっとする。自由な初当選の議員が多いだけ、大きな力になり得ると読んでいます。
 三番目に「ユ」議員の人柄です。彼に対して真っ正面から悪口を言う人はいません。しかも彼は元死刑囚です。死刑囚が死刑廃止法案をだしたのに、それに対して「反対します」ということは、死んでほしいということを目の前で言うのと同じことになってしまう。だから死刑存置を主張しながらも、言葉が躊躇する。「ま、え〜と、本人がここにいらっしゃるから、どういばいいのかわかりませんけれど、私としては・・」長いわけです。ですから「ユ」さんがもう一言、もう一回涙を流して訴えればひょっとするかもしれない。
 それから国家人権委員会の意見表明というのは大きいと思うんです。反面存置派はうまく逃げている。終身刑が死刑よりもっと残虐じゃないのという。存置派の方が廃止派よりも人権について深く考えているのははじめて聞いたのです。終身刑の方が死刑よりよっぽど厳しいから、だから終身刑はダメで死刑は残すべき、これは面白い。  一番悪いパターンは、一歩間違っちゃうと、終身刑を導入して死刑残してあと無期懲役という、刑罰の種類が一つ増えるだけ。そういうこともあり得る。
 韓国でどうなるかわかりませんけれど、私は悲観的な方なんです。可能性は少ない。三度目の正直、という言葉が日本にありますね。韓国にも三つの場という同じ意味の言葉があるんです。今回通らなければ韓国は不正直なものになります。正直なものになるためにもと思うのですけれども、はたしてどうなるのでしょうか。

質問

韓国の国会の制度と法案の決まり方は?。

 自分の国のことだから当たり前に考えていました。皆さんにシステムを紹介しないまま表だけの事実をしゃべったのです。日本での国会の数え方、第何回国会の数え方が韓国とは違うのです。日本は今何回(160数回)、韓国はいま17期目といいます。国会議員があたらしく選出されると、その任期で数えます。去年の定期国会、今年の定期国会という具合に。ず〜っと同じ第17代という数え方をするのです。国会が解散されない限りず〜っと同じなんです。ですから三度目の正直というのは前々の任期の国会議員の時に最初に死刑廃止法案を出したけれども審議されなかった。前回、16代目のとき、ちょんさんが出した。ちょんさんは今病院にいるんです。彼は今国会議員ではない。新しく国会議員を選出した。それで今回第17代目なんです。まだまだ17代目の国会議員の任期は充分残っているんです。こういう難しい法案は、選挙が間近になると、みんな逃げちゃうんです。責任を問われるかもしれないから、任期が間近になってそろそろ選挙ということになると、合意できない法律は審議しない。ですから「ユ」さんは今年の後半の定期国会が最後だと、そのあとは国民の反応を気にするあまり廃止を主張しなくなる。今通って3年ぐらい経つと国民は忘れてしまうから、争点にはなり得ない。

成立の見込みは?

 「ユ」さんのねらいは、法務委員会で投票にかける。勝つと自動的に本会議に上る。法務委員会で否決されると、本会議に上程されない。国会議長が職権で乗せることはというコースはあるんですが、それほど議長が勇気を持っているとは思えない。175人ということは今299人だから半数をはるかに超えて数字でいえば安心です。ところが中身の問題が少しある。Aさんが議案を出したとすると、Bさんが名前だけ入れて手伝ってあげる。今度はBさんが議案を出すとAさんは昔の恩返しという形で加わるということですから、死刑について本気になって必ず廃止しなければと哲学を持っているのではない。そういう人も含まれた数なんです。けれど公の場で自分の廃止意見をはっきり述べる議員が増えたのは確かです。

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