子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
010626 暴行殺人 2003.9.25新規
2001/6/26 富山県上市(かみいち)町で、上市中学時代の上級生3人を含む少年ら7人に黄山顕成(こやまてるまさ)くん(高1・15)が約2時間にわたって無抵抗のまま集団暴行を受け、翌日(6/27)死亡。
当日の経緯 午後9時過ぎ、顕成くんは携帯電話で呼びだされ、町内の相ノ木小学校体育館ピロティにでかけた。
2年前の暴行に加わっていた上級生3人を含む計12人の少年たちが待っていた。
「悪口を言ったろう」という問いつめに「悪口は言っていない」と顕成くんが返事。暴行が始まる。
馬乗りになって胸を殴りつける、髪の毛をつかんで立たせ腹を回し蹴りする。逃げても連れ戻し、正座させ、塩化ビニル製のパイプや花壇用掲示板などで殴打した。
約2時間、暴行が続き、その間、顕成くんは一度も反撃しなかった。少年らは顕成くんがけいれんを起こし、虫の息になっても暴行を続けた。

主犯格の少年は、数時間前まで別の場所で暴行されけがをし、グループに現場に運ばれていた無職少年H(15)に「2人でけんかしたことにしろ」と命令し、帰っていった。

翌27日午前5時28分頃、外傷性くも膜下出血、脳挫傷、肝挫傷、脾臓破裂による外傷性ショックで死亡。
2回目事件での警察の対応 6/27 未明、事件現場に駆けつけた上市署員に、H少年が「2人でけんかした」と話した。(けがをしていたH少年は署員に「ひとりで病院に行け」と言われたという。その後入院)
署員が現場にいた複数の少年からも事情を聴いたが、「けんかを見ていただけ」と言われた。
初動捜査段階で、「少年同士のけんか。周囲の少年は立ち会い人のようなかんじだ。単純な事件」として、事件を「一対一のけんか」と発表。

病院で、顕成くんのこぶしに殴った跡がないことに父親が気づき、署員に再捜査を要求。病院も「手に目立った傷はなかった」と証言。

上市署が10数人の少年らから事情聴取した結果、1人の少年が「無職少年は別の場所でけんかした」と供述。捜査は一転。

6/28 「集団暴行」として発表。「見ていただけ」と言っていた少年7人を7/1までに逮捕。

上市署の所長は、「当初の客観的な事実から一対一のけんかと判断した。問題はない」と話した。
それまでの経緯 1999/7/12 上市中学校で放課後、顕成くん(当時中2)が、3年生にサッカー部の部室に呼び出された。待っていた1人に殴られ、入れ代わりに別の上級生が入ってきて、3人に代わる代わる殴られた。殴られたのを腕で受け止めたため、腕などに1週間のけがをした。
保護者が中学校に連絡し、その後、上市署に届けた。

2001/5/中旬 顕成くんはグループからスーパー駐車場に呼びだされた。心配した母親が息子の後を付けて匿名で上市署に通報。出動を要請した。
帰宅後、顕成くんの携帯電話にリーダー格の少年から電話が入り、「警察が、母親の通報できたと言った。町をまともに歩けると思うなよ」と脅されたことを母親は息子から知らされた。
これをきっかけに顕成くんは執拗に呼びだされるようになった。
 
2001/6/ 26日の暴行の3日前にも顕成くんは無職少年らに呼びだされ、頭にけがをしていた。
1回目事件での警察の対応 1回目の暴行(1999/7/12)のあと、上市署は顕成くんや3人の3年生、校長らから事情を聴くなどして調査。

同署安全課員2人が来訪した際、母親は「父親が許すなと言っている」と答えた。

1999/7/下旬 2度目の来訪で、課員は「上級生らは初犯で将来があるので許してあげてほしい」と取り下げに同意する文書を用意。母親が署名した。(事件後、両親が同署で確認したところ「今回に限り寛大な処分にしてください」と当時の記憶にない表現になっていた)。

同署は事件を家庭裁判所に送致せず(少年法では、すべての少年事件を家裁送致することを定めている)。 

2002/6/12 同署は、家裁送致しなかったことについて、「加害少年らの処罰を求めない申し入れ人の意思を尊重した」「母親の面前で調書を作成したもので、捜査員が被害届の取り下げを求めた事実はない」などとする回答を両親に示した。「関係書類はきちんとしており問題はない」とする。
学校の対応 1999/2学期 学校は暴行事件後、顕成くんの両親と3年生の3人とその両親らで話し合う場を設けた。顕成くんの父親は「気に入らないという理由ならば、だれでも殴っていいのか」と3年生を叱った。
この場で、加害生徒の保護者は子どもに責任をもっていくことを誓い、学校側も生徒の行動を充分に把握し、二度と問題を起きないようにすることを約束。

「3年生の2学期は受験も控え、学習の大切な時期。勉強が遅れている生徒のことを考え、学習しやすいようにした」という理由で、2学期に3年生に「8組」ができる。(上市中に「8組」がつくられたのはこの時だけ)
じっと座っていることができず授業中に教室から出ていく3年生の生徒10数人を、保護者の了解を得て別クラスにした。教科によっては元のクラスに戻り、「8組」では自習などし、授業のない教師が在室することが多かった。教師がいないと、ドンドン壁をたたいたり、衣服などを売買したり、窓からいすを落としたりした。

(卒業後も元同級生たちは暴走族を結成し、町に集まるようになった。2001/6/26の集団暴行事件の現場にいた少年たちのほとんどは「8組」出身だった)
被害者 顕成くんは少林寺拳法の有段者だった。
加害者 1回目の暴行事件のあと、3年生は黄山さんの自宅を訪れ、「これからは何かあったら、先輩として黄山くんを守ります」と頭を下げていた。

「陰口を言っているならば、制裁を加えなければならない」として、集団で暴行を加えたと供述。
「グループにいられなくなるから暴行に加わった」と何人かが供述。顕成くんと面識のない少年もいた。
取り調べには素直に応じているものの、反省の表情は見られないという。
現場には逮捕された7人以外にも少女を含む数人、計12人がいた。
加害者の処分 傷害致死容疑で少年7人を逮捕。

2001/12/25 富山地裁で、主犯格の少年A(17)とB(16)の2人(内1人は1999年の暴行事件に関与)に4年以上6年以下の実刑判決。

5人が中等少年院送致。全員が1年で出所。
加害者の親の対応 加害者の親で遺影に自ら手を合わせにきたのは数人だけ。「毎日謝りにいけば許してもらえるのか」「加害者にも人権がある」という親もいた。
1年出所後も、「事件には触れないようにしている」「事件のみそぎは終わっている」と家族はマスコミ取材に対して言う。
誹謗・中傷 自宅や会社に脅迫電話がきた。
2002/5/ インターネット上の掲示板に中傷する内容の書き込みがあり、両親が名誉毀損で告訴。
その他の大人たちの対応 遺族自ら、町内の全6小学校区で話をする会合を計画したが、2校区では「ここでは必要ない」「子どもに事件を思い起こさせるのはよくない」として断られる。
少年法 16歳以上の重大事件は原則逆送されることになっているが例外が認められている。
参考資料 企画特集「15歳で死ぬということ」/asahi.com、(http://mytown.asahi.com/toyama/)
北日本放送ホームページ(http://www2.knb.ne.jp/news/20010718_03.htm)
北日本新聞ホームページ(http://www.ni-po.ne.jp/news/topics/20010704.html http://www.ni-po.ne.jp/news/topics/20010705.html)
2003/9/23テレビ朝日ニュース「追跡 加害少年の今」



ページの先頭にもどる | 子どもに関する事件 1 にもどる | 子どもに関する事件 2 にもどる

Copyright (C) 2000 S.TAKEDA All rights reserved.