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『社会運動』 299号

2005年2月15日

目次

<特別インタビュー> 自治基本条例と北海道(上) 神原勝/伊藤牧子‥‥ 2
アソシエーション・市民社会 「マルクス再読」をめぐって 田畑稔/的場昭弘‥‥12
中越地震報告 新潟県中越地震から見えてくるもの 伊藤久雄‥‥29
健康を「食」から考える 食、崩壊の背景 岸田 仁‥‥36
この一枚<戦時貯蓄債券> ‥‥43
インド・ボパールの農薬工場ガス漏れ事故から20年 ボパールにさまよう死の遺産 ディネシュ・C・シャルマ‥‥44
協同組合研究 協同と自由―戦時期「協同主義」の検討 林 和孝‥‥48
“色”で読み解く『戦後詩』の風景B 幻視のなかの革命 谷川雁と黒田喜夫 添田 馨‥‥54
<状況風景論> 阪神大震災10年、ろうそく法要&都市生活CCの集い ‥‥59
雑記帖 加藤好一‥‥60

特別インタビュー 自治体基本条例と北海道(上)

<お話> 神原 勝(北海道大学教授) <聞き手> 伊藤 牧子(生活クラブ北海道・理事長)

 各地域で自治基本条例の制定についてはかなり動きが出ています。それは分権改革の結果としてあります。分権改革のときに、そこに残った課題は、一つは自治体のあり方の議論、もうひとつは財源移譲の話であると言われました。財源移譲の話というのは今の「三位一体」の問題で、自治体のあり方というのは、自治基本条例と合併、あるいは道州制の議論ということになってくるわけです。こうしたトータルな問題の典型が、北海道に集約されている状況があります。トータルな課題を、生活クラブ北海道の伊藤理事長から神原勝先生にインタビューしていただきました。(編集部)

 

生活クラブの自治と分権改革
<伊藤> 生活クラブの「自治」の延長と「市民が政府をつくること」ということから話しを始めます。生活クラブは食べ物の共同購入から始まり、自分たちの生活は自分たちで自治したいと環境、福祉など様々な問題に取り組んできたわけですが、基本になるのは、自分で考え、自分で行動するということです。計画を立て、予算を組み、合意のもとで活動をつくっていく。生活を自治し、地域を自治するというのも、活動のなかで教育されてきました。しかし、組織やシステムが変わっていく中で、今までのように自らが参加する主体をつくっていくことが困難な状況にあり、今抱えている一番大きな問題です。これから議論する分権改革においても市民が政治の場に参加し、まちづくりをすすめる主体をどのように形成していくかが同じように問われているのではないかと思います。その点も含めて神原先生の分権改革の意義とはどのようなことでしょうか。


<神原> 分権自治というのは、政策を含めて政治的な決定の地点を市民生活の身近なところに近づけていくこと、もうひとつは、市民の身近なところに引きつけた権力を市民が自主的、主体的に使ってよいまちづくりを行なうこと。そうした二つの要素があると思うのです。
 もう少し大きな観点からいえば、私は「三つの分権状況」ということを考えるのです。分権というと、地方分権という言葉が一番なじみやすい言葉かもしれませんが、実は地方分権だけではなくて、「国際分権」とか「市民分権」などという言葉も私は使います。この二つを合わせて国際分権・地方分権・市民分権と、分権には三つの次元があるのです。
 まず国際分権です。私たちは、国民国家を中心にして、発想し、考え、行動してきたわけですが、この国民国家は、日本だけではありませんが、後発国から中進国、さらに先進国へいく過程では、まさに中央集権で、中央政府が権限も財源も人材も情報も技術も一手に掌握して追いつき型近代化を達成するというやり方が百数十年続いてきた。
 それはそれなりに有効な面があったのですが、その帰結として先進国あるいは成熟社会になっていきますと、内政中心型の集権的な政治行政は限界に突き当たります。経済の問題、人権、平和、環境といった問題を考えても、これらが地球規模の問題になって、一国の政策判断だけではやれない。そこで、政策決定の地点が、一国単位から国際単位に移行する。国連をはじめとして国際的な機構に事実上の政策決定権が移っていくという流れです。私はこれを国際分権と言っているわけです。
 次は地方分権です。内政中心型の集権国家はそれなりに豊かさをもたらしたわけですが、それは画一的、平均値的な豊かさです。例えば、経済成長して所得が向上し、ものにあふれ、確かに豊かさは達成したけれども、実感できる豊かさは得られていない。やはり実感できる本当の豊かさを達成するためには、もっと地域の生活、文化、産業、環境などといった様々な身近な個性を重んじたまちづくりが必要です。そのためには、権限や財源をもっと移して、自治体のまちづくりの当事者能力を高めなければならない。つまり、地方分権ですね。
 松下圭一教授の言葉に従えば、「政府の三分化」という現象です。これまでの国民国家の集権的な中央政府が相対的に影響力を低下させて、国際機構と自治体政府が重きをなしてくる。同時に地方分権も進む。その結果、私たちの政府というものが、国だけではなく、自治体、国、国際機構というように三層の構造になっていくというわけです。
 そして、この分権の状況にうまく対応していくためのキー概念は地方分権です。地方分権をやらないと、国は国際調整業務に専念できません。例えば、1万件以上の許認可権限とか、3000件以上の補助金といったように、いまだに集権的な内政業務に能力・労力を奪われているわけですから。だから、国から自治体に分権して、国をスリムにし機能も国際調整などの業務に純化する。地方分権をやらないと国際分権の状況にも対応できないのです。
 もうひとつは市民分権ですね。地方分権が進んで自治体の自由度が高まると、政策決定に市民が参加して影響力を行使することができるようになる。そのような政治的な意味での参加民主主義を進めることと、自治体の仕事でも、よく吟味してもう一度市民や社会の営為に戻すという意味での役割分担的な市民分権もありますね。私はそのような二つの意味で市民分権と言っています。
 「補完性の原理」という言葉がはやっていますね。ヨーロッパ地方自治憲章でもいっていますが、市民と市民の関係、つまり、社会の中で自主的に問題を解決し、そこでできない公共課題を解決するために市町村という基礎自治体をつくり、さらにそこでできないものを解決するために広域自治体を、さらに国、国際機構へと、問題解決のレベルを順次、段階的に移し替えていくという原理的な発想で各段階の政府を再構築し、運用していく。これが「補完性の原理」の考え方です。
 日本も遅ればせながら分権時代を迎えて、この「補完性の原理」に立って、市民社会、市民の力を強化しながら市民と政府の新しい関係を構築する、その入口に立ったということなのです。出発はあくまでも市民であり社会でありたい。そして三分化した政府が、国連には国連憲章、国には憲法があるように、自治体も自治基本条例という基本法を定めて自立の地歩を固めていく。そういう時代になっていると思うのです。
 私たちは市民社会、政治社会、経済社会という三つの領域にいるわけですが、20世紀を通じて、政治社会と経済社会が非常に強くなったといわれます。国の政治権力が市民社会を全面的にコントロールするとか、あるいは経済社会では利潤原理が圧倒的な力で市民を支配する。そうした政治社会と経済社会に翻弄されて、市民と市民の関係、つまり市民社会の力は弱い位置にある。だから、市民の連帯とか自治によって、地域から市民が政治社会、経済社会に向けて発信する基盤を強化しなければならないといった主張も強くあります。

 

北海道の市民運動と生活クラブ
<伊藤> 政治社会と経済社会によって市民社会が翻弄されているとおっしゃいましたが、今まさしくアメリカの一国主義が国を超えて日本の市民社会にも影響を与えています。

 

<神原> 昔、1960年代と70年代に全国各地に市民運動が起こって、日本でもようやく市民が登場したと言われはじめました。そうした時代から比べると、現在では隔世の感がありますね。そのころの市民運動の活動範囲は地域に限定された、いわば「地域市民活動」でした。いまは「全国市民活動」、さらに「国際市民活動」が重なっています。そういうかたちで、市民活動自体も、地域と全国と世界と3層化しています。それから、先ほど言いましたように、政府の活動も自治体、国、国際というかたちで3層化している。経済の活動ももちろんそういうふうに変わっています。市民社会、政治社会、経済社会はそれぞれ三層化しながら、相互に影響しあっているわけですね。
 昔の市民運動の典型というのは抵抗運動でした。公害とかね。だけど、消費生活に着目して、生活クラブは、市民社会のなかの人間関係を強化しながら、つまりネットワークを構築しながら、自分たちの生活を自主的、主体的に築いていく、そこを基軸にした提案型の運動を行なってきましたね。私は、日本の市民運動が抵抗型、あるいは異議申立型の運動から提案を主軸とする創造型の運動に変わっていく局面を開いたのは生活クラブの運動、それにプラスしてネットの運動ではないかと思います。北海道もそうですよ。私が北海道に戻ってきたのは1988年ですが、そのころ、北海道には市民運動はありませんでした。

 

<伊藤> そうですね。市民運動として社会に強烈に向かい合ったのは、ご存知のように88年の泊原発1号機の直接請求運動のときです。自分の生活を通して社会のいろいろな問題がよく見えてきて「主婦が変われば社会が変わる」それは本当に生活の場から発した言葉だと思います。

 

<神原> あの運動が北海道の市民活動をつくりだしていくきっかけでもあったと思います。それが決定的だったかどうかはわかりませんが、状況から判断して、その前はほとんど市民運動というのはなかったのです。労働運動の地区労などが市民運動的機能の一部を代行しているという状況でした。生活クラブの地道な活動があって、それがネットというかたちで一つの大きな発言力を持っていくような流れができて以降、いろいろなタイプの市民活動がアッという間に広がってきましたね。それから15年ほどたちますが、いまの北海道の市民活動は本州と比べてもまったく遜色はないと思います。

 

<伊藤> 直接請求の時、私も真夜中の道議会を傍聴したのですが、結局、数の論理、党利党略によって、ものごとが市民不在のまま決められてしまいました。やっぱりこれはおかしい。市民が直接政治に参加しなければと思い、市民ネットワーク北海道を設立しました。生活クラブ北海道にとっても、泊原発の反対運動はその後の提案型の脱原発運動つまり、グリーン電気料金運動、市民風力発電などに繋がる大事な取り組みであったと思います。

 

<司会> 実は、東京の食品安全条例の直接請求運動は、北海道の泊原発の直接請求に学んでいるのです。ノウハウも含めて。そして東京のネット運動も、振り返ると対案型、条例づくりなどの運動に変わる節目でした。ここが大きなポイントです。そうした「条例を市民がつくる」、その延長上に自治基本条例があると思うのですけれどもね。どうして、自治基本条例は北海道から始まったのでしょう。

 

何故、北海道から自治体基本条例が始まったか
<神原> 歴史はおもしろい。飛び火しながら事態が進展していくのですね。物事を変えていく力は、はじめから多数派があるのではなくて、少数の先駆者がいて、その提案や運動が普遍的な価値を持っていれば、時間をかけて各地に広がり、実現し、そして全体のレベルが高まっていくのです。市民運動も自治体改革もそうです。そして北海道から東京へ、あるいは岐阜県から北海道へと飛び火しながら進んでいくわけです。これは歴史の経験則です。
 天の時、地の利、人の和ということでいえば、天の時では、地方分権時代の自治体再構築という大きな時代の流れがあります。地の利では、北海道には、因習にとらわれない、フロンティア精神と言われるけれども、新しいものを受け入れる風土がある。地方自治土曜講座の盛り上がりとか生活クラブ主導の風力発電といった市民事業などはその例です。人の和でいえば、自治基本条例を始めたのはニセコ町ですが、ここには地方自治の先端的な課題を捉える能力を持った逢坂町長と優秀な職員、それに木佐茂男教授のような理論的サポーターがいました。これらのミックス効果でしょうか。現在はニセコ町から全国に飛び火しています。

 

<伊藤> ニセコ町は本当に発祥の地ですね。

 

<神原> 「北海道地方自治土曜講座」が始まって今年で10年になります。いまは、自治体職員が自主的に運営していますけど、開講以来の受講者数は5000人近くになっています。多いときには年に800人ぐらい集まったこともあります。10年たって、これは「北海道の文化になった」と松下圭一教授は高く評価してくださっていますが、こうした継続的な営みが土壌となって、ニセコ町のような自治体がいくつも登場してくるということです。

 

<伊藤> 先ほどおっしゃった因習にとらわれないというところでは、本州から移ってきて今までのものを断ち切って北海道の中で新しいものをみつけようというのがけっこう多いですかね。


<神原> 北海道は中央依存とか、公共事業依存とか、自立性がないとか、いろいろ言われますよね。そういうふうに歴史の中で築かれてきた仕組みが構造化して、なかなか変われない面も確かにあるのだけれど、それが北海道の姿のすべてではない。そこだけに着目すると非常にペシミスティックな、あるいは自虐的な北海道観しか生まれてこないわけです。自分たちのよさをどういうふうに表現をするかを発見しないとね。
 道内各地を回ってみると、本州にない優れたまちづくりがたくさんあります。だから私はだめだだめだという自虐的北海道観には迎合したくありません。けれども、そのよさは私などが見て客観的にいえることで、残念なことに、その自治体自体の認識としてはそれほどのこととは思っていない。自己発見できないし、自己発信をしない。それは非常に惜しい。もう少し北海道が自己評価基準を持つようになったら、私は新しい北海道観が生まれてくると思っています。長い時間をかけた素晴らしいまちづくりの例がたくさんあります。

 

北海道の自治
<伊藤> 北海道は、台風を例にとると、本州の首都圏を通過するときは台風ですけれども、そこを過ぎてしまうともうテレビにもでないし、抹殺されてしまう。メディアもやはり中央集権、中央をむいていますね。

 

<神原> そうです。北海道のことはあまり報道されないのです。例えば漁業なんかでも、今、全国的に魚を増やすためには木を植えろといって、漁師が山に登って植林をする時代になってきていますが、それを最初に始めたのは、オホーツクの常呂町漁協なのです。あそこはホタテの養殖で業績を上げていますが、常呂川という川が運んでくる山の養分が前浜のホタテの漁場を支えていると、漁師が上流の土地を買って植林しているのです。山が死ねば海が死ぬ、森は海の恋人・川は仲人という思想ですね。ここから始まった運動が、全国各地に広がっているわけでしょう。
 農業でも、生活クラブと深い関係にある中札内村、それに小清水町、池田町などの農業は酪農と畑作をうまく循環させています。林業では下川町。都会の若者がここで働きたいと50人が空きを待って待機しています。福祉では、いま全国から注目されているのが奈井江町と本別町ですね。医療を中心に保健と福祉を一体化させています。これらはみな一級品ですよ。実にしっかりした哲学を持って時間をかけて持続可能なまちをつくっている。ほかにも紹介したいところはたくさんありますが、中央依存の北海道でも北のロマンの北海道でもない、もうひとつの北海道像が見えてくるはずです。

 

<司会> 自治体基本条例を議論すると、どうしても行政分野だけに目が行きます。また、政策というと、すぐ「税金を使うこと」だけだと思ってしまう。地域の政策資源を集めて出資して投資するということ、事業をつくる、町おこしをするということがあるのです。そういうことが膨らんでくるために自治基本条例をつくるということだと思うのですけどね。

 

先駆自治体政策の集大成としての条例
<伊藤> そういう視点がこれから札幌市のすすめようとする自治基本条例につながるのでしょうか。

 

<神原> 自治基本条例の目的は、自治体運営の基本制度を整えることによって、市民主権を実現し、政策の水準を高めるという2つの狙いがあります。つまりレベルの高い政策を生み出すための仕組みを問題にしますから、政策そのものの方針を条例化するものでありません。けれども、私が私案で示したような自治基本条例を制定すれば、必ず2つの目的に接近することができます。
 このような条例を制定することは、自治体改革の意欲さえあれば、そんなに難しいものではないのです。先駆自治体とか先駆市民によって、この30〜40年間ぐらいのあいだに、自治体運営のために必要な制度装置はほとんど開発されており、それらの優れたものは日本列島の各地に点在しているのです。情報公開、市民参加、総合計画、政策評価、財務会計、政策法務、オンブズマンなどなどですね。だからゼロからの出発ではありません。
 例えば、情報公開では、1981年に山形県の金山町が最初の条例を制定し、その翌年に神奈川県が本格的な条例に仕上げた。市民参加にしても、1964年に横浜市がはじめて1万人市民集会を行なった。政策評価は、北海道が「時のアセスメント」でやってから、国の方針にもなったし、全国の自治体にも広がっていったわけです。オンブズマンは1991年の川崎市、総合計画の手本は1974年の武蔵野市、そしていまは多治見市です。これらは全部、自治体がつくってきたのです。国の情報公開なんかは自治体より20年遅れですよ。
 このように、現在の自治体運営において不可欠となっている制度は、市民参加にしても、情報公開にしても、自治体計画にしても、地方自治法には一言も書かれていませんよ。つまり、これらはみんな自治体が市民とともに開発してきたものです。はじめは少数の先駆自治体が開発し、次にその理念が各地に普及し、そして制度が改良されて今日に引き継がれているわけです。ですから、自治基本条例の素材のほとんどはそろっています。それらを自治基本条例として総合化するところに、自治体の自立ないし自治体改革の次なるステップがあるわけです。

 

<伊藤> ということは、地方のほうが成熟しているということですね。

 

<神原> そうです。自治体総体として。それが全体としての自治体の力量の増大になったのだけれども、個々の自治体を見ると、これはまだ極めて不十分です。だから、自分の自治体というお皿の上に各地の優れた一品料理を集めて、盛り合わせてみて、よいものはそのまま、そうでないものは修正し、あるいはどこにもないものは新しくつくっていく。そうやってまとめていけば、自治基本条例はそんなに面倒ではないのです。つまり、よその自治体が開発したいろいろな個別の制度をタダで使わせていただくということなのです。

 

<伊藤> そこのセンスのよさというのは自治体の首長つまり知事、市長、町長によるわけですか。

 

<神原> おっしゃるとおりですね。いくら美味しいものがあっても、食べる意思のないものにとっては、猫に小判。ですから、時代の状況を見る目とか、改革の意欲とか、他の自治体への目配りとか、そのようなことが首長に備わっていないと、自治基本条例を制定したとしても、理念だけの作文条例といった、首長のアクセサリー的なものになってしまうでしょうね。実際の役には立たない。その意味では、現在は、自治基本条例を制定できる可能性は大きく広がっていますが、質の高い条例を制定できる自治体は、それほど多くはないと思います。始まったばかりです。まだまだ時間がかかるでしょう。

 

<伊藤> 札幌市も上田市長になって、一歩本来の自治基本条例づくりに近づいたかなと思いますが。

 

<神原> そうです。可能性はあります。

 

<司会> 東京の三多摩地区では、自治体が争うように基本条例の制定をやっています。しかし、中には、職員が誘導しているのがあります。楽な自治基本条例にするように。

 

<神原> 今、全国でだいたい20ぐらいできています。それから、これから制定するとはっきり声を上げている自治体が60ぐらいあります。試行錯誤の草創期ですから、厳しい評価は控えていますが、出来上がっているものを、私なりの基準から見ると、まだまだレベルが低い。これが自治基本条例といえるかというものもあります。市民として職員が関係する場合は別ですが、職務としてかかわる場合は、自治基本条例が具体的であればあるほど職員の仕事がきつくなりますから、おっしゃるような流れが出てくるのでしょう。

 

今ある自治基本条例の問題性
<伊藤> どこが問題でしょうか。

 

<神原> 制定した自治基本条例が「生ける基本条例」であり続けるためには、条例の内容に関する6つの原則と制定過程における4つの課題をふまえなければなりませんね。ちょっと箇条書き風にいいますと、次のようなことです。
[基本条例の六原則]
1.総合性の原則(必要な制度項目は最大限に盛り込む)
2.水準性の原則(個別制度の内容は高い水準を確保する)
3.具体性の原則(個別制度の内容を具体的に規定する)
4.相乗性の原則(制度相互の関係を規定し、相乗効果を発揮させる)
5.関連性の原則(基本条例に基づく関連条例の整備を明文化する)
6.最高性の原則(最高規範および市民投票による承認を規定する)
[制定過程の四課題]
1.現行制度の点検
@ 活用(いま存在する制度をそのまま活用する)
  A 修正(いま存在する制度を改善する)
  B 新設(存在しない制度なので新設する)
2.効果的な接近法
  @ 総合計画先行型(計画関連制度の整備)
  A 参加条例先行型(参加関連制度の整備)
3.四者参加の推進
  @ 市民参加
  A 職員参加
  B 首長参加
  C 議員参加
4.十分な検討時間

個別制度の先行整備を含めて十分な時間を確保する
というものですが、同時にこれは、でき上がった基本条例の評価基準にもなります。
 このなかで、一般的に条例の内容が具体的でないことが気になりますね。作文条例とか、理念条例とか、お飾り条例と私は言うのですけれども、要するに、制定しても「死せる条例」で自治体に何の変化も起こらない。理念的に「市民参加を進めます」とうだけでは、ことは進展しません。どういう制度をつくり、どのようにその制度を動かして進めるのか、そこまでないと実効性が伴いませんね。言葉だけなら誰でも言うのですから。
 それから、自治体の運営というのは、市民、これは法人市民も含めての市民ですが、そうした市民と市民に代わって仕事をしている職員、それから選挙による代表である首長と議員、この4者の相互作用なわけです。この4者がどういう役割を果たすのか。あるいは、その4者の関係がどうあるべきなのかということがはっきりしないと、自治基本条例をつくっても、それぞれのなすべきことが具体的にイメージできないわけです。
 ですから、そういうかたちで自治体を運営するための理念と、理念を具体化した制度と、その制度を動かしていく原則、そのようことを具体的に書かなくてはいけない。ところが、みんな理念のあたりで止まっています。私は札幌市について条例私案を書いているのは、札幌市民としての市民参加という意味のほかに、具体性のある生きた自治基本条例を制定するために、ぜひタタキ台の一つとして活用していただきたいという願いがあります。
 これは札幌市となっていて、政令指定都市特有の事項もいくつかありますが、基本的には今日の自治体改革の到達点で、標準装備的なものとして活用できるものですから、そういう意味では普遍性があります。具体性をことさら重視してつくったわけで、「札幌市」と書いてあるところを、自分の自治体の名前に置き換えて考えてもらえば、札幌市以外の自治体でも活用していただけると思っています。

 

大切な個別政策の「連動性」「条例体系」
<司会> 先ほどの話でいくと、自治体がいままでやってきた情報公開などさまざまな到達点があると。実施条例として、情報公開条例とか、参加条例とかいろいろありますよね。そういう今までの自治体の到達点とのからみで議論していかないと、まさしく話がいつも理念だけにいってしまう。

 

<神原> そうそう。だから、基本条例をやるときには、全国的な目で制度水準を見極めなければなりませんね。先ほどの参加のように、例えば、政策評価でも「効率的効果的な政策展開のために政策を評価しなければならない」ということだけではだめで、どういう仕組みと原則で、どのような人たちが評価活動に参加するのか、そうしたことが書かれていなければならないのです。
 そういうかたちで規定するには、まず先駆自治体の水準を学ばなければなりませんし、次にはそれとの比較で我が自治体の制度点検をしなければなりませんね。その基準が、先ほど箇条書きで示した活用・修正・新設です。つまり、よい制度はそのまま生かせる、レベルの低いものは高める、ないものは付け加える。そうした点検・評価が基本にないと、理念どまりの抽象的な条例になるのです。
 もうひとつ非常に重要なことなのですが、制度と制度をつなげて運用しないと駄目だということなのです。私は「連動性」というのですけどね。確かにいままでは情報公開は情報公開でやっていたし、市民参加は市民参加でやっていたし、計画づくりは計画づくりでやっていたが、みんなバラバラなのですよ。ところが、市民参加をやる場合だって、情報公開の伴わない市民参加なんてあり得ない。政策評価だって、総合計画に位置づけのない政策なんて評価しようもない。それに評価には政策情報の差があります。つまり、全部連動しているわけです。
 このように連動させることが実は基本条例の大きな役割なのです。よく、個別の制度があるのに、どうして基本条例が必要なんだ、屋上屋になるじゃないか、といいますが、これは間違いです。個別の制度はそれだけでは形骸化します。ほかの制度と連動させることによって生きた制度になることを忘れてはなりません。基本条例は最高性の規定とあいまって、その連動性を担保することができる唯一の条例になります。

 

<伊藤> そうした連動性がなければ、「市民参加」「情報公開」とか、言葉の上ではいろいろ踊っているけれども、では具体的にどう市民が関わっていくかというのがなかなか見えてこないですね。

 

<神原> もうひとつ言えば、私の私案は具体的に書いているのですが、「基本条例体系」という言葉を使うことにしているのです。それは基本条例の条文としてどこまで具体的に詳しく書くのかという問題です。基本条例はそれほど詳しくなくても、具体的な制度と大まかな運営原則を示して、あとは関連条例に委ねることを明文化する。そして、より具体的には関連条例のなかできちっと書いていく。こういうやり方は可能なのです。そうすると、基本条例プラス関連条例というかたちの基本条例体系ができると思うのです。ただ、関連条例を制定することは、基本条例の条文に書いておかなければなりません。

 

<司会> よく「自治体基本条例が他の条例より優位(最高規範性)であること示す条項」を明記することが議論されますが、それだけでは足りないということですね。

 

<神原> 全然足りないです。先に申し上げた6原則をきちっとしないとね。これは非常に技術的な問題に見えますが、決してそうではなく、基本条例の意義とか必要性の有無にかかわる基本の問題です。

 

<伊藤> ニセコ町のまちづくり基本条例には、議会の領域に関わることは含まれていませんね。

 

<神原> それは、ニセコ町も含めてですが、今作られているような基本条例は、名称は別にして、内容的に自治基本条例と言えるかどうか問題があるのです。私は、現段階ではそれらを広い意味で自治基本条例と考えていますが、基本的には、さっきの4者の関係、なかんずく議会や議員をきちんと条例に規定しているかどうかという問題ですね。自治基本条例であれば、当然、議会と議員の活動原則を具体的に書かねばなりません。そこで、私は、実質的な意味で議会を含めた自治基本条例と、そうではない条例を「行政基本条例」といって区別しているのです。
 行政基本条例でも本格的につくれば大きな意義があります。行政は首長が統括します。その首長は、国の議院内閣制の首相とは違って、市民に直接選挙され、それゆえに市民に対して直接の責任を負っています。その首長が統括する行政の基本的なあり方を首長と職員の活動原則とともに規定することは、非常に大きな意味を持ちますね。私はこれを行政基本条例といっているわけです。最近の基本条例が議会のことも入れるようになってきましたが、実質的な中身がなくて、基本的には行政基本条例の域を出ていません。


<司会> 議会の側が邪魔している場合があります。

 

<伊藤> 札幌市は入っていますよね。

 

<神原> 議会について入れなければいけないのは、議会独自の情報公開と市民参加を進めて議会活動をやること、今はほとんどない議員間の自由討議を進めること、それから、行政との関係で議会が実質的なチェック機能を果たすこと。こうしたことを具体的な制度や原則にして盛り込まないと、「議会は住民を代表して行動します」とか「議会は自治体の意思決定機関です」なんて書いても、何の意味も持たない。
(続く)

アソシエーション・市民社会 「マルクス再読」をめぐって

田畑 稔 大阪経済大学 人間科学部教授 & 的場 昭弘 神奈川大学 経済学部教授

――本日は、お二方は初顔合わせと言うことで、歴史的対談ではないかと密かに思っております。生活クラブは今、アソシエーション論を拡げていこう、という機運があります。私流解釈では動機は二つある。一つはグローバリズムの嵐の中で生活クラブの運動を位置づけしたいという点。二つ目は生協としての転換点、再アソシエーション化の機会なのではないか。
 田畑先生からはマルクスとアソシエーションという形で当機構では、既に提起していただいておりました。また新たに『マルクスと哲学─方法としてのマルクス再読』という書籍が出来上がったと言うことで、蓄積のまとめであり、アソシエーション論の前提として金字塔的に重要なことと認識しています。
 時同じくして的場さんより『マルクスを再読する』が出されました。これはぜひお二方の対論をお聞きしようと企画させていただいたところです。今日が初めてと言うことですので、良い機会を作れたのではないかと自賛しております。
 レジメを拝見するとお二方とも多岐に渡っておられて、このまま論議すると3、4日分の量があるかと見受けられます。アソシエーション論のところからマルクス再読に迫ってみたいと考えております。

 

田畑 今日はお互いに新著を論評しあうという趣旨ですが、私の方は的場さんの本を随分楽しく読ませていただきました。ところが私の本は大冊で、読み通すのも難儀な代物ですし、ましてその評価となると、自分で言うのもなんですが、肯定否定にかかわらず、おそらくそうすぐにはいただけないと思われます。しかも私は的場さんとはこれまでさしたる交流もありませんので、白紙状態に近い的場さんにこんな短時日でコメントをお願いするということですから、大変な難儀を強いたのではないかと思います。
 一応、そういうことも考えて、先に私のほうから、的場さんの本に合わせる形で、両者の対比をかなり図式的にさせていただきましょう。その上で必要な限度で詳しい議論をすると言うのが望ましいのではないかと考えております。
 まず共通面としては「マルクス再読」というアプローチがあります。ただし、強大なソビエト体制が前提であれば、新しい「読み方」を対置するだけである種の存在理由を保持できるという外見もありえたわけです。しかし今ではそれでは意味がない。21世紀的実践の観点からマルクスを読み直す。この点が二人に共通する点であろうかと思われます。的場さんの本でもネグリ1)の『帝国』を絡めて、マルクスを再読しておられるし、私の場合も今回の本でこそ直接実践は扱っていませんけれど、『マルクスとアソシエーション』、さらには『アソシエーション革命へ』と不十分ながら一連の作業をしております。
 また両者とも、再読作業の中心に、ある種の国家集権型の変革からの脱却を置き、アソシエーションを軸にした21世紀的な実践を構想しております。
 それからマルクスへのアプローチとしてもう一つ共通しているのではないかなと思えたのが、過程的なマルクス理解という事。的場さんの第8章のプルードン−マルクス関係、第11章のオリエンタリズムを読みますと、そういう読み方の特徴が出ていて、私も大変共鳴しました。
 従来では偉人を作ろうという思いが先行して、マルクスにこういう欠陥がある、と指摘されると、いやそれはこうだという言い訳をマルクスではない我々があれこれと言ってしまう。「ガラスの心臓」でマルクスを見てしまう。それで一体本当には何を守っていたのでしょうか。
 そうではなく、マルクス自身も過程的に理解する。特定の時期の特定の言明を、真の、最終のマルクスとして特権化しない。むしろマルクスの失敗も挫折も限界も含めて、タフに過程的にマルクスに向かいあっていく。それはつまり読者である我々もタフに過程的に生きるということなのです。的場さんのマルクス研究の特徴も歴史研究というのでしょうか。その点が強いところでしょう。
 次に両著の違いを、ちょっと強引ですが図式化してみましょう。まずは第一点として、外面的に言って、的場さんのは一般書で、包括的にマルクスを扱っておられる。私のはいわゆる専門書で重点的である。悪く言えば的場さんのは、かなり無理をして議論していると感じられる箇所がいくつもあります。私の本は条件的で慎重な議論を延々とやっていて、読者に苦行を強いている節がある。
 それから「再読」の意味ですが、的場さんのご本では、アルチュセール2)によるマルクス再読の影響から自分の再読の作業を進めてこられたようです。私の場合は個人的動機が大きくあります。私自身を含むある種の権威主義的な思考様式、コミュニケーション様式についての限界の体験から、遅ればせながら80年代はじめにマルクス再読に入ったと言えます。
 的場さんの本には、アルチュセールがいろいろとマルクスを読み替えていたのに、当時の自分は理解できてなかったと自己批判的に語られている箇所があるのですが、的場さん自身の再読の実践的な動機というところが、今ひとつ判りにくかった。的場さんの思想遍歴を知らないので、誤解があれば許してほしいが、ニューレフトは確かにスターリン体制への批判は行っていたわけですが、やはりマルクス再読をアピールせざるをえないということですね。ニューレフト自身も何か主体的な自己批判の動機があって、それとの絡みで再読という行為に結びついているはずですから、その点をもう少し展開して欲しかったと思います。
 私の場合、的場さんより10歳も年上ですが、どちらかというと旧左翼の亜流とでも言いましょうか、そこで育ってきました。しかしある時期からインディペンデントに生きると決意しまして、かなり個人的な動機が大きいのです。
 また再読の仕方にも違いがあるように思います。私の場合には従来のマルクス解釈を脱皮するためのテコとしてアルチュセールや廣松渉3)の胸を借りながらも、この二人を批判することが主たる課題となっています。従ってアルチュセールの言う「徴候的読書」4)についても、かなり解釈学的に見て超楽観論があったのではないか、外挿法にとどまっているのではないかと指摘しております。もちろん徹底内在というのは方法的要請にすぎないのであって現実にマルクスと神秘的一体化をすることを私は言っているわけではないのです。私の場合にはマルクス再読作業と21世紀に向かってマルクスを乗り越える作業は並行作業であります。アルチュセールだって、21世紀に向かってマルクスを乗り越えるとハッキリ出した方が気が楽なのではないか。殺害事件5)の後、アルチュセール自身がかつての自分のマルクス再読が外挿的であったことを自己批判しているのですが、今度もまた「不確実性の唯物論」を「マルクスのための哲学」として語ろうとする。アルチュセールは自分の生活諸関係を批判的に吟味するという本来の哲学的営みをやっているわけですから、何も「マルクスのために」という事ばかりにこだわることはなかったのです。
 的場さんはむしろ内在的読解から低次の徴候的読解へそして高次の徴候的読解へと段階づける形でアルチュセールを生かそうとしておられる。私の見解では、我々はあくまで21世紀の現実の中で考えているわけですが、残念ながら現実との生き生きした思想的通路をいわゆる「マルクス主義」が塞いでしまっている。この通路を再敷設するための不可欠の作業の一つとしてマルクス再読が必要となっているのだと思っております。それが私の「方法としてのマルクス再読」なのです。

 それから実践面での対比ですが、的場さんがこの本で書かれている限りから推測しますと、ローザ・ルクセンブルグ6)の「マッセン・スライキ」やネグリなどがかかわった「アウトノミア運動」、こういう流れを今日の反グローバリズム運動と結び付けようとしておられるように思われます。私の場合は「アソシエーション革命」という視点でマルクスの再読をやっているということです。
 マルクス解釈の系譜的な流れで言えば、的場さんはアルチュセールからネグリへという流れで現代にマルクスを結びつけている。私の場合はマルクスからグラムシ7)を経由して21世紀へというような図式になるかと思います。
 市民主義、市民的社会主義、市民社会的社会主義に対して的場さんはかなり厳しい原則的批判を行っておられるように思います。私の場合はマルクスをグラムシの市民社会論やヘゲモニー論と結びつけるようなマルクスの読み方があったのではないかという視点で、マルクスの国家論とか市民社会論の読み直しをやっております。私は平田清明8)さんの一連の仕事については高く評価しております。あえて言えばせっかくアソシエーションの問題を提起しながら、それを主として市民社会論の枠組みで言おうとされたという点で、留保をもっております。私の場合は言わば「図」と「地」を逆転させて考えております。あくまで「アソシエーション革命」が私の場合の眼目なのです。しかしそれは市民社会でのヘゲモニー的対抗や陣地形成の問題を不可避の課題とすると考えております。
 共産主義の基本イメージについては、的場さんの場合にはスピノザ9)の再読も絡むのですが、共同体、人間の類的本質というものがコミュニズムの足場であると見ておられる。私の場合には古い共同体とアソシエーションとは違う、新しい共同性というものを歴史的にどう生成させるのかということが問われているのだ、というアプローチになります。自由な個人というのは市民社会的なものに留まるという的場さんに対して、私は共産主義とは自由な個人の実現なんだというマルクス解釈を提出しております。
 哲学的な流れで言いますと、的場さんはアルチュセールからネグリへと至る「スピノザ革命」の視点からマルクスを再読(脱構築)するということを前面に掲げておられる。私の場合には、ヘーゲル10)から哲学の外部へという形でマルクスを位置づけています。これとも関わるのですが「主体=実体」や「否定の否定」や「過程的内在」といったヘーゲルの言う意味での弁証法に対して、的場さんは「外部原因」「主体なき装置」といった視点を対置する。私の場合には「疎外」や「否定の否定」を実践的構想力から読み替えていき、ヘーゲルの弁証法を哲学的思弁の枠組みから解放していくという方向を志向しています。これは同時にアルチュセールや廣松渉への批判を意図しております。
 個別にはいろいろありますが、そんなところが大体、私がかってながら図式的に整理した的場さんと私の共通面と対比面ではないかと思います。

 

――では次に的場さんから


的場 先ずマルクス再読についてですが、同じ月に二冊出たというのは偶然なのです。別に田畑さんと一緒に出したということではありません。私自身、本屋に行って驚いた次第です。滅多にないマルクスものが二冊も並んでいる。一つは田畑さんのご本でもう一つは私の本だったわけですが(その後、山之内靖『受苦者のまなざし』(青土社)、大川正彦『マルクス―今コミュニズムを生きるとは』(NHKブックス)が出ました)。
 当時『週刊読書人』でも「マルクス研究者のことを絶滅品種」と書いたのですが、これはまさに二人しかいない絶滅品種が、たまたま同じときに吠えたという感じですか・・。
 マルクスについて知ってもらいたいというのはずっと思っていました。変化する時代、まして経済も含めた全体的沈滞ムードの中で、マルクスという声がほとんど聞こえない。多分マルクスの声を聞きたい人は多いのですが、マルクスを読むにはやはり控えてしまう何かがある。これは多分冷戦以降の変化の中でマルクス主義が魅力を失ったことにある。それともう一つマルクス研究を含めた今までの学問的体系、その学問のマナー、方法が今大きく変容しつつあるということでもあります。
 もともと私は、本を出す以上は読んでもらいたいと思っています。だから判りやすく、少々すっとばしても明確に書きたい。特に今回の書物は鳥瞰的な本です。これまでマルクスに期待されていたものを木っ端みじんにしてみて、その後なにが作れるのかと問うています。いわばけんか腰で書いてみたい。だから今日は田畑さんとケンカしてみたい。同じマルクス研究者でもこうまで違うんだということを見せたいと思います。
 学問の方法が変わってきている。このことはマルクス主義だけの問題ではないと思います。学問全体の問題。今は学生達の質も変わり、私達教員も単なるサービス提供者になっています。
 だから、今田畑さんが繰り返して主張している生活者レベルの言語というものが学問の中に入って来なければならない。マルクスも含めた19世紀後半からできあがってくる近代的学問は本当に難解である。だから一部エリートにしかわからない。キッチリもしているわけですが、今ではそうしたもの自体受け入れられなくなっています。もう少し判りやすい言葉で語りたい。と言っても誰でも判るレベルで語っているわけではありません。
 私はもともとソビエト経済を大学、大学院とやっていました。私はソビエトのことをこの書物の中でもこてんぱんに批判しているんですが、実はもともとソビエトが大好きであります。ソビエトに留学しようとまで思った人間なのです。マルクスについては70年安保の頃、つまり高校時代から一生懸命読んできました。しかし卒業論文にはソビエトを選びました(ゼミは慶応大学の遊部久蔵さんのところでした)。なんと言いっても現実に存在する、社会主義にマルクス主義の意味があると思った。それがもしダメならば、マルクス主義に何か問題があるかも知れない、という意識です。マルクスが先にありきではなくて、初めにソビエトありきでした。マルクスを知るためにまずソビエトを知りたい。
 で、その研究は実際行き詰まってしまいました。大学院で『ソビエトに於ける信用制度』という修士論文を書きました。そもそもソビエトには財政はあっても信用制度がない。だからソビエトは資本主義ではないと言うことにもなるんですが、しかしそのため資金配分がうまく機能していない。ソビエト国家というものは実際何なのか、ということを追求したのです。そこからもう一度マルクスに還ろうと思った訳です。しかし社会主義経済をやめる前に、社会主義社会を実際見ておこうと思いました。ソビエトに行ってもこれはもう埒が明かない。ユーゴスラビアではなにか見えるのではないかと思い、今はクロアチアの首都ザグレブに行きました。チトー型と言われる自主管理型社会主義を見てきたわけです。実際生活してみたわけですが、うまく行っている様子はないんですね。そこでフランスに移動してパリ高等研究院のアトリエ・プルードンのグループと交流しました。このアトリエ・プルードンという団体は一種マニアックなプルードン主義者が集まっているのですが、自主管理などをプルードン11)から読みとっていこうとしていました。その時期プルードンを調査しました。草稿など含めて細かく資料分析しました(プルードンについてはその仕事を書物としても、論文としてもまだまとめていません)。私の最初の著作となるのですが、同じことをマルクスについても行なっていまして、『トリーアの社会史』(未来社、1986年)として出版しました。
 その書物の中でマルクスの生きていた世界を見て見ようと思いました。テキストクリティークよりも、人間そのものをその時代から見ていこうと考えたのです。方法的にはフランスの歴史学のアナール派の研究を参考にしました。むしろそこから行くしかないと思っていました。テキストに帰れという言葉がありますが、マルクスその人に帰れというのは私の他の人とは違う点だと思います。約20年ちょっと、こうした細かい仕事、マルクスの文章よりも彼が生きた時代の中でマルクスを見ていく作業を行ってきました。そうした基礎作業をやることによってマルクスのテキストの背景を調査した。もちろんマルクスのテキストについても『未完のマルクス』(平凡社選書、2002年)という本を書いたことがあります。それはマルクスのテキスト編集の歴史を取り扱ったものです。こうしたところが私の研究史です。
 こうした状態でしたから、私は歴史研究にのめりこんでいて、マルクスの現実面での研究などにはあまり関係していなかったんです。
 しかし「90年フォーラム」や「アソシエ21」(今、事務局長をやっているんですが)などに参加するなかで、徐々に現実面でのマルクスに研究を移さざるをえなくなりました。実際は、私がこうした研究にしゃしゃり出たわけではないのです。今までこうした分野で活躍されていたマルクス研究者がみんながすーっと後ろに退いてしまったために、結果的に残っていた私が最前線の人物になってしまったのです。責任をとらされてしまった。でもやってみると楽しい、色んな人達との交流もできました。
 振り返って考えてみても、現実世界の変革、現実世界の問題と結合しないマルクス研究などあまり意味がない。私の研究が移動したのは、91年のソビエトの崩壊、89年のベルリンの壁崩壊以降です。マルクス主義を標榜する国がなくなった。スピノザ的に言えば、「存在しないものに真理はない」。存在しなければ、存在するために何かを作らねばならない。
 これまでマルクス主義者の多くは、ソビエトなどが存在しなくたって、立派なマルクス主義の理念があればいい、と思ってきたと思うんです。しかしソビエトが消滅した途端、マルクス研究も衰退してしまった。皮肉ですが、やはりソビエトという国があったが故に、マルクス研究があった。ソビエトが無くなるとマルクス研究もすーっと消えてしまったのです。
 それなのに、「マルクスの亡霊」を今時呼び出して何の意味があるのかという人も今ではいるかもしれません。だから私達は絶滅危機品種なのかもしれません。私も田畑さんも長いことマルクスをやっているし、要領もよくないので逃げようがないと言うことでしょうが、結局私たち数人だけが残ってしまった。
 とはいえこうした状況はそんなに悪いわけではありません。ソビエトの崩壊、それ以後の資本主義の変化、そうした中から新しいマルクスを引き出す可能性が出てきたともいえるのです。これが今回のマルクスを再読するという意味で、当然資本主義一人勝ちの世界の中でマルクスをどう読み直すかを問うています。
 もちろん「今」という時点からマルクスを読んでいるわけです。とはいえ、「今」から読むとは、今の世界からかってに解釈するという意味ではないのです。かつて『新マルクス学事典』(弘文堂、2000年)という本を何人かで編集しました。多分、マニアックな研究者達が集まって、役立たずなことをやっているなと思われたかも知れません。しかし、19世紀という時代において一旦マルクスを見てみる作業をしなければならなかった。19世紀の中で見える物を置くことによって、そこからマルクスの今の可能性を読み込む作業をしたい。そうすると、現状から見るマルクスではない、「今」ない新しいマルクスが見えてくる。その意味で、見えない「今」からマルクスを見直したわけです。ここには解釈学的方法、言語学的方法、社会史的方法などが使われています。今からかってに読み直したのではないのです。そのことを強調しておきたい。
 田畑さんの書物との対比面と言うことに移ります。私の書物は、確かに一般書でありまして、みんなに読まれるようにやさしく書かれている。かつてのようにみんながマルクスを読んだ時代ではない。だからマルクスを多くの読者に読んでほしい。その誘引役なればいい。
 田畑さんは専門書、一般書の区別をされているのですが、今の時代ほどその区別が曖昧な時代はない。かつては専門書には一つのしきたりがあった。たとえば引用の仕方、文献の書き方。しかし今では大きく変わってきている。これまでの専門家のための書物は、社会の動きと照応していない。マルクスの書物は、アカデミックな世界を飛び出して読まれなければ意味がない。しかし、そこに持っていく読解方法も必要です。この読み方の一つにアルチュセール的兆候的読解というのがある。これは著者の言いたかったことを読み解くという方法ですが、解釈学、言語学などの方法を駆使しなればならない。それを私なりの研究によって考えてみたわけです。こういう読み方ができるのかどうか。マルクスのテキストの中に内在すべきなのか、マルクスのテキストから出るべきなのか。もちろん、マルクスのたんなる解釈学に終わるのではなく、21世紀の展望の中、21世紀の現実をどう理解するかを反映するために読む。しかし反映すれば当然逸脱的部分があり得るわけです。その難点をどう克服するか。そこに一つの挑発の意味があるわけです。現実の運動の中と解釈学的理解との双方から、新しい解釈を提示し、挑発としていきたい。だから古いマルクス主義者に怒って欲しい、そんな読み方は成り立たないと怒って欲しい。
 その典型が「唯物史観」を認めない、「弁証法」認めない、「発展段階説」認めない、階級闘争を認めないという主張です。もちろんすでにアルチュセールの頃に火種はあった。これは一種のケンカです。こういう風にボンと書くことでかき回したい。もちろん、裏話ですが私もこれらの主張を全面的に主張しているわけではありません。そういう読み方をやってみたらうまく理解できるではないかと主張しているわけです。そうした読み方がすんなりと行くのならそれでやってみる。例えばです。弁証法の場合、主体と他者との問題があります。マルクスの方法がこれに該当するかどうかを哲学論議で議論すれば、いろいろな考え方が出てくるでしょう。しかし今問題なのは歴史の中で存在論的に問題を解決することです。存在している人間世界には、主体も他者もいない。かつて他者と言われた人達、これは多くは植民地の人達でした。サイード12)のオリエンタリズム批判13)の議論がそうなのですが、宗主国と植民地に分離している間は、相互コミュニケーションなんて事実上成り立たない。成り立たないようにこの世界は切断されている。切断された世界を前提にして、これまで解釈されてきた。今はそうした解釈では十分ではない。ここでスピノザ的な考えで解釈しなおします。
 存在するものはどんなに愚かに見えようとも真理を含んでいる。貧しいものも貧しいが故に存在しているとすれば、それはそこに存在価値がある。それは否定できない、まさにそういう存在論的な立場から考える方法です。これはマイノリティーを考察するための方法です。
 今市民社会の市民の問題があります。シビルソサエティー、あるいはゲゼルシャフトと言われますが、ある程度豊かになった上で均質化した人間社会があります。これは相互コミュニケーションの社会であるわけです。もちろん西欧や日本などに限定すれば、市民社会は成り立つ訳です。しかし、世界全体に広げて考えると、そこから排除された人々がいる。この世界の中で市民的相互コミュニケーション行為というものが成り立つとすれば、多分ある限定された地域になる。そうした中でコミュニケーションをどうとるのかということが提起されてくる。
 ここで考えられるのは市民ではなく何とか生きている人々です。彼の側から歴史を眺めるとどうなるか。そこが弁証法へのアンチテーゼの根幹的部分です。
 そうした点から田畑さんの書物を読んだのですが、この本は、内在的であることを強調されている。いわば外挿法というか、外から見る方法を避けてテキストに内在的に読むということに徹底されている。もちろんテキストをそのまま現在理解しているレベルで読むのではなくて、解釈学の方法を使いながらその時代の文脈で多分読もうとしておられる。それを20世紀という時代の問題意識に翻案される。この根幹に、多分「生活者」「構想力」という考えがある。特にマルクスの中に主体性の論理を読み込んでいく作業をそこからやられている。私のほうは、「主体性」というものをなるべく抑えようとしている。こういう意味ではふたつの書物は、大きな違いがある。ここでいう主体性というのはカントから来ている。三木清なども言っている構想力の論理。カント理解が多分この本の大きな柱ではないかと思われますが、私には残念ながらカントという流れが欠けているのですね。ですからその点大変勉強になりました。
 とは言いましてもこの書物は、全体の割合から言って、主体性論よりも、唯物論の部分が長い。唯物論に関しても、マルクスの唯物論は、いわゆる唯物論ではないのだと田畑さんが挑戦的に言われている。私個人としては、この唯物論批判の部分より、構想力、生活者の主体的立場という前半の方が面白かった。
 ところで各論文の出版年を見てみますと20年くらい前に書かれたものもありますね。この辺りやや書物としてチグハグなのかなと思います。唯物論の与えた影響、とりわけフランスにおける唯物論の様々な問題について、私は『パリの中のマルクス』(御茶の水書房、1995年)の中でマルクスとパリの共産主義者達との交流についてかなり細かい調査をしました。文献的にみて、マルクスとフランスの共産主義者や唯物論者との交流はさほどでもない。そうしたこの20年間の研究も考慮していただきたかったなあというのが読後の感想です。

 

――ありがとうございました。主体の問題が出ました。田畑さんは『アソシエーション革命』の中で生活者的知性と言うことを言及されています。的場さんのアソシエーション論はプルードンの協同労働を絡めておられる。お二人からアソシエーションについてお聞きしたいと思います。

 

田畑 その前に、的場さんのご指摘もあったので、唯物論の問題に私が長々とこだわった理由をちょっと申し開きさせてください。それとの絡みでアソシエーションについても触れてみたいと思います。
 私は今回の本で、マルクスにおける唯物論問題の全面的な読み替えを行ったつもりなのです。第1に、マルクスの物質概念は自然科学的な物質とはまったく違う。端的に言えば「人間たちの物質的生活」の概念である。第2に、マルクスにあっては「市民社会の唯物論」が「物象化」論と直接連続している。だから唯物論批判が近代社会批判と一体のものとして戦略的に位置づけられている。第3に、マルクスの唯物論は哲学的唯物論ではない。「批判的唯物論的社会主義」という形態規定性において了解されねばならない。第4に、彼の唯物論は図式的に言えば「教義的唯物論」でなく「批判的唯物論」であり、「決定論的唯物論」や「還元的唯物論」でなく「制約の唯物論」であり、「直観的唯物論」でなく「実践的唯物論」ないし「協働的媒介の唯物論」である。こういったことです。青年マルクスが唯物論問題に直面し、自ら唯物論的な立場に移行した動機や経緯も従来の通説とはまったく異なるものであったと見ております。私の自負としては、これらの作業によって、エンゲルスがマルクスの死の3年後に導入を図り、絶大な影響を与えた「哲学の根本問題」や「哲学の二大陣営」という枠組みから、マルクス唯物論を解放する道をつけることができたのではと思っております。
 マルクス唯物論への私のこのようなこだわりは、もちろん私自身の思想的経歴にも関わります。しかし同時に21世紀へとマルクスを超える通路の敷設にも関わっております。21世紀には物質的生活における地球的規模での深刻な危機から我々は目をそらすことはできないでしょう。唱道型のアソシエーションももちろん大切ですが、人間たちの物質的生活を協同で組織するという社会主義的アソシエーション運動の原点に、異なる歴史的文脈においてではありますが、ぜひとも再び光を当てねばなりません。これは人類史の未来に関わる大問題です。
 唯物論問題がアソシエーションと絡んでくるもう一つの問題は、アソシエーション過程こそ深化する物象化過程(市民社会の唯物論)への対抗過程であるということです。商品・資本関係の進展とともに人と人との関係を物と物との関係へと置き換えていく過程が進展します。諸個人の相互孤立、責任主体性の曖昧化、コミュニケーション的行為能力や協働性の空洞化などはこれと表裏一体でしょう。アソシエーションは、諸個人が生産主体としても消費主体としても責任主体として合意形成過程に積極関与しつつ生活の社会的再生産過程に対する主体的コントロールを確立することを目指すのです。
 精神障害の領域でもアソシエーションが唯物論批判としてたち現れねばなりません。すぐれて人と人の関係性の病である病気を脳内物質への操作で何とかしようという「捩れ」が、伝統的な意味での唯物論(心の物質性の概念)の今日的姿を象徴しております。こういう対症療法を全否定するのではありませんが、しかし精神障害者の協同組合など、いわば「共同苦悩のアソシエーション」こそ、われわれが歴史的に迫られている本来の回答でなければなりません。
 的場さんの本を拝見して唯物論問題につながるテーマとして、強調されているのが、第1に、哲学のイデア(理念)化的完結癖を「外部」を突きつけて攻撃すること、第2に、変革運動においてパッション(とくに喜びの感情)を積極的に位置づけること、それから第3に自己運動する「マシン」として制度を捉えることなどです。これらはいずれも読者を挑発し、議論に生彩を与えております。そういうことを重々認めた上で、私のマルクス唯物論再読の特徴と対照する形でコメントさせていただくと、次のようになろうかと思います。
 第1のイデア化的完結への「外部」による批判ですが、マルクスの場合、イデア化的完結への批判から始まるのではなく、イデア化的完結からイデアの実現に向かって当事者自身が「外部」へと主体的に実践的反転をする。そこから始まるのです。その結果として実在論の問題や唯物論の問題が実践者に向かって地平的に立ち現れてくる。逆に実践抜きの完結批判はいかに「外部」を対置しても実際はポジティビズム=現状肯定に終わってしまう。マルクスのこういう基本認識は、いわゆる初期に限定されません。理念性を攻撃するポスト・モダン系の思想家が多いですが、やはりイデア的なものを契機として含まないと社会変革論にならないのではないか。批判主義に終始し、懐疑論的な影を引きずってしまうのではないか。さらに言えば、イデア的なものが前提にないと真の「外部」との格闘もないのではないか。マルクスの唯物論が「批判的唯物論的社会主義」という形態規定性を持つということとの絡みで、この「外部」問題と理念性の過程的な絡みのマルクス的特質が問われる必要を感じます。
 第2に、変革運動においてパッションを積極的に位置づけることについてですが、この積極的情念は「類的本質」に由来するとされる。的場さんのこの強調は「スピノザ革命」視点からマルクスを再読しようという文脈から、また「楽しい人生」こそ幸福と見る現代日本の多くの若者と対話を図ろうとする配慮から、来るものでしょう。しかしそういう文脈を離れても、社会変革運動には常にモラル主義的な翼と情念主義的な翼とが目撃されます。初期の唯物論的社会主義や唯物論的共産主義がどちらかといえば情念主義的翼を形成してきたことも事実でしょう。しかし彼らは「教義的唯物論」「哲学的共産主義」という特質を持ったのであって、事態を協働的媒介において見るマルクスの過程的なコミュニズムの立場とはかなり隔たりがあるように思えます。過程的なコミュニズムにとっても情念やモラルが、不可欠ですし、むしろ私の実践体験でも情念主義とモラル主義への運動の分岐は過程的には不可避であるように思われます。こういう了解からすると、「喜び」の共産主義というイメージは、ちょっと前―過程的にすぎるように聞こえますがいかがでしょうか。
 第3の自己運動する「マシン」として制度を捉える視点についてですが、これも唯物論問題と関わっております。「帝国」というのは、的場さんの挑発でしょうけれど、「マシン」だという。誰がアクターで彼がどんなことを願っているかなどお構いなしに、自動的に進んでいくと。しかしまさに、これこそ物象化=市民社会の唯物論の世界なのです。つまりマルクスが唯物論批判を戦略的に位置づけていることと重なってくるのです。「帝国」がマシンであり、現代が極度に物象化された世界であるということは、アソシエーション過程を地球規模でこれに対抗させるという課題に我々が直面しているということなのです(ただし私はネグリらの『帝国』という本は一つのモデル提示にとどまるのであって、歴史的プロセス的な世界認識ではないと思っていますが)。
 アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」というのもマシンの響きがありますが、これはむしろグラムシの市民社会論から来ているわけです。マシンというよりはヘゲモニー、同意形成による支配という主体的行為、言語的行為、相互行為の強調だったと思います。「知的モラル的ヘゲモニー」をめぐってヘゲモニーと対抗ヘゲモニーが衝突するアリーナとして、グラムシは市民社会を見ております。アソシエーション運動はこのマシン的な物象化された流れをヘゲモニー対抗という主体的なアリーナとして自覚的に置き換えていく運動になります。

 

的場 唯物論の問題が提起されました。この世界をどのように捉えるか。物質の自己運動みたいな形で捉えるそうした唯物論でいいのか。
 そうした機械的な唯物論がマルクスでどのように克服されたか、先ずこれが問題でしょう。「デモクリトスとエピクロスの自然的哲学の差異」(1841年)という博士論文でマルクスは唯物論について批判的に書いている。マルクスをめぐる議論に次のようなものがあります。
 もともとマルクスは観念的で自己意識的な哲学を指向していたけれど、唯物論に変わった。それがいつだったのか。たとえば『ドイツイデオロギー』(1845−46年)が書かれた直後なのか、それより田畑さんの仰るようにもう少し前なのかという議論があります。
 いずれにしても、おおきな思考の転換期として1843年から45年、すなわちマルクスがパリにいたときにフランス社会主義、フランス共産主義をどのように理解し、それを評価したかという時期区分の問題があります。マルクスがフランス社会主義、共産主義をどこまで読み、どう理解したのかという問題を文献学的にやるのは難しいのです。残されたテキスト、『経済・哲学草稿』(1844年)のなかにも、いろいろな名前が挙がっているフランス共産主義者がいますが、具体的に読んだ形跡を証明できない。実は彼らの読書ノートがないのです。孫引き的である可能性もある。要は決定的証拠がない。唯物論哲学及びそれに影響を受けたいわゆる「粗野な共産主義」の流れをどのようにマルクスが克服したか、それが文献学的には充分証明できない。マルクスの中で克服されたのか今ひとつ不明なのです。そして今度は『ドイツイデオロギー』の唯物論が登場する。粗野な共産主義的唯物論を引きずったまま、いわゆる機械論的唯物論を引きずったまま乗り込んだとすれば、これはもう単純なタダモノ論的唯物論になってしまう。
 私はスピノザ的モメントと考えています。スピノザは心身二元論、身体と精神という二元論を克服した。その論理はこうです。人間の身体は、神によって作られた生物の進化の延長の中にある。精神といえども身体に規定されているわけです。人間の脳も身体の変容の中から生まれる。とはいえ、その脳の思考力は、単に身体の延長線上に形成されたわけではなく、そこに神の啓示、神の考えを受け入れるようになっている。そこに大きな心身の分離があるわけです。しかし、もとは神ですから、神の延長という形では一致するようになっている。
 とはいえ人間の身体は常に欲望に規定されていて、喜ばしいことは好んでやるけれど、悲しいことはやらない。どうしてもそこにずれが出てくる。そのずれを精神によって抑えようとすることはできない。喜ばしいことは能動的なことです。自分がやりたいことをやるというのは喜ばしい。やりたくないことは悲しいことである。受動的なことは悲しいことだ。能動的であるということは主体的であるということなのですが、ここに一つ逆転の論理が出てくる。自分が能動的にやることは他人にとっては受動的となることがある。能動的なことは実は受動的であるという側面を持たなければいけない。ここに理性という問題が出てくる。人間の知性というのは遅れているが故に、人間の能動的な行為が本当は受動的な行為を作りだしているのに、それに気づかない。ちょうど自然破壊がそれです。もう少し受動的に自然に対してふるまった方がよい。身体を自然に預けてそれなりに主体的意志を働かせれば、ここに能動的なものが受動的なものとなる。それが神の命を受けた至福の時です。至福というのは自分の積極性を受動性に代えられる段階。これは非常に難しいので、スピノザは『エチカ』最後で、このようなことはほとんどなり難しと書いています。
 ここで自然世界はマシンのように進みながらも実は人間の主体性がそこに組み込まれる世界がある。それは存在論的だからです。存在しているという現実に大きな意味をおいているからです。人間の主体性はマシンの中に合致していく形で均衡値をとっていく、それを壊しては行かないんだ。ここに意志と自然とのシステム関係があるんだと言うんですね。こういう意味でマルクスの唯物論を捉え得るとすれば、なにかがみえてくるのではないかというのが私の考えです。
 問題は唯物論の落としどころ、学説史的に言ってマルクスが唯物論をどうしたかと言うことを文献学的にみても、なかなか答えがでない。『経済・哲学草稿』という1844年のマルクスから、45年の『ドイツイデオロギー』『フォイエルバッハのテーゼ』の間に重要ななにかがある。ここをどう埋めるかが学説には問題になるのですが、その埋め方として田畑さんはフランスの社会主義を指摘しているわけですが、私はどうもその点十分だとは思われない。
 じゃあマルクスがスピノザをどう読んだのか。これも文献学的にいうとかなりむずかしいのですが、かれは1841年に博士論文を書くときにスピノザを読んではいるんです。『神学政治論文集』(1670年)と『書簡集』(1677年)のノートです。でもそれ以上は読んでいないようです。それじゃあヘーゲルをいつ読んだのかと言われてもですね、ヘーゲルについて批判、たとえば『ヘーゲル法哲学批判』はあるけれど、ヘーゲルの本についてのノートがないんですね。だからある目的意識を持ってマルクスを再構成していく場合、かなりの継ぎ接ぎが必要となる。ただ問題は大きいのですが、この作業は外挿法的にしかできないのです。
 それから<帝国>の議論ですが、国家論の問題があります。まず国家をマシンと捉えると、国家は中性的性質を持つ。決して一つの主体、支配階級という主体によって動かされているわけではない。利害関係が複雑に絡みながら一つの均衡値をとるように動いていく。それは<帝国>においても言える。マシンのように動く資本の帝国に対して、それを乗り越えるものが要求されている。<帝国>そのものを乗り越える新しいモデルとは何か。<帝国>のような一つのマシンに対して抵抗できるのは何か。ここでネットワーク型の主体、いいかえればアソシアシオン(アソシエーション)というものが求められているんだと思います。この主体性=アソシアシオンモデルは市民社会モデルではない。市民社会モデルはマルクスも言っていることですが、ブルジョワ社会とシビルソサエティーが二重になってでてくる。二重になって出てくるが故に、抵抗戦線として弱い。存在論としての確かな布置を欠いている。つまり、その市民社会に入れない多くのひとたちを存在として含んでいる。ここに大きな問題があります。モデルとしてはアソシアシオンモデルなのですが、その構成要員は市民ではない。世界の様々な地域に普遍化するとすれば、もっと別の要員が必要である。これがマルチチュードですね。
 生活者には労働という現場と余暇がある。労働と余暇。マルクスの時代は、この労働というものの中で横の繋がりを持っていたました。マルクスの時代のプロレタリアートは、労働時間が長かったので、労働の場での横の繋がりが大きかった。しかしだんだんにこの繋がりが小さくなっていく。余暇が大きくなる。そうすると余暇の中、消費の過程の中で人間が横の関係を持っていくことが必要になってくる。この横の関係が市民社会の大きなインパクトだと思います。余暇ができるには、やはり労働があるわけで、先進国においてかつてはこのバランスがうまく取れていた。しかし、もうそうした状況は崩れつつある。例えば生協運動とか、自治会運動とかは、中産階級の運動としてはうまく機能していた。消費における結合の可能性は、現在かなり厳しい状況であると思われます。それと同時に生産の場で連合も苦しい情況になっている。移民労働者にはそのふたつの連合の可能性を本来欠いています。彼らもソサエティをもっていますが、これは地域に根付いた横の関係はもっていない。
 彼らをどう引き込んでいくか、ということが今求められている新しい発想です。これを切り開く例として、フランスの例を一つ挙げたいんです。ゼネラルストライキに近い状態が1995年に起こったとき(フランスでも労働運動が停滞していて、なかなか運動が展開しなかったのですが)に、外国人移民労働者の住宅運動がそれに火を付けた。つまり外国人労働者の住宅問題を解決しようという運動が、停滞した労働組合と市民運動を糾合させた。市民運動が独自に盛り上がったのならばまさに市民意識の高さを示すのですが、市民社会はやはりなかなか利己的でうまく盛り上がらない。それがこのように共感を産んだのは、自分たちの本来の問題を外国人労働者の状況の中で見出したからです。
 アソシアシオンに含まれない人達をどう組み込んでいくのかということが今社会運動の最大の関心事になっているわけです。ここに目を向けない限りは、今の世界社会フォーラム等の動きなどが理解できない。私も「アソシエ21」という組織にいるのですが、旧来の運動の中に閉じこもっているだけでは問題は解決しないと思います。そういう点で市民社会的なアソシエーションに対して、少し変化しろと批判したわけです。

 

――ネグリの議論が判ってきたような気がします。ネグリのマルチチュードというのは労働者とかを超えた主体の問題提起をしていると思います。もう一つは国家論に関わることですが、再アソシエーション化の問題。アソシエーション自体が外部からも内部からも問題が起きてくる点について。

 

田畑 第一次アソシエーション革命として出てきた労働者政党、労働組合、協同組合等が、脱アソシエーションしつつ体制と一体化する。つまり営利企業化したり、国家のイデオロギー装置となっていく。そういう形で資本制や近代国家自身も実体を構築していく。こういう実質的包摂が19世紀の後半以降に進行しました。こういう背景から20世紀の後半に新しい社会運動と総称される運動や「第二次アソシエーション革命」と呼ばれる再アソシエーション化の波も見られるわけです。過程的なアソシエーション論の立場では、イデア的完結と外部をめぐるこのような衝突と再編は、歴史過程の現実の姿だと考えねばなりません。
 もうひとつ大事だと思われるのは、脱アソシエーションの型は、国家機構化や営利企業化だけではなかったということです。対抗的アソシエーションの閉鎖集団化、カルト化という逆のベクトルの脱アソシエーション形態も誤魔化しなしに直視しておく必要がある。小さな閉鎖的共同性の中でお互い「こだま」ばかり聞きあって独善化してしまう。他人事ではなく、こういう主体的反省から、我々は「アソシエーション革命」を志向してもいるのです。
 私の理解では機動戦から陣地戦への移行は「アソシエーション革命」の大前提です。だから市民社会や公共性への対抗的内在は避けられない。ナイーブな公共性論や市民社会論に乗っかってしまうと、それこそ市民社会主義になります。しかし対抗的公共圏を積極的に創っていくというところは現に実践されているのです。アルジャジーラのような対抗的なテレビもある。閉鎖的独善集団を克服する上でも対抗的公共圏の構築は不可欠なことです。やはり対抗的公共圏を育て上げて政治的アリーナ=競技場としての市民社会を、我々が実践的にこなすということが問われている。現在の活躍しているアソシエーションの多くは体制補完的であるということもわきまえていますが、だからあれらはダメだという発想は、過程的でなく、実践的にも有害無益である。NPOやNGOや各種の協同組合はヘゲモニー対抗の中でうごいているという肝心要の認識が欠けている場合が多いと思われるからです。

 

――その点で的場さんが仰られている市民社会に加われない部分、グラムシで言えばサバルタン問題ですね。この問題について田畑さんの考えをもう少しお聞かせ下さい。


田畑 労働者運動というものは、19世紀の西欧における情況的実践として画期的な実質をもったのです。アソシエーション過程も主として労働者アソシエーションの諸形態から開始されたと考えられます。ところが「ソ連型社会主義」では労働者階級が情況的実践からかけ離れた歴史哲学的思弁になり、結局のところ一党支配の専制が「プロレタリアートの独裁」として弁明されるに至りました。また西側でも労働者運動の脱アソシエーション化が進行し資本制や自由主義国家への実質的包摂も進行しました。こういうこともあって、社会変革の担い手の社会階級的規定をめぐって、グラムシの「サバルタン」やメルッチの「ノマド」、スピノザやネグリの「マルティチュード」などが、いろいろな強調点をもって語られているわけです。
 しかしいずれの場合も、まずは先進的と意味づけられた運動があって、その後で運動の社会階級的特質や背景の反省、モデル化がなされるのであって、逆ではない。マルクスも19世紀英仏の先進的労働者運動とは歴史的に出会うのです。これが先行しているのであって、その社会階級的反省や理論的意味づけは、順序としてはその後なのです。
 それによるとプロレタリアは市民社会の中に位置を占め、かつ市民社会の外部にある存在として、二重性を持っている。労働者運動は市民社会に対して外部を突きつける面と、外部に向かって開きつつ市民社会を脱構築する面の両面の緊張関係をはらみつつ進んだのではありませんか。
 今日でも例えば人権は形の上で、市民社会的な枠組みでも認めているわけです。しかし実質的に外部にあるものから見て、それは単なる形に過ぎない。この二重性から運動が生じる。この運動は市民社会に外部を突きつける側面と、市民社会の建前である人権をエルンストに(大真面目に)受け取って、実践的に反転させ脱構築する側面の両面からなっている。そこがいわゆる陣地戦とか対抗的アソシエーションの根拠になるのではないでしょうか。
 そういうものが実践的に再生産できるか。内部で同化されてしまうのではないか。あるいは外部でカルト化してしまうのじゃないか。過程的に見ていろいろ課題は避けがたいのです。しかし運動の論理としてみれば、その中間で勝負をしないと歴史的実践にならないのではないかというのが私の考え方です。もちろんこの二重性を帯びた存在は、マルクスの時代の労働者と同じではない。それは現在のアソシエーション運動の進展を注視しつつ、我々自身が反省的に限定すべきことでしょう。

 

的場 アソシアシオンについてはフランス革命の後で結社禁止法ができた。何故禁止になったのかというと、先ほど田畑さんも仰いましたが、アソシアシオンの悪しき姿は独占団体です。これをどう解体していくのか。資本主義社会でも、会社というのはアソシアシオンです。生活クラブ以上の強力なアソシアシオンです。こうしたアソシアシオンをどうするのかということが問題になる。対抗勢力と言ってもひ弱な勢力になるわけです。この巨大なアソシアシオンの力というのはそれが開かれていると言うことです。例えば私達が株を買うことができる。株が誰にでも買われることによって何百億円も集中する。一方市民団体などはどちらかと言えば閉じている。だからこそそこに人間の意志だとか、人間性があるわけです。しかし力としては弱いわけです。どうしたら対抗勢力足りうるか。
 巨大な資本との対抗では勝ち目がない。フランス革命ではアソシアシオンを禁止する。その後で再び認める。その段階というのは秘密結社が堂々と表に出て、政党などの組織を作っていく段階です。これはいわば下からの力です。これを国家が認めていく。アソシアシオンは国家と民衆を媒介する中間団体として機能していく。
 かつてのマルクス主義型共産主義の最大の問題点は、オール・オア・ナッシングということでした。国家と民衆があって中間媒体がない訳です。全く平面になっていて、共産党という国家権力が民衆を自由に操れる。もちろん労働組合もないから搾取も自由にできる。

 

田畑 アソシエーションの自由もなかった。

 

的場 そうですね。ソビエト国家はアソシエーションを禁止したわけです。
 つまり中間団体の重要性を主張すべきだと思います。そこでモンテスキューを引き合いに出して私は考えたのです。モンテスキューの一番に言いたかったことはアソシアシオンのような機能をする中間媒体の必要性です。モンテスキューはこのアソシアシオンを貴族としたわけですが、貴族は上(国王)に対しても下に対しても文句を言う。中間媒体なんですね。
 問題なのは、アソシアシオンとして結合する団体が開いているか否かです。あの書物の中で私は、排除される層を3つ上げたんです。外国人労働者、ルンペンプロレタリアート、それと農民です。これをつなげていくことが民衆の力としての構成的権力を作ることになります。
 先ほどのアソシエーションの開きの問題ですが、セクトというのは開かれない。閉じてしまう。必要なのは時に応じて自由に開くネットワークを作る。そうして連合していく無数のネットワーク型アソシエーションには巨大なアソシエーションたる企業といえども適わない。
 国家とはなんなのか。私達は国民国家を作ったわけです。しかし「場」としての国家ならば国民国家である必要はないのです。アソシアシオンの結合の「場」、アリーナがあればよい。理論的な組立は簡単なのですが、最大の問題は国防のような点です。
 最近NGOなどが海外で活躍している。ラジカルな人々が外務省に届けなしで行く。こうした民衆による国家を超えた横の協力が遙かに国家による協力を超えているわけです。この力、すなわち選挙に出て代議士になったり、あるいは国家公務員となって権力を握るよりも、むしろ個人のレベルでの協力が力を持ちつつある。ちょっとの資金で海外へ行く。大きな力です。
 しかし、権力というのはどこかで統合したくなる。プルードンはこの統合の場を破壊しました。横のネットワークのみ。政治的な多元主義と経済的な相互主義。中心はない。多分これは理想だと思います。巨大な企業とか、国家とかがなくなればそうなるのでしょうけれど。今後マルクスを通じて新しい社会を構築できるかという問題はそれらの問題の解決にかかっています。
 もひとつ、社会契約という問題があります。ルソーの社会契約論というのは、本当はコントラ・ソシアルとパクト・ソシアルとトレテ・ソシアルの3種類の言葉が使われています。桑原訳などでは、みな社会契約と訳されているんですね。これには位相があります。パクト・ソシアルというのは、中央集権から分権に行くときに社会的合意をとりたい。たとえば大統領が一方的に何かをやるのではなく、人々の意見を聞いて、その折衝の中でのなにかをやる。それは社会的合意です。この合意をパクト・ソシアルといいます。
 ルソーは、一般的意志は中央集権的だといわれていますが、実は、社会的合意が成りたって初めて成立するのであって、中央集権的に上から押し付けられる全体意志などではないんだと言ったんですね。全体意志というのはパクト・ソシアルを欠いている。全体を代表するものが勝手に全体の意志を表明することです。これは合意を前提としていない。皆の合意を経て、反対も認めたうえで、そして何かをやるというのがラ・ボロンテ・ジェネラル、すなわち一般意志です。一般意志というのは全員を全体一致でまとめるというような一方的な合議制ではなくて、反対もありながら長い経過の中で合意を形成していくことを意味しています。
 日本でも国家権力、今はますます集中しつつありますけれどもそれに対してパクト・ソシアル、社会的合意という方向でアソシアシオン運動を展開する。皆が合意をとらなければ何もできないような足かせを作っていく。フランスはコミューン(市町村)というのが3万6千もあって、しっかりと足かせをできるようになっている。けっして合併して大きな市になどなろうとしません。アソシアシオン法というのが20世紀の始めにできまして、ものすごい数のアソシアシオンができた。パクト・ソシアルさせるようにできているわけです。要するに協議をする。何年かに一回の選挙だけに封じ込められて権力が一人歩きをすることのないような組織作りをする。この流れが遠い将来の社会主義、共産主義のモデルとなるのではないか。
 それについても資本の問題は大きいです。フランスは今、イラク戦争に反対していますが、利益が失われると言うことで企業が政府をつついてパクト・ソシアルをいつでも覆すと言うことはあり得るわけです。

 

田畑 現状から出発しますと、社会運動からの再構築というところなのではないか。左翼的な運動はそれなりの社会運動のベースをもっていた。しかしこの古い社会運動のベースが再生産されなくなっています。社会運動は新しいアソシエーションの波として新しい変容を遂げつつあるのですが、この新しい社会運動をベースに新しい政治の展開が問われているように思います。では新しい社会運動はどういう形で自分たちを有効な政治的力として表現できるのか。この課題があります。
 おそらくその鍵は、アソシエーション運動の立体化を通して地域化すること、そして陣地形成に結びつけることにあるように思われます。唱道型のアソシエーションだけでなく、新しい協同組合のような経済活動との結合を強め、自治体への政治進出もする。そしてこの地域に根を張った陣地を結びつける形で全国的世界的な政治のネットワークをどう作っていくか。こういうのが今の勝負所ではないかというのが私の印象です。
 シェイクスピアに『ジュリアス・シーザー』という作品があります。これは革命家を扱っているわけです。キャシアスという革命家は、シーザー支配の現状を耐え難い屈辱と感じ、決起を急ぐのです。ところが一旦内戦状態になると先行きを悲観して、まだ負けてもいないのに負けたと思い込んで自殺してしまう。シェークスピアは決起を急ぐことと死に急ぐことに、何か通底するものを見ようとしている。一方、ブルータスのような中間派は、シーザー体制に半分身を置いているので、決起に際しては最後まで動揺するのですが、しかし内戦後はかえって粘り腰で頑張れるわけです。果たしてキャシアスにアソシエーションが闘えるのか。この反省も大事なことでしょう。
 20世紀をマクロに見ますと激動の時代だった。周辺部であれ機動戦型の一連の革命が成功しました。この革命イメージが我々の「再演的構想力」を深刻に規定してきました。しかしその帰結も目撃したのです。アソシエーション革命を担うということは、陣地戦を戦うということでしょう。

――まだまだお聞きしたいところですが時間もきております。大変難しい座談会でしたが勉強になりました。ありがとうございました。
(2004年11月 赤堤館にて)

田畑 稔:大阪経済大学 人間科学部教授、季刊『唯物論研究』編集長
的場昭弘:神奈川大学 経済学部教授、「アソシエ21」事務局長

編集部註
1)ネグリ:アントニオ・ネグリAntonio Negri 1933年− イタリアの左翼政治哲学者。パドヴァ大学、パリ第8大学で教える。アウトノミア運動の指導者として知られる。1983年フランスに亡命。マイケル・ハートとの共著『帝国』
2)アルチュセール:ルイ・アルチュセールLouis Althusser, 1918-1990年 フランスの構造主義的マルクス主義哲学者。マルクス研究に新しい視点(認識論的切断や徴候的読解等)を導入した。著書に『マルクスのために』『資本論を読む』
3)廣松渉:ひろまつ わたる1933−1994年 哲学者。東京大学教授、同名誉教授を務め、初期マルクスに関する著作多数。筆名は門松晩鐘など。『世界の共同主観的存在構造』『哲学入門一歩前―モノからコトへ』『今こそマルクスを読み返す』
4)徴候的読書:徴候的読解。著者の時代を超えて理解すること。
5)殺害事件:アルチュセールは1978年に妻のエレーヌを絞殺。精神病のために責任能力なしとされた。
6)ローザ・ルクセンブルグ:1871−1919年 ドイツで活動したポーランドの社会主義者。当初、ロシア革命に期待をよせたが、ボルシェビキの独裁体制、非民主的政治態度を激しく非難。社会民主党左派を指導し、スパルタクス団を結成、12月にはドイツ共産党が結成される。社会民主党政権と軍部により虐殺。
7)グラムシ:アントニオ・グラムシ1891―1937年イタリア共産党指導者の一人。1921年共産党創設中央委員、1926年ファシスト政府に逮捕され、獄中で32冊のノートを残した。1937年病気のため解放され死去。
8)平田清明:ひらた せいめい1922−1995年 マルクス主義の市民社会的解釈を打ち出した。『市民社会と社会主義』
9)スピノザ:バールーフ・デ・スピノザ(ヘブライ語)一般にはベネディクトゥス・スピノザ(ラテン語)(Benedictus De Spinoza) 1632−1677年 オランダの哲学者、神学者。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者として知られる。『神学・政治論』『エチカ』
10)ヘーゲル:ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770−1831年 ドイツの哲学者。『精神現象学』『エンチクロペディー』『法哲学・要綱』
11)プルードン:ピエール・ジョセフ・プルードン 1809〜1865年 フランスの社会主義者。〈所有とは盗みである〉という命題で有名。『所有とは何か』『経済的矛盾の体系』
12)サイード:エドワード・W・サイード 1935−2003年 パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家、音楽家。英文学と比較文学のコロンビア大学教授、ハーバード大学他でも教鞭を執った。オリエンタリズムの理論で最もよく知られる。『Orientalism』
13)オリエンタリズム批判:サイードは近代西欧文化におけるアジアや中東の誤ったイメージが、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張している。

新潟県中越地震から見えてくるもの 〜阪神淡路大震災との比較から〜

伊藤 久雄(自治労東京都本部)

 2004年10月23日夕刻、新潟県中越地方を襲った大地震は、東京地方をも揺るがした。筆者の郷里(高柳町)も中越にあたるため、当日の夜半まで電話は不通であった。翌日、高柳町の被害は軽微であることが判明したが、震源地の川口町をはじめ、甚大な被害が発生していることが明らかになり、不安が募った。筆者の友人・知人には幸い大きな被害はなかったが、今日まで2回支援等に訪れた者として、記憶の鮮明なうちに感じたことを書いておきたいと考え、メモ的に綴ったものがこの拙文である。したがって、中越地震全体をフォローしたものではないことをお断りしておきたい。(記録等は2004年12月末までのものである)

 

1.中越地震の特徴
 新潟県中越地震の特徴は、阪神淡路大震災と対比すると分かりやすい。科学的な分析は別として、現地に足を運んだ感想レベルでも次ぎのような違いが顕著であった。
@ 阪神淡路大震災が神戸市等の大都市市街地を襲い、三宮駅周辺や長田区などを中心に大きな被害が発生したのに対し、中越地震は中山間地に大きな被害が集中した。
A この結果、山古志村全村避難や、小千谷市十二平全地区避難など、村全体、あるいは地区全体の機能が失われ、しかも少なくとも一冬は帰村、帰宅することが不可能な事態が生じた。
  これらは、それぞれの集落に通じる道路が各地で寸断されたことが大きい。盛土した部分は、ことごとく崩れた(むしろ地すべり状態で流された)。切り取った部分も崩れた箇所が多い。
B 中越地震は余震が長く続いたことも特徴の1つである。またライフラインの復旧が、ライフラインが収容されている道路の損傷が激しかったことも重なって遅れた。その結果、避難所生活を余儀された人々が多く、しかも長期間に及んだ。阪神淡路大震災とは単純に比較することは困難かも知れないが、住宅被害を比較すれば、避難者はきわめて多かったということができる。下表からは、余震を恐れ、一部損壊の住宅からの避難が続いたことを読み取ることができる。
C ライフラインの復旧は、阪神淡路大震災は下表のとおりである。
 新潟県中越地震については、停電は約27万8千戸であった。1週間後の10月30日現在でも、約4,750戸が未復旧であったがその後徐々に復旧し、12月18日に小千谷市の1地区が復旧したことにより、残された地区は道路の寸断等により復旧作業に着手できない次ぎの2地区となっている(12月18日現在)。
小千谷市:約 70戸(十二平)
山古志村:約 820戸(種苧原地区を除く)
 電話(NTT)は、小千谷市東山地区(塩谷、十二平を除く)について12月下旬目途に完了予定であり、商用電源の供給も再開されたことから、東山地区の電話サービスも年内に復旧する見込みとされている。したがって、12月末未復旧は以下の地区となる。
  山古志村、小千谷市の一部(塩谷、十二平)
 なお、都市ガス(北陸ガス)は12月2日に完全復旧している。このように、道路が寸断された山古志村と小千谷市の一部の普及が取り残されることになった。被害規模は阪神淡路とは比較にならないが、山間部被害の特徴はライフラインの復旧状況にも現れている。


2.阪神淡路大震災の教訓は生かされたか
(1) 行政支援について
 阪神淡路大震災の後、全国で市区町村による相互援助協定が交わされた。今回の地震ではこれらの協定による職員派遣や都道府県からの職員派遣が速やかに行われた。このような行政支援は、阪神淡路大震災の教訓といえる。
 総務省の調査によれば、下表のとおりである。市町村職員は総務省が把握したもののみであるから、実数はもっと多かったものと思われる。なお派遣された職員の主な業務や職種は、上・下水道復旧、給水、医師・看護師・保健師(医療救護、健康相談、心のケア)、応急危険度判定士、避難所管理運営、支援物資の仕分けなどであった。

(2) ボランティアについて
 災害発生後、新潟県はただちに新潟県社会福祉協議会ボランティアセンター内に「災害救援ボランティア本部」を設置した。また被災した市町にも災害ボランティアセンターが置かれた。このような迅速なボランティアセンターの立ち上げも阪神淡路大震災の教訓の1つである。
 新潟県災害救援ボランティア本部や各地のボランティアセンターは、ホームページによって全国に被災状況やボランティア受け入れ体制、必要とされる物資の案内等を発信した。このホームページによる情報発信も阪神淡路大震災のときにはなかったことである。この結果、多少の混乱はあったものの、ボランティアの受け入れや救援物資の手配などはスムーズに行われたように思われた。ただし、物資についてはホームページの更新の時間差などによって、必要なくなった物資が集中してしまうようなこともあったが、大混乱は避けられたのではなかろうか。
なおボランティアは、11月6日の土曜日には3,025人が全国から参加し、この日が最大であった。その内訳は左下表のとおりである。

(3) 避難所の運営・物資等支援等について
 筆者が支援に参加した山古志村の状況は別項に記述した。避難所の運営は、その箇所ごとに相当異なっているので、ここでは触れない(たとえば、県立長岡大手高校には2箇所の避難所が設置されたが、その運営は同じではなかった)。新潟県の施設や救援物資配送センターでの物資受け入れ状況は下表のとおりであった。

(4) 仮設住宅について
 避難所は約2か月で解消され、それぞれ仮設住宅等に転居した。仮設住宅の建設戸数等は次頁の表のとおりである。
 仮設住宅は新潟県が建設したので、全箇所が間取りは同様と思われるが、筆者が山古志村避難所で確認した間取りは、1人用(1K)、2〜3人用(2DK)、4〜5人用(3K)の3タイプがあり、6〜7人用には2〜3人用と4〜5人用を並べて利用し、8人用には4〜5人用を並べて利用することで、結果として5タイプが用意された。
 しかし、入居後の降雪などの状況を取材したマスコミは次のような問題点を伝えている。
1 雪国仕様という宣伝とはうらはらに、隙間風が入ったり、玄関に雪囲いがない。
2 隣との壁が薄く、プライバシー確保が困難である。また、壁が薄い結果として結露が生じる。
3 建設場所が駅から遠いところがあり、日常生活に不便である。
 ただし、阪神淡路大震災の教訓から、避難前の集落ごとに仮設住宅が建設されるなど、いわゆる孤独死対策は十分にとられていると感じた。避難前のコミュニティの維持に配慮した運営が可能になっている。

 

3.自治労都本部の支援状況
(1) 様々な支援活動
@ 東京災害ボランティアネットワークの一員として
 東京災害ボランティアネットワークは、連合東京、東京都生協連、東京都YMCA、NPO法人ふるさとの会(山谷を基盤にホームレス支援などの事業を行っている)、(社)シャンティ国際ボランティア会、三宅島災害・東京ボランティア支援センターなどが参加する組織である。
 東京災害ボランティアネットワークは、10月30〜31日と11月6〜7日の2回にわたって小千谷市などで炊き出しを中心とした支援を行い、あわせて130人あまりが参加し、自治労都本部もその一員として20数人が参加した。東京災害ボランティアネットワークは、その支援の特徴として次の4点をあげている。
1 現地の災害ボランティアセンターに負担をかけずに、独自のルートで支援先を決定した。
2 様々な地域の被災者の方が避難している大型避難所への支援ではなく、地域への支援に力を注いだ。
3 支援する側、支援される側という垣根を越えた「交流」をも視野に入れた活動を展開した。
4 三宅島支援時に培ってきたアイデアを生かすことができた。
 上記の3、4は、12月5日に小千谷市山寺地区で開催された被災者を励ますイベントにも参加する形で継続されている。

A 自治労の取組みとして
 自治労新潟県県本部は地震発生直後から対策本部を立ち上げ、長岡市などの避難所支援や行政支援を行ってきた。さらに連合新潟が、全村避難した山古志村の避難所支援を行うことになり、自治労は近県である北陸や関東の各県本部に協力を呼びかた。都本部は関東のローテーションの1つを受け持ち、12月7日から10日まで、5人が参加した(詳しくは後述する)。

B 単組独自の活動として
 以上のような連合や自治労の組織の一員として取り組んだ支援のほかに、葛飾区職労や八王子市職などの独自の支援がある。葛飾区職労は公立学校の給食調理の組合員が中心となって炊き出しの支援を行った。特に、ボランティアの支援が十分ではなかった10月30日から31日に自主的に活動を展開したところに特徴がある。
 八王子市職は十日町市の隣の松代町に独自に交流施設(廃校となった施設を購入)を持っていた特色を生かし、交流施設に宿泊しながら十日町市の行政支援を、ほぼ1か月にわたって展開した(ローテーションを組み、4人から5人が常駐した)。支援の内容は「被災者台帳の受付事務」などであったが、厳密には自治体の職員とはいえどもボランティアとして行政事務ができるのかどうかについては問題もあり、今後の整理、調整が必要であると思われる。

(2) 山古志村の支援
@ 山古志村は筆者も支援に行っていた12月10日現在では、全14集落が交通止めにより陸路が遮断されており、中でも3集落は一時帰宅もできない状態が続いていた(11集落は警察の許可があれば一時帰宅は可能)。この状況は冬の期間中は継続される。
A 山古志村は全村避難を余儀なくされ、2,167人が長岡市内8箇所に分散避難した(ただし、基本的には集落ごとにまとまって避難した。介護の必要な高齢者は、高齢者支援センターに入所した)。筆者が支援に入った長岡大手高校は、体育館をはじめ2箇所の避難所が置かれ、多いときにはあわせて500人を超える村民が避難した。
B 山古志村避難所8箇所に対しては、避難所運営支援として連合新潟が取組み、筆者の所属する自治労が長岡大手高校内の2箇所を分担した。12月7日から10日までの4日間、都本部の役職員等5人が体育館避難所と大手高校会館を担当した。
C 大手高校体育館は、避難所8箇所の中でも最も避難者が多く、12月10日の時点では359人の避難者を数えた。この避難所は「種芋原」(たねすはら)という集落1箇所が集中して避難しているところで、そういう意味でも避難者間のトラブルはほとんどなく、支援者とも当初に若干のトラブルがあっただけであった。
D この避難所は、避難所の運営(受付、来訪者案内、マスコミ対応、体育館の電灯・暖房機等管理、換気―窓の開閉、洗濯機臨時設置関係の機器管理など)を村の臨時職員1人と支援者が行う体制になっていた。つまり、基本的には行政(村役場)支援なので、行政からの派遣者が運営を支援するべきなのではと思われた。先の八王子市職の行政支援と同様に、行政支援をボランティア活動として行う場合の課題は未整理である。このほかに医療班として保健師3人(富山県、静岡県、札幌市からの派遣)が常駐し健康管理にあたっていた(行政支援として、本来のあり方である)。さらに物資受付の本部も置かれ、村の職員と新潟県からの派遣が1人常駐していた。これら村や県の職員を支援するために、物資の受付や運搬には多数のボランティアが参加していた。
E 避難所運営担当と医療班は24時間体制がとられた。
F 食事は自衛隊が3食とも供給し、風呂も自衛隊の宿舎内に置かれた。避難者だけでなく、職員や支援者も自衛隊の食事を摂った。自衛隊の給食は野営食を準用(援用)しているものと思われ、筆者らが滞在した4日間(10食)はすべて異なったメニューであり、和食・中華・洋食がバランス良く配膳されていた。
G 仮設住宅への入居は10日から開始された。大手高校の避難所は14日には閉鎖された(会館の避難所は18日に閉鎖)。仮設住宅は3タイプが用意され(別途詳しく述べる)、多人数の家族には2つのタイプが併用され、6〜7人家族や8人家族も余裕をもって入居できるよう工夫されている。また、1つの集落はまとまった仮設地区(1つの地区)に入居することになった。
H 山古志村は暖冬が続く最近でも、2.5mの降雪があるという。したがって、当面する課題は屋根の雪降ろしである。新潟県は「除雪ボランティア」の募集をおこなっているが、山古志村は特に危険をともなう作業になる。ボランティアではなく、自衛隊の投入も検討されていると聞いた。
I 本格的な帰村がいつになるのか、春の雪解けを待ってからになると思われるが、相当な期間が必要になる。その意味では、三宅島全島避難の経験も十分に生かされるのではないかと思われる。

 

4.今後の課題として考えられること
 以下は、2度程度しか現地を訪れていない者が考えていることなので、限界も、誤解もあるかと思われるが、あえていくつか記してみた。災害救助法被災者生活再建支援法などの課題もあるが、ここでは触れない。今後、豪雨災害などへの対応も含めて、法制度の改正につなげなければならない。

(1) 山間地被害対策
 これまでの地震災害対策は、市街地を中心に考えられてきた。しかし今回の地震は、中山間地に大きな被害が発生した。この結果、村全体や集落の孤立、全村避難など、かってない対策を迫られた。すでに東京都も、青梅市や奥多摩町、桧原村とともに対策会議を設置した。情報連絡体制などの新たな対策の確立が求められる。

(2) 情報連絡体制
 集落の孤立という、山間地特有の事態以外にも課題が明らかになったと思われる。1つは携帯電話がつながらないということに象徴される安否確認のあり方である。阪神淡路大震災時と比較して膨大に増加した携帯電話であったが、不通状態が続くという今回の結果は、大都市部での災害時の課題を明らかにしている。
 2つは、ホームページの効力である。それはボランティア募集や支援物資情報などに大きな力を発揮したが、時間差―タイムラグの改善など、課題もあった。災害ボランティアセンターを常設するとともに、緊急時にセンターの情報発信体制をすばやく強化する対応が必要である。

(3) 避難所運営
 避難所の実態については、新潟県中越地震対策本部が2回にわたって調査結果を報告している。これらの結果から課題が明らかになっている。(第1回調査:11月3日、第2回調査:11月22日、調査地域はともに長岡市、小千谷市、川口町)
 なお、首都圏において大地震が発生した場合のことを考えると、上記にような課題の解決方法とともに、そもそもの避難所の確保(数)が課題になると思われる。今回は自家用車での寝泊りの結果、エコノミークラス症候群が問題になったが、自家用車の使用どころではなく避難場所の確保が最大課題である。阪神淡路大震災以降、小・中学校を避難場所として指定する自治体が増えたが、公立学校や公共施設だけではとても不充分だと思われる。
 それぞれの校区ごとの全住民が避難する事態を想定した対策を、早急に検討する必要があるのではないかと考える。

(4) 災害給食
 避難所生活が長期化すればするほど、食事は重要である。この間の支援を通じて、自治労都本部の参加者から、自治体が調理用具やプロパンガス等を常備し、メニューなども研究して備えておくことの重要性が指摘されている。
 山古志村などの避難所は自衛隊が3食を供給したが、自衛隊に災害給食を頼るのではなく、自治体自らがボランティアの協力をえながら対応することが基本ではなかろうか。自治体の災害対策や訓練の中に災害給食を位置づけることを提起したい。

(5) 仮設住宅
 仮設住宅については入居が始まったばかりで、問題点は既述したように新聞等が伝えている。まずは冬をどう乗り越えるかであり、課題はその先に見えてくるであろう。

(6) 行政支援とボランティア
 ボランティアの募集や配置、仕事のあり様などは、実際に支援を受けた地域・地区の人々と、支援を行った団体や市民、双方の問題意識の交流の中で、今後の課題も明らかになってくるものと思われる。それは、村や地域の復興と仮設住宅の解消まで続く支援の中で共有されるはずである。
 行政支援については、相互援助協定や姉妹都市の関係にあるところはスムーズである。そのような関係のない地域についても、当該地域から具体的な派遣要請があれば、これも難しいことではない。課題は、行政職員がボランティアとして行政支援を行うことである。つまり、行政職員がもう少し柔軟に被災地で行動できれば、被災地で疲れきった行政職員(市役所、町・村役場の職員)の負担を少なくすることができるからである。一般のボランティアではできないことでも、行政職員なら可能である。

(写真のうち、災害現場のものは、国土地理院のホームページに掲載されたものである。その他は筆者が撮影)

健康を「食」から考える(中) 食、崩壊の背景

岸田 仁 生活クラブ生協・神奈川 常務理事(あんず薬局代表)

3.食の崩壊の背景
(1)北緯50度文化の北緯35度地帯への適用実験
 食の変容と崩壊についてもう少し詳しく検討してみましょう。日本列島は亜寒帯から亜熱帯まで長く分布していますが、主なところは北緯35度を中心に温帯に属します。日本人は温帯地域に適した穀物や野菜を食べてきました。
 ところが前にも述べた戦後の食生活近代化の流れの中で、高たんぱく、高脂質、低糖質を特徴とする欧米の栄養学と食材が怒涛のごとく流入してきました。これらの地域はだいたい北緯50度あたりに位置し、低温で少雨です(図表3)。彼らは穀物が十分採れないために牧畜を起こしその肉や乳を食べてきました。気候が寒いので高カロリー食が必要とされたわけです。
 戦後、1950年代後半から急激な欧米モデルの食生活への変化が進みました。わずか30年間でこれほど食生活を変えた国や民族はないと言われています。1億人規模の壮大な人体実験が行われているとも言えなくはないでしょう。(図表4)
 伝統的な食生活体系が崩壊し食材も変わってきました。また食に関する知恵・技術・経験・勘・コツなどの食文化・食術も断絶しかかっています。

(2)戦後栄養教育の問題点
 食生活近代(欧米)化を支えてきた戦後の栄養教育の問題点について整理しておきます。
 第一は、欧米のものは何でもすばらしい、といった明治維新以来の欧米崇拝主義が根底にあると思います。
 第二は、栄養素を過大視したり、栄養バランス偏重の考え方です。こうした考え方のバックボーンは有名な哲学者のデカルトに端を発した「要素還元主義」とも言われていますが、食生活という全体を見るのではなく、栄養素などの部分を過大に見る考え方です。近代医学も臓器などの部分を治すのが中心で人間全体を見ることが欠けているので、昨今批判が強まっているのと同じ問題です。
 第三は、二番目の問題と共通するところがありますが、カロリー計算至上主義に陥り、人間の精神性や酵素などの大事な問題が省みられない点です。人間は食べ物を燃料に動く機械ではないのです。
 こうした問題は、前にも触れましたが、寒冷地の理論である現代栄養学をベースにしているところにその根源があります。そしてそれが現代日本の食生活の「常識」となっているところが怖いところです。
 栄養学という点で補足すれば、昭和40〜45年当時の公害問題や食品添加物問題に日本の栄養学が対応できなかったという点も見逃してはなりません。このころを境に栄養学は社会性を失ってしまいました。アメリカではR・カーソンがかの有名な『沈黙の春』を出版したのが昭和37年(1962年)になります。日本では生活クラブをはじめ消費者運動がこの流れをくんでいきます。

(3)マクガバン報告
 アメリカでは30年も前に食生活の問題に気づき、警鐘が発せられました。1977年にアメリカの上院で行われた『マクガバン報告』がそれです。当時のアメリカは経済力が高まり生活が豊かになる中で人々の食生活が変化し、肥満と病気が急増してきたことに危機感を覚えたアメリカ政府が大規模な調査を実施し、その結果をまとめたもので、今日でもこのレポートの重要性は低まっていません。この報告ではアメリカ人の不健康さの原因は食事にあるとして「脂肪の摂取量をエネルギー比30%まで下げること」や「一日のエネルギー摂取の50〜60%を炭水化物でとる」ことが強く提言されています。(図表5)ちなみにレポートが発表された直後、1978年の平均的アメリカ人の食事は、脂肪と砂糖という「空のカロリー(カロリーだけで栄養素はゼロの食事のこと。丸元淑生氏による)」で59%のカロリーを摂取していて、残りの41%部分で十分な栄養素の摂取が出来ていたとはとても考えられないことです。当時のアメリカ人の平均摂取カロリーは3000キロカロリーで、発展途上国の2000キロカロリーの1.5倍をも摂取していました。
 当時のアメリカの食事は肉食中心の高脂肪、低繊維食であり、これは先進国共通の傾向でした。この食事が糖尿病、心臓血管障害、ガンなどの原因になりました。先進国共通ということで言えば、「高GDP食」とでも言えるでしょう。経済が豊かになるに連れ、食事が贅沢になり、摂取総カロリーが大きく増え、脂肪が増え、それとともに砂糖が増えます。逆に、炭水化物は減り、繊維質も減ります。最初に述べた「飽食」とはこのことで、総カロリーの摂りすぎとたんぱく質の摂りすぎ(量自体の増加に加え植物性たんぱく質から動物性たんぱく質へのシフト)が特徴になっています。(図表6)日本の食も悲しいことにアメリカと同じ道を歩んでいます。このまま行けば日本人は自滅の方向に進むのは避けられそうにありません。経済がさらに発展し続けるともっと極端な高脂肪、低繊維食になるでしょう。今の経済の停滞や定常型社会への移行は健康の面では天啓かもしれません。
 日本ではこれほど生活習慣病が増え、医療財政も破綻寸前なのに食生活に対する政治の動きは極めて緩慢です。ここ1〜2年でようやく「食育」の重要性に気がつき政府機関も重い腰を上げ始めた?ところなのでしょうか。

(4)学校教育の変化
 話はチョッとわき道にそれますが、学校教育での問題点も見ておきましょう。1980年代半ばまでは家庭科教育の中で食の安全の授業実践が多く行われていました。ただしこれは女子のみです。男女が同じ家庭科を学ぶようになったのは中学では1993年、高校では1994年で、このあたりから家庭科教育に変化が出始めます。
 大きな変化は、1998年に行われた小中学校の学習指導要領家庭科の改訂です。この改訂で、2002年度からの小学校の家庭科教科書には、おやつの選び方、加工食品、食品添加物についての記述が無くなりました。また家庭科の時間数も削減されました。特におやつは小中学生の場合、親が買い与えると言うよりも自分で買って食べるほうが多いという現実から考えると、自分で選択判断できるための教育はとても大事なのです。変わって増えたのが、いわゆる消費者教育的な部分です。
 学校給食では、私たちの関心が大きい米飯給食の実施回数はわが神奈川県が週1.8回で全国最低です。最高は山形県の3.4回、ずいぶんと開きがあるものです。(図表7)

(5)記号化する食の影響
 食の崩壊の最近の例を最後に見ておきましょう。岩村暢子さんの書いた『変わる家族 変わる食卓』(勁草書房)は、実際の調査を基にした若いお母さんたちの実にショッキングな食生活が語られています。
 それによると、1998〜1999年にかけては、「配合飼料型メニュー」が顕著でした。「配合飼料型メニュー」の例に挙げられている料理の一つは「ドライ大豆、干ししいたけ、たまねぎ、にら、にんじんの和風だし煮込み」です。健康のために、いろいろな種類の栄養を、少しでもたくさん摂るため考えられたメニュー、と説明されています。「具盛り沢山」のメニューは五目焼きそばのように昔からありましたが、「配合飼料型メニュー」がそれらと異なるのは、素材自体の特性や、ミックスしたときの味のハーモニーなどは度外視して、食材を栄養とか機能で記号化してとらえ、その種類や量を優先しているところにある、と著者は説明しています。このようなメニューが出てきた背景には、食材の捉え方の変化、すなわち味も風味も食感も異なるのに野菜類はみんな「緑黄色野菜」として同一視して扱われるところにあると言います。調査の3割ぐらいの主婦がこうしたメニューを日常的に作っており、4割強の主婦にも同様の傾向があったと言うから驚きです。
 2000年以降は様相が変わり、たくさんの品目をとることが放棄され始めて一食材を一皿のメニューとするような「単品羅列型メニュー」が顕著になったといいます。レタスだけのサラダ、サトイモだけの煮物が端的な例です。
 さらに2001年以降は「一品代表型メニュー」と言われています。動物性タンパク、植物性タンパク、緑黄色野菜を何種類かの食材に代表させて、それだけで栄養をまかなおうとする単純化した考え方です。たとえばレタスで「野菜」を代表させたり、鶏肉で「たんぱく質」を代表させると言う料理?です。
 これらいずれのパターンも食材を「栄養・機能」に還元し、頭で記号化して捕らえていることに代わりはない、と著者は解説しています。舌や腹で食べるのではなく「頭」で食べる食になってきたことも食の崩壊に拍車をかけることになっているのではないか、と警告しています。
 また健康との関連で言えば、現代主婦がもっとも敏感に反応するのは「健康」に関する情報だそうです。そして彼女らは「健康」のために日ごろたくさんのことを行っているが、その根拠を尋ねてもそれらの情報の中味や根拠を詳しく知って実践している人はごく少数だったそうです。漠然とした健康不安を背景にイメージや気分でやっているもので、著者は「具体的な改善目標なき健康情報指向」と喝破しています。また健康のために「実践項目」や「留意点」をたくさん挙げている主婦ほど、実際には不健康な食事内容になっているケースも結構あると言うからおかしいではありませんか。頭では知っていても手間がかかったり時間がかかることは敬遠される傾向にあるのでしょう。
 こうしたものを果たして食事と呼べるのか、と頭を抱えこまざるを得ませんが、この調査は特殊な人たちを対象にした調査ではないので、こうした人たちがこれからは生活クラブにも入ってくるものと覚悟を決めておいたほうがいいかもしれません。生活クラブに入った後のフォローや共育はますます重要になってくるでしょう。
 これらの背景として、現代主婦の@忙しがりA気分先行B漠然とした健康不安C具体的改善目標なき健康情報指向―を岩村さんは挙げていますが、笑って済ますことの出来ない、日本人の未来がかかっている深刻な問題だと思いませんか。

 

4.そして、何が起きたか
(1)以前は少なかった病気が急増した
 このような食の急激な変化は、農業の衰退などの経済的な問題にとどまらない、命にかかわる重大な問題を内包しています。
 あまりピンと来ないかもしれませんが、実は高度経済成長の中で迎えた“飽食の時代”は人類始まって以来、初めてのことでした。人類は長い間、飢えに苦しんできました。農耕が始まる前の人類はいつでも食料が手に入る環境にはありませんでした。食べ物が手に入らないときは、体の中の脂肪がエネルギー源となるように人間の体は作られているのです。人間の体は、そもそもできるだけ脂肪を溜め込んで飢えに対応できるようになっています。人間は飢えには強く、過食には適応できないようにつくられています。逆に栄養を摂りすぎた場合は排出せずに溜め込んでしまいます。
 飽食と過食は何をもたらしたでしょうか。ガン、アトピー、ぜんそく、糖尿病といった生活習慣病を蔓延させることになりました。糖尿病に至っては1千万人を超すともいわれています。
 一方で、昭和56年ぐらいからは「過食時代の栄養失調(現代型栄養失調)」ということが問題になり始めました。食べすぎなのに栄養失調になるなんてヘン、と思われるかもしれません。食事の内容が変わってきたため、カロリーはいっぱい取れていても、ビタミンやミネラルといった人間に不可欠な微量栄養素が十分摂れなくなってきました。ビタミンやミネラルの不足は免疫力の低下をもたらし、病気への抵抗力をダウンさせてしまいます。こうしたことで「日本人寿命41歳(昭和34年生まれ以降)説」を唱える食生態学者さえいます。

(2)人間のヒト離れ
 人間は穀物など植物や肉類も食べるので一般には「雑食」だと思われていますが、生物的な食性は「植食性」です。生物的な尺度からいうと人間は必要な栄養は主にでんぷん質から摂取し、たんぱく質、脂肪の過剰摂取は避けなければいけない、ということになります。
 ところが、食生活のあり方が大きく変わり、欧米型の食事が増えてきました。また食の利便性が果てしなく追求されてきた結果、加工食品が急増しました。ファストフードやジャンクフードを若者たちは好んで食べるようになりました。人間が本来もって生まれたものではない、後天的な人間の文化的な尺度のほうが優位になり、ヒトの生物的尺度からドンドン乖離してきているのです。つまり人間のヒト離れ現象です。(図表8)また食べ物全体に柔らかいものが好まれる軟食化が顕著になってきています。軟食化により食べ物を噛むことが減ってきました。咀嚼の軽視は消化する力を弱めるだけでなく、歯やあごの発達を阻害し、脳への刺激が昔より少なくなってきています。この影響はすぐには現れませんが、長い時間軸の中では様々な影響をもたらすことは想像に難くありません。

(3)何が問題か
 昭和30年以降の食生活近代化論に基づく食生活の欧米化や加工食品の急増は多くのマイナスの問題を引き起こしています。
 その第一は、伝統的食生活に対する無関心、無知が横行しています。欧米文化に対する劣等感が根底にあるのでしょうか。昔は「味噌汁は医者殺し」と言われたように、味噌汁を飲んでいるとあまり医者にかからなくてすむことが格言にまでなっていますが、そうした味噌汁の効用を知っている人がどんどん減ってきているのは、本当にさびしく情けないことです。
 第二は、これまで見てきたように生活習慣病の急増をもたらしました。近代医学だけではこれらの予防や治療は十全ではありません。
 第三に、米の消費が減り、野菜などの輸入が増え続ける中で農業、自然環境への悪影響が顕在化しています。食料自給率の低下は生活クラブでも長年取り組んできている課題なので皆さんも良くご承知でしょう。
 第四に、輸入食料や加工食品が急増する中で、食品の安全性に対する無関心を広げることにつながっています。
 第五は、日本は世界中から食料を輸入しまくっていますが、これは第三世界の飢餓の背景にもなっています。フランシス・ムーア・ラッペは飢えと貧困を拡大させる5つの力を次のように指摘しています(1982年)。@ごく少数のものが農地をコントロールしているA基本の食品を生産するための農業の発展が無視される一方で、輸出用の産物の生産は増え続けているB基本の穀類が、ますます多く飼料に向けられているC貧困が人口増加に拍車をかけているD米国政府の意図的な“市場開発戦略”が米国の穀類への他国の依存を高めている。(つづく)

この一枚 昭和18年6月に発行された割増金附戦時貯蓄債券です。

 この種の債券、昭和17年には20億円、翌年には50億円発行された。昭和18年の一般会計における国債比率は125億円のうちの50億円で、39.8%。平成15年度の一般会計予算81兆9000億円中、国債発行額は36兆4000億円、44.4%です。現在の国債発行比率は戦時中よりも多い数字です。

 第二次世界大戦に突入した当時の日本は、「大東亜共栄圏の建国」の名のもとに戦時体制を強化し、巨額の軍事支出をまかなうため、政府は巨額の赤字国債を増発しました。国債の大部分は日銀引き受けで発行されましたが、軍事費の膨張を尻目に国債の市中消化は漸時困難となり、悪性インフレーションの元凶となっていきました。
 こうした インフレーションを浮動購買力の吸収により抑制することを目的に発行されたのが、利付きの「貯蓄債券」や割引方式の「報国債券」でした。これらふたつの債券は、資金を軍事産業に優先的に投入することを目的とする「臨時資金調達法」に基づき発行され、宣戦布告とともに“戦時債券”として知られていきます。

インド・ボパールの農薬工場ガス漏れ事故から20年 ボパールにさまよう死の遺産

―20年前、インドの農薬工場から漏出した有毒ガスによる被害はいまも続いている― ディネシュ・C・シャルマ

 インド中央部のボパール(マディアプラデシュの州都)で、化学、産業、環境上、史上最悪の災害を人類が目の当たりにして以来20年になる。
 1984年12月3日、寒い冬の夜も真夜中を過ぎた頃に約40トンのイソシアン酸メチルをはじめとする毒性ガスがユニオン・カーバイド社の工場から漏出し、数千人もの人々が瞬時に生命を奪われ、何千人に傷害をもたらした。
 致死性の混合ガスに曝露したことによる健康への被害は、かくも長い年月を経た後でさえ、いまなお拡大している。放置された工場敷地からは今でも有害物質が土壌へ、地下水へ空気中へと漏れ出ている。インド政府と州政府は、浄化費用をどこが払うかでいまだにもめている。科学者達は生存者に対し今後どのような追跡調査をしていくべきかで、まだ意見が分かれている。そしてその一方で、何千もの被災者がゆっくりと死に向かい、彼らの子ども達は畸形を伴って生まれてきている。

 

●事故から20年、調査終了から10年で初めてだされた報告書
 インド医科学評議会(ICMR)は、この大災害のすべての調査活動を終えた後10年もたってからようやく、8万人を超えるガス被災者に対する1985年から1994年までの総合的な追跡調査結果を初めて発表した。この報告によって、この災厄がイソシアン酸メチル(MIC)単独で引き起こされたものではないことが明らかになった。犠牲者が吸い込んだ煙霧状の毒ガスは、水と高温によってMICが分解されてできた約20種の物質が混ざったものであり、致死性のシアン化水素(HCN)やMICのポリマーなど、大量の化合物であった可能性がある。この混合ガスは、非常に高温になったタンクの中で起きた暴走反応によって生成された。
 「このことは、610タンクの残留物の分析と、死亡者と生存者の血液、内臓から検出されたMIC、HCN、またその他の化学物質から立証されました。大規模な化学災害後、人体における化学物質が調査されたのは、これが初めてです」と、インド医科学評議会の研究チームの主要メンバー、S.スリラマチャリは述べた。
 この報告書が結論づけているのは、有毒ガスの吸入は人の呼吸器系と視覚器系の人体システムに損傷をもたらす、ということである。そしてその潜在的な発癌性と、長期間にわたる他の臓器へ与える影響の可能性について長期的な追跡調査を続ける必要がある、と報告している。

 

●治療もないまま無視された被害者たち
 しかし1994年、納得の行くなんの説明もないままにICMRがその調査を打ち切って以来、この事故の生存者たちに対する適正な科学的フォローはなされていない。
 ボパールのような状況においては、ガスに曝露した人々を少なくとも50年は追跡することが必要だ、とラマナ・ダラ博士は言っている。博士はアメリカのエモリー大学の環境・労働衛生の教授で、ボパールに関する長年の研究者である。
 癌のような種類の病気がはっきりと現れるのにおそらく長い時間がかかるだろう。
 「白黒をつける決定的な追跡調査は行われませんでした。しかも、どのような調査が行われていたとしても、病気の手当や健康管理の面で、ボパールの人々が恩恵を受けたことはありませんでした。なぜなら、こうした面を重視した調査はひとつも行われなかったからです。」サンバブナ・トラストのサティナー・サランギは語る。同トラストはボパールのガス事故被害者のために診療所を運営しているボランティア団体である。

 

●被害者はついに最高裁へ
 生存者グループは公的に何らの対策も採られず放置されていたため、最高裁判所に対する提訴に追い込まれた。
 最高裁は、ガス被害者の医学的な追跡調査を求める請願について審問を行うと同時に、ICMR事務局長を責任者とする諮問委員団を指名し、ボパールの医療機関で現在実践されている治療を調査した後、ガスによる障害の治療実施計画を作成するよう命じた。
 裁判所は諮問委員団に、毒ガス汚染の身体への長期的影響に関する調査研究についても意見を求めたが、その研究にはガス被災者の両親から生まれた子どもたちへの影響も含めるべきであろう。
 また、裁判所は、別の機関を設立して、ボパール市内の保健管理施設が機能しているかどうかを監視し、毒ガスの被災者たちからの苦情についての調査をさせる決定を下した。どちらの機関も半年ごとに裁判所に報告書を提出することになっている。

 

●毒ガス――死の遺産
 さらにボパールが直面しているもう一つの問題は、ユニオン・カーバイド社が工場敷地に、有毒物質を放置したままにしていることである。インドおよび国際的機関による一連の調査により、この放置された農薬工場から出た重金属や分解しにくい有機汚染物質によって下層土や地下水が汚染されていることがわかった。基準の5倍から6000倍にも及ぶ高濃度の四塩化炭素、クロロホルム、トリクロロエチレン、四塩化エチレン、そしてジクロロベンゼンなどの化学薬品が地下水に含まれていたのだ。
 環境へのこれ以上の被害を食い止め、将来敷地を安全に利用できるようにするには、綿密な浄化計画を作り実施するしかない。しかしながら、2000年以来ユニオン・カーバイドを所有しているダウ・ケミカル社は、汚染者負担の原則に反して、浄化費用の負担を拒否している。

 

●ボパールは人災――安全対策や住民への情報は何もなかった!
 ICMRの報告書は、ボパールの惨禍を人災であるとし、もしユニオン・カーバイド工場から4キロメートル以内に人家がなかったなら、また、工場で適切な監視態勢や安全対策がとられていたなら、この大災害は防ぐことができたはずだと結論付けている。
 また、報告書はMICガスの貯蔵期間が長すぎた点も指摘している。事故当時、工場はMICガスを6週間も貯蔵しており、これはユニオン・カーバイド社自らの社内基準にも反するものだった。
 しかし、報告書は、工場の管理者側の度重なる違反行為を見逃してきた地方当局と汚染管理委員会の共犯関係に関しては口をつぐんでいる。
 被災者が濡れた布で顔を覆ってさえいたら、多くの人が死や疾病を避けられたはずだった。MICは水に触れると分解するからだ。しかし、不幸にも地域住民には工場にそのような強い化学物質があることも、漏出事故が起きた場合の対応の仕方も知らされていなかった。このことはおそらく我々がボパールから得た最大の教訓であろう。
 安全な科学技術のみが採用を許可され、多国籍企業が安全と環境保護の両面においてダブル・スタンダードを設けないように、他の諸国も監視を怠ってはならない。アムネスティ・インターナショナルが言うように、人権擁護は、国家の義務であると同様、多国籍企業の義務でもあるべきだ。
 グローバル化を目の当たりにしている今日、これらの問題はすべて、1984年当時よりもさらに重大性を増してきている。

*出典:<CODE NUM=033D>Lethal legacy of Bhopal lingers on’, by Dinesh C. Sharma, Bangkok Post, December 3, 2004
*訳:市民セクター政策機構翻訳ネットワーク(永田まき子、棚町精子、山中恭子、松山朋子、早川美奈子、水野りる子、西容子、三上浩子、和田稚子、十河温子、山本千鶴子、荒井佐代子、細谷陽子、大藪寿里、西尾輝子)

協同組合研究 協同と自由―戦時期「協同主義」の検討 林 和孝 東京都生協連組織部長

 人は人と協力することなくしては生きていけない。私たちの認識そのものが他者との交流のなかからしかつくられないように、人の生は他者との協同(共同)を前提としている。その一方で、人は自由な存在である。自由は放恣ではないけれども、自由を抑制されるとき、だれもが何らかの変調をきたすだろう。個の自由と協同、個人の生き方から社会システムまでを貫いているこれら2つの規範的価値の関係は、現実にどう結びあわされているのか。協同は自由な主体を前提としているはずだ。しかし、協同は往々にして強制に転化して、自由を抑制しかねない。これらは二律背反的な傾きをつねにはらむ。共存させるべきこれらの価値は、いかに折り合いをつけるのかが問われることになる。
 なぜ、今、このような問いかけをするのかといえば、次のような状況認識をもつからだ。
 現代は「個性の時代」ともいえるほどに個が強調されている。人びとは個を謳歌して、人と人との協同関係を結びたがらなくなっている。地域生協における班が衰退の一途をたどり、各種の活動の担い手不足が恒常化しているように、協同組合における協同のあり方は、この時代性の前にたじろいでいるかのようにも思える。
 政治思想として個人の自立をかきたてる新自由主義は、一面、この「個性の時代」の子ではないだろうか。市場の役割を最大限に評価して小さな政府を追求する新自由主義に対して、政府による福祉を対置するだけでは時代のリアリティを見失う。だが同時に、市場がすべてを解決するわけではない。
 協同組合の世界ではかつて協同組合セクター論が唱えられ、このセクターは「正気の島」(レイドロー)といわれたこともあった。こうした議論は市場経済を協同組合セクターで塗り替えるか、あるいは仕切られた社会空間をつくるというイメージで語られていたように思う。新自由主義への反発から、このようなイメージの世界に救いを求める向きもないわけではない。しかしながら、私たちは圧倒的な市場経済のなかに暮らしているのであり、協同組合も市場との関係抜きに存在することができないのであって、このようなイメージが現実化することもありえまい。
 そのようなわけで、卑近なところでは協同組合の組織と運営のあり方から、市場経済と協同組合との関係、さらに社会システムの構想にいたるまで、個の自由と協同の関係が組み立て直されなければならないと考えるのだ。とはいうものの、このような問題をここで全面的に検討する準備はなく、またむしろ共同の作業が必要とされるだろう。ここでは、大いに迂遠ではあるが、第2次世界大戦直前の戦時期に展開された協同と自由に関する議論から今に示唆されるものを取り出してみることで、ひとつの話題提供を試みたい。

1.東亜協同体と協同主義−戦時体制の一構想
 1931(昭和6)年の満洲事変を契機に、日本は中国侵略を本格化させていく。1937(昭和12)年には蘆溝橋事件が起こされ、「北支事変」、「上海事変(第2次)」、「支那事変」という経過をたどって、日中戦争は全面化する。戦争の拡大と国際的な緊張の高まりのなかで、戦時体制――「国防国家」の形成、すなわち戦争の遂行に向けての国民の動員、思想と経済の統制、一元的(独裁的)政治体制の構築が構想されてくる。それと同時に、日本にとっての中国との戦争の正当性、つまり大義が問われることになる。そのような状況において「東亜連盟」、「東亜協同体」などが国際関係を律するキーワードとして唱えられ、国内社会システムとしては市場経済を統制する協同経済とか公益経済が浮かびあがってくる。東アジア国際関係と戦時体制の構想とは密接に結びつけられていた。(このように国際関係と国内体制とが結び合わされて構想されることは現代社会の特徴であり、グローバル化と国内社会システムの転換そして公共性の再評価は、状況が異なるとはいえ、現在、私たちが直面している課題でもある。)
 このような戦時体制の構想をリードしたものとして、昭和研究会の活動が注目される。この研究会は、後に首相となる近衛文麿の友人である後藤隆之助が主宰した政策シンクタンクで、1933(昭和8)年に発足し、1940(昭和15)年11月に大政翼賛会の発足とともに解散した。昭和研究会の目的は、日中戦争の不拡大・早期和平にあり、軍部の独走を抑制することにあった。研究会メンバーには、学者研究者のほかに、ジャーナリスト、政財界、官僚など当時の著名な論客が名を連ねた。戦後も活躍する大河内一男、東畑精一、勝間田清一、清水幾太郎、近藤康男、風早八十二などの名前も見られる。メンバーのなかでも、蝋山政道、加田哲二、尾崎秀実、笠信太郎、三木清らは、精力的に分野別の研究会を開き、その成果は次々に政策提言として公にされた。
 そのひとつである東亜協同体論は、東アジアの諸民族の対等平等な関係による経済ブロック、そして政治的な統合の構想である。さまざまな東亜協同体論が提唱されたが、多くは中国の民族的統一を妨害すべきではないとして、日中関係を帝国主義的な侵略ではなく相互平等な関係に切り換えていくべきであるというものであった。しかし現実には、侵略戦争を行いつつ対等平等な関係を求める二律背反を飲み込んだものにならざるを得なかった。東亜協同体論は、自民族中心主義を大前提とした民族共生というねじれた融合の思想を招くものであり、結局「大東亜共栄圏」に吸収されてアジア侵攻の名目的な大義へと変転していく。橋川文三らも指摘しているように、「『東亜協同体論』は一個の現代の神話、夢たるに終わるであろう」という尾崎秀実の予測は的中した。同じように、軍部を抑制しなければならないという事情から、昭和研究会は国民的人気の高かった近衛による一元的な新政治体制を指向した。それは現実的には意図せざるファシズムの促進として機能したのである。だが、「現代の神話、夢」となってしまった構想の論理をトレースすることは、同じような課題に直面している私たちにとって意味がある。
 昭和研究会の提言のうち、ここでの主題である協同と自由に関係するものは、「新日本の思想原理」(1939年1月、以下@と略)、「協同主義の哲学的基礎」(1939年9月、以下Aと略)、「協同主義の経済倫理」(1940年9月、以下Bと略)など、「協同主義」を提唱した三部作である。ここで協同主義という用語が東亜協同体を律するものとして提案されてくる(もっとも「協同主義」は研究会の討議で便宜的に採用された用語のようである)。@とAは研究会での討議を受けて三木清が執筆したもの。Bは笠信太郎のレポートを受けて、三木がまとめたものであるとされる。昭和研究会における協同主義の提唱は、このように三木清がリードした。

2.三木清と協同主義
 ここで、三木清(1897−1945年)という忘れ去られた思想家について多少なりとも触れておきたい。三木は西田幾多郎門下で、第一次世界大戦後のドイツに留学、M.ハイデガーやK.マンハイム、K.レーヴィットなどの気鋭の哲学者から薫陶を受けた。留学中に執筆した『パスカルに於ける人間の研究』で注目され、その後、昭和戦前期を代表する哲学者の一人となる。一時期、マルクス主義に接近したが、治安維持法違反で拘留中に教条主義的なグループに批判されたこともあって、この潮流から離れる。その後も多くの哲学書を上梓するとともに、『読売新聞』の連載コラム「一日一題」をはじめ、新聞・雑誌に時事的な評論を発言しつづけた。三木哲学の基調は行為の哲学であり、「時務の論理」というかれの立場にしたがって、昭和研究会の活動にも積極的に参加したわけである。三木は1944年、逃亡中の共産党系活動家である高倉テルを一夜匿ったことによって検挙され、1945年9月、敗戦から1月半後に中野の豊多摩刑務所で獄死する。三木は一時マルクス主義に接近したけれども、文化的自由主義者(戸坂潤)とか自由主義左派(魚津郁夫)といった評価が的を射ているように思われる。
 三木清および昭和研究会の協同主義は東亜協同体を支える原理であり、東亜諸民族をつなぐ関係の論理であるとともに、それぞれの国内社会システムの変革を求めるものである。協同主義および東亜協同体論は日中相互の社会システム変革を提唱しているのである。その変革は封建的なものを排して、資本主義の矛盾を解決するものとして提唱された(三木は世界的な資本主義の問題解決を指向する世界的構想につながるものとして東亜協同体を提唱している)。
 東亜協同体の形成にとって中国の近代化が必要である。その近代化は中国社会をゲゼルシャフト(利益社会)化するのであるが、それは同時に新しいゲマインシャフト(共同社会)的な文化的総合として行なわれなければならないとされる。中国だけでなく、日本もまた同様の社会システムに転換することが求められる(@)。
 三木が述べるところによれば、ゲマインシャフトは非合理的で閉鎖的であり、全体が部分を抑圧する。これに対して、ゲゼルシャフトは合理的で開放的であり、だれでもが参加できるという意味で公共的である。また開放的であることから世界性をもつ(「知性の改造」1938年)。協同主義ではゲマインシャフトのもつ封建的性格は明確に否定され、ゲゼルシャフトがもつ合理性や開放性を生かしたゲマインシャフトが目指される。
 協同主義は、ゲゼルシャフト的結合による自由主義経済が「持てる者の自由」に過ぎず、持てる者もまた資本に支配されて非人格的な存在になっているという認識を示す。ここから経済的自由主義におけるような利己的な営利経済ではなく、公共的な非営利経済が提唱されてくる。
「自由主義経済から統制経済の方向は、自由主義経済から協同主義経済への発展でなければならぬ。/協同主義経済の目的は経済協同体の建設にある。それは全体の立場に立ち、公益の原理に規制されるものである。」「社会経済が市場及び競争という盲目的な力によって左右されることなく、意識的に実施される計画によって統制されるに至って、人間的自由も現実的になる」(B)。
 協同主義の経済は政府による上からの統制に対して、国民の自発的協同を対置する。
 東亜協同体においては、東亜の諸民族は次のような関係をもつものととらえられた。
「東亜協同体という如き民族を超えた全体に発展する場合、合理性の要求はいよいよ大きくなり、そしてその全体が単に閉鎖的でなく同時に開放的でなければならぬ…(中略)…東亜協同体という如き全体はそのうちに開放的に諸民族を含まねばならず、またそこにおいては諸民族がそれぞれの個性と独自性を失うことなく自己の発展を遂げ得るのでなければならない」(前掲論文)
 三木がここで提唱するのは対等平等かつ開放的な民族関係であり、それは東アジアに止まらず世界に開かれている。ここにおいて、全体性と全体主義が区別されていることに注意しておきたい。全体主義は閉鎖的で排他独善に陥りやすいので、「東亜思想の原理はかかる全体主義ではなくて民族協同の協同主義」(@)となる。協同主義は当時の主流である民族主義的かつ非合理な全体主義(日本精神主義)に抵抗するものとして提示されたのである。
 このようにして、私たちは単なる自由主義ではなく、単なる共同体主義でもない協同主義にであうことになる。
 協同主義においては、自由主義は克服すべきものとされるが、実質的に個人自由を擁護するものとなっている。たとえば、「利己主義として自由主義は排斥されねばならぬが、しかし自由は尊重されねばならぬ」のであり、「個人の肆(恣)意に従おうとする自由主義は否定されねばならぬが、自由主義の主張してきた人格の尊重、個性の価値等の諸観念は重要な意義を有している」という論理によって(@)。
 前年10月に河合栄治郎の『ファシズム批判』他3著が発売禁止されたように、政治権力はもはや自由主義的言説を許さなかった。そのような思想統制状況を想い起こすとき、自由主義を克服すると称しつつそれを擁護するという、これは離れ業といえなくもない。そのような苦渋に満ちた思想の営為に比べると、協同組合学の大家である本位田祥男の次の主張はおおらかでさえある(『新体制下の経済』1940年)。
「万人は一人の為に、そして又一人は万人の為に経済する如き協同経済が組織されてこそ、国家の真の協同体としての発展が可能となる。…戦争の為の挙国一致は、この協同心を戦争の為に組織化する事である。」
「(新体制下における)消費者組織の遂行すべき任務は何よりも、各消費者をしてその公共性を発揮せしむる事である。…必需品の配給機関としてはこの機関(消費組合)が最も理想的である事は明かである。」
「同じ協同組合運動でも、これが個人主義的な協同精神に止まって居る間は未だ非常に段階の低いものである。全体主義的な立場から相互扶助が行わなければならぬのである。…それは全体の為に、他の組合員と協同をせずにはいられないと云う所に行かなければならぬ。」
 この本位田の言説は、協同組合主義が全体主義にみごとに融合できるという例証である。しかし、「独立にして自主的なものの協同にして真の協同」(A)と書いた三木もまた、1942年に陸軍報道班員としてフィリピンに派遣されて以降、自由主義的な言論を奪われた。

3.「協同主義の哲学」の問題
 私たちは、戦時期の言説が言論統制によってゆがめられていたことに注意を払う必要がある。とりわけ、三木清は「一方の陣営からは、“戦争の協力者”として、他方の陣営からは、“戦争の非協力者”として、正反対の評価を受け」つつ、「協力しながらの抵抗、抵抗しながらの協力をおこなった」(久野収)とされる。三木を評価することは、抵抗と協力という引き裂かれかねない両義性をもった議論のなかからつむぎだされたものをとらえることにある。そのような難しさがあるという留保を置いたうえで、これまでの三木研究を参考にしながら、協同主義の問題点をあげておきたい。
 まず、個の自由と全体とが無媒介的かつ調和的に結びつけられてはいまいかという問題点がある。協同主義の哲学は「実践の立場に於ては先づ個人の自主性、自発性、独立性が認められなければならぬ」として個人の自主性や自発性を尊重する。そのうえで「実践は本質的に社会的である」から、「如何なる個人の実践も社会の全体のうちに於て分化されたものである」とする。「人間は共通の客観を対象とすることによって結ばれ、協同して対象に働き掛けるのである」としても、それが直ちに全体社会に結びつくわけではない(引用はA)。もっと多元的な個と個の協同があって、それらの統合や葛藤があるものとして、社会がとらえられなければならないだろう。多元社会を認める言説が受け入れ難かったという政治的な事情とは別に、ここには三木哲学の統一と秩序への志向性のもつ問題があらわれていると思われるのだ。
 ところで、三木は同時期に書き続けていた『構想力の論理』経験篇において類比(アナロジー)の論理というものを取り上げている。類比と帰納は多様なものから一つの特質を導きだす論理であるが、「多を消して多の外に一を求める」帰納法とは性質が異なる。
「類比においては多様なものがその多様性において認められる。…類比による統一はむしろ異種のものの統一であり、しかもこの統一においては異るものの互いに異ることが抹殺されないでそのまま前面に現れている。多は多であることをやめることによって一であるのでなく、却って多であることによって一であるのである。」
 荒川幾男はこのくだりを引用して類比の論理と弁証法との関係が明確にされなかったと指摘する。Aでは、対立と調和を統一するという弁証法が実践の立場として主張されている。協同主義は二元的対立を止揚する「二元的弁証法の如く過程性に意義を認めると共に、多元的弁証法の如く一即多の根源的な調和を重んずる」とされている。ここでは「一即多の根源的な調和」が前面に出されていて、類比の論理における「多様なもの」「異種のもの」が後景に引いているように読める。
「閉じたものは唯一つの中心を有する円であるに反して、開いたものは到る処が中心であるところの円である。即ち世界は一切の個体を含みながら、しかもそのなかに含まれるすべての個体が独立であるという構造を有している。」(前掲「知性の改造」)
 これは「開放的なゲマインシャフト」について述べたものであるが、ここでは類比の論理が多元的な空間イメージとして描かれる。しかし同時に、協同主義の哲学は、この多様性を大日本帝国のリーダーシップによって統合していこうとする「指導者の理念」を語らざるを得ないのである。
 類比の論理からは、個を無媒介かつ調和的に全体に結びつけるのではなく、多様な個の結合が形づくる協同のあり方、異種なものを異種なままにまとめていく協同のあり方をめぐる論理が生まれたかもしれない。そして多中心の円の結合であるネットワーク型の社会という考え方の萌芽がかいま見えてくるのであるが。

まとめにかえて
 三木清および昭和研究会の協同主義は、戦時期における協同についてのもっとも質的に高い論議であったといえるであろう。そこでは、全体主義への滔々とした流れのなかで、個の自由を前提におく協同のあり方が問題にされたのである。協同主義の哲学は、協同という規範には個の自由と全体的統合、多様性を生かす論理と「根源的調和」の論理、ネットワーク型の連携とリーダーシップといった葛藤があることを示してくれる。だが、それは全体−調和−指導者理念への一元化を阻む論理を導くにはいたらなかった。
 三木は「自由主義以後」(1935年)という論説において、旧い自由主義(古典的かつブルジョワ自由主義)が没落するなか、新世代の自由主義が生まれてくるが、それは「なお体系として存しない」と述べていた。だが、新しい自由主義は一定の自由が確保された実践の展開からしか体系化できまい。魚津律夫が「具体性の欠如」と指摘するように、協同主義は「思想原理」「哲学的基礎」「経済倫理」として展開することはできたが、その原理や哲学的基礎のうえに社会システムを提示するまでには到達できなかった。個と協同の論理の再構成とそれにもとづく社会の構想は、いぜんとして私たちの課題として残されているのである。それは民族の共生という世界性を視野にいれながら、足元の地域あるいは日常性に視点を向けたものから再出発するものとなるのであろう。

参考文献

1.「新日本の思想原理」と「協同主義の哲学的基礎」は『三木清全集』第17巻(1968年)に所収。「協同主義の経済倫理」は昭和研究会編(生活社刊1941年)による。これらの成立過程については塩崎弘明『国内新体制を求めて−両大戦後にわたる革新運動・思想の軌跡』第5章(1998年)、米谷匡史「三木清の『世界史の哲学』」(『批評空間』2期19号1998年10月)などを参照。米谷は協同主義三部作を「妥協・折衷の産物」とする。この指摘は重要であり、実際、三木の個人論文と三部作を比較するといくつかの差異が確認できる。たとえば、協同主義という用語そのものが三木固有の発想ではない。このような差異があるにしても、三部作は三木自身が研究会の討論において主導し、かつ同意した作品であるといってよいだろう(私たちの主題に即すと、三木自身の論理にふれがあることは本文で指摘したところである)。妥協・折衷は三木の「時務の論理」の方法のひとつであると思う。

2.昭和研究会は、昭和同人会編『昭和研究会』1968年、酒井三郎『昭和研究会』1979年(TBSブリタニカ刊。これには三部作が収録されているが、後の中公文庫版では省かれた)を参照。また、東亜協同体論は、橋川文三「東亜協同体の中国理念」(『著作集』第7巻1986年所収)、伊藤のぞみ「昭和研究会における東亜協同体論の形成」(岡本幸治編著『近代日本のアジア観』1998年所収)などを参照。

3.三木清論は、戸坂潤「三木清氏と三木哲学」(『戸坂潤集』1976年(『全集』第5巻)所収)、魚津郁夫「ある自由主義左派の知識人」(『共同研究 転向』1978年所収)、久野収『30年代の思想家たち』1975年、荒川幾男『三木清』1968年などを参照。

(はやしかずたか、東京都生協連組織部長、参加ガバナンス研究会)

“色”で読み解く「戦後詩」の風景(3) 幻視のなかの革命 ―谷川雁と黒田喜夫の詩

添田 馨

■「戦後革命」という幻想
 「戦後詩」というテーマの立て方には、文学に関してのとても重要なふたつの本質が隠されている。「戦後」とは歴史的な述語にほかならず、また「詩」は文学上の範型にほかならない。従って、この互いに次元を異にするふたつの要素が一体になった「戦後詩」という言葉には、歴史的な意味と文学的な価値との両方が含まれることになる。だが、これは何も特殊なことではない。ひとたび文学というものの成立ちについて思いを馳せるなら、世代をこえて語り継がれる息のながい作品といえども、それの発生母胎には、かならず時代の側からの刻印が跡を残さずにはいないし、しかし一方でそれは時代的な制約をこえ、人間の普遍的な部分にまでつながっていく価値の創出にも寄与する二重性を有する。これらは、そのどちらか一方が本質というのではなく、その両方がともに本質といいうることなのだ。
 ところで、戦後まもない時期に生きた何人かの詩人たちの思想の中核には、社会主義革命へと求心する倫理的なテーマ性が実に深い陰翳を落としている。それぞれの作品に込められた意思や情念の振れ幅はけっして同じものとはいえないが、これらの詩作品において詩人個々が抱いた〈革命〉への引き裂かれた思いは、その共通した負の響きにおいて確かにわが国の“戦後”におけるポエジーのひとつの中心を形成した。いいかえれば「戦後革命」という名の共同の幻想が、その底流には熾火のように燃え広がっていたのである。
 第二次世界大戦におけるわが国をふくむ枢軸国側の敗戦は、その後に訪れることになる勝者の世界分割、ひいては米ソ両超大国による冷戦構造を用意する序曲であった。日本の“戦後”という時代は、もっと視野を広げて眺めてみれば、同時代の世界秩序が激変していく情勢のなかで、ちょうど荒海に浮かぶ小船のように右へ左へと大きく揺さぶられずにはいない極めて不安定な政治状況を背景にしていた。そうしたなかで当時の若い詩人たちは、ナショナルな精神基盤の喪失はいうにおよばず、ありうべき社会総体のヴィジョンすら手にできない二重の欠損をみずからの存在レベルで抱え込まざるをえなかった。彼等の文学思想上の闘いは、このように折り重なる現実の困難にむけて、世界をこの巨大な否定性の淵から再浮上させようとするイマジナルな動機性のもとに、開始されたのである。
 今回取り上げる二人の詩人―谷川雁と黒田喜夫の詩には、それぞれ「革命」「故郷」「土地」「飢餓」「党」といった一連のイメージが見受けられるが、それらの言葉は戦後というねじれた時空間のギラつく白色光を浴びて、どれもふかい漆黒の影に隈取られながら過ぎ去った時代の波間をいまもたゆたっているように見える。

 

■祖国喪失後の「故郷」へ
 一九五四年に書かれた文章「原点が存在する」の中で、谷川雁はこう書いていた。

下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。

 谷川雁の詩と思想の初発のモチーフは、およそこの二行のうちにほぼ凝縮されているといっても過言ではない。彼は続けてこうも書く。「私達は未来へ向けて書いているのではなく、未来へ進む現在へ向けて書くのだ。偶像を排除せよ!観念的労働者主義をうちやぶれ!今日の大地の自らの足もとの深部を描け!」―ここで思い描かれている「大地」、彼の言葉でいうなら「存在の原点」としての「故郷」とは、しかし現実の国土のいったいどこに、いかなるあり様のもとに潜在するものとして構想されたのだろうか。
 谷川雁の詩は、およそこうした大きな課題を背負い込むかたちで、戦後復興に向かいつつあったわが国のナショナリティの最深部にむけて人知れず放たれたのである。彼の最初期の作品のひとつ、「或る光栄」という詩を以下に紹介しよう。

 おれは村を知り 道を知り
 灰色の時を知った
 明るくもなく 暗くもない
 ふりつむ雪の宵のような光のなかで
 おのれを断罪し 処刑することを知った
 焔のなかに炎を構成する
 もえない一本の糸があるように
 おれはさまざまな心をあつめて
 自ら終わろうとする本能のまわりで焚いた
 世のありとある色彩と
 みおぼえのある瞳がみんな
 苦悩のいろに燃えあがったとき
 おれは長い腕を垂れた
 無明の時のしるしを
 額にながしながら おれはあるきだす
 歩いてゆくおれに
 なにか奇妙な光栄が
 つきまといでもするというのか
(「或る光栄」全行)
 この詩の二行目にある「灰色の時」という言葉こそ、私は谷川雁にとっての戦後という時間帯を指す表現だったのではないかと思っている。「明るくもなく 暗くもない/ふりつむ雪の宵のような光のなかで」と続いていくこの箇所は、彼の感性の出発地点の心象描写として、どんよりと灰色にくすんだ何処とも知れぬ地方の情景を、じつに寒々と喚起させていよう。そこで詩人は自らを「断罪し 処刑」して、どこへともなく歩き出すのだ。だが、なぜ自分をそこまで厳しく断罪する必要があるのか。そのことを考えようとすると、私はどうしてもわが国を取り巻く戦後世界の全体的なヴィジョンに対して、それを全否定するために営々と研ぎ澄まされていく戦闘的な意思の所在というものを想わないわけにはいかない。
 「灰色の時」といい「無明の時」といい、この曇天のように重たく垂れ込める非情な時間感覚は、やはり「戦後詩」のある部分において特徴的な光を放つものである。つまり、あらゆる価値観が百八十度転倒した戦後社会のどこにもおいそれとは着地することのかなわぬ存在感覚が、逆にそこから翻って自己の原点となる土台を幻想としてつかみとろうとすれば、詩がむかう方向性としては自己断罪的な裏返りの倫理主義(ヒロイズム)を必然化させずにはいなかったし、またひとたびそれが政治理念的な表現を持とうとすれば、その幻視のはるか彼方、雲間から射す薄日のように浮かびあがってくるのが「革命」の二文字であったのだ。

 革命とは何だ 瑕のあるとびきりの黄昏
 やつらの耳に入った小さな黄金虫
 はや労働者の骨が眠る彼方に
 ちょっぴり氷蜜のようにあらわれた夕立だ
(「革命」部分)
 詩の中でしか場所を占めることのできない「革命」とは、しかし一体何なのか。私なら、「革命」とはどこか手の届かない処まで持っていかれてしまった自分たちの世界を、ふたたびわが両手に握りしめる闘いの謂いだ、と言おう。「世界をよこせ」という詩で、谷川雁はさらに「桶屋がつくる桶そのままの/おそろしい価値をよこせ 涙をよこせ」とも呻吟する。
 また、そうやって彼が見据えた来るべき「世界」のビジョンを最も力強く打ち建てたのは、詩「東京へゆくな」と「おれたちの青い地区」においてであった。

 ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
 おれはみつけた 水仙いろした泥の都
 波のようにやさしく奇怪な発音で
 馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

 なきはらすきこりの娘は
 岩のピアノにむかい
 新しい国のうたを立ちのぼらせよ

 つまずき こみあげる鉄道のはて
 ほしよりもしずかな草刈場で
 虚無のからすを追いはらえ

 あさはこわれやすいがらすだから
 東京へゆくな ふるさとを創れ
 おれたちのしりをひやす苔の客間に
 船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
 かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
 それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

 駈けてゆくひづめの内側なのだ
(「東京へゆくな」全行)

 口笛しかもたぬ十八歳のきこりよ
 わかるだろう
 もう大地の震えているのが
 樹木すら水晶の感覚でうずいているとき
 白鳥座のむこうで
 鉄のながれを工作していた人は首きられ
 おれたちの地区はますます青く
 西の空は赤い

 棕櫚のかげで銅貨をかぞえる妹よ
 鞭うたれてきた部民のすえよ
 あしたはさよなら
 死者のうえに死者が葬られる土地から
 おまえの波うつあばらを
 汽車はけものの声してはこびだす
 岩壁に舟虫はうおれたちの地区
 労働者の母の国
(「おれたちの青い地区」部分)
 あまりにも詩的な、あまりにも美しすぎるコミュニティへの幻想が、ここにはある。「青」―はじめて戦後の詩のなかに登場したこの鮮やかな色こそは、現実には決して成就することのない幻視のなかの「革命」の、憂愁に満たされた夢の残映のようでもある。

 

■「革命」はどこへいったか
 一九五六年の十月から十一月にかけ、ハンガリーで起こった民衆の反乱にソ連が軍事介入し、これを鎮圧するという事件が起きた。多くの人の血が流され、さらに多くの人が難民として国を去った。一般にこの事件は「ハンガリー動乱」と呼ばれる。当時のハンガリーは社会主義圏の独立国であり、またソ連はイデオロギー的にも政治的にも社会主義圏の指導的中心にある国であった。そのソ連が、同盟国ハンガリーの民衆に対して流血の弾圧を加えたのがこの事件だ。
 そしてこの「ハンガリー動乱」は、わが国のひとりの詩人の感性にも、ある拭いがたい傷となって焼きつけられた。その詩人・黒田喜夫の「ハンガリアの笑い」は次のように始まっている。

 信じてくれ
 ぼくは逆さに吊られ殺された
 ぼくがちっとも知らない街 ブダペストで

 吊るせ 人民の敵
 ブランコみたいに揺すぶるのがいる
 まだ息をするぞなんて最後に頭をたたき割ったのがいる
 残酷なかれら
 かれらは知らないんだ 今朝九時にぼくが塩鮭で飯を食べてたことなんか

 この詩はとても不思議な書かれ方をしている。詩の冒頭、ハンガリーの民衆によって「吊られ殺され」るのは「ぼく」なのだ。この場合の「ぼく」とは何だろう。この逆転したモチーフが意味するところのものは、じつは私たちの「戦後詩」に影を落とす「革命」の行方を考えるうえでじつに多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。なぜなら、私はこの詩の中で「吊られ殺された」ところの「ぼく」が、じつは「戦後革命」そのものの暗喩と二重映しになってしか見えないからだ。詩はこのあと、次のように展開する。
 同志よ 君がもっているのは何の旗?
 それより君がかついでいるのは何の旗だ?
 これは雪の旗 雪で白くなった旗
 おお君は反革命かい
 ちがう見てくれ
 ぼくの頭のうえに翻ってるのは
 ぼくの頭のうえに翻ってるのは
 これはひどい奇蹟 雪より白いホルティの旗だ

 街角に包囲された
 無慈悲なタンクが追いつめる
 まんなかでトランペットが一挺 立上って唄う
 かすれ声のラコッツィ・マアチを
 かすれ声で 英雄よ白い馬にのって叫んでくれ
 叫んでくれ銅像よ
 ブダペストは銅像の街
 ながい間立っていたので今は地面に寝転んでいる
 寝転んで呟いている 銅の唇で
 昔はもっと解り易かった 今は誰が人民の敵なのか?
 どうしたらいいのか?

 今はこうだ
 砲塔を廻して
 狙え
 反革命を 撃て!
 反革命なんてぼくは嫌いだ
 そこでぼくはやっつけた
 もう一度 もう一度 もう一度ぼくを
 そこで一体どうなったのか
 ぼくがいなくなって解らない
 ぼくがちっとも知らない街ブダペストで
 (「ハンガリアの笑い」部分)
 私にこの詩を通してくりかえし喚起されてくるある絶望的なトーンは、「革命」幻想に自己投入した架空の「ぼく」が、革命の本来の担い手である民衆によって死刑に処せられるという皮肉な構図の導入によって、詩人が詩作のなかで自らの「革命」そのものを否定せざるを得なかったことからくる悲痛さに淵源しているように思う。なぜ「革命」はそこで自ら持ちこたえることができなかったのか。とてもひとことで言い尽くせないが、革命運動が現実の政治過程を持ち、詩的な幻想とは互いに矛盾しあう次元のものであったことが、ひとつ大きな理由としてあったろう。にもかかわらず、それらが同じ地平上できわめてラディカルに構想されねばならなかった過渡的な季節が、わが国でもたしかに存在したのである。「ハンガリー動乱」はその意味で、現実世界における社会主義国家の権力悪が鮮烈に火を噴いた衝撃の事件だったのだ。
 そして黒田喜夫の詩は、こうした理念と現実とのするどい裂目に宙づりになったまま、「革命」幻想そのものの扼殺に手を染めていく。そこには壮絶な絶望感がただよう。だがその時、彼の言葉はもっとも美しくも凄まじい詩行となって屹立する。「毒虫飼育」という作品を以下に引く。

 触れた時の恐怖を想ってこわばったが
 もういうべきだ
 えたいのしれない鳴咽をかんじながら
 おかあさん革命はとおく去りました
 革命は遠い砂漠の国だけです
 この虫は蚕じゃない
 この虫は見たこともない
 だが嬉しげに笑う鬢のあたりに虫が這っている
 肩にまつわって蠢いている
 そのまま迫ってきて
 革命ってなんだえ
 またおまえの夢が戻ってきたのかえ
 それより早くその葉を刻んでおくれ
 ぼくは無言で立ちつくし
 それから足指に数匹の虫がとりつくのをかんじたが
 脚は動かない
 けいれんする両手で青菜をちぎり始めた
 (「毒虫飼育」部分)
 年老いた自分の母が「蚕」だといって見たこともない「毒虫」を嬉々として飼育するというこの作品の異様なモチーフは、私たちの戦後における幻視のなかの「革命」と、その母体たる「故郷」のイメージがともに思想として破産していく最後の相貌を、みごとに捉えきったと言うべきだろう。
(続く)

《状況風景論》

阪神淡路大震災10年、ろうそく法要&都市生活CCの集い

●御蔵地区のろうそく法要
 18万人とも20万人とも言われるスマトラ沖大地震と津波による死者の実感をもつことができない。10年前の阪神・淡路大地震で6433名が亡くなったが、西宮の〈特非〉都市生活コミュニティセンターがよびかけた「震災10年の集い」に寝袋をもって出かけた。
 午前3時45分起床して暗い静寂のなか3台の車で、最も打撃の大きかった長田の御蔵・菅原地域の「ろうそく法要」に出かけた。雨がろうそくを灯す後からかき消していく。濡れた冷たい公園の大地にかろうじて灯がともる5時46分、静かな黙祷が始まり、曹洞宗の僧侶による読経が続く。
●公園に死んだ少女の写真
 その公園の後の一角に、二十歳前後の女性の遺影と供物を並べた路上の祭壇があった。インタビューを受ける父親らしい白髪の人は激することもなく娘への思慕を語っていた。その時、私は死がかけがえもなく大事なものを奪う残酷さを思い知った。10年の歳月が刻んだ父親の生=老いと娘の死=若さがストップしているまぶしいまでの写真。私学会館でもたれた「市民追悼式」の「音楽法要」、聲明と琵琶の調べの75分は凛として心に残った。
●どこへ消えた11兆円の復興資金
 神戸市の進めた震災復興事業。医療産業都市を謳うが、起債が道路と公園とハコモノだけに限られていることからおこるアンバランスな施策がめだつ。いまもまだ埋立地を造成して企業誘致をもくろむ。その埋立の先に神戸空港の造営が進む。
 そして膨大な借金が積み上がっていく。神戸製鋼跡地に展開されている被災者用の公営住宅群は国道を挟む高層住宅で、ハコモノ優先で生活視点が弱い。人が歩くという設定が抜け落ちている。それに対し、長田の街はまだ震災の打撃が残り、多くが歯抜けのようになっている。歯を食いしばって店を続けた人たちも、長田だけは人口減と高齢化のなかで、今、その体力が心配されている。お金の使われ方がおかしい。
 すでに跡形もなくなった巨大な仮設住宅跡をまわった。「株式会社・神戸」と揶揄され山を削った高台の西神地区とポートアイランドの巨大な空間にそれはあった。いずれも生活の匂いの跡がしない。そこに巨大な虹がたって仮設住宅で死んだ247人の孤独死を悼むかのような光景だった。
●生き方を変えた人たちの再会
 生協・都市生活が震災直後、共同購入事業を再建する努力とは別に、全国の協石連に結集する生協の義援金でつくられた都市生活コミュニティセンター。敷地は組合員の提供という。ここで地域への炊き出し(写真参照)や生活相談が続けられた。後にNPO法人となり、「震災10年の集い」が西宮勤労会館で開かれた。そこには関西の独立生協の仲間が押しかけた。前川理事長が「あんなに力を合わせたことをおもいだしてほしい」と挨拶、その10年の記録が次々と映し出され年月の早さと再会を喜び合った。
 しみんふくし滋賀の冨板さんが「生協の義援金が私を変えた。あの時の経験が2級ヘルパーや介護福祉士をとるきっかけになり、湖南生協や環境生協を経て今の活動に至っているし再会がうれしい」と。都市生活の村上さんが「あの時は仮設住宅の人に共同購入品を二割引で提供した。毎週仮設を回って安否確認を4年ぐらい続けた。今は高齢者向けの喫茶を開いている。一人暮らしの男の人たちのたまり場となっていてし甲斐がある」と。
 事務局長の池田さんは京都のエル・コープからやってきて住み着いたし、小松さんも生活クラブ長野からやってきてこの地に居着いたという。
 神戸大震災が生んだNPO法。そこには地域の中で身体性を通して人と人とをつないだ具体的な協同があった。(K)

雑記帖 【加藤好一】

 「生協、全国9地域に統合 来年メド」。日経新聞1月7日付夕刊の一面にこんな活字が躍った。これは日本生協連の「新ビジョン」に基づくもので、2010年を大きなターニングポイントとする、生協の長期的指針たろうとするものだ。
 バブル期に日本生協連は、大手チェーン・ストアと堂々と渡り合う、という路線を鮮明にしたことがある。日本生協連の矢野専務は、新ビジョンについてマス化路線を前提に同質競争と差別化に挑む路線だと言い切っている。当時の路線を髣髴とさせなくもないが、そこには「負の遺産」脱却への意志と相当な危機感がある。
 その最大の課題が、困難に陥った生協の事業と経営を、広域事業連合を軸とした連帯の強化=経営統合によって立て直し、ウォルマートの日本上陸の本格化等による、流通業の競合激化に打ち勝とうとすることだ。所得格差が拡大して低所得層が増加し、かつデフレ基調が継続する中で、端的な「低価格戦略」を実現すること。それが主たる眼目であり、危機感になっている。
 もう一つの危機感。それは「2007年問題」だ。「団塊の世代」の一斉リタイア。これは今後の日本の社会、経済の動向を占う最重要の問題だ。生協でもこの世代が中心となり現在の組織と事業が形成された。そして現在も利用・出資・運営の主役である。今年は「戦後60周年」であり、戦後世代のリタイアが始まる。「2007年問題」の端緒となる年なのかもしれない。
 現在生活クラブ連合会は、2005年度からの次期中期計画を検討中だ。新ビジョンにも学びながら、しかしこれまでの自分たちの理念や運動・事業を、あらためて貫こうという確認になるはずだ。新中期計画は6月の総会で提案・決定する。

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