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各地域で自治基本条例の制定についてはかなり動きが出ています。それは分権改革の結果としてあります。分権改革のときに、そこに残った課題は、一つは自治体のあり方の議論、もうひとつは財源移譲の話であると言われました。財源移譲の話というのは今の「三位一体」の問題で、自治体のあり方というのは、自治基本条例と合併、あるいは道州制の議論ということになってくるわけです。こうしたトータルな問題の典型が、北海道に集約されている状況があります。トータルな課題を、生活クラブ北海道の伊藤理事長から神原勝先生にインタビューしていただきました。(編集部)
生活クラブの自治と分権改革
<伊藤> 生活クラブの「自治」の延長と「市民が政府をつくること」ということから話しを始めます。生活クラブは食べ物の共同購入から始まり、自分たちの生活は自分たちで自治したいと環境、福祉など様々な問題に取り組んできたわけですが、基本になるのは、自分で考え、自分で行動するということです。計画を立て、予算を組み、合意のもとで活動をつくっていく。生活を自治し、地域を自治するというのも、活動のなかで教育されてきました。しかし、組織やシステムが変わっていく中で、今までのように自らが参加する主体をつくっていくことが困難な状況にあり、今抱えている一番大きな問題です。これから議論する分権改革においても市民が政治の場に参加し、まちづくりをすすめる主体をどのように形成していくかが同じように問われているのではないかと思います。その点も含めて神原先生の分権改革の意義とはどのようなことでしょうか。
<神原> 分権自治というのは、政策を含めて政治的な決定の地点を市民生活の身近なところに近づけていくこと、もうひとつは、市民の身近なところに引きつけた権力を市民が自主的、主体的に使ってよいまちづくりを行なうこと。そうした二つの要素があると思うのです。
もう少し大きな観点からいえば、私は「三つの分権状況」ということを考えるのです。分権というと、地方分権という言葉が一番なじみやすい言葉かもしれませんが、実は地方分権だけではなくて、「国際分権」とか「市民分権」などという言葉も私は使います。この二つを合わせて国際分権・地方分権・市民分権と、分権には三つの次元があるのです。
まず国際分権です。私たちは、国民国家を中心にして、発想し、考え、行動してきたわけですが、この国民国家は、日本だけではありませんが、後発国から中進国、さらに先進国へいく過程では、まさに中央集権で、中央政府が権限も財源も人材も情報も技術も一手に掌握して追いつき型近代化を達成するというやり方が百数十年続いてきた。
それはそれなりに有効な面があったのですが、その帰結として先進国あるいは成熟社会になっていきますと、内政中心型の集権的な政治行政は限界に突き当たります。経済の問題、人権、平和、環境といった問題を考えても、これらが地球規模の問題になって、一国の政策判断だけではやれない。そこで、政策決定の地点が、一国単位から国際単位に移行する。国連をはじめとして国際的な機構に事実上の政策決定権が移っていくという流れです。私はこれを国際分権と言っているわけです。
次は地方分権です。内政中心型の集権国家はそれなりに豊かさをもたらしたわけですが、それは画一的、平均値的な豊かさです。例えば、経済成長して所得が向上し、ものにあふれ、確かに豊かさは達成したけれども、実感できる豊かさは得られていない。やはり実感できる本当の豊かさを達成するためには、もっと地域の生活、文化、産業、環境などといった様々な身近な個性を重んじたまちづくりが必要です。そのためには、権限や財源をもっと移して、自治体のまちづくりの当事者能力を高めなければならない。つまり、地方分権ですね。
松下圭一教授の言葉に従えば、「政府の三分化」という現象です。これまでの国民国家の集権的な中央政府が相対的に影響力を低下させて、国際機構と自治体政府が重きをなしてくる。同時に地方分権も進む。その結果、私たちの政府というものが、国だけではなく、自治体、国、国際機構というように三層の構造になっていくというわけです。
そして、この分権の状況にうまく対応していくためのキー概念は地方分権です。地方分権をやらないと、国は国際調整業務に専念できません。例えば、1万件以上の許認可権限とか、3000件以上の補助金といったように、いまだに集権的な内政業務に能力・労力を奪われているわけですから。だから、国から自治体に分権して、国をスリムにし機能も国際調整などの業務に純化する。地方分権をやらないと国際分権の状況にも対応できないのです。
もうひとつは市民分権ですね。地方分権が進んで自治体の自由度が高まると、政策決定に市民が参加して影響力を行使することができるようになる。そのような政治的な意味での参加民主主義を進めることと、自治体の仕事でも、よく吟味してもう一度市民や社会の営為に戻すという意味での役割分担的な市民分権もありますね。私はそのような二つの意味で市民分権と言っています。
「補完性の原理」という言葉がはやっていますね。ヨーロッパ地方自治憲章でもいっていますが、市民と市民の関係、つまり、社会の中で自主的に問題を解決し、そこでできない公共課題を解決するために市町村という基礎自治体をつくり、さらにそこでできないものを解決するために広域自治体を、さらに国、国際機構へと、問題解決のレベルを順次、段階的に移し替えていくという原理的な発想で各段階の政府を再構築し、運用していく。これが「補完性の原理」の考え方です。
日本も遅ればせながら分権時代を迎えて、この「補完性の原理」に立って、市民社会、市民の力を強化しながら市民と政府の新しい関係を構築する、その入口に立ったということなのです。出発はあくまでも市民であり社会でありたい。そして三分化した政府が、国連には国連憲章、国には憲法があるように、自治体も自治基本条例という基本法を定めて自立の地歩を固めていく。そういう時代になっていると思うのです。
私たちは市民社会、政治社会、経済社会という三つの領域にいるわけですが、20世紀を通じて、政治社会と経済社会が非常に強くなったといわれます。国の政治権力が市民社会を全面的にコントロールするとか、あるいは経済社会では利潤原理が圧倒的な力で市民を支配する。そうした政治社会と経済社会に翻弄されて、市民と市民の関係、つまり市民社会の力は弱い位置にある。だから、市民の連帯とか自治によって、地域から市民が政治社会、経済社会に向けて発信する基盤を強化しなければならないといった主張も強くあります。
北海道の市民運動と生活クラブ
<伊藤> 政治社会と経済社会によって市民社会が翻弄されているとおっしゃいましたが、今まさしくアメリカの一国主義が国を超えて日本の市民社会にも影響を与えています。
<神原> 昔、1960年代と70年代に全国各地に市民運動が起こって、日本でもようやく市民が登場したと言われはじめました。そうした時代から比べると、現在では隔世の感がありますね。そのころの市民運動の活動範囲は地域に限定された、いわば「地域市民活動」でした。いまは「全国市民活動」、さらに「国際市民活動」が重なっています。そういうかたちで、市民活動自体も、地域と全国と世界と3層化しています。それから、先ほど言いましたように、政府の活動も自治体、国、国際というかたちで3層化している。経済の活動ももちろんそういうふうに変わっています。市民社会、政治社会、経済社会はそれぞれ三層化しながら、相互に影響しあっているわけですね。
昔の市民運動の典型というのは抵抗運動でした。公害とかね。だけど、消費生活に着目して、生活クラブは、市民社会のなかの人間関係を強化しながら、つまりネットワークを構築しながら、自分たちの生活を自主的、主体的に築いていく、そこを基軸にした提案型の運動を行なってきましたね。私は、日本の市民運動が抵抗型、あるいは異議申立型の運動から提案を主軸とする創造型の運動に変わっていく局面を開いたのは生活クラブの運動、それにプラスしてネットの運動ではないかと思います。北海道もそうですよ。私が北海道に戻ってきたのは1988年ですが、そのころ、北海道には市民運動はありませんでした。
<伊藤> そうですね。市民運動として社会に強烈に向かい合ったのは、ご存知のように88年の泊原発1号機の直接請求運動のときです。自分の生活を通して社会のいろいろな問題がよく見えてきて「主婦が変われば社会が変わる」それは本当に生活の場から発した言葉だと思います。
<神原> あの運動が北海道の市民活動をつくりだしていくきっかけでもあったと思います。それが決定的だったかどうかはわかりませんが、状況から判断して、その前はほとんど市民運動というのはなかったのです。労働運動の地区労などが市民運動的機能の一部を代行しているという状況でした。生活クラブの地道な活動があって、それがネットというかたちで一つの大きな発言力を持っていくような流れができて以降、いろいろなタイプの市民活動がアッという間に広がってきましたね。それから15年ほどたちますが、いまの北海道の市民活動は本州と比べてもまったく遜色はないと思います。
<伊藤> 直接請求の時、私も真夜中の道議会を傍聴したのですが、結局、数の論理、党利党略によって、ものごとが市民不在のまま決められてしまいました。やっぱりこれはおかしい。市民が直接政治に参加しなければと思い、市民ネットワーク北海道を設立しました。生活クラブ北海道にとっても、泊原発の反対運動はその後の提案型の脱原発運動つまり、グリーン電気料金運動、市民風力発電などに繋がる大事な取り組みであったと思います。
<司会> 実は、東京の食品安全条例の直接請求運動は、北海道の泊原発の直接請求に学んでいるのです。ノウハウも含めて。そして東京のネット運動も、振り返ると対案型、条例づくりなどの運動に変わる節目でした。ここが大きなポイントです。そうした「条例を市民がつくる」、その延長上に自治基本条例があると思うのですけれどもね。どうして、自治基本条例は北海道から始まったのでしょう。
何故、北海道から自治体基本条例が始まったか
<神原> 歴史はおもしろい。飛び火しながら事態が進展していくのですね。物事を変えていく力は、はじめから多数派があるのではなくて、少数の先駆者がいて、その提案や運動が普遍的な価値を持っていれば、時間をかけて各地に広がり、実現し、そして全体のレベルが高まっていくのです。市民運動も自治体改革もそうです。そして北海道から東京へ、あるいは岐阜県から北海道へと飛び火しながら進んでいくわけです。これは歴史の経験則です。
天の時、地の利、人の和ということでいえば、天の時では、地方分権時代の自治体再構築という大きな時代の流れがあります。地の利では、北海道には、因習にとらわれない、フロンティア精神と言われるけれども、新しいものを受け入れる風土がある。地方自治土曜講座の盛り上がりとか生活クラブ主導の風力発電といった市民事業などはその例です。人の和でいえば、自治基本条例を始めたのはニセコ町ですが、ここには地方自治の先端的な課題を捉える能力を持った逢坂町長と優秀な職員、それに木佐茂男教授のような理論的サポーターがいました。これらのミックス効果でしょうか。現在はニセコ町から全国に飛び火しています。
<伊藤> ニセコ町は本当に発祥の地ですね。
<神原> 「北海道地方自治土曜講座」が始まって今年で10年になります。いまは、自治体職員が自主的に運営していますけど、開講以来の受講者数は5000人近くになっています。多いときには年に800人ぐらい集まったこともあります。10年たって、これは「北海道の文化になった」と松下圭一教授は高く評価してくださっていますが、こうした継続的な営みが土壌となって、ニセコ町のような自治体がいくつも登場してくるということです。
<伊藤> 先ほどおっしゃった因習にとらわれないというところでは、本州から移ってきて今までのものを断ち切って北海道の中で新しいものをみつけようというのがけっこう多いですかね。
<神原> 北海道は中央依存とか、公共事業依存とか、自立性がないとか、いろいろ言われますよね。そういうふうに歴史の中で築かれてきた仕組みが構造化して、なかなか変われない面も確かにあるのだけれど、それが北海道の姿のすべてではない。そこだけに着目すると非常にペシミスティックな、あるいは自虐的な北海道観しか生まれてこないわけです。自分たちのよさをどういうふうに表現をするかを発見しないとね。
道内各地を回ってみると、本州にない優れたまちづくりがたくさんあります。だから私はだめだだめだという自虐的北海道観には迎合したくありません。けれども、そのよさは私などが見て客観的にいえることで、残念なことに、その自治体自体の認識としてはそれほどのこととは思っていない。自己発見できないし、自己発信をしない。それは非常に惜しい。もう少し北海道が自己評価基準を持つようになったら、私は新しい北海道観が生まれてくると思っています。長い時間をかけた素晴らしいまちづくりの例がたくさんあります。
北海道の自治
<伊藤> 北海道は、台風を例にとると、本州の首都圏を通過するときは台風ですけれども、そこを過ぎてしまうともうテレビにもでないし、抹殺されてしまう。メディアもやはり中央集権、中央をむいていますね。
<神原> そうです。北海道のことはあまり報道されないのです。例えば漁業なんかでも、今、全国的に魚を増やすためには木を植えろといって、漁師が山に登って植林をする時代になってきていますが、それを最初に始めたのは、オホーツクの常呂町漁協なのです。あそこはホタテの養殖で業績を上げていますが、常呂川という川が運んでくる山の養分が前浜のホタテの漁場を支えていると、漁師が上流の土地を買って植林しているのです。山が死ねば海が死ぬ、森は海の恋人・川は仲人という思想ですね。ここから始まった運動が、全国各地に広がっているわけでしょう。
農業でも、生活クラブと深い関係にある中札内村、それに小清水町、池田町などの農業は酪農と畑作をうまく循環させています。林業では下川町。都会の若者がここで働きたいと50人が空きを待って待機しています。福祉では、いま全国から注目されているのが奈井江町と本別町ですね。医療を中心に保健と福祉を一体化させています。これらはみな一級品ですよ。実にしっかりした哲学を持って時間をかけて持続可能なまちをつくっている。ほかにも紹介したいところはたくさんありますが、中央依存の北海道でも北のロマンの北海道でもない、もうひとつの北海道像が見えてくるはずです。
<司会> 自治体基本条例を議論すると、どうしても行政分野だけに目が行きます。また、政策というと、すぐ「税金を使うこと」だけだと思ってしまう。地域の政策資源を集めて出資して投資するということ、事業をつくる、町おこしをするということがあるのです。そういうことが膨らんでくるために自治基本条例をつくるということだと思うのですけどね。
先駆自治体政策の集大成としての条例
<伊藤> そういう視点がこれから札幌市のすすめようとする自治基本条例につながるのでしょうか。
<神原> 自治基本条例の目的は、自治体運営の基本制度を整えることによって、市民主権を実現し、政策の水準を高めるという2つの狙いがあります。つまりレベルの高い政策を生み出すための仕組みを問題にしますから、政策そのものの方針を条例化するものでありません。けれども、私が私案で示したような自治基本条例を制定すれば、必ず2つの目的に接近することができます。
このような条例を制定することは、自治体改革の意欲さえあれば、そんなに難しいものではないのです。先駆自治体とか先駆市民によって、この30〜40年間ぐらいのあいだに、自治体運営のために必要な制度装置はほとんど開発されており、それらの優れたものは日本列島の各地に点在しているのです。情報公開、市民参加、総合計画、政策評価、財務会計、政策法務、オンブズマンなどなどですね。だからゼロからの出発ではありません。
例えば、情報公開では、1981年に山形県の金山町が最初の条例を制定し、その翌年に神奈川県が本格的な条例に仕上げた。市民参加にしても、1964年に横浜市がはじめて1万人市民集会を行なった。政策評価は、北海道が「時のアセスメント」でやってから、国の方針にもなったし、全国の自治体にも広がっていったわけです。オンブズマンは1991年の川崎市、総合計画の手本は1974年の武蔵野市、そしていまは多治見市です。これらは全部、自治体がつくってきたのです。国の情報公開なんかは自治体より20年遅れですよ。
このように、現在の自治体運営において不可欠となっている制度は、市民参加にしても、情報公開にしても、自治体計画にしても、地方自治法には一言も書かれていませんよ。つまり、これらはみんな自治体が市民とともに開発してきたものです。はじめは少数の先駆自治体が開発し、次にその理念が各地に普及し、そして制度が改良されて今日に引き継がれているわけです。ですから、自治基本条例の素材のほとんどはそろっています。それらを自治基本条例として総合化するところに、自治体の自立ないし自治体改革の次なるステップがあるわけです。
<伊藤> ということは、地方のほうが成熟しているということですね。
<神原> そうです。自治体総体として。それが全体としての自治体の力量の増大になったのだけれども、個々の自治体を見ると、これはまだ極めて不十分です。だから、自分の自治体というお皿の上に各地の優れた一品料理を集めて、盛り合わせてみて、よいものはそのまま、そうでないものは修正し、あるいはどこにもないものは新しくつくっていく。そうやってまとめていけば、自治基本条例はそんなに面倒ではないのです。つまり、よその自治体が開発したいろいろな個別の制度をタダで使わせていただくということなのです。
<伊藤> そこのセンスのよさというのは自治体の首長つまり知事、市長、町長によるわけですか。
<神原> おっしゃるとおりですね。いくら美味しいものがあっても、食べる意思のないものにとっては、猫に小判。ですから、時代の状況を見る目とか、改革の意欲とか、他の自治体への目配りとか、そのようなことが首長に備わっていないと、自治基本条例を制定したとしても、理念だけの作文条例といった、首長のアクセサリー的なものになってしまうでしょうね。実際の役には立たない。その意味では、現在は、自治基本条例を制定できる可能性は大きく広がっていますが、質の高い条例を制定できる自治体は、それほど多くはないと思います。始まったばかりです。まだまだ時間がかかるでしょう。
<伊藤> 札幌市も上田市長になって、一歩本来の自治基本条例づくりに近づいたかなと思いますが。
<神原> そうです。可能性はあります。
<司会> 東京の三多摩地区では、自治体が争うように基本条例の制定をやっています。しかし、中には、職員が誘導しているのがあります。楽な自治基本条例にするように。
<神原> 今、全国でだいたい20ぐらいできています。それから、これから制定するとはっきり声を上げている自治体が60ぐらいあります。試行錯誤の草創期ですから、厳しい評価は控えていますが、出来上がっているものを、私なりの基準から見ると、まだまだレベルが低い。これが自治基本条例といえるかというものもあります。市民として職員が関係する場合は別ですが、職務としてかかわる場合は、自治基本条例が具体的であればあるほど職員の仕事がきつくなりますから、おっしゃるような流れが出てくるのでしょう。
今ある自治基本条例の問題性
<伊藤> どこが問題でしょうか。
<神原> 制定した自治基本条例が「生ける基本条例」であり続けるためには、条例の内容に関する6つの原則と制定過程における4つの課題をふまえなければなりませんね。ちょっと箇条書き風にいいますと、次のようなことです。
[基本条例の六原則]
1.総合性の原則(必要な制度項目は最大限に盛り込む)
2.水準性の原則(個別制度の内容は高い水準を確保する)
3.具体性の原則(個別制度の内容を具体的に規定する)
4.相乗性の原則(制度相互の関係を規定し、相乗効果を発揮させる)
5.関連性の原則(基本条例に基づく関連条例の整備を明文化する)
6.最高性の原則(最高規範および市民投票による承認を規定する)
[制定過程の四課題]
1.現行制度の点検
@ 活用(いま存在する制度をそのまま活用する)
A 修正(いま存在する制度を改善する)
B 新設(存在しない制度なので新設する)
2.効果的な接近法
@ 総合計画先行型(計画関連制度の整備)
A 参加条例先行型(参加関連制度の整備)
3.四者参加の推進
@ 市民参加
A 職員参加
B 首長参加
C 議員参加
4.十分な検討時間
個別制度の先行整備を含めて十分な時間を確保する
というものですが、同時にこれは、でき上がった基本条例の評価基準にもなります。
このなかで、一般的に条例の内容が具体的でないことが気になりますね。作文条例とか、理念条例とか、お飾り条例と私は言うのですけれども、要するに、制定しても「死せる条例」で自治体に何の変化も起こらない。理念的に「市民参加を進めます」とうだけでは、ことは進展しません。どういう制度をつくり、どのようにその制度を動かして進めるのか、そこまでないと実効性が伴いませんね。言葉だけなら誰でも言うのですから。
それから、自治体の運営というのは、市民、これは法人市民も含めての市民ですが、そうした市民と市民に代わって仕事をしている職員、それから選挙による代表である首長と議員、この4者の相互作用なわけです。この4者がどういう役割を果たすのか。あるいは、その4者の関係がどうあるべきなのかということがはっきりしないと、自治基本条例をつくっても、それぞれのなすべきことが具体的にイメージできないわけです。
ですから、そういうかたちで自治体を運営するための理念と、理念を具体化した制度と、その制度を動かしていく原則、そのようことを具体的に書かなくてはいけない。ところが、みんな理念のあたりで止まっています。私は札幌市について条例私案を書いているのは、札幌市民としての市民参加という意味のほかに、具体性のある生きた自治基本条例を制定するために、ぜひタタキ台の一つとして活用していただきたいという願いがあります。
これは札幌市となっていて、政令指定都市特有の事項もいくつかありますが、基本的には今日の自治体改革の到達点で、標準装備的なものとして活用できるものですから、そういう意味では普遍性があります。具体性をことさら重視してつくったわけで、「札幌市」と書いてあるところを、自分の自治体の名前に置き換えて考えてもらえば、札幌市以外の自治体でも活用していただけると思っています。
大切な個別政策の「連動性」「条例体系」
<司会> 先ほどの話でいくと、自治体がいままでやってきた情報公開などさまざまな到達点があると。実施条例として、情報公開条例とか、参加条例とかいろいろありますよね。そういう今までの自治体の到達点とのからみで議論していかないと、まさしく話がいつも理念だけにいってしまう。
<神原> そうそう。だから、基本条例をやるときには、全国的な目で制度水準を見極めなければなりませんね。先ほどの参加のように、例えば、政策評価でも「効率的効果的な政策展開のために政策を評価しなければならない」ということだけではだめで、どういう仕組みと原則で、どのような人たちが評価活動に参加するのか、そうしたことが書かれていなければならないのです。
そういうかたちで規定するには、まず先駆自治体の水準を学ばなければなりませんし、次にはそれとの比較で我が自治体の制度点検をしなければなりませんね。その基準が、先ほど箇条書きで示した活用・修正・新設です。つまり、よい制度はそのまま生かせる、レベルの低いものは高める、ないものは付け加える。そうした点検・評価が基本にないと、理念どまりの抽象的な条例になるのです。
もうひとつ非常に重要なことなのですが、制度と制度をつなげて運用しないと駄目だということなのです。私は「連動性」というのですけどね。確かにいままでは情報公開は情報公開でやっていたし、市民参加は市民参加でやっていたし、計画づくりは計画づくりでやっていたが、みんなバラバラなのですよ。ところが、市民参加をやる場合だって、情報公開の伴わない市民参加なんてあり得ない。政策評価だって、総合計画に位置づけのない政策なんて評価しようもない。それに評価には政策情報の差があります。つまり、全部連動しているわけです。
このように連動させることが実は基本条例の大きな役割なのです。よく、個別の制度があるのに、どうして基本条例が必要なんだ、屋上屋になるじゃないか、といいますが、これは間違いです。個別の制度はそれだけでは形骸化します。ほかの制度と連動させることによって生きた制度になることを忘れてはなりません。基本条例は最高性の規定とあいまって、その連動性を担保することができる唯一の条例になります。
<伊藤> そうした連動性がなければ、「市民参加」「情報公開」とか、言葉の上ではいろいろ踊っているけれども、では具体的にどう市民が関わっていくかというのがなかなか見えてこないですね。
<神原> もうひとつ言えば、私の私案は具体的に書いているのですが、「基本条例体系」という言葉を使うことにしているのです。それは基本条例の条文としてどこまで具体的に詳しく書くのかという問題です。基本条例はそれほど詳しくなくても、具体的な制度と大まかな運営原則を示して、あとは関連条例に委ねることを明文化する。そして、より具体的には関連条例のなかできちっと書いていく。こういうやり方は可能なのです。そうすると、基本条例プラス関連条例というかたちの基本条例体系ができると思うのです。ただ、関連条例を制定することは、基本条例の条文に書いておかなければなりません。
<司会> よく「自治体基本条例が他の条例より優位(最高規範性)であること示す条項」を明記することが議論されますが、それだけでは足りないということですね。
<神原> 全然足りないです。先に申し上げた6原則をきちっとしないとね。これは非常に技術的な問題に見えますが、決してそうではなく、基本条例の意義とか必要性の有無にかかわる基本の問題です。
<伊藤> ニセコ町のまちづくり基本条例には、議会の領域に関わることは含まれていませんね。
<神原> それは、ニセコ町も含めてですが、今作られているような基本条例は、名称は別にして、内容的に自治基本条例と言えるかどうか問題があるのです。私は、現段階ではそれらを広い意味で自治基本条例と考えていますが、基本的には、さっきの4者の関係、なかんずく議会や議員をきちんと条例に規定しているかどうかという問題ですね。自治基本条例であれば、当然、議会と議員の活動原則を具体的に書かねばなりません。そこで、私は、実質的な意味で議会を含めた自治基本条例と、そうではない条例を「行政基本条例」といって区別しているのです。
行政基本条例でも本格的につくれば大きな意義があります。行政は首長が統括します。その首長は、国の議院内閣制の首相とは違って、市民に直接選挙され、それゆえに市民に対して直接の責任を負っています。その首長が統括する行政の基本的なあり方を首長と職員の活動原則とともに規定することは、非常に大きな意味を持ちますね。私はこれを行政基本条例といっているわけです。最近の基本条例が議会のことも入れるようになってきましたが、実質的な中身がなくて、基本的には行政基本条例の域を出ていません。
<司会> 議会の側が邪魔している場合があります。
<伊藤> 札幌市は入っていますよね。
<神原> 議会について入れなければいけないのは、議会独自の情報公開と市民参加を進めて議会活動をやること、今はほとんどない議員間の自由討議を進めること、それから、行政との関係で議会が実質的なチェック機能を果たすこと。こうしたことを具体的な制度や原則にして盛り込まないと、「議会は住民を代表して行動します」とか「議会は自治体の意思決定機関です」なんて書いても、何の意味も持たない。
(続く)
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